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それから何分ぐらいがたったのだろうか。


 それから何分ぐらいがたったのだろうか。数時間にも感じられたし、数秒にも感じられるような不思議な時間が私の中で流れ去った時、父はやっと口を開いた。

「まさか、あれぐらいで自殺するなんて、思いもしなかった……」

 父は、下だけを見つめながら苦しそうな顔で言葉を続ける。私と母はその言葉を黙って聞き続けた。

「明子が自殺する前日の夜だった……」

「……」

「私は明子と二人しかいない居間でテレビを見ていた。母さんは風呂へ入っていて居なかったし、オマエはいつものように自分の部屋に閉じこもっていなかった。私はテレビでニュースを見ていた。明子はテレビを見ずに、本を読んでいるようだった」

「……」

「そんな時、明子が突然私に言ったんだ。『明日も学校へ行かなくちゃ駄目かな?』って」

「……」

「私はびっくりして明子の方を振り返った。明子は辛そうな悲しそうな顔をして私を見つめていた」

「……」

「あの頃は、お前が不登校になって肩身の狭い思いを色々としていた。だから私は明子に対してこう言ってしまったんだ」

 父は辛そうに顔をゆがめる。

「『お前まで慶子のようなことを言わないでくれ。今までお父さんやお母さんを苦しめるような事なんて一度も言わなかったじゃないか。頼むから、そんな事を言ってお父さんを苦しめないでくれ』って……」

「それで、お姉ちゃんは何て答えたの?」

「明子は叫ぶようにして、『どうして私の苦しみを分かってくれないの? 私はこんなにも苦しんでいるのに!』と言ったよ」

 私を包み込むこの居間の空間も、私の上を流れるこの居間の時間も、何だかやり切れなくなってしまった。私の目の前のソファには一人の男がうなだれるように座っている。その体は、とても小さくてちっぽけなものに見えた。

「私は、明子のその言葉がとてもわがままなものに聞こえて、カッと頭に血が上った。そして訳も分からずに、『そんな子は、うちの子じゃない!』って怒鳴ってしまっていたんだ」

 父は、『そんな子は、うちの子じゃない!』という台詞をこの場で繰り返した時、濁ったようなあの眼になった。いつも私に向けていたあの眼に。

 私は言葉が出なかった。父を責めようとも思わなかったし、父を責めても無意味なことに過ぎないのだと思った。なぜなら、私も姉のことを「あの眼」で見ていなかっただなんて、私は絶対に断言することなどできないのだから。

 父は力が抜けてしまったように、ポトリと遺書を茶色いカーペットの上に落とした。そして空いた両手を持ち上げて顔を蔽う。

「明子が私の前で涙をこぼしたのを、初めて見た……。でも……、死ぬぐらいだったら……、死ぬ気になれば何だって出来るのに」

「違うよ!」

 私は叫んでいた。

「死ぬ気になったら何だって出来るのだから死ななくても良かったのに、と言う人は何も分かっていないんだよ! それが出来るくらいなら絶対に死なない。自分が死ぬという事は考えるだけで体の震えが止まらなくなるくらい怖いし、誰だって本当は死にたくないんだよ。でも……、でも、それが出来ないから皆死ぬんだよ! お姉ちゃんは自分を殺すことでしか壊れていく自分を守れなかったんだよ!」

 私の目の前に座っている父は、白痴のように口をだらしなく開けて、私の顔をあっけに取られた目で見上げている。

 ますます私の頭の中は燃えるように熱かった。

「私たちは、もう二度とお姉ちゃんと話をすることは出来ないんだよ。……『生きていること』には、それ自体にかけがえのない意味があるんじゃないの? 違うの? それは私の単なる甘い考えなの?」

 私の悲痛な叫びは、もうほとんど泣きじゃくっているようになってしまった。だけど私は自分を冷静にさせようとは思わなかった。無我夢中だったと言えばそれまでなのだけど、心の奥には、今まで自分で掘ってきた「落とし穴」を何とかして這い上がりたい、「壁」を何とかして打ち破りたい、このまま腐っていくのは嫌だ、と叫んで必死にもがいている私がいたのかもしれない。

 私は涙でくしゃくしゃになった顔を一回右手でぬぐう。ヒックヒックというしゃっくりに似た嗚咽は止まらなかった。父は私の顔を茫然と見つめるだけで何も言わないし、私の後ろから母の声が聞こえてくることもなかった。私の震える小さな肩と小さな声が、この部屋のすべてだった。

「世間体なんて……どうだっていいじゃない。もしお姉ちゃんがそれで生き続けられたのなら……、私がそれで生き続けられるのなら……」

「……」

「ねぇ、お父さんは何で生きているの? お母さんは何で生きているの? ……ねぇ、生きていることって、本当にそれだけで価値のあることなの? 分からないよ……。お願いだから、誰か私に教えてよ!」

 父は苦しそうに眉間に深い皺を寄せ、うつむくだけで私の叫びには一言も答えてくれなかった。

 私は後ろを振り返る。

 困った顔をした母が、居間の出入り口に立っていた。



『私にはどこにも逃げ場がなかった。

私の中にすら逃げ出せなかった。だって、私の中にたくさんある私の中で、どれが本当に私なのか分からなくなっちゃったから。もう自分のことを好きになってあげることは出来なくなっちゃった。

気付けば、私は、完璧な孤独にがんじがらめになっていたんだよ。

これは私のわがままなのかもしれないけど、作り物の笑い声に満たされたこの家は、全然私のことを守ってくれなかったんだよ。


PS

お父さん、お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした。

弱い私で、ごめんなさい。


明子』


(了)


挿絵(By みてみん)


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