第10話
「なんです、それは」
飯綱さまの顔色が変わった。
「アッ、全くの事実無根でございますよ。いったいどこから出てきた話なのか……」
「大丈夫だったのですか?」
問題ないとだけ伝えても良かったが、気遣わしげに問われるので、何か言わねばという気になってしまう。
「そういう話を持ちかけられたことは……母が叔父から、それとなく促された形跡はあるのです。勿論はっきり断ってくれたようですが」
とはいえ、そうした手段よりも術を売る方が早く返済できるという見込みありきの話だったようだ。
「しかし収入源を一つ断たれては、お困りになったでしょう」
「そうですね……他の魔術道具屋も出入り禁止になりましたし、何より毎月の返済額を減らすわけにはいきませんから、食費を切り詰めたりして」
「食費を?」
あ、これも言ってはまずかったやも。
「何故黙っていたのですか。言ってくだされば、片付けなどより先に」
「エエト、あの、今は大丈夫ですよ! この間の妖退治で一息つけるくらいの報酬がありましたから」
実際、あれはとても助かった。
「ほんの数日前のことでしょう、つまり貴女はここ数年ずっと困窮しておられたのだ」
……否定はできない。
「妖退治は、看板を見る限り普段は請け負っていないのでは? おそらくご近所から頼まれて断りきれず、といったところではないですか」
「……仰る通りでございます」
「それにあれは小物だったから良かったものの、一人で行くのは手練れでも推奨はいたしませんよ」
その点もわかってはいた。実のところ、余人よりもよく知ってすらいる……
「はあ……本当にどうしたものか」
飯綱さまは両手で顔を覆ってがっくりと肩を落とされた。
「何故、貴方さまがそのように落ち込まれるのでしょう」
「何故って」
今度は勢いよくこちらを振り向いたが、すぐに言葉を続けず、しばし額に皺を寄せて私をじっとご覧になる。
「……顕ヲさん、私が今の窮乏を金銭で直接お助けすることは非常に容易い。しかし、貴女はそうして欲しくないのですよね」
「そうですね。理由がございませんもの」
あまりにも自明のことだ。
「理由はありますよ」
「魅了の術に囚われているためでございましょう、そのお考えは」
飯綱さまには、ご自身が術にかかっている自覚がおありだったはずだ。
「そのはず、ではあるのですが……いや、顕ヲさん、そもそも私は本当に術にかかっているのでしょうか? 貴女が術遣いとして優れているのは、先日査察で実演していただいたからわかっています。なのにご自身で解くことができないなんてことが、果たしてあるでしょうか」
確かに一般に、自分の術を解くというのは、術遣いとしての修行や学習で最も初期に習得するものだ。つまり、本来難度の高い話ではない。
しかしこれが他人の術となると遥かに困難になる。ゆえに術解きを得意とし依頼を受けられるほどの者は少なく、報酬も高額になるのだろう。
「それを確かめる術は、今の私にはありません。だからといって解くのを諦めるわけにはゆかないでしょう。算段をしておりますから、その時が来たらどうか御協力ください」
飯綱さまはまったく気の進まない様子ではあったが、ひとまず頷いてはくださったのだった。
日がすっかり落ちる頃、座敷の片付けはおおむね完了した。
夕飯こそは当初の予定通りに用意しようと思ったら、なんと既に飯綱さまが、戸川夫妻を近所にお使いに送り出したのだという。朝に私が炊いてあったご飯をお茶漬けにし、汁物やおかずを泰子さんが作ってくれるようだ。何から何まで至れり尽くせり……
「あとは、ちょっとした仕上げが必要でしょう」
借り上げた隣の座敷の真ん中に立ち、飯綱さまがおっしゃった。
「仕上げでございますか?」
「この家にも、術の守りを用意せねば」
建物に術の守りを施すこと自体は、強度は様々なれど一般的に行われてはいる。しかしそれは資産家や高貴な人々の屋敷、銀行だの高価な品を扱う大商店だの、あるいは自社仏閣などに限られる。
対してここは下町の長屋造りの貸家で、置いてあるものといえば、実家の処分の際にお金にならないと判断されたものばかり。
「エエト……そこまで必要でございましょうか? 自分の店にも施しておりませんのに」
「店にはそうでしょうが、お家の方は守りが効いているでしょう」
「……エッ?」
「もしや、お気づきでない?」
兎に角まず術はかけてしまいますよ、と断言し、飯綱さまは懐から見覚えのある木綿の布の人形を取り出した。
「それ、先日の」
「顕ヲさんがご近所の妖を封じた人形ですね」
そういえば、あの後座敷の荒廃ぶりがバレたりしたのもあって、全く忘れていた。飯綱さまが持っていたのね。
「これだけでもそこそこの式人形として使えそうですから、少々手を加えて、術の守りの要とします」
迷いのない鮮やかな手つきで術を描き、三体の人形にス、と押し付けた。彼の立つ座敷の中心から放射状に、強い風が吹き抜けるかのように術力が広がるのを感じる。
まあ、なんて洗練された技だろう。
飯綱さまが術をお使いになるのを初めて見たけれど、流石だわ……
「これを、この家の開口部付近に置くとしましょう。表の土間と、裏の勝手口、それと二階の窓で全てでしたね?」
「ハイ、うちと同じでございます」
成程、数も合う。
設置は狭い家のこと、すぐ終わった。とはいえ木綿袋の人形がただくったりと土間に寝かされているのはどうにも見栄えが良くない。あとで紐でもつけて柱にぶら下げようかしら。
術の守りを仕掛け終えて家に戻ると、戸川夫妻はまだ帰っていなかった。
「ここに施されている術の守りは貴女の手になるものではなかったのですね」
「ええ……というか全く覚えがないのですけれど、本当に?」
「考えられる状況としては、家屋ではなくお父上の遺されたものに術が仕掛けられている……座敷にあったものをほとんど隣に移しても変化がありませんから、まだここに残っている中にあるはずです」
父の遺品で、今も家にある、といえば。
「あ……」
すぐに思い当たり、私が寝起きしている二階の四畳半へ上がった。そこは元から布団と少々の身の回り品しか置いていないので、今日の片付けでは手をつけなかった。
急勾配の階段を上がって正面が窓になっていて、その下に小さな文机がある。
「お父さま、これに何かを仕掛けていたのですか?」
机に父と母の位牌が並べてある、その手前に古びた守り袋があった。
「おそらくこれでございますね」
守り袋を手にして階下に降りると、丁度戸川夫妻が戻ったところだった。
「ワッ……顕ヲさま、術の守りを掛け直しなさいました?」
泰子さんが怯んだように座敷の上がり框で立ち止まった。
「え、いいえ……」
「まさしく術の要ですね、顕ヲさんに近付くものを検見しているのか……?」
飯綱さまも顔を寄せて見はするが、手を触れようとはしない。
「ずっと上のお部屋にありましたよね? 顕ヲさまは術の守りにお気付きでなかったのですか」
眩しそうに目を細め、泰子さんが言う。
「俺は何も感じねぇが……」
「あんたは特別にぶいもの。ごめんなさいねえ顕ヲさま、あたしはこの人と反対で、ちっとばかり術に当てられやすくて」
後ずさった泰子さんは妻の様子を窺う泰春さんの脇腹を肘で突いた。
「これは、父が死の間際に私に持たせるようにと、母に託したものと聞いています」
外側の袋は、何かの端切れの青い正絹で、おそらく母が手ずから縫ったものだ。
開けたことはないので中に何が入っているのかはわからないが、触った感触では筒のようなものではないかと思う。大きさは私の手のひらを縦にしたより少々短いくらいの長さ、径は握りしめるとちょうど良いくらいとでも言おうか。そして石か金属かという程度にずっしりと持ち重りする。
私自身は受け取って以来、このお守りに術の存在を感じたことはなかったのだが……
「以前は身につけていたのですが、袋が擦り切れてきたので、ここしばらくは両親の位牌と一緒に置いてあったのです」
お守りとしては結構大きいものなので、ずっと帯に挟んでいた。そのせいか、擦り切れた袋から中身が出てしまいそうだと思ったのだ。
「……袋を縫い直して持ち歩かれた方が良いかもしれませんね」
普段の生活でそうそう危険はない気がするけれど、飯綱さまの仰りようは強く心に残ったのだった。
「……これはもっと早く自分で片付けるべきだったわね」
翌日。
私はすっきり片付いた座敷で過ごし、ここ十年以上忘れていた快適さを思い出していた。
確かにここへ越してきたからは、気持ちにもお金にも余裕のない日々だった。しかし時間はそれなりにあったはずなのだ。一人でもこつこつやれば、もっと早くどうにかできていたかもしれない……
「ごめんくださいな」
店の方から声がした。田島の奥様だわ。
「おはようございます」
「おはよう……ねえ、昨日、うちとこちらの間に誰か引っ越して来られた?」
土間に降りてみると、奥様がひどく困惑したお顔で入って来るところだった。
「アッ、エエト……隣はですねぇ……」
しまった、どういうふうにご近所に説明するのか全く考えていなかったわ。