第8話
まず戸川夫妻が隣家をざっと掃除する間、私と飯綱さまは、荒廃した座敷の中からこの家で普段使っている道具類を選り分けるところから始めた。
開け放ったお勝手から裏庭に、中身をあけた大きな竹かごを出して、そこに鍋だのなんだの、生活道具を退避させてゆく。
「ところで、いくつか話したいのですが……ああ、手は止めずに」
「ハイ!」
私が裏庭から座敷に戻ったところで、古い長櫃をごそごそと探っていた飯綱さまが顔を上げて仰った。
「幸助くん……お父上の残した借財のことです」
飯綱さまはそれから、元の借財の総額や、今どのくらい残っているか、どこから借りていて、返済はどのようにしているか、などなど、つぶさにお尋ねになった。
「……では今は銀行などではなく、個人から借りている状況であると」
「父が亡くなった時には、かなりたくさんの相手に……大きな額は銀行でしたけれど、他にも質屋さんだとか、色々なところから借りていたのです。担保となっていた屋敷を手放しても残った分を一箇所にまとめるよう母に勧め、実際に相手を見つけてきたのが叔父だったようで」
「その時のお金の流れの帳簿や証文などはないのですか? どうもかなり高利で借りているように思いますが」
「母が保管していた可能性はあります。今もあるとすれば、その」
手を広げ、惨憺たる有様の座敷を示す。
母の借りていた借家からここへ移る際に、何も処分せず全て持って来ざるを得なかったのは、そういった大切な文書の類があるかもしれなかったのも理由だ。
私が東京に戻った頃には、母は家を片付いた状態で維持することができぬほど弱っていた。
「これはいよいよ全て改める必要が出てきたな……」
飯綱さまは垂れかかった髪を整え、そのまま額の汗を手の甲で拭っている。手拭いをお貸しすべきかしら……
「その叔父という方は? 連絡は取っているのですか」
「いいえ。これも母の話ですが、屋敷の処分だの、借金をまとめるだのの件が済んだあとは、また姿を消してしまったと」
「……言いにくいことですが、お母上が騙されていた可能性は?」
ウッ。
「それは、薄々私もそうかもしれないとは……」
叔父、つまり父の弟にあたる人物について、知っていることはそう多くはない。
名は登路 栄助という。父より二つ歳下の弟だ。
母からは、父と結婚した頃はまだ付き合いがあったと聞いている。しかし私が生まれる前後に父と叔父は仲違いをして、連絡が途絶えた。
その叔父が、父の葬儀の済んだ翌月にひょっこりと、当時はまだあった実家の屋敷に現れたらしい。母は他に頼れる相手もいない心細さから、ちょうどその時期に発覚した父の借財について相談してしまったわけだ。
「私がもっとしっかりしていれば良かったのですけど……」
「顕ヲさんは当時まだ学生だったのでしょう。お母上が、娘に負担をかけたくないと考えるのは仕方ありますまい」
「そうだとて、叔父に頼るという、母からの手紙があった時に家に戻るべきだったのです。今となっては詮無いことですが」
あの頃は、少しでも早く学業を終えて術遣いとして働くことこそ、母のためになると思っていたのだ。だのに結局、戻った頃にはもう母は身体を壊していた……
「結局、顕ヲさん自身は叔父とは直接顔を合わせないままだったと。その方、今も存命なのでしょうか」
「まったくわからないのです。お金を貸してくださっている方も、叔父と親しい間柄ではなかったそうで」
突然に連絡が取れなくなった叔父を案じた母が尋ねたところ、相手も行方が知れず困惑していたという話だ。
「存命なら歳の頃七十前後。常人なのでしょうか」
「術遣いだったとは聞いておりませんけれども……」
常人ならば、既に亡くなっていてもおかしくない年齢である。
「この家財の選り分けで、叔父上に繋がるもの、手紙なり文書、書き付けでも良い。何か見つかったら私にお知らせください。当時の事情を把握すべきだと思います」
飯綱さまの仰ることはもっともだ。
これら全て、魅了の術の影響からだったとしても、私のことをこうまで慮ってくださるのはありがたかった。誰かから気遣われるのは嬉しくも、面映い。久しく味わっていない感覚であった。
そして私自身は、これまであまりにも己の状況に無頓着だったのではないか。日々の生活にただ汲々とするばかりで、改善を怠ってきた……
飯綱さまを思うなら、単に術から解き放つだけではなく、私がこの方にいらぬ心労をかけぬだけの人間にならねば。
昼時になった。
今日お越しになるのは元々飯綱さま一人だと思っていたので、朝炊いたご飯(さすがに麦飯でなく白米とした)とぬか漬け、少々の野菜の汁物をお出しする予定でいた。
貧しい献立なのは勘弁願いたいが、戸川夫妻が急遽手伝ってくださることになったので、ご飯が足りるかしらと心配していた。
ところが、なんと飯綱さまは皆の分のお弁当を用意してくださっていたのだ。
「私が勝手に来ているのに、貴女にお昼までご馳走になるわけにはゆかないでしょう」
なんとか皆で座れるだけの空間を座敷に確保し、久しぶりにきちんと置いたちゃぶ台を囲んだところ、飯綱さまは土間の方から風呂敷包を持ってきた。確かに朝、戸川さんが何か包みを抱えていたのは気づいていたが、片付けの間どうやらそれは店に置かれていたようだ。
ちゃぶ台の上で包みを解くと柳行李が現れ、その中身はなんと。
「マァ、サンドウィッチでございますか!」
行李の中には、パンに挟んだ中身が見えるよう美しく切られたサンドウィッチが整然と並んでいた。
大人四人が十分食べられる量の、おそらく具は玉子と、これは……
「きゅうり、かしら。なんてきれいなんでしょう、飯綱さまのお屋敷は料理人の方もいらっしゃるのですか?」
「……いいえ、料理人はおりません」
街の洋食店でしかお目にかかれないような豪勢なお弁当に感激して尋ねたが、飯綱さまはまたもごもご歯切れの悪いご様子。
「ウフフ、顕ヲさま、これはね。星四郎さまがおつくりになったんですよ。いわゆる英国風の料理法なンです」
「ええ!」
戸川の奥さま、泰子さんがころころと笑って説明してくださったところによると。
飯綱さまは長く魔術省のお仕事で英国に派遣されていて、一年ほど前に帰国した。今のお屋敷では戸川夫妻をはじめ幾人か使用人を置いているが、英国ではずっと下宿にお住まいで、食事の用意から何からご自分でもなさっていたのだとか。
「一応、まかないのある下宿ではあったのですが、祖国の味が恋しい時もありますし、後年は大家の御婦人が高齢になった都合もございまして」
なんだか恥ずかしそうにお話しなさるが、自分のことを自分でできて悪いはずがない。
「普段の食事はあたしたち使用人でおつくりしていますけど、月に一度、星四郎さまが英国仕込みの洋食を皆に振舞ってくださるの。もうそれが楽しみで楽しみで」
「泰子、あまり期待を高めすぎるようなことは……本当に簡単なものですから。顕ヲさん、その、まあ、どうぞ召し上がってください」
「はい!」
私の入れた焙じ茶をお供にサンドウィッチをいただくことにした。
「きっと英国なら紅茶を召し上がるところなのでしょうね」
「次は茶葉も持参いたします」
「アッ、いえその、要求したわけでは……ないですよ?」
「入れ方をお教えします」
すましたお顔でそんなことをおっしゃるので、つい頷いてしまった。……新しい知識を得たい欲求には勝てない、そういうことよね。
サンドウィッチも、もちろん素晴らしく美味だった。借財の返済が始まって以来ほとんど口に入ることのなかった玉子の滋味、きゅうりの瑞々しさ。
「あら、下に何か……」
行李の底には、ぴかぴかした平たい石が敷いてあった。わずかにそこからひんやりした冷気が漂ってくる。
「冷気の術! なるほどお弁当が傷まずに済みますね」
暑い季節であるのに、なんだか快適な温度のお弁当だなと思っていたのだが、こういう細工をしてらしたのね。
「昼までもたせるのがせいぜいですが。……あと弁当箱が重くなります」
簡単におっしゃる飯綱さまだが、これは術遣い当人でもなければ常用できない贅沢なやり方だ。
「術でものを冷やす、ってなんだか妙にやたら難しいですものね。お部屋だって術で涼しくできれば良いのに、お金が許せば電気扇を使う方がずっと簡単」
まあ、うちにはそういった最新鋭の高価な道具は全くないのだけど。
術で何かを冷やす方法は、昔からさんざん試されてきた。しかし多くは、持続時間の問題で普及には至らなかったのだ。
どこの国でも、術遣いは人口に比して貴重な存在である。
それに対して、何かを冷やしたいという産業需要と、術の持ちはまったく均衡が取れていない。結局、食品類に関しては、冬にできた氷を夏まで保管して利用するところから始まり、ついに現代、電気で冷やす冷蔵庫というものが登場するに至ったわけだ。
こうして術遣いは、科学と技術の発展に追い越され続けているのよね。