第2話
「もういませんか……?」
飯綱さまはいまだ両手で顔を覆い、土間にうずくまっている。
「はいはい、もうおりませんよ。例のヤツは火箸でつかんでお勝手からポイいたしました。そんなところに座り込んでいては、お召し物のお膝が出てしまいます、立って立って」
騒ぎの元凶たる黒光りする大きなブツは、火箸で挟んでも無抵抗であったので、さっさと捨ててきたところだ。
……まあ追い出しただけなので後から戻ってくる可能性は大いにあるわけだけど。
「見苦しいところをお見せしてしまって……」
手を引いてようやく立たせた飯綱さまは、ひどくきまり悪そうな様子で眼鏡の位置を直している。
「それはそうと! 飯綱さま、お加減はいかがでしょうか? さっきの、その、大きなお声で私ったらひどく驚いてしまって……魅了の術を大暴発させてしまったように思うのです」
完全に狙いの狂った術をぶちかましました。
「加減、ですか……?」
飯綱さまは口元を押さえ、心許ない顔になる。
「そのう、つまり、貴方さまに魅了の術がかかってしまったのではないかと危惧しているところでございます」
「登路嬢の、魅了の術が私に……?」
魅了の術は、相手の合意なく余人に使えば罪に問われる。ただしこれは状況次第であり、事故だと立証できれば責任が免除されることにはなっているが……
「さっき、解く手順に手応えが感じられなかったのです。単にかかっていなかったなら良いのですけど、術の道そのものがかなり乱れてしまったので……真っ当な方法で解けない状態になっていたら厄介です」
魔術の暴走は時に極めて重大な事態を引き起こす。
良かれと思って描き出した大魔術が失敗し、それがきっかけで戦が始まった、などという例は歴史にいくつもあるのだ。
「ご自身で魅了の術をお使いになったことは? ない? 今、妙な心持ちになってはいませんか?」
「妙な心持ちとは、一体どんな状態でしょうか」
「どんな?! そ、そうですねェ……こう、私を見ると胸苦しく感じるですとか……」
「胸苦しく……」
「どうしても私から離れがたいとか……」
「離れがたい……」
「エエトあとは……私に対して強い愛着を覚える、などの」
「愛着」
鸚鵡返しはやめていただけないだろうか、居た堪れない。
「飯綱さま、少し時間をおいた方がよろしいかもしれません。今日は一旦お帰りいただいて、明日まで様子を見てはいかがでしょう」
さすがに埒があかない。
万歳するようにして高いところにある相手の肩をつかみ、回れ右させる。
「し、しかしまだ査察は……」
「ンもう! こんな事故の後でそんな大事なお役目が務まるとお思いですか? 明日! 明日もう一度お越しくださいませ! それまでに私も術を解く算段を考えておきますから」
そうしてやっとのことで、ぼんやりしている飯綱さまを帰したのだった。
……しかしちゃんと帰れるのかしら? 心配。
「おや、今日はもう店じまいですか、顕ヲさん」
魔術省のお役人・飯綱さまとの騒ぎの後、私もなんだかすっかり疲れ果てた気分だった。それでまだ午後も早い時間ではあるが看板代わりの木札を外そうとしていたところ、通りから声をかけられた。
「あら、耶麻井さま!」
振り向くと、立っていたのはこの店の数少ない常連客の男性であった。
歳の頃は三十代の半ばから後半あたり、背丈こそ我が国の男子平均くらいだが、肌艶が良く整った容姿の人物だ。
飯綱さまは上等の背広を着こなした紳士だった。しかしこの耶麻井さまはさらに上をいく洒落者であろう。高価そうな仕立てのお召し物はもちろん、小粋な帽子に、ステッキや懐中時計などの小物も欠かさない。羽振りが良いという言葉が服を着て歩いているようなお方だ。
常連のお客様という以上のお付き合いがあるわけでなし、耶麻井さまについて知ることはさほど多くはない。が、なぜこんな上流の方がうちのような下町の術商いに足を運ばれるのか常々不思議には思っている。
「先ほど思いがけない事故がありまして、その始末を考えるのに今日は閉めてしまおうかというところだったのです。でも、魔術をお求めでしたら伺いますので中へ……」
お世辞にも流行っているとは言えない当店の術商い、せっかく来てくださったお客様を逃すなんてもってのほか。
「いや、近くまで来たので寄らせて貰っただけなのです。顕ヲさん、元気にしているだろうか、なァんて。でも事故ですって? 大丈夫なんですか」
朗らかな様子から一転、心配そうな声音で尋ねられる。
「大丈夫です、私の方は。ただ魔術省のお役人さまが来ていたのですけど、その方がちょっと」
「なんですって、役人と揉めたのですか?」
揉めた……のではないな。
魅了の術を暴発させたのは確かに私だけれど、その原因になったのは例のヤツに驚いて大声を上げた飯綱さまだし……誰が悪いかと問われれば決めかねるところである。
「偶発的な、まったくの不可抗力、疑う余地なく事故、そんなところでございます、あれは。しかし今日済ませてしまうはずだった査察が、明日に日延べになりまして」
「査察! それは大変だ。間の悪いところに来てしまいましたかね、僕ァこれで失礼した方がよさそうだ」
「お構いできなくてごめんなさい。ぜひまたお寄りくださいな」
耶麻井さまは実のところ、寄れば大概、たいして必要でないだろうに何かしら買い求めてくださる奇特なお客様だ。
慎み深く微笑んで口を閉じたが、さもしい本音を開陳するならば、そう言わず!寄っていって!! という感じである。
願い虚しく、耶麻井さまは現れたとき同様、風のように去っていった。きっと何か重い立場に着いておられて、お忙しいのだろう。
◇◇◇
そのあとは店を閉めてしまったので誰も訪れることはなく、私は土間の机であれこれと魅了の術の解法など考えて唸っていた。といっても、術をかけてしまったと思しき相手が目の前にいないわけだから、成果の上がるものにはなりにくい。
結局これといった妙案も浮かばぬまま、翌朝またいつもの時間に店を開けるため表に出た。
……出たら、いた。
「飯綱さま?!」
今日もぱりっと見栄えのする、きちんとした様子で通りに立っていたのは、昨日ぼんやりと帰っていった飯綱星四郎さまだった。
店はいつも、客がたいして来ないとしても、とりあえず開けるだけは早くから開けていて、今の時刻は八時になるかならないかくらい。
「おはよう御座います」
困惑と不本意の中間くらいの顔つきで、それでもぴんと背筋の伸びた長身を折り曲げて一礼する飯綱さま。
「おはよう御座います……本当にお早くていらっしゃいますね?」
いっぱんに、お役所の業務が始まるのは、確か九時ではなかったか。
「あれから己の心身の状態について様子を探ってみたのですが」
落ち着きのある、深いお声でゆっくりと話し始めた。
「まず一点目、貴女を見ると胸苦しく感じるか。これは帰ってしまった段階で貴女がおりませんから、正確には判断できません。しかし、目の前にいなくとも、貴女のことを考えるとひどく落ち着かない心持ちになりました」
「はァ」
魅了の術などというものをかけられたかもしれないだけでも、落ち着いてはいられないだろう。
「二点目、貴女のそばを離れがたいか。昨日帰るように言われて法務寮に戻りましたところ、すぐにもこの店にとって返したい気持ちになっており、抑えるのに苦労いたしました」
「オット……」
いや待て、それはすぐにも術を解いて欲しい気持ちの現れやも。
「三点目、貴女に強い愛着を覚えるか。……正直に申し上げますと、ここ数十年、誰かに抱く愛着などというものをすっかりどこかへ押しやって生きて参りましたので」
「数十年」
「はい。これが本当に愛着という気持ちなのか、判断が容易ではないのですが……今日、早朝に家を出てこちらへ参り、店が開き貴女が顔を出すまで二時間近くここで待っていたことを考えますと……」
「二時間?!」
うーんこれは、間違いなく魅了の術にかかってしまっておられる。