「私は、慶ちゃんの事がとても羨ましかった」
「私は、慶ちゃんの事がとても羨ましかった」
私は、汚い自分の机を見つめながら、ぽつんと言った。まるで姉が言っているような気で言ってみた。だけどどうしても、私は姉になることは出来なかった。どうしても、姉がどのような気持ちでそのような事を書いたのか分からなかった。
雨は小降りになってきたのか、窓を打つ音がぽつぽつと小さくなっている。
私は、寝返りを打って右を向いた。そして壁を見つめたのだけれど、やはりさっきの疑問の答えは壁には書かれていなかった。
姉は死んでしまったのに、私は今こうして生きている。
「人が死ぬということはどういう事なのだろう」
私は小さくて低い声に出して、自分自身に尋ねてみる。だけどやはりよく分からなかった。理性では姉の死は理解できるのだけれど、それが私の心まで届かなくて、私の心は黙っているというような感じだった。私の眼は、朝、姉が空中でぶら下がっているのを目の当たりにしてから今まで、一粒も涙を流していない。私は、姉が死んだのに涙一滴も姉のために流す事ができない。自分では自覚していなかっただけで、本当は冷血な人間なのだろうか。いっそ、泣くことができたなら楽になれるのかな。
私は、壁をじっと見つめながら、こう思わずにはいられなかった。
私は、とりとめもなく考える。
姉は、家族四人の夜の食卓で、いつも楽しそうに、学校の事を話していた。私は学校の事を話そうとは思わなかったし、実際、私になんか話す事は一つもなかった。だから、私以外の三人だけの世界がいつも出来上がった。学校での失敗談とか、先生の面白い話とかを栄養分にして、その世界はどんどんその壁を強固にしていった。私は、黙って外から見つめることしかできなかった。
当然、両親は、私なんかの何倍も、何十倍も姉の事を愛していた。両親はもちろんそのような事は一言も言わなかったけれど、私はいつだって、そのように思い込んでいた。
だけど、そんなとても明るく、居るだけで楽しくなりそうな姉を私は嫌ってはいなかった。逆に、尊敬すらしていた。だからこそ、それ以上に妬まずにはいられなかった。
姉と一緒にいると、「何で私だけ?」という暗い炎に体の内側がチリチリと焼かれている自分がいた。
そのような父と母と姉のいる居間に、私はどうしても居場所を見つけることができなかった。居間にいると、夕御飯を食べている間の短い時間でさえ息苦しかった。私に誰も話し掛けてくれないことが息苦しかったのではない。時々私の方に向けられる父や母の視線が、私の存在がまるで透明であるかのように私の後ろに消えていく。それがなによりも息苦しかった。
自分の存在が透明になってしまった理由が私自身にあるのか、それとも家族のせいだったのか、もう私には分からなかった。なにより、考えてしまうと私の嫌な部分ばかり見えてきそうで怖くて、なるべく考えないようにしていたのだ。
そして、すべてをいつの間にか家族のせいにしていた。そうするのが私にとって一番楽だったし、それ以上に、そうしていないと自分を保てなくなっていたのかも知れない。
私は、自分の部屋に閉じ籠もって、居間になるべく行かないようにした。時々私の部屋に飛び込んでくる、三人の王国になっていた居間からの笑い声が、ますます私の透明な存在をより透明にしていった。ますます私を居間から遠ざけていった。そして、ますます私は、私自身の生きる価値を見失っていった。
最近の私は、だんだん生と死の境界があいまいになってきているような気がしていた。もし誰かに、「そんなに生きるのが辛いなら死ねば」と言われたら、人間が呼吸をするくらい自然に「ホント、死のうかな」と言える気すらしていた。
だけど、そのような私の考えが、単なる甘い考えだったことに気付かされたのは確か、一週間前だろうか。
私は黙って、ソファの一番端に座りながら、居間でテレビを見ていた。この番組は、あるタレントが日記状の物語を書いて、素人から選んだ出演者に演じてもらい、最終的にその素人たちが結ばれるか、というコーナーがあった。私は、このコーナーが、なぜかとても好きで毎週見るようにしていた。
話し掛けられるのが嫌で、私はひたすら自分の存在を消しながら見ていた。だからなのか、父も母も私には話し掛けてくれない。時々姉だけが、「この番組、面白いよね」などと話し掛けてくる。私は一言も答えない。あまりに番組に夢中でそれに気付かない振りをし続けた。
自然と、父と母と姉の三人の笑いの輪が出来上がっていたのも当たり前だった。
九時四十分くらいになって、そのコーナーは終わった。私はなるべく居間の空気の流れを乱さないように、音を立てずにそっとソファから立った。この場を一秒でも早く立ち去りたかったので、風呂にでも入ろうと思った。
風呂の前にある洗面台で、シャカシャカ歯を磨く。
ワハハハハ
居間からの笑い声がドアを伝わって、洗面所に流れ込んでくる。なんだか、私が居間にいたとき以上に大きな笑い声のような気がした。
ガラガラ
風呂場に入る。風呂の蓋を持ち上げて横に立て掛け、右手を風呂の中に入れる。少しぬるい。だから焚く。熱くなるまで、もう私にはすることがなかった。
私は、ひざを胸に抱き締めて、掌は風呂の縁を握る。
「もう生きたくないよ……」
私の声が無意識に、ポツリとこぼれ出た。
私は、私の声があんまりに悲しく響いた事に驚いた。何だか、北極のど真ん中に一人ぽつんといるみたいに、とても寒かった。
「寒い、寒い、寒い……」
私は、金属製の風呂の縁にぼんやりと映る自分の顔をのぞき込む。初めて見る顔であるかのような、青白い見慣れない顔が浮かんでいた。それを見ていると、より悲しくなってしまった。
その時、私は、「しまった」と思った。このままでは、本当に死んでしまうのではないかと思った。そして、自分が死ぬという事は、気が狂いそうなくらい怖かったのだ。
私は、これ以上物思いに耽っていると、その思いに押しつぶされそうな気がした。だから、何も考えるな、と自分に言い聞かせて、黙って、暗い天井を見つめることにした。