姉の葬式は、父と母の希望で私の自宅で行われることになった。
姉の葬式は、父と母の希望で私の自宅で行われることになった。前日の夜、つまり姉が自殺した日の夜、父は、何となく沈黙して居間に集まっていた私と母にむかってこう言ったのだ。
「明子は、あんなにも我が家がすきだったのだから、ずっと我が家にいてもらおう」
父は、今朝から居間のテーブルに出したままになっている朝食の残りを見つめながら言った。氷水のようにもうすっかり冷たくなっているであろうお茶を右手に持つ。
私には、そのお茶が少し震えているように見えた。
父はそれを口に持ってきてすすろうとする。一口飲んだとき、顔を少ししかめた。
今ではそのテーブルを挟んで向かい合わせのソファに父と母が顔を伏せて座っている。私は、母の隣のソファの一番端に座っていた。まだ姉がいた頃からの私の指定席だった。
「それは、葬式を、自宅で行う、ということですか?」
母はおどおどした目で父の方を見やる。
「そうだ」
先ほどから降り出した雨は風も引き連れてきたらしく、窓ガラスをがたがたと揺する。そして時々、木の葉のざわざわという音もそれに混じった。私は、それが八重桜の葉の音に聞こえた。そして、姉が八重桜を通して私に何かを懸命に訴えかけようとしているに違いないと思った。
「お姉ちゃん、そんなに家のことが好きだったのかな?」
私はつぶやくように言った。
父と母は居間のはじっこにいる私を見る。その顔は、隠そうとしていても驚いていることが私にもありありと見えた。だけど、私の言葉の意味に驚いている訳ではない。むしろ父と母は、このような深刻な場面はいつも黙って自分の世界でやり過ごしていた臆病な私が言葉を口から出したという行為自体に驚いているのだ。私はそう思った。その二つの顔を目の当たりにして私は、自分が言った事をとても後悔した。だけど、一度口から吐き出した言葉をまた口の中に吸い込む術を私は知らなかった。
しかたなく私の言った言葉は、誰の中にもとりこまれることなく、しばらく居間の空中を魂のように漂っていた。
初めにその言葉の尻尾を掴んだのは父だった。
わざと音を立ててお茶が入ったコップをテーブルに置く。少しお茶がこぼれた。そして父は不愉快そうな抑えた口調で、「どういう意味だ?」と私の目を見て言った。
私も父のその睨むような目を正面から見返す。懸命だった。心は理由の分からない恐怖で、庭の八重桜と同じようにざわざわ震えている。それを父の目から隠すのに懸命だった。
私は、答える代わりに上着のポケットの中に右手を入れた。中に入っている紙切れに触れる。父と母にはまだ見せていない、『姉の遺書』だった。
「慶子も、姉が自殺したんで、色々と動揺しているんですよ」
母がとりなすように静かに言う。
母の言葉のあまりの静かさに言葉を無くしてしまったように、父は黙っていた。もちろん母も私も一言もしゃべらなかった。居間では、石油ストーブの上にのせられた赤いヤカンだけがジュジュと音を立てていた。