第16話
私の印象では、耶麻井さまはいつも身だしなみが整っていて、肌の色艶が良く、健康的な殿方だ。
それが今日はどうだ。顔色が良くないのは勿論、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。確かに外は暑いが、ただ歩いてきただけにしては異常な量ではないかしら。
「……やあ、顕ヲさん。大変な目に遭ったんですってね」
どうしたことか、声にも張りがない。
「ええ……空き巣に入られたようで」
「それはとんだ災難だ。何か大事なものなんか、置いてあったのでは?」
「いえ、もともとたいしたものは置いてございませんので……両親の位牌も無事でしたし」
父が何か遺している可能性はあるものの、それはお隣に移した家財を改めるまではわからない。
「そうなんですか……? 何かありそうなもんですが」
あら? なんだか妙な仰りようね。
「あの、そういった訳で、今日はお店は閉めるほかない状況でございまして。魔術をお求めでしたら申し訳ないのですが、また後日に承りますので」
なんだか体調も優れないご様子だし。
「いえ、いえ、買い物なんぞ、どうだって良いんです。僕ぁ、とにかく顕ヲさんが心配で」
「ご心配には及びません」
背後から聞こえたのは今更誰かなど考えるまでもない、飯綱さまの声である。
「ま、またあなたですか。なんだって役人が入り浸っているんです」
元気のない耶麻井さまだが、飯綱さまに言い返すときには多少勢いが戻っているご様子。
……意外と相性が良いのかしら、このお二人。
「顕ヲさんをお助けするのは、私だけで充分間に合っております。耶麻井さんと仰いましたか? 顔色が良くない。お帰りになってはどうです」
飯綱さまは微笑んでおられるし、お言葉もお優しい……のだが、なんだか不穏な空気を纏っておられる。成程これが泰春さんの仰っていた張り合うというものか。
「あの耶麻井さま、ほんとうに心苦しいのですが、この後、警察の方が再度お越しになるはずなのです。ですから、その」
悪いことをしていなくたって、さっきの高圧的な巡査がまた戻れば、耶麻井さまにもご不快な思いをさせてしまうかも知れない。
「顕ヲさんのおっしゃる通りです。あの疑い深い巡査のことだ、無実の者に一体どんな濡れ衣を着せるかわからない。あなたも下手に顔を知られると面白くないことになるかも知れませんよ」
おおむね私の伝えたかった内容と違わないのだけど、やや脅迫めいて聞こえるのは気のせいだろうか。
「そ、そんなこと、気にしてやいませんよ、失礼な人だな……! ですが、そう、巡査の仕事を邪魔するつもりはありません。顕ヲさん、本当に困ったら頼ってくれて良いんですからね」
「エッ、はい、そうですね、もしもの時には」
ついそんな風に言ってしまう。飯綱さまの視線が痛い。いえでもこの場合、そんなにはっきり断れるものかしら?
耶麻井さまは普段の颯爽とした様子が嘘のような、重い足取りで帰って行かれた。田島の奥様も何か聞きたそうな様子ではあったが、ご自分のお店の方から呼ばれて行ってしまった。
「一体どうされたのでしょう、耶麻井さま」
「さあて」
飯綱さまはまた箪笥の陰にしゃがんでいた伝太さんに目線を向け、なにやら二人で目配せをしている。
「いずれにしても、しばらくは待たねばならないでしょう。顕ヲさんのお家のものを動かせないとなると……隣を開けて休めるようにいたしましょうか」
「そうですね。お昼も用意しなければならないし……」
私たち大人は多少我慢しても、伝太さんはお腹が減ったらかわいそうよね。お台所は荒らされていない様子なので、多少の煮炊きくらいはできるだろう。さっと何か用意して、隣へ運べばよい。
「そうだ顕ヲさま、オレがひとっ走り錠前屋を頼んできますか?」
そうか、この後どうするにしろ、ここの南京錠が壊されたから今は鍵もかけられない。
「伝太、行ってきなさい。費用は私が出す」
私が何か言うより早く、伝太さんは駆けていってしまった。
「さすがにこんな状況の時くらいは良いでしょう?」
「……はい」
必要な時は頼る。言ったものね。
夕方近くなり、巡査が戻ってきた。飯綱さまに言われた通り、どうやら専門の方をお連れになったようなのだけど……
「大変、申し訳、ございませんでした……!」
今日の昼間には、こちらの話を全く聞き入れず、はなから空き巣は私が仕組んだ狂言だろうと決めつけていた巡査が、私の顔を見るなり直角に頭を下げた。
「いやぁ〜本当に申し訳ない。被害者の登路さんにひどい濡れ衣を着せたのだとか」
起きようとした巡査を手で押し戻しながら自分も頭を下げるのは、齢四十すぎくらいに見える男性だ。
「……なにか妙なものを付けられていましたか?」
飯綱さまが低く尋ねる。
「オット、お気付きでしたか……ここじゃあ何なんで、入らせていただいても?」
「あらためて……東京警視庁刑事部の鶫野といいます。こいつは川岸巡査、どうもここへ伺う前に、何か術をかけられていたようでして」
土間にお通しすると、警察手帳を見せて下さった。警部さんでいらっしゃるのね。
「どうぞ、お掛けに……アッ、さっき伝太さんもそう言ってましたね?」
警察のお二人に椅子を勧めたので、私と飯綱さまは土間の上がり框に腰掛ける。
「今はなんにも見えませんね。勝手に散逸するくらいの術だったのかなぁ」
土間の箪笥にもたれていた伝太さんは、椅子を断り直立不動の川岸巡査に寄ってきて目を眇める。
「それとも……」
ちらりと私の方へ意味ありげな視線を向けた。成程、守り袋の効果の可能性もあると。
「俺のところへ来た時には、まだちと匂いましてね。しかし詳しく調べようとしたらすっかり散ってしまった。で正気に戻ったというわけで」
「面目ない……」
川岸巡査がまた直角に頭を下げる。
「わかってくださったなら、もう良いのです。しかし誰が、何のために?」
「当然、こちらに入った空き巣と関係しているんでしょうが……つまり単なる物盗りではなく、登路さんが目的というのもあり得ますな」
無精髭のある顎を掻きながら鶫野警部が首を捻る。
「私を捕縛させるつもりだったのでしょうか?」
じっさい、飯綱さまが駆けつけてくださらなければ、連行されていたかも知れないのかしら。
「そのために侵入したてぇのは、少々回りくどいが……」
警部は大きく分けて二つの可能性を語った。
曰く。
一つ目。
登路顕ヲに危害を加えるのが侵入の目的だったが、昨夜偶然留守だったため、次の策として、冤罪で逮捕させようと巡査に術をかけた。
二つ目。
この店、あるいは家の家財を盗むつもりだった(が、目的のものを発見できなかった、あるいは金目のものはなく何も盗らなかった)。犯行を登路顕ヲの仕業に見せかけるため、巡査に術をかけた。
「エエト……昨夜が普段と違った点についてですが、私の不在に伴い術の守りもなかったのです」
それが父の遺した守り袋を持ち出したせいであることくらいは話しても良かろう。要に妖が使われているとか、そもそもそれを隠すための術の守りではないか、などは、まだ確証がないのだ。
「成程ねぇ。そのお話も心得ておきましょう。明日、人手を寄越します。今日のところは魔術的な捜査だけさせていただいて……」
鶫野警部の捜査は、ちょっと独特に見えた。彼は術や妖を嗅ぐのだという。ひとしきり、あちらこちらで鼻を動かして歩いて回り、土間へ戻ってきた。
「ふーむ、少なくとも昨夜ここで術が使われた匂いはしませんな。術遣いかはわかりませんが、尋常の手段で錠前を壊し、堂々と侵入して、引出しだの長櫃だのあけてまわった」
店や家は、まさにそういった印象だ。何か求めるものがはっきりしていて、効率よく探し回った結果、必要以上に荒らされていない……といった。
「つまり術が使われたのは今日の川岸巡査の件だけでしょうか?」
「おそらく。あとは嗅いでみてやっとわかりましたが……さっきの守り袋からうっすら妖の匂いがしますね。そいつはお気付きで?」
おっと、さすがに話さねばならないか。
「エエト……どうやら術の要として妖が使われているようだと、割と最近わかりまして。詳しく調べる話をしていたのです」
本当は守り袋の不審な点について伝太さんが術で視てくださる予定だったのだけれど。
「侵入した者の目的がそれである、てこともあり得るか? しかし昨夜はここになかったわけで……」
考え込む様子で手帳にガリガリと書き込む。
「登路さん、今晩は別の場所に泊まるのがいいと思いますが、行く当てはありますかね」
一応お隣も借りているからそちらにも行けるけれど……
「勿論、今夜も我が家にお招き致します」
飯綱さまが私の横へ立った。
「どちらにおいでか、住所を教えてください。もしや電話もある? そいつは結構」
飯綱さまが答えた内容も手帳に書き留めてから、警部は明日の流れを早口に説明した。
「わ、わかりました。警察の方がお越しになる少し前に着くようにいたします」
「今日はこの後、術の守りを仕掛けていっても?」
飯綱さまが尋ねる。
「構いませんよ。もしや隣に仕掛けてあるどえらい術も飯綱さんの?」
「どえらいかは兎も角、私です」
「ハハァ、さすがは魔術省のお役人さまだ。なら登路さんの身の安全は大丈夫そうですな。じゃそれはお任せするとして、今日はこれで」
日が傾き始めた通りを、警部と巡査は帰って行った。
「なんとかなって良かったですね顕ヲさま。案外とちゃんとしてますねぇ警察ってのは」
「お二人のおかげです。一人だったら一体どうなっていたか」
飯綱さまがいなければ警部さんは来てくださらなかったかもしれないし、その飯綱さまを呼んでくださったのは伝太さんだものね。
「顕ヲさんもお疲れでしょう。帰りましょう、我が家へ」
「……はい」