「……慶ちゃん! 慶ちゃん!」
「……慶ちゃん! 慶ちゃん!」
「え?」
私は、柱に背中をつけたまま、今の戸の方を振り返った。
「慶ちゃん、玄関の前にいるんでしょ」
居間の隣にある台所から、開いたままになっている居間の戸をくぐり抜けて母の少し苛立った声が聞こえてきた。母の顔はここからは見えない。
「え、う、うん」
私は、慌てて返事をする。
一瞬にして、一ヶ月前の雪の朝から、午前八時の玄関前の客間の冷たい入り口に引き戻された。
「今、チャイムが鳴ってでしょ。ちょっとお母さん手が離せないから、慶ちゃん出てくれる?」
「うん、分かった」
どうも、チャイムが聞こえないほど、私は記憶の中に沈みこんでいたようだ。私はそんなことを考えながら首を玄関へと反転させようとした。だけど、私の首はその途中で止まってしまった。
姉が、客間の一番奥から、柔らかい笑顔で私に微笑みかけてくれていた。目が細められているので瞳の中はよく見えない。その瞳に映された姉の心は、はたしてその表情と同じように笑っていたのだろうか。それとも……。
私の中で、母の怒鳴り声によってせき止められた思考の流れが再び流れ始めた。
一ヶ月前の私の部屋のドアの前で、姉はどんな思いをその顔に映し出しながら、私の尖った声を受け止めたのだろう。
私は、それをどうにかして知らなければならないと思った。だけど、どうやって知ればいいのか分からなかった。姉はもうどこにもいないのだ。
ピンポーン。
早く誰か出てきなさいよ、とチャイムがもう一回鳴った。
玄関を開けると、ポストとチャイムが付いているコンクリートの塀の影に、四十くらいの女性が立っていた。小柄な体を上から下まで真っ黒の洋服で包んでいる。思いつめた厳しさであるような、かわいそうにという哀れみであるような目を私に向けていた。そして、その黒の上を、薄暗い空の黒が二重に包んでいた。
母の妹にあたる人で、私には叔母にあたる人だった。
「慶ちゃん、大変だったねぇ」その目と全く同じ表情の声で、叔母は言った。
「いえ……。中へどうぞ」
叔母は葬式を手伝ってくれるために朝早く我が家を訪れたのだった。昨日の夜、母がそのような事を言っていたのを思い出した。
「お母さん! 叔母さん来たよ!」
私は家の中に叫んだ。そして玄関のドアを外のレンガの花壇に当たるまで押し開き、自分の体はドアにぺったりとくっ付けて叔母が通れる隙間をつくる。
叔母はゆっくりと、赤い自動車の横をすり抜けて近づいてくる。だけど、その、かわいそうにと訴えかけてくる表情は一ミリも崩さなかった。私は、そのような叔母の顔をまのあたりにして、私ってそんなにかわいそうなのかな、と思わずにはいられなかった。
叔母は、「ありがとう」と私の前で小さくお辞儀して、薄暗い家の中へと入っていった。
喪服のその黒さが、その目の哀れみを引き立たせているような気がした。いや、もしかしたらその人の本心を隠して、しかも表では厳粛な顔を作り出してくれる。だから葬式ではみな黒い服を着るのかもしれない。叔母の小さくて黒い背中を見ながらそう思った。
客間では、姉の笑顔を挟んで父と母が座り、私は父の隣に、叔母は母の隣に正座する。そして、その四人の間を通って近所の人たちや、姉のクラスメートの母親たちなどの弔問客が焼香していった。
私は、その人たちの強張った横顔をぼんやりと見ていた。そして、その人たちがこちらの方へ膝を向けて頭を軽く下げると私の家族も同じように下げるので、仕方ないから私も下げた。その後、我が家を訪れた人たちのいくらかは、私に、「がんばってね」などと訳の分からないことを言った。私は、この人が、私に何をがんばれと言っているのか全く分からなかったけど、もう一度軽く頭を下げた。だけど、弔問客の大部分の人たちは、焼香が終わると、これで義務が終わったとばかりに、急いで家から出て行ったのだった。
弔問客が途切れ始めた、午後二時くらいだったろうか、姉のクラスの三十くらいの若い担任が眉間に深いしわの入った青い顔をしながら、「クラスの代表です」と言って、三人の女子生徒を後ろに引き連れてやってきた。