第1話
まずい、魅了の術をぶちかましてしまった。
私の目の前で顔を覆い、うずくまる男性。ぱりっとした洋装に包まれた大きな背中がガタガタと震えている。
「は、早く……早くこれをなんとかしなさい……」
アッ、そうだ、術を解かなけりゃ!
「エエト、あれ……どうしたことか、この! えい! ……エッなんで……?」
いくら手をかざし、術の道を逆さになぞってもいっこうに手応えがない。こんなことがあるだろうか?
取り乱して何度も素早く手を振るのに、何も起こらない。
一体どうして?
「な、何をしているのですッ! 早くそれを、そいつ、その虫をどこかにやりなさいッ!!!」
ん?
男性の震える指の示す先を見れば。
巨大な黒光りする虫が一匹、脚をひくつかせてひっくり返っていた。
◇◇◇
章華三年、盛夏の頃。
ことの起こりは小半刻ばかり前だ。
私――登路 顕ヲの小さな術商いの店を、一人の殿方が訪ねてきた。
「御免ください」
その人は仕立ての上等な麻の三揃いに、固く緻密に編まれたカンカン帽を合わせた瀟洒な装いで、ギラギラした夏の日差しの下でも涼しげな顔をして真っ直ぐ立っていた。
毎年この季節は、店を開けている間じゅう、入り口の引き戸を開け放しておくのが習慣だ。常連なら挨拶もそこそこに入ってくるのが常だから、現れたのは初めての客だろうと見積もって、私も立ち上がる。
「いらっしゃいまし。魔術をお求めでございますか」
表には質素な手書きで、看板のつもりの木札が下げてある。
術商い、失せ物探し、承り〼。
市井の人びとにもわかりやすくこう記してあるけれど、私は一応、政府の免状を受けた魔術遣いだ。地方で商われるもぐりの卜占、怪しい呪いやらとは一線を画すものであるという意味を込めて「魔術を求めるか」と尋ねることにしている。
「魔術省から参りました。法務寮の飯綱 星四郎と申します。貴女が登路顕ヲ嬢かな?」
低く落ち着いた声で名乗ると、彼は一歩店に踏み込んだ。眼鏡の奥で目を細め、さっと室内を見回したようだ。
私の術商いは、主に便利な術を仕掛けた小さな道具類を売ることだ。他には看板にある通り失せ物探しや、求められる内容によっては人に直接術をかける場合もある。
通りに面した二間の間口の土間がこの店の全てで、古い箪笥を四つ陳列棚代わりに、細々した商品を並べている。
奥の座敷につながる上がり框の手前には、ほとんど骨董品といってよい古い机と、座布団を乗せた丸椅子を置いてあった。私は店にいる間はたいていそこに座って、小間物屋で仕入れた櫛だの鏡だのの道具に術を込める作業や、客との商談をしているという具合。
「私が店主の登路でございます。政府のお役人様が、なにか……?」
魔術省といえば、我が国の魔術遣いを束ねる機関だ。それも法務寮とは。
「しばらく前、規制魔術の習得を届け出られましたね?」
「ああ! 魅了の術ですね。エエ、ちゃあんと所定の手続きを踏ませていただいておりますとも。そのあと、認可のお免状をお送りくだすって、間違いなく受け取っていますけれど……」
術の中には、悪用の容易なものや、人心を惑わす類のものもあり、それらは規制の対象となっている。習得した場合、どのように使用するつもりであるかなどを届け出て、認可を受けなければならない。
「届け出には予定する用途として、人形に術を込め愛玩用として販売する、とありますね。あまり聞かない使い方です。これが言葉通りに機能するものか、あるいは不必要に効果の強すぎるものでないか、査察に参りました」
「成程そういうことでしたか。アッ、立たせたままでとんだ失礼を……どうぞこちらにお掛けになって」
机の下から客用の丸椅子を引っ張り出して招くと、飯綱さまは帽子を取り奥へと入ってきた。
あらあら近くで見ると、背のお高いこと。
それとも私が近頃の若い人に比べればだいぶん小さい方だから、余計にそう感じるのだろうか。
「狭苦しいところでごめんなさい。今お茶をお入れしますね」
窮屈そうに腰を下ろす彼は、見た目では三十路をいくつか過ぎたくらいの歳の頃に見える。けれど、術遣いならば外見は生きた年月を判断する材料としてはまったく当てにならない。
……もちろん私自身にも言えることだけれど。
「さて……いかがいたします? こしらえるところをお見せしましょうか」
お茶を一口含み、飯綱さまの様子が落ち着いた頃合いをみて提案してみる。
「今は売り物の在庫はないのですか?」
「術を込めるための人形がまだ用意できていなくて。ありものでよろしければ、ひとつ試作をしてみせましょう」
机の下の道具箱をかき回し、初期の試作に使っていた人形を引っ張り出す。
「そ、それは……売り物も同じような人形を用いて作るのですか?」
「エッ」
手元に座らせたのは、木綿の余り布を細長い筒状の袋にして、糸で絞って頭と胴を作り、同じような部品をさらに四本縫い付けて手足にした人形だ。目鼻は顔部分に刺繍してある。
えも言われぬ愛嬌のある、愛くるしい一品である。私の手作りだ。
「愛玩用とありましたが、実は呪詛の道具として売るつもりでおられる?」
眉をひそめ、口元を押さえて尋ねる飯綱さま。
「まあ、ご冗談を。大事に身近に置いて可愛がることで、より役にたつ類のものとして考えております」
そう、小さな女の子の心の慰め、親しき友となるような人形だ。
「でも手製では数を作れませんから、人形はいずこかに注文する予定でおりますけれど……」
「ぜひともそうなさい。流行りの品を取り入れれば、その……売り上げにも良いでしょうから」
なんだか不自然な咳払いをして、飯綱さまは私に実演してみせるよう促した。
「ではまず……低級の無害な妖を捕らえて、式として人形に込めます」
吐息を吹きかけて指先を湿らせ、頭上で幾たびか振ると、ひんやりちりちりした気配がまとわりつく。
「いたいた……えい」
気配をまとわせたまま指を人形の頭に押し付けて、素早く術の道をなぞる。
「そこまでなら、よくある簡易型の式人形ですね」
「はい。術遣いでなければまともに扱えないものでございますね。ですので、この状態で魅了の術をかけるのです」
「ああ成程……あるじに対して愛着を抱かせる?」
さすが魔術省のお役人さま。もうこれがどういう商品になるかわかったようだ。
「エエ、持ち主が心を砕いてこの人形を大切に扱えばそれだけ、人形もあるじに尽くすようになるというしかけ。ま、もとは低級の妖ですから、そう大それたことはできませんけれど」
懐けばあるじに寄り添ったり、凍えた手を温めたり。せいぜいその程度のものになるよう加減する予定でいる。
「ふうむ、おもしろい。魅了の対象を購入者にするにはどのような方法を?」
興味をひかれたのか身を乗り出す飯綱さまに、しばし予定している仕様を説明した。
「といったところですかしら。じゃあ実際に魅了の術を込めますね」
魔術遣い同士の有意義な技術的交流を経てすっかり打ち解けたところで、いよいよ実演の運びとなった。
呼吸を整え、集中を高めていく。
魅了の術はかなり高等な部類に入り、また習得からさほど経っておらず使い慣れていない。
飯綱さまの見守る前で両手でゆっくりと術の道を描いてゆく……のだが、彼の視線が私の背後に逸れた。
目がカッ、と見開かれ、肩が硬直した。あら一体どうし……
「ギ、ギィヤァアアアアア!!!」
目の前の紳士の口から身の毛のよだつような大音声の悲鳴が放たれ、私の集中は木っ端微塵に吹き飛び、術の道は指が滑ってとんでもない軌道を描く。
アッ、いけない。
薄暗い土間に、鮮やかな紅色の光が炸裂した。
……かくして話は冒頭に戻るのである。