第19話
口に出しても良いのかどうか、葛藤なさっているのは明らかだった。
……要するに言えていないことはある、と。
「飯綱さまは私のことばかりで、これまでご自身のお気持ちはほとんど仰っていません。迷惑をおかけしているのは私なのに、そんな関係は歪でございましょう」
そこからさらに、虫の声だけが聞こえる時間がしばし過ぎる。
普段の私なら、仰りたくなければ良いのです、などと言っていたかもしれない。だが今を逃せば、次にいつ機会が巡ってくるのかわからないのだ。
辛抱強く待っていると、飯綱さまは口元を覆っていた手を離し、重々しくため息をついた。
「……これを言えば、見下げ果てた男だと思われるような話があるのですが」
あら随分な。
「多分、飯綱さまを今更そんな風には思えない……ですよ?」
もうすでに信頼してしまっているもの。
そこへ真理が書かれているとでもいうように私の顔をじっとご覧になり、またしばらくの時間をおいて、飯綱さまはようやくお口を開いた。
「私が魅了の術を解くのに積極的でないのは、その……術をかけたという負い目につけこんで側にいる以上、解けたら貴女をお助けする権利がなくなってしまう気がして」
な、なんて?
「やっぱり見損なったではないですか……」
恨めしそうに仰る。
「アッ、いえ、違います、大丈夫です。見損なってはおりません。ちょっと理解するのに時間がかかっただけでございます」
まったく想像もしない理屈だったんだもの。まさかここまでものの見方が違っているなんて。
「助ける権利だなんて……術の効果から解き放たれれば、その義務感自体が消え失せるでしょうし、残るのは私を助けると宣言したからには続けねばならない、といった責任感ではありませんか?」
「そんな風には、なりませんよ……」
それこそ解いてみねばわからないのではないかしら。
「とにかく、魅了の術を解くのに気が進まないご様子だった理由はわかりました。そして、そのご懸念はまったく無用のものだとも断言させていただきます」
飯綱さまの腕から手を離し、胸を張って言い切る。
「飯綱さまは、術を解いたら私と貴方さまは交流を終えるものとお考えのようですね。でも私の考えは違います。我々の関係における今の不自然な状況を解消すべきだと思っているだけです」
「つまり……?」
「魅了の術を解いて、それでも飯綱さまが私に構いたいと思われるのだったら、そのときはいくらでも構ったらよろしいではありませんか」
こんな簡単なことなのに。
「そ、それで良いのですか……?」
「良いもなにも、私の術で貴方さまがお気持ちを捻じ曲げられている点に問題があるというだけで、本心からそうなさりたいのなら……良いのでは」
まあもちろん今まで通り、一般の知人同士の範疇を超えた過分な支援はお断りするだろうけれど。
「先日、本当に術にかかっているのか、とも仰っていましたね。もしもそこが疑わしいのだとすれば尚更、浄晋尼さまに調べていただかねば。でなければ、私たちいつまでも人間同士の本物の関係を築けませんでしょう」
飯綱さまはまた黙り込んでしまった。
あまりにもずけずけ言い過ぎただろうか? だが、ここを曖昧にしたままでいられないのは明らかだった。
なにしろ私と飯綱さまの関係は今だに何にあたるのか説明できない。あえて言うなら、術をかけた者とかけられた者……そんなのはおかしいではないか。
「……本音を話すというのは、すごいことですね。何十年ぶりだろう」
ぽつりと、そんな風に仰った。
「お聞きしますよ、いつだって」
私が言うと、拗ねたような小さな声で、安請け合い……と聞こえる。
「あら人聞きの悪い。一応私だって、安請け合いするにも相手は選んでおりますよ」
「貴女、本当に、そういうところが」
なにやら一際大きなため息をついて、飯綱さまはついに顔を覆ってしまった。
「深くお考えになり過ぎないで。私たちの関係は、言わばまだ始まってすらないのです。術を解いてはじめて、どこへ向かうのか考えられる。私はそのつもりでいるんですから」
差し出した手をじっと見たのちに、やっと取ってくださった。渡り廊下へ向かい、手を繋いで飛び石を渡っていく。
「七里靴も、そういえばお教えしなくてはなりませんね」
「興味はとてもとてもありますけれど、余裕のある時で結構でございますよ?」
「……教えてしまったら、顕ヲさんは一人でどこまでも飛んでいってしまいそうだな」
「マァ、そんな跳ねッ返りに見えておりますか?」
「そうですね、やっぱり教えない、と言いたくなって参りました」
もう間も無く、深夜のお庭の旅が終わってしまう。どちらからとなく、歩みはゆっくりになった。
「もし、お教えして習得できなかったとしても……私がお連れしますよ、顕ヲさんの行きたい場所どこへでも」
◇◇◇
翌日は朝から店で警察の捜査が行われた。
指紋の採取だの、現場写真の撮影だの、家屋の図面を作るだの、色々な作業で数人の捜査官が動き回っている傍ら、鶫野警部からあれこれ質問を受けた。
店に関しては繁盛しているとは言いがたいものの、普段からそれなりに人の出入りはある。
しかもごく最近に飯綱さまと戸川夫妻の手を借りて座敷全体の片付けを行なったのだ。後から戸川夫妻のところへも聴取に来ることになったのは当然と言えば当然だった。
私としては、家に帰れるかも気になっているところだ。
「今晩から戻って良いか、ですか……」
あらかたの聴取を終えた後に尋ねると、警部は目線を泳がせた。
「一応、駄目とは言えないンですがね、夜お一人ってなァ、おすすめはしない。まあこれは平時でもそうだけど。よくよくお考えになった方が」
なんとも煮え切らぬ仰りよう。
つまり今晩も飯綱さまをお頼りするしかないわけだが……そろそろ食費だのお渡しすべきかも知れない。
「いや実はね、何かあって術の使える者がすぐ駆けつけられるかといえば、正直無理でしてね。元々警察には術遣いが少ないってのもありますが、今はちと……妖関係の事件があって立て込んどりまして」
「報道されている件ですか?」
他の警官たちの仕事を見守っていた飯綱さまがこちらへやって来た。
「それですねぇ。昨日こちらへ伺うまで時間がかかったのも、丁度その件で別の現場に行っていたためでして」
報道……ウウムやはり新聞くらい読まねばならないかしら。あとで飯綱さまにどういう事件か聞いてみましょう。
お昼をだいぶ過ぎた頃、警察の皆さんは引き上げて行かれた。
家の中は流石に掃除をする必要がありそうだが、ひとまずざっと片付けて座敷でお昼をいただくことにした。
飯綱さま、私、伝太さんの全員でちゃぶ台を囲み、やっと一息ついたところ。
「そうそう、あの可愛い名前の警部さんがご近所へ聞き込みするの、ついて行ってみたんですけど」
伝太さんがおにぎりの包みを開けながら話し始めた。今日は泰子さんがお弁当を持たせてくださったので、私はお茶とお漬物を出すくらいで楽をさせてもらっている。
「鶫野警部だろう……何か気になる話はあったか?」
「主に知らない人間がうろついてなかったか、とかそういう話ですね。皆さん特に心当たりはなさそうでしたけど……ただ、あの人は一昨日も来ていたとか」
「一昨日? 顕ヲさんが一日留守にしていた日か」
飯綱さまのお顔が曇った。成程、あの人というのは耶麻井さまか……
「履物屋の奥さんが表で出くわしたと言ってました。顕ヲさまが朝から留守だって教えたら帰って行ったようですね」
最近は全く耶麻井さまをお構いできていない。我が店の数少ない常連さんである彼の足が遠のいてしまうのは経営にかなり響く。
でも、この頃のあの方はちょっと間が悪いというか……どうにも対応しかねる時にばかりお越しになるのだ。しかも飯綱さまは何故か耶麻井さまを強く意識なさっているし。
「あとは、夜中に怪しい物音を聞いていないかとか……とにかく普段と違うことで何か思い出したら連絡してくれ、ってな内容でしたね」
結局、伝太さんの見る限りご近所への聞き込みはたいした成果がなかったようだ。
「素人の浅知恵かもしれませんが……」
飯綱さまが口元を押さえて考え込む様子で仰る。
「顕ヲさんのお店が見張られている可能性はないのでしょうか」
「み、見張られている?!」
どうしてまた。大金が置かれている訳でもないのに……
「これまでに、お店を一晩空けたことはどのくらいありましたか?」
「それは先日が初めてでございますね……」
私には遠方の親戚だの友人だのはいない。勿論旅行などする余裕もなく、泊まりがけで出かけるような先がそもそもないのだ。
「確かここへ来て十五年近いのですよね。それで初めて家にいなかった晩に偶然空き巣が入るなんてことがあるのか……」
行きずりの犯行だとしたら、仮に金目のものが無くても何かは持ち去るだろう、とは鶫野警部も言っていた。まして、市井の感覚としては高額商品にあたる魔術を込めた道具に全く手をつけていないのは不自然だと。
「捜査は警察に任せるほかありませんが、自衛はするべきでしょう。警部ははっきりとは言いませんでしたが、今晩に限らずしばらく夜は我が家でお過ごしになった方が良い」
「アッ、はい、その、私の方からお頼みすべきでした。連日で申し訳ありませんが、お世話になります」
「勿論、いつまでもいてくださって構いませんとも」
皆も喜びますから、と言う飯綱さまこそがご機嫌麗しいご様子……まあ、そうね、私も飯綱さまが喜んでくださる方が嬉しいわね、うん。
「どなたかいますかね?」
風を通すために戸を開け放っていた表から声が聞こえた。
「はい、只今」
土間に出ると、入り口には年配の男性とそのお連れ様らしき若い男性が立っている。
あら、先日の妖退治の依頼主さんだわ。