第13話
はっきりとした形を持たずゆらめいていたそいつは、みるみるしっかりとした質感の、しかし尋常の生き物とはかけ離れた悍ましい形状に固まりつつあった。
背丈をはるかに超える大きさ、頭部は判然とせず複数の枝か触手のようなものがうごめいている。まだ形成の途中であるのか、足元も小さな突起が生えてはより太いものに合流するのを繰り返す。
聞いていたのと反応が違う……
ここはまだ一階、それどころか入ってすぐのホールだ。さほど大きな建物ではないから、私の歩幅でも妖まで十歩もない。
落ち着け、まずは撤退が可能かどうか。
背後の扉は閉めたが鍵は開いている。出ることは可能だろう。
だがこいつが追ってこないと言い切れるか?
否だ、まったく予想がつかない。通りまで追ってこられては、道行く人々に危害が及ぶかも知れない。
やるしかない。
巧遅拙速、決めたが早いか一足で接近する。
相手が動けるようになるのを待つ道理はない。鉄身の術で既に全身は強化されている、さらに一つ、脇を締め腕を引く動作と同時に術を描けば、掌が術力の集中で焼けるように熱くなる。
金剛手。
私の背丈では頭部には到底届かない。妖の胴体部分の中心に掌底を打ち込む。
どぼ、と粘度の高い泥のような感触、一瞬ののち衝撃が妖の全体に波のように広がっていく。
ばしゃばしゃと後ろに体の一部を飛び散らせ、ぐらりとよろめいた。そこへ人形をぐいと押し付ける。
「入れ!」
魔術の本質的には、発する言葉、命令に用いる言語はなんだって良い。口に出す必要すら本来はない。普段指先で術の道を描くのも、単にそれが効率の良い方法であるからだ。
この場合においては、こちらの意思を顕示すればそれが叶う。
実体となっていた部分が人形を押し付けたところからまた黒いもやに戻り、人形が重量を増していく。
びくびくと痙攣のような動きをする頭部と脚部らしき部分もじわじわと萎んできた。
いける……か……?
息を詰め、人形を支える左手を注視していたところ。
ど、と腹に強い衝撃、さらに視界がぐるりと回転する。
「っ……?!」
何が起きたか、すぐには判断できない。
遅れて痛みがやってくるが、動けぬほどではない。まだ鉄身の術が生きているためだろう、なんとかすぐに身を起こす。
ようやくわかった、後方に弾き飛ばされ、床に転がったのだ。
「くっ……」
息つく間もなく前方から飛んできた何かを、金剛手の輝きと熱をまだ纏っている右手で受け止める。
触手……?!
見れば妖は既に再び寄り集まり、実体になるのを再開している。頭部から伸びている触手によって攻撃されたのだ。
まずい、人形は?
見回すと、相手の背後にくたりと落ちているのが見えた。とても拾いにはいけない。
そうだ予備を……
右手はまだ敵の触手を掴んでいる。離せば再度攻撃を仕掛けてくるのは明らかだ。左手だけで風呂敷の結び目を解く。
「痛っ……」
転がり出た予備人形に伸ばそうとした左手が弾かれた。触手がもう一本……!
先端の尖ったそれが、くるりと空中で弧を描き、再度こちらへ向かってくる!
「入れェ!」
傍らで誰かが予備の人形を掲げ、私の頭を狙っていた触手を受け止めた。
「あっぶねぇーッ! 大丈夫ですか、お姉さん?!」
「エッ、あなた……」
そこにいたのは、天眼堂で客を捌いていた少年だった。
「いいから、早くこいつをどうにか……!」
人形には触手が突き刺さっている。かろうじて受け止めてはいるが、妖自体を人形に取り込むまではできていないのだ。
だがどうする?
妖の後ろに飛ばされた方を拾えるか、あるいは?
その思考の一瞬の間に、さらにもう一本、二本……
数えるのも間に合わぬ数の触手が妖の背のあたりから次々と生えるのが見えた。
もう取れる手立てが思い浮かばない。少年を背に庇い、膝で前に進み出る。
なんとかこの子だけは!
カン!
鋭く手を打つ音が響いた。
瞬きほどの時をおいて、無数の鱗が噴き出すように妖の全体がささくれだち、内側からもろもろと崩れ始める。
あっという間に形を失ってしまった。ホールを覆っていた悪臭や薄暗さも消え、今や清浄にすら感じる。
「顕ヲさん、怪我は?」
背後からすっかり聞き慣れた声が響き、倒れそうになる背を誰かの手で支えられる。
「遅いですよォ、旦那さま!」
少年が甲高い声で苦情を申し立てた。
安堵なのか疲労なのか、意識が遠のいてゆく……
「顕ヲさん!」
ああ、飯綱さまだわ……
◇◇◇
目が覚めると、見知らぬ場所にいた。
窓からは赤い夕陽が射している。
寝かされていたのは天蓋付きの豪華なベッドで、体を起こして周囲を見ると、贅を尽くした素晴らしい内装の洋室である。
……ここがどこなのか、大体わかったわ。
「オット、目が覚めましたね。顕ヲさま」
元から開いていたらしい扉の向こうからひょっこりと頭をのぞかせたのは天眼堂の従業員の、そして妖にやられかけた時に助太刀に現れた少年だ。
部屋に入ってくる様子を見るに、怪我などはなさそうね。良かった……
「今、旦那さまも来られますんで……お加減どうですか? 一応、お休みの間に医者には診てもらったンですけど」
「大丈夫です。エエト……助けてくださってありがとうございます。天眼堂にいらした方ですね?」
「はい。アッでも、妖はオレはたいした助けにはなってなかったから」
「とんでもない。あそこで来てくださらなければ、もちませんでしたよ」
そう、彼の稼いだ時間がなければ、今頃こうして無事ではいられなかっただろう。
「そうでございましょう? 飯綱さま」
呼びかけると、さっきの少年と似たような仕草で、飯綱さまが廊下から顔を出した。
「旦那さま、なんだってそんなとこにいるんです?」
「……脅かしては体に障るかと」
「驚きませんよ。どうぞこちらにお越しになって」
ここはおそらくご自宅であるはずなのに、飯綱さまは失礼します、と断ってベッドの横まで来た。壁際にあった椅子を少年が持ってきたのに小さく礼を言って腰掛ける。
「具合はどうです、医者は疲労と術の負担だろうと言っていましたが」
「今はどこも痛くも辛くもありません。飯綱さまも、命をお救いくださってありがとうございます」
「いえ……」
そう低く言ったきり、顔を手で覆い、がっくりと肩を落とされた。
「飯綱さま?」
「本当に……本当に寿命が縮む思いでしたよ……顕ヲさん貴女、何故一人で妖退治に行こうだなんて考えたのですか」
叱られるのは覚悟していた。けれどここまでご心痛を与えてしまうなんて……
「昨日まさかと思ってはいました。しかし、そう無茶はしないだろうと……だって貴女は一人で妖退治を行うことの危険は、誰よりも承知だろうからと」
飯綱さまの仰ることに、心当たりは十分にあった。
「そうでしょう? お父上……幸助くんは一人で退治の仕事に向かわれた結果、死去なさったのではないですか」
「……飯綱さまも、ご存じだったのですね」
二十年前。
父は依頼の仕事に行くと母に伝えて出かけ、その二日後に、東京駅の改札を出たところで倒れたのを保護された。
ひどい傷を負っていて、病院に運ばれて治療を受けたが、翌朝息を引き取った。私はその頃京都におり、別れを言うことは叶わなかった。
傷には妖の痕跡があったから、何か強大な存在と戦い、敗れたか相討ちとなったのだと推測された。しかし実際どこで何があったのか、今でも何もわからないままだ。
「父は、私が物心ついた頃には、助手もなく一人で退治の仕事をしていました。それがあまり推奨されるやり方ではないのも、話してくれたことがあります」
「だったらどうして」
「旦那さまのためです!」
ベッドの横でこれまで無言でいた少年が飯綱さまに向かって言った。
「今日顕ヲさまが天眼堂に来られたのは、魅了の術を解く手がかりを求めてのことです」
ああ、言ってしまった。
「それで……」
飯綱さまの頭がますます深く沈んでしまう。
「手立てを考えている、と申し上げたのはこのことでございました。今日は下見のつもりでしたが、聞いていた話と違い、思いがけなく襲い掛かられた……しかし油断があった、我が身の未熟が引き起こした事態なのは間違いありません。貴方さまが落ち込まれる必要は」
「心配くらいいたしますよ!」
初めて聞くような強さで声を荒げた飯綱さまは拳でベッドを打った。衝撃は柔らかなお布団に吸収されてしまったけれど。
「天眼堂の見料を用立てるためなら尚更、私に言ってくだされば良かった。直接お手伝いさせてはくれないとしても、助手をつけるなり、妖退治に伴う危険を少しでも減じる方法をお教えするなりできたのですよ」
それは、考えてもみなかった。
「……また、考えてもみなかったという顔をなさってる」
いつの間にかこちらを見ていた飯綱さまは、ゆるゆるとため息をついて、諦めたような微笑みを浮かべた。
「貴女が自分の力で立っていたいという気持ちと、私の貴女を辛い目に遭わせたくないという気持ち、一体どうすれば、折り合いをつけられるのか……」
飯綱さまが私の魅了の術に囚われている以上、後者は一時の幻のようなものではないと、どうして言い切れよう。しかしそうと伝えるのは、あまりに薄情に思えた。
「顕ヲさん、昨夜、お店の帳簿を拝見いたしました。色々と改善できる点は見つけましたが、それを実行したとしても、借財の早期の返済にはまだ足りぬ。残念ながらこれは確かです」
予想の範疇ではあった。
「もし収入の糧の一つとして妖退治を加えるのだとしたら、せめて助手をつけてください。そして次の依頼があった時には、私を同行させてください。手法を伝授いたします」
反射的に、そんなことは頼めない、と言おうとしたが、飯綱さまの大きなお手が、私の口元を覆うように添えられた。
「いけません。今度ばかりは従っていただきます。今回の妖、結局調伏したのは私です。つまり貴女に代わって依頼を果たしたのだ。少なくともその借りはあるのですよ」
「もう、星四郎ちゃんッたら、そんな言い方しなくても良いでしょうに」
扉のところに、背の高い、美しい女性が立っていた。