第24話
夕方になり、まず訪れたのは飯綱さまだ。
……というか終業からまだ数分しか経っていないと思うのだけど、七里靴の術でいらしたのかしら。
「榊くんですか……」
座敷に落ち着いて今日の出来事、卸先開拓と伝太さんの修行の進捗、最後に警部さん方訪問の顛末をお話しした。飯綱さまのお顔からはあからさまに困惑していらっしゃるのが見てとれる。
「親しいお知り合いなのですか?」
多分違う気もするが尋ねてみましょう。
「昨年帰国してから、私の所属が法務寮に変わるまでの短い期間一緒に働いていましたが……少々癖のある男で」
「顕ヲさまのこと、口説いてましたよ」
「はっ?!」
アッ、伝太さんそれ言ってしまう?
「く、くど、口説いていたですって?」
ちゃぶ台に手をつき、飯綱さまが身を乗り出す。ここまで動揺なさるのは虫の件を除けば初めて見るかも知れない。
「おそらく冗談だと思いますけれど……」
だって初対面ですよ? と言うも、飯綱さまの憤懣はおさまらない。
「あの男は冗談と本気の境目がわかりにくいんですよ……!!」
「やぁ、飯綱先生に覚えていて貰えたとは、光栄だナァ」
そこで土間の方から火に油を注ぐための言葉が投げかけられた。噂をすれば影、榊さまである。
「出ましたね……」
身を乗り出した姿勢そのままに、顔だけ榊さまへ向けて、絞り出すみたいな声で仰る。
「そりゃあ、戻って来るって言ってありましたからね。飯綱大先生におかれましてはご健勝そうでなにより……いやご婚約のお祝いを申し上げた方が?」
イヒヒ、と人の悪い笑顔の榊さまは、私と飯綱さまがそのような関係でないのは当然理解しているはずだ。昼にきちんと説明しているのだし。
……つまり、こういう方なわけね。
「おい、悪いがそういうのは後にしてくれ……飯綱さん、お疲れのところ申し訳ない。捜査にご協力いただけますか」
ばしん、と手の甲で榊さまの二の腕を叩いて押しのけ、後ろから鶫野警部も現れた。
「……勿論です」
おそらく言いたかったであろう様々を無理矢理飲み下したようなお顔で、飯綱さまは浮かせていた腰をすとんと下ろした。
ウウム、ご心痛をおかけしている……
強化つきの嗅ぐ術で飯綱さまを確かめた鶫野警部は、やっぱり顔色が良くなかったので、今回も少し座って休んでいただくことにした。
「その強化の術、もっと相手に負担をかけないようにできないのですか?」
「それがなかなかねぇ、毎度使うたびに多少調節してみてはいるんですが」
飯綱さまの問いに榊さまが肩をすくめる。
「体験なさったことがおありなのですか?」
一緒に仕事をしていた時のお話かしら。
「幾度か。正直たびたびやりたいと思うようなものではありません。今後も警察に協力するのなら、その術は改良すべきだ」
あくまで真面目な飯綱さまと、それに対して、まァおいおいね、と軽い調子の榊さま。お二人とも魔術省のお役人なのだけど、随分と考え方に隔りがある。
「そんなことよりだ、ここ最近の飯綱先生についてですよ。僕のところまで噂がまわるなんて余程の事態でしょう」
ちゃぶ台を囲む並びは、伝太さん、私、飯綱さま、榊さま、鶫野警部(まだぐったりして頭を抱えている)。ぐぐいと榊さまに肩を寄せられ、飯綱さまは眉をひそめてややのけぞった。お気持ちはよくわかる。大の男が三人もいて座敷がとっても狭苦しいし、その原因の大きな部分は榊さまである。
「なんです、噂って」
「急な休暇を申請して、その理由が知人女性を助ける、とか知人女性が窮地にあるため、とかなんですよ? そりゃあ、あの飯綱大先生もついに再婚か、ってな話になるでしょ」
「知人と言ったら知人です。勝手に他の意味を付け加えないで貰いたい」
「よくわかりませんね。じゃあそもそも、お二人はどういう知人なんです」
ど、どういう……また例の魅了の術のくだりを説明せねばならないのか。
「貴方にそれを教える必要がどこにあります。昼のこと聞いていますからね。顕ヲさんに妙な声かけをするのはおやめなさい」
「チェッ、相変わらずお堅いナァ。まあ飯綱先生のその反応を見るに、婚約者説は当たらずとも遠からずってことで、皆には知らせておきましょうかねぇ」
「今の話でどうしてそうなるんです……だいたい皆とは誰なんですか」
「帰国からこっち張り合いなさそうな顔してお勤めしてた大先生が、人が変わったみたいに突然イキイキしはじめた理由が知りたい皆、かな?」
「暇なんですか……?」
最近の飯綱さまのご様子は、以前からのお知り合いにはそう見えているというわけか。確かここを片付けた時に、泰春さんも同じようなことを仰っていたような。
飯綱さまと榊さまの戯れあいめいた会話は放っておけばいつまでも続きそうだった。だが、私の隣で大人しく座っていた伝太さんのお腹から、ググウと空腹を訴える盛大な音が響いたところで、場の流れが変わった。
「おい、遊んでいないで帰るぞ」
鶫野警部がぱっと起き上がり、榊さまの襟首を掴んで立つ。
「登路さん、長々居座って申し訳ありません。捜査に進展があればまたお知らせします。坊やも、悪かったな。早く帰って何か食わせてもらえ」
「アッ、その、これは……はい」
お腹が鳴ったのを恥ずかしく思ったのか、頬を上気させ、伝太さんが頷く。
どうしよう、今うちにはすぐ食べさせてあげられるものは何もない。警部の言う通り早く帰るしかないわね。
明日から伝太さんのお弁当、泰子さんにもう少し多くしていただくようお願いするか、あるいはうちで午後に何かおやつを用意するか……そもそも食べ盛りの子どもってどのくらいの量を必要とするのだろう?
考えているうちに、何やらまだまだ言い足らなそうなご様子の榊さまを引っ張って、警部は帰って行かれた。
「……我々も帰りましょう」
いつもより疲れたお声の飯綱さまに促され、私たちも帰途についた。
◇◇◇
夕飯後、先日実演に使わせていただいた舞踏場を教室として、伝太さんの術の勉強を少し行うことにした。
なにしろ昼間は警部さんたちがお越しになったこともあってあまり進まず、物足りなさそうにしていたのだ。
舞踏場の壁際には、泰春さんはじめとしたお屋敷の男衆によって運び込まれた大きな食卓がある。元は飯綱さまのお父様の時代に晩餐会などで使われていたもので、ここ数十年はお庭の蔵で眠っていたらしい。これを机の代わりとし、椅子がいくつかと本や道具を入れるための小さな棚が一つ。
お屋敷にいる時は自由にここを使って良いと言ってくださっている。急拵えだがなかなか具合のいい教室であろう。
「……つまり、物質の成り立ちや物理法則を知ることは、魔術を使う上で必須ではなくとも、より複雑な結果を求める場合には近道になり得るわけです」
食卓に開いた古い教科書を、伝太さんの背後に立って一緒に見ながら進める。
一冊しかないのでこうなってしまうが、これは私が術の初歩の勉強をしていた時代のもので、先日まで座敷の大量の書物に埋もれていた。
飯綱さまや泰春さん、泰子さんに手伝っていただいて家の片付けをした時に、私の昔の教科書なども出て来たのだ。父の遺したものと一緒にお隣の座敷に運んであった中から、いくつか選んで持って来た。
整頓してわかりやすい場所に置いてくださっていたのは助かったが、思えばあの時から飯綱さまは私に伝太さんの指導を依頼することをお考えだったのかも知れない。
「明日からは、術の道を描く練習も始めましょうか。伝太さんは今まで無しで術を使ってこられましたが、これを覚えれば精度も上がるし、なにより疲れにくくなるはずです」
この子はこれまでどうやら、才能に任せて直感で術を使っていたようなのだ。見鬼の術に至っては、意図せず視えてしまうことも多いと聞く。もしかしてお腹が減りやすいのも、成長期だからというだけでなく、術力の無駄が多いせいもあるのやも。
「はい、顕ヲさま。でも、今すぐ始めてもオレはまったく構いませんけど……」
「そうですね……」
棚に置かれた時計を見ると、もう十時近い。
何を教えても楽しそうに興味を持って聴いてくださるのでつい熱が入ってしまったが、もう休ませたほうが良いだろう。
「今日はおしまいにしましょう。私など毎日、早く休むように飯綱さまに叱られていますからね」
「アハハ! そうですね。旦那さまの言うことに間違いはないや……あぁでも、顕ヲさまの守り袋をちゃんと視るの、やろうやろうと言ってずっとできずにいますね。明日こそやりましょう」
そうだ、その件もあったのだわ。
父が私に持たせるようにと遺した守り袋。何らかの高等な術の守りが仕込まれているけれど、伝太さんの見立てでは、おそらく妖が要に使われている。しかもどうやら、一部の妖を刺激する働きがあるかも知れない……
「妖退治の時に身につけたままでいいか、次に依頼があるまでに調べなけりゃ。でもオレだけじゃ心許ないから、旦那さまか三瑚さまの立ち会いもお願いしないと」
この心掛け、謙虚で感心する。
ん……? 待って、何か引っかかるわね。
飯綱さまか三瑚さまの監督のもと、伝太さんが視るというお話よね。
彼は元々そのての術に長けていて、空き巣が我が家に入った件では、川岸巡査に妙な術が使われていたのが意図せず視えてしまっていた。
見鬼の系統の術は、いつ何を視るのか自分で制御できないのは未熟の証である。のべつ幕なし何かが視えているとしたら、それは矯正せねばならない。今まさに伝太さんが取り組んでいる初歩の学習にも当然含めるつもりだ。
アレ……?
「あの、ちょっと尋ねたいのですけど……伝太さんには、私が飯綱さまにかけてしまった魅了の術は視えているのですか?」