第9話
午後からは、私と泰子さんで座敷のものを選り分け、飯綱さまと泰春さんが隣に運ぶという分担で進めることになった。
泰子さんは話相手としてはたいそう愉快な方で、お屋敷での飯綱さまのご様子や、戸川夫妻の名前が似ている理由などを聞かせてくれた。
「あたしと旦那……泰春は飯綱家のお屋敷の住み込み奉公人の子として、同じ年に生まれたンです。今はどっちの親も亡くなってますけど、あの頃若くて学もないからってんで、星四郎さまに名付け親をお願いしたようで。それで生まれ月も近くて兄妹みたいなものだからか、似た名前を付けなすってね」
まさかあたしたちが大人になって結婚するとまではお考えでなかったんでしょうねえ、と笑っていらした。
お二人は今はお屋敷の敷地内にある離れにお住まいで、お子さん方は既にそれぞれ家庭を持って家を出たそうだ。
「顕ヲさま、こっちの長櫃に御本の類をまとめましたよ。このまま運んでもらってしまっても?」
「はい、お願いします」
長櫃をいくつかと、日常使うものはほとんど入っていなかった箪笥を運び出し、床に直に置かれていた紙類や書籍をそこへ詰めてしまえば、座敷はかなりすっきりしそうだった。隣ではそれらを、中身を改めやすいよう整頓した状態で配置してくれる手筈になっている。
……と、思っていたら。
ギャアアアアアアァ……
アッ、聞いたことのある悲鳴が。
「おや、何でしょ今の声。星四郎さま?」
……も、もしかして。
昨日、片付けに備えて我が家の要所に虫避けの術をかけた。あの術は単に虫を追い払うものなんだけれど、勿論、追い出された虫がどこへ向かうかなんてことは一切考慮していないわけで……
「と、隣に移ったの?!」
あああもう。
慌てて土間から小路に出て隣家へ向かうと、ちょうど同じように飯綱さまが飛び出してきたところであった。
「……!! ……!」
出てきた戸口の方を必死の形相で指差し、声にならない訴えをしておられる。
「あああ……ごめんなさい、出たのですねアレが。分かっております、大丈夫、今なんとかします」
飯綱さまを宥めながら土間に入ると、奥の座敷から泰春さんがのっそり現れた。
「いえ、もう片付きやした。お嬢さんのお手を煩わすこたぁございやせん」
「アラ! ありがとうございます」
親指でお勝手を示すところをみると、どうやら裏庭に捨てたようね。
「多分、昨日うちに虫避けを施したために、追い出されたやつらがこちらに来てしまったのでしょう。考えが至りませんで……今ここにも術をかけますから」
大きな体を縮めて私の背後に隠れている飯綱さまに告げる。
「その間、飯綱さまはうちの方を進めていてくださいな。ちゃちゃっとやってしまいますから。ね」
「……お願いします」
泰子さんと比べると泰春さんは寡黙な性分らしくて、私が術を施してわまっている間、淡々と我が家から荷物を運び込み、積んだり並べたりしていた。
「こんなものかしら。それにしても、同じ間取りでもきちんと配置すれば片付くものなんですね。今までの我が家の惨状が恥ずかしい……」
箪笥や長櫃は、全てきちんと開いて中を改められるように置かれている。以前はそもそも床が埋まっていて、壁際の箪笥へ辿り着けない状態だったものね。
「旦那さまのご指示どおり本はこっち、書類らしいもんはこの櫃へまとめて納めておりやす。中身は見てねえんで、ご容赦ください」
「いえ、それだけでもありがたいです。本当に、こんなこと手伝わせてしまってごめんなさい」
「いや……」
これから発する言葉を吟味するかのように、口を数回、開けたり閉めたりしてから、泰春さんは訥々と話し始めた。
「俺も家内も、お嬢さんには感謝してます」
「感謝、でございますか?」
急になんのゆかりもない他人の家の片付けに駆り出されているというのに?
「近ごろの旦那さまは……楽しそうにお過ごしなんで」
飯綱さまとはじめてお会いしてから、まだ一週間にもならない。初日に起きた事故によって魅了の術をかけられた状態でお過ごしのはずだけれど、楽しそうにとはどういうことか。
「俺らが子どもの頃ですが、星四郎さまの奥さまが亡くなりまして、あの時はたいそうお嘆きで……その後お勤めで英国に渡られて、ほとんど国にはお帰りにならなかった」
奥さまは亡くなられていたのか……
「三十年近くあっちでお暮らしで、昨年やっとお帰りになったんです。お勤めも式部寮からもちっと暇な……えと余裕のある、法務寮に変わって」
どうにも張り合いのなさそうな具合でいらしてね、と泰春さんは続ける。
「でもお嬢さんと知り合ってからこっち、たいそう張り切って毎日お過ごしなんです。洋食を奉公人に振舞ってくれるのも、前は主人としての義務みてえなもんという様子だった。でも今日の弁当は、ずいぶん楽しそうにこしらえておられましたよ」
あの素晴らしいお弁当。
私はご迷惑をかけるばかり、お世話になるばかりだと思っていた。
でも、発端は魅了の術だけれど、飯綱さまは私と関わることを楽しんでくださっているのだろうか。
「それに弁当、ありゃあどうやら、お嬢さんのところの常連のお客に張り合ってのことのようで」
「張り合う……? 耶麻井さまと?」
「そう、そのお人は、舶来の懐中時計なんか下げた洒落者だっていうんでしょう。こっちは本当の洋行帰りだ、なんて張り切って」
「……泰春、喋りすぎだ」
いつの間にか泰春さんの背後、土間には飯綱さまの背の高いお姿があった。
「オット、いやぁ、はい」
隣にまだ運ぶもんが残ってますかねぇ、なんて言いながら、泰春さんは出ていってしまった。
「耶麻井さまはほんとうに、ただの常連さんでございますよ」
「詳しく聞かせてもらうという約束でしたね、そういえば」
また例の不服のお顔になってそんなことをおっしゃる。
「……ふむ、じゃ丁度頃合いも良いし休憩にいたしましょ。お茶を淹れてきます。戸川さんたちも休んでもらいましょうね」
とりあえず飯綱さまを座敷の上り口に座らせて、私は家の方へ一旦戻ることにした。
「とはいえ、じっさいこれといって特別何かがあったわけじゃあないんです」
昼時と同じ焙じ茶を飯綱さまにお出しして、私も隣に腰を下ろした。
「二年か、三年ほど前のこと……当時はまだ細々とですが、街中の魔術道具店に品物を卸しておりました」
「今はご自分のお店だけでしたか?」
「ええ。お世話になっていたお店に納品に伺った時に、そこで初めて耶麻井さまにお会いしまして」
商品をご覧になっていた耶麻井さまが、私を店員と間違って話しかけて来られたのだ。ちょうど私の卸していた道具に目を留められて、使い方など説明して差し上げた。
「私が自分の店を別に持っているとお話ししたところ、ご興味を持たれたようで」
「……それで以後、通ってきていると」
「通うは少々、言い過ぎでございますね。一月以上もまったくお見えでない時もありますから」
ただ私の店に直接来られるようになってからは、御本人にはさほど必要でなさそうなものを買ってゆかれる日もあり、よほど魔術道具がお好きなのだろうなぁと思っている。
「顕ヲさん目当てで通っているのではないですか」
「私を?」
低くおっしゃった飯綱さまの顔を思わず見つめる。
「また、露ほども考えたことがないといったお顔をされていますね」
「考えたこと、ございませんでしたね……」
あくまでお客様だもの。
「まあ……それだけの期間通っていて貴女に何も異変を感じさせないのであれば、心配するほどの話ではないのかもしれませんが」
耶麻井さまについては、ご親切なお言葉をかけてくださることは確かにあれど、私自身に執着するような振る舞いは心当たりがない。
「ところで、魔術道具店への卸しは今はやらないのですか? こちらのお店の売り上げだけでは心許ないのでは」
「それが、耶麻井さまとお会いしてから少し経った頃でしたか、お店の方から仕入れをやめると言われてしまって」
「なぜまた」
思わぬところに話がつながったわね。
「正直、いまだによくわからない話なのですが……」
一言でまとめれば、良くない評判がたった、ということなのであろう。
当時品物を置いてもらっていたのは、表通りの繁盛しているお店だった。奥様と数人の女性の店員が洒落たお仕着せで販売を行う、親しみやすさよりは上品さや高級さを売りにしているといった具合の。
その店の販売部門について実権を握る奥様から、私の悪い噂を耳にしたという理由で、取引をやめたいと申し出があった。
「悪い噂?」
「ええ……その、お耳に入れるのも申し訳ない話でございますが」
私に多額の借財がある。これは事実なのだが、そこへ添えられたのは、返済のために、自分の術商いの店の顧客相手に春を売っている……こういった噂だったのだ。