第7話
「顕ヲさん、こちらの方は?」
飯綱さまは口元だけで微笑み低くお尋ねになる……あのう、私のことそんなふうに呼んでおいででした? なんて訊けるご様子ではない。
「エエト、耶麻井さまはいつもいらしてくださるお客様で」
としか紹介のしようがないのだけど。
「耶麻井さま、こちらは今お話ししていた魔術省の飯綱さまです。当店には査察で」
いや査察は昨日で終わったのだったわ。
「……査察がご縁で、その、ちょっとした事故があった関係で」
ウッ、なんと説明しにくい関係であろうか。査察でいらした飯綱さまに魅了の術をぶちかまして、あげくそれを解くことができずにいるのです? 駄目だこれは言えない。私の不手際どうのではなく飯綱さまの名誉に関わる。
「へ、へえ、そうですか。ナニ、僕が心配してましたのはね、顕ヲさんが不当な扱いを受けていないかという点なんですよ。罪のない市民がある日、ちょっとした不注意がお上の目に留まったばかりに……なんて、巷でよく耳にしますからね」
背の高い飯綱さまがずいと一歩戸口から踏み込んだので、耶麻井さまはたじたじとなって仰る。
「そういった事例があるのは存じていますよ、まことに遺憾ながら。もちろん私はそのようなことはいたしません」
「アッ、そう、その通りです。というか、現状むしろ私の方が飯綱さまにご迷惑をおかけしておりまして」
細かい事情は説明できないにしても、その点ばかりは誤解のないようにしなければ。
「成程ね……? マァ今日のところは退散しましょう。顕ヲさん、何か困ったことがあればいつでも力になりますからね。じゃあ、また寄らせてもらいますよ」
そんなふうに言い残し、耶麻井さまはお帰りになった。
「長いお付き合いのお客なのですか?」
通りの角を曲がって行く耶麻井さまを見送り店に戻ると、またも一見無表情になっている飯綱さまに尋ねられた。
だんだんわかってきたぞ、これは不服のお顔だわ。
「それほどでもないですよ。確か……ここ二、三年というくらいかしら」
「あとで詳しく聞かせていただきます。余計な時間も取られたことですし、早速始めましょう」
飯綱さまの御指導のもと始まった我が家の片付けは、困難を極めた。なにしろ、この狭い家に対してあまりにも物が多すぎるのである。
一先ず床を埋め尽くす書籍や紙類をまとめようにも、その置く先も座敷にはない有様。かといって土間の方へ出してしまうのは商いを考えれば憚られる。
「……これでは埒があかない」
「ウウッ、申し訳ございません」
すくっと立ち上がり仰る飯綱さまの足元に、つい平伏してしまう。その拍子に下げた頭が当たり、ちっとも片付かぬ書き付けの山がさらに崩れた。
「やはりこのようなことで飯綱さまのお手を借りるのは誤りだと思います。ここまでかけていただいたお時間とお手間はきっと何かでお返しいたしますからどうか……」
諦めてお帰りいただけないだろうか……アアァ駄目駄目さすがにもう少し他の言い方があるでしょう顕ヲ!
「今日は帰ります」
「エッ!」
もしや諦めてくださる?
「やり方を変えねばなりません。諸々手配がありますから、一旦今日は失礼します。明日は朝の八時から始めるとしましょう。顕ヲさん、貴女も早くに休んで備えておくと良いでしょう」
ええーッ……
言うが早いか、飯綱さまはそれこそ神足通もかくやの勢いでお帰りになってしまった。
うう、お考えと行動の速さについてゆけない……
翌、日曜日。
飯綱さまは二人の男女を伴ってお見えになった。
「おはよう御座います、顕ヲさん。貴女には悪いと思いましたが、手伝いを呼ぶことにいたしました」
「アッ、はい、エッ? そんな、申し訳ない……」
「昨日手をつけてみてわかりましたが、私と貴女だけではとても終わりそうになかったでしょう。勿論貴女一人でもだ」
そりゃ、十年以上こうだったのだから、一朝一夕でどうにかできるとは思っていないけれど。
「この二人は、戸川夫妻です。私の……飯綱の家に親の代から勤めてくれている」
いわゆる奉公人ということだろうか。親の代からお勤めの方がいるなんて、矢ッ張り飯綱さまのお家は名門なのねえ。
「泰春、泰子、こちらが登路顕ヲ嬢だ。御挨拶を」
「あたしたちにお任せくださいな、お嬢さま! きっと住みよくしてみせますから」
女性が胸を叩いて言う。見たところ四十前後の、元気の良いひとだ。
「……お手伝いさせていただきます」
同年輩の男性の方は、それだけ言って頭を下げる。
「よろしくお願いします。この店の主の登路と申します……あ、そうか成程。昨日おっしゃっていた手配とは、お二人をお呼びすることだったのですね」
飯綱さまが一体何をご計画なのか、昨夜は密かに恐れていたのだ。
でも、戸川さん夫妻にお手伝いいただくのがそれであるなら、まだしも罪悪感が少なめで済む……のかしら? 何かお礼を考えた方が良さそうではあるが。
「勿論それも、ですが」
も?
口元を手で覆って視線を明後日に向けておられる上に、珍しく歯切れの悪い仰りよう。しかも続く言葉のなかなか出ない飯綱さまの背後では、戸川夫妻がチラチラ目線を交わしている。
まだ何かありそうね……
「こちらの隣家は、数年空き家だったと伺いまして」
「エエ、確かにその通りでございますが」
私が越してきた時には、中年のご夫婦が金物屋を営んでいた。もともとお子さんの多いお家だったところ、長男さんがお嫁さんを貰ったのを契機に、もっと広いお店を持つということで移って行かれたのだ。
どうやらご主人があまり術遣いがお好きでないとかで、十年と少しお隣だったものの、うちとはほとんどお付き合いがなかったのだけれど。
「ここら一帯の貸家を所有している大家を昨日訪問し、隣家を借り上げる契約を……」
「ンッ??」
飯綱さまが? 借りたの? おとなりを?
「良いですか、顕ヲさん。家に置ける家財には、適切な量というものがあるのです。この家はそれをはるかに凌駕している。ここのみで解決を図るのはもはや無理というもの」
そ、そこまでかしら。
「ならばどうするべきか? どこか他へ移すほかない。つまり、隣です」
つまりの前後がずいぶん飛躍していやしませんか、それは。
「はじめは飯綱の屋敷へ、とも考えたのです。しかし場所を移すのは、あくまで家財を見分するためです。この中身を改め、お父上を偲ぶためのもの、資料として価値のあるもの、処分して良いもの……仕分けねばなりません」
今はそれらが渾然一体となっている、というわけね。
「そうした作業をするにあたり、最も便利の良いのが隣家と判断いたしました。私の屋敷では遠すぎる」
……それは思いとどまっていただいて良かった。
「これは単なる片付けではなく、顕ヲさんの経済状況の改善にも繋げてゆきたい。もしこの満載の家財の中に価値のあるものが含まれていたなら、返済の役にも立つでしょう」
成程……理屈は通っている。
「し、しかしお隣を借りるお家賃は」
「私が支払います。一旦は」
「一旦」
「勿論、私が本当に負担したって構わないのですが、貴女はお嫌でしょう、顕ヲさん」
今回は既に気付いておられるのね……
「私が顕ヲさんのことを気にかけるのが魅了の術にかかっている為であるか否かは、この際どうでもよいのです。ただ貴女を自立した一人の術遣い、一個の人間として考えるのであれば、後から費用をお返しいただくのが妥当でしょう」
あくまで現在の我々の関係性を鑑みればですが、と飯綱さまは付け加えられた。
「……わかってくださっているの、安心しました」
なにしろはじめは、私の借財を肩代わりすると言って聞かなかったものね。
「言い出したからには、隣の借り賃は勿論、借財も返済を早める手段は考えています。ですから、貴女の今後の生活を改善するのを手伝わせていただきたい」
いつも涼しげなお顔でおられる飯綱さまなのに、今は不安な様子で私の方を伺っている。
魔術省では重いお立場で、お家は名門、背も高くて立派な様子の殿方だけれど、私を小娘と侮ったり横柄な物言いをなさったことは一度もない……
「わかりました。お力、お借りします」
嗚呼、矢ッ張り少しでも早く、魅了の術から解放して差し上げなくては。