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客間の入り口に、にゅうと現れた担任の男性教師の顔は、眉間に一本、不自然なほど深いしわを刻んでいて、昨日見た姉の白い顔よりも白い顔をしていた。


 客間の入り口に、にゅうと現れた担任の男性教師の顔は、眉間に一本、不自然なほど深いしわを刻んでいて、昨日見た姉の白い顔よりも白い顔をしていた。

 そして、背広を堅く着込んだ体をできるだけちぢこませて客間の入り口に立ち、「お前たち、入って」と言って、促すように、客間の入り口に所在無さげに重なるように立っていた生徒たちは先生の横を順に中へ入っていった。

 一人ずつ、客間の片隅から正座をしていった。そして正座した途端、三人が三人とも顔を伏せる。二人は髪の毛が茶色く、一人は髪の毛が黒い。顔を伏せている分だけ、そのことが余計に強調されていた。三人が無言で座ると、一度頭を私たちに向かって下げてから担任も同じように無言で座る。最後に、玄関に出ていった母が静かに入ってきて、さっきまで座っていた、叔母の隣に座った。その間は、誰も一言もしゃべらなかった。何だか、始めから段取りが決めてあったかのように、その手際が良すぎる感じがした。

 その様子を私は、不思議な気分で、客間の片隅から眺めていた。

 その三人の生徒は皆、制服を着ている。午後二時ではまだ学校は終わっていないはずなので、その三人は途中で学校を抜け出してきたのかもしれない。この三人は自分から、ここにやって来たのだろうか。姉の死を、この三人は本当に悲しんでいるのだろうか。

 そこまで、平面の板の上を水が流れていくように私の頭は考えていた。平面だから、水の通り道を決めてやることはできない。そして、その流れは、自然と姉のところでせき止められて止まってしまった。

 姉が自殺した朝にも来ていた黒いセーラー服。

 私は、その制服のあまりの黒さに何となく目がひきつけられた。そして、この服、こんなに黒かったっけ、などと思ったりしていた。

 その時、私はあることに気付いた。

 自殺した姉は、セーラー服を着て首をつったのだ。発見したのが朝だったので、私は、その黒い服装に違和感を感じなかったけれど、姉が死んだのは、正確には夜中なのだ。夜中なのに、姉は自分の部屋の暗闇の中でパジャマから制服に着替えた。手が震えてリボンがうまく結べなかったかもしれない。手元が暗くて、制服を一度表裏逆に着てしまったかもしれない。それなのに、なぜ着替えたりしたのだろう。

 私の視線の向こう側で、その姉の光景が見えるような気がした。

「まず、お前たち、焼香して」

 私は、その低い男の声に、視線の向こう側からこちら側に引き戻された。

 担任が三人を促して、順番に焼香させる。まず、茶色のショートカットの子が恐る恐るという感じで、家族の間を歩いて来た。緊張していることが、痛いくらい分かった。

 私は、なれない手付きで灰を摘む生徒を見つめ続けた。姉の死は、この三人にどのような思いを発生させたのだろう、と思って、その三人の表情からそれを読み取ろうとした。だけど、その顔は緊張が蔽いかぶせてあり、その裏に張りついている心の表情までは見えなかった。

 四人が焼香し終えると、姉の遺体から一番遠く離れた客間の奥に、担任と生徒たちは全く同じように正座した。私から見て一番左に担任が座り、茶色、黒、茶色と並んでいる。自然と、私たち家族四人と、担任たち四人が向かい合う格好になった。

 「それじゃあ」担任が泣きそうな顔で、左を向いて生徒を促すように言う。

 私は、この人たちは一体何を始めるのだろう、と思った。

 その時突然、黒い髪がスカートのポケットから十センチ四方くらいの紙を取り出した。

「クラス代表として、私が挨拶させていただきます」かすれた小さな声で言った。ひどく平坦な棒読みだった。

「私は、明子ちゃんと同じクラスのクラスメートでした。そして、言いにくいことなのですが、実は私は、そのクラスでいじめられていたのです。そのいじめに毎晩泣いていました。それを、救ってくれたのが、明子ちゃんでした」

 私は、だらしなく口を開けて茫然とその黒い髪を見つめてしまった。突然聞いたこの黒い髪の告白にも似た言葉を、どのように受け止めればいいのか分からなかった。何だか、育て方も全く分からないのに、子犬を私の腕の中に放り込まれたような感じだった。ただし、真っ黒の子犬だったけど。

 そして目をこれまでかというくらい大きく見開いて、頭を垂れて紙を読んでいる黒い髪の顔を凝視する。気が弱そうだけど、その目には意地悪い狡猾な鈍い光があるような気がした。私は、この顔を今ここで目に焼き付けようと思った。私が姉の悲しみを忘れていきそうになった時、俯きながらぼそぼそと機械のような口をしながら『姉の死の悲しみ』を読んでいるこの顔を思い出すのだ。

 私の制服のスカートの中に入っている一枚の姉の遺書が、なんだかとても重く感じる。私の目の前に広がって、私の心を覆い包もうとしている。そして、その紙切れにこめられた姉の悲しみが、私の目を通って私の中に流れ込もうとしている。私の心がその重みに耐え切れずに、私の体の中から外に転がり出てしまいそうだった。何度呼吸しても息苦しさは止まなかった。

 黒い髪の声だけが、この客間の空間に溢れている。

「明子ちゃんは、私のよい相談相手でした。いろいろなことを私は相談しました。そしてその私の相談に、明子ちゃんはいつも真剣に私の身になって考えてくれました。それなのに……。私にも明子ちゃんの悩みを相談して欲しかった……。そうすればこういうことにはならなか……うっうっ……」黒い髪は、突然涙で声を詰まらせた。

 私は、小刻みに震えている黒い髪の頭をただ茫然と眺めるしかなかった。気を抜いてしまうと、黒い髪の前に歩み寄り、その細い方をがっしりとつかんで大きく揺さぶりながら、「なんで泣いているの? その涙はどこから流れてきたの!」と叫んでしまいそうだった。いや、いっそのこと本当に尋ねてみようかとも思った。だけど、私のいる姉の遺影の前と、黒い髪の座っている奥まではあまりに遠くて、私にはその長い道を歩いていく勇気はなかった。

 伝染病が感染していくように、黒い髪の涙は広がっていく。まず、黒い髪のすぐ隣に座っている担任が、右手で口を抑えながら嗚咽を始めた。次に、母が両手に握りしめた白いハンカチを目元に持っていくのが見えた。そして、黒い髪を挟み込むように座っている二人の茶髪が肩を小さく震わせだした。

 だけど、その二人は俯いていて目が茶髪に隠されていたので、その目に本当の涙が浮かんでいるのか分からなかった。私は、この二人は泣いているのではなくて笑いをこらえているから肩を震わせているのだと思った。

 結局、父も叔母も泣いた。私以外の全てが泣いていて、『笑って』いた。

 私は客間の片隅から、この異様な光景をテレビ画面の中を見るように見ながら、ただぼんやりと「狂っている」、とだけ思った。

「……明子ちゃん、なんで死んじゃったの? それが、とても残念でなりません……」

 黒い髪の言葉は、唐突に終わった。

 だけどその後、この部屋の空気があまりにも重くて口が開けなかったのだろうか、誰一人しゃべらない時間が続いた。この空気がうっとうしかったので、私が口を開こうかとも思ったけれど、このような『狂っている』部屋でどのような言葉を口にすればいいのか分からなかった。その途端、私の中に少しだけ入っていたなけなしの勇気は、プシューと部屋の中に霧散してしまった。


挿絵(By みてみん)


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