(19)倭国大乱
旧ワヒ国のわ人たちが南の地を目指しヒタ国を去ってから、数十年の年月が過ぎていた。
ある日、山奥で暮らすヒタ国の人々に、ヤマタイの大軍がヒムカ国から旧ヒタ国に押し寄
せ、倭族と戦いを始めたという知らせが届いた。
ヒムカ国を支配することになったヤマタイは、邪馬台国として繁栄を続けていた。
ヤマタイの人々はヒムカの地での生活に満足していたが、ヤマタイの王たちは、
筑紫と呼ばれる旧わ国の地や、ヒタ国の地から自分達を追い出した同族の倭族に
対する復讐の念があった。六代目のヤマタイの王はついに、かつて支配していた北の旧ヒ
タ国(倭人達に支配されウサ国という名になっていた)への遠征を開始した。
邪馬台国の王は五千を超える大軍をウサ国に向けて発進させた。
迎え撃つウサ国の軍は弓に秀でた倭人達であり、弓を放ち、剣をふるい勇猛に戦ったが数
で劣っていた。邪馬台軍は、ヒムカ国のわ人達の奴隷を前面に出し、後方から弓を射ると
いう攻撃で、次第にウサ国の軍を圧倒していった。ウサ国は筑紫の地の倭族達に救援の要
請をしたが、倭族達は要請になかなか応じなかった。
その頃筑紫では、倭人達の諸部族が新しく渡来した部族も含め数十の国に分かれていた。
倭人達の祖先は呉系と越系に分かれていた。呉系のそと人は数百年前から倭の地に渡来し
ており、この北九州の地に松浦国や奴国などを造っていた。この地以外にも、
東の内海(瀬戸内海)やその東端の浪速の地に幾つかの国を造っていた。
越系のそと人は、呉系のそと人渡来の二百年後に渡来し、この北九州の地にヤマタイ国や
面土国や伊都国をつくり、内海沿いの呉人達の国を避け、北の海(日本海)の
沿岸に上陸し幾つかの国を造る事になる。さらに早良族、安羅族などの半
島系の倭族が渡来しており、この筑紫の地はこの時点で、呉系の部族と越系の部族などの
勢力は拮抗していた。呉系と越系の部族は「呉越同舟」という言葉で知られるように宿敵
であり、筑紫の地でも度々諍いを起こしており、ウサ国の救援の要請になかなか応じる事
がでなかった。
しかしウサ国の敗勢が見えてくるとようやく各部族がまとまって、共通の敵であるヤマ
タイと戦うための援軍をウサ国に派遣する事になった。ウサ国救援に駆けつけた倭族と邪
馬台国の戦いが始まった。この戦いは多くの国々を巻き込んで、一進一退の争乱となった。
これが紀元後148年から起こったとされる「倭国大乱」である。
山奥で暮らすヒタ国の人々は、この山の中まで戦いが近づく事がないように願っていた。
ヒタ国の人々の中には旧わの国の西崎にいた拝み人たちも暮らしていた。その中にミコと
いう名の、輝くばかりの美しい少女がいた。その評判はヒタ国中に知れ渡り、ミコの声と
姿を見るために多くの人が拝み人の社に詰めかけ、貢物をするようになった。ある時、ヤ
マタイの王がこれを聞きつけ、ヒタ国にその少女を差し出せという命令を伝えてきた。
ヒタ国の人々はミコを差し出す事に反対し、ヤマタイ軍と戦う事も辞さなかった。しかし
、少女は自分がヤマタイに行く事でヒタ国の人々が死ななくて済むのならと、自分の意志
でヤマタイに行く事を望んだ。ヒタ国を離れる日、拝み人達を引き連れ、ヤマタイの兵の
担ぐ輿に乗って去っていくミコの姿を、ヒタ国の人々は涙を流し見送った。
邪馬台国に着いたミコという名の少女をヤマタイの王は気に入り、王子の嫁にと望んだ
が、王子は結婚を前に病死した。そしてヤマタイの王の死後、ヒタ国から来たミコという
名の少女は邪馬台国の女王卑弥呼となった。女王卑弥呼は、初めは邪馬台国の
有力な家臣達の都合の良い形ばかりの女王として祭り上げられていた。しかし徐々に賢明
な女王卑弥呼の評判は高まり、邪馬台国の家臣達をまとめるのに欠かせない女王となって
いった。
邪馬台と倭族の国々との戦いはなかなか決着はつかなかったが、ヤマタイの女王卑
弥呼の出現によりその状勢は変化した。女王卑弥呼は敵対する他の部族に拝み人たちを使
者として送り、言葉巧みに「言向け和す(ことむけやわす)」事で、講和に努めた。拝み
人たちの着物は、元来「呉服」として今に伝わるように呉の服であり、その衣装を着た邪
馬台国の使者が現れると、呉系の部族は邪馬台国に敵対する意欲をなくした。そして返礼
として邪馬台国に到着し女王卑弥呼の姿を見、その丁重な言葉を聞いた部族の長たちは、
女王卑弥呼のために戦いを収めようと約束した。
こうして、まず呉系の諸部族、続いて新しく渡来してきた半島系の早良族(後の平郡氏)、
安羅族(後の東漢氏ヤマトノアヤシ)等の部族が女王卑弥呼の招きに応じ、邪馬台国は次第に優位
に立っていった。越系の倭族たちはもともと邪馬台国と同族であり、それなりの処遇を得
られれば、女王卑弥呼に逆らって戦う意思はなかった。
その後、邪馬台国を倭国の要とする和議が成立し、邪馬台国は筑紫の地の中心にある伊
都国に「一大卒」という軍を駐留させ、北九州の倭族を支配する事に成功した。
こうして女王卑弥呼の下で、邪馬台国は北九州の国々を統率する一大勢力となった。
紀元173年、邪馬台国は朝鮮半島に残る倭族と同族の伽耶諸族や新羅に使者を送り、女王
卑弥呼の即位を伝えている。




