私は顔をベッドに強く押し付けながら、一ヶ月前に起こったその小さな事件を思い出していた。
私は顔をベッドに強く押し付けながら、一ヶ月前に起こったその小さな事件を思い出していた。
この事件は私に、自分は見捨てられているのだという思いを強固にさせて私の中に沈んでいった。だけど、姉にとっては、どのような意味を持った事件だったのだろうか。私は、そのことを一度も考えたことがなかった。考える余裕などあの時の私には無かったのだと思いたかった。
どこか近所から、雨戸を閉めているガラガラガラという音が聞こえてくる。私は恐る恐る顔を上げる。もうすっかり暗くなっていた。私は、また夜がやって来るのだと思った。あの日の夜と同じように、また夜の闇は私を包み込んで「深い落とし穴」の中の恐怖や絶望を音もなく運んでくる。私はその闇がとても嫌だった。その闇は私だけを包むのだと思ってきた。だけどあの夜の居間で、テレビから流れてくるアナウンサーの声と、母の無思慮な「あなたなら」という言葉は姉にとっての「深い落とし穴」だったのではないだろうか。
私は自分が靴をはいたまま部屋に座り込んでいることに気付いて、靴を脱いだ。靴を部屋の隅へと放り投げる。靴は暗闇の中に紛れてしまって見えなくなった。そして私は、スカートのポケットの中から右手で姉の遺書を取り出した。私の中には突然次のような思いが起こり始める。
「この遺書は、あの夜の姉の目と全く同じである、地獄の底から私を見上げている姉の今の目なのではないか」
すると私はいきなり、焦りにも似た不思議な感情にとらわれた。もう、居ても立ってもいられなかった。
私はその感情に身を委ねるように立ち上がって部屋を飛び出し階段を駆け下りる。右手にはしっかりと姉の遺書を握っていた。私はその勢いのまま居間の戸をガタンと力任せに開いた。
父はいつもの、居間の戸から一番離れたソファに腰掛けてテレビを見ていた。だけど今は、父の世界に対する私という突然の侵入者にギョロリとした驚きの目をしている。母の姿は見えなかった。
「どうした?」父のがさついた声。
私は父の声を無視して、大またで父の前に歩み寄った。一秒でも自分に対して猶予を与えてしまうと自分の部屋に逃げ帰ることになると思った。私は必死に自分を奮い立たせて、父の前に立ちふさがった。
「お姉ちゃんに何て言ったの?」
私の声は泣きじゃくった後の子供のように震えていた。だけど私はその震えを止めようとも思わなかった。
「え?」
「お父さん、お姉ちゃんに何て言ったの?」
「何てって……」
「お姉ちゃんの遺書に『お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした』って書いてあったんだよ!」
「お姉ちゃんの……遺書?」
父は怪訝そうに眉をひそめる。
私は右手を前に突き出した。父はその右手に一枚の紙が握られている事に気付いて、私の手からその紙を奪い取るようにして受け取る。父は何かに憑かれたように必死の形相で姉の遺書を読み出した。首が細かく動いている。私は、自分がこれを初めて読んだ時もこの父と同じような顔をしていたのだろうか、と思い生理的に嫌な気分がした。遺書を握っていた父の手がプルプル震え始めた。
「この遺書はどこにあった」
「お姉ちゃんの机の上」
「でも私たちが見た時には無かっ……、そうか、お前が取っていったから無かったのか」
父は遺書を持った手を少し下げて、私の顔を見た。顔はすでに平静を装っていたけど、遺書をつかんでいる手はまだ少し震えている。
その時、居間の外でペタペタと足音が聞こえて、その足音は居間に無言で入ってきた。私はビクッとしながら後ろの居間の出入り口を振り返る。青白い顔に疲労を色濃くにじませた、まとめている髪が少しほつれている母が、こちらの方を見つめながら立っていた。
「二人とも、どうしたの」
母は疲労を吐き出すように、静かな声で言った。
「明子の遺書があったんだよ」
「……本当?」
「本当だ。慶子が取って隠していたらしい」
「隠してなんかない!」
「隠していたろう……」父はなじるように言った。
母の疑わしそうな視線が私に注がれている。父の方振り向くと、全く同じ目がそこにあった。
「どうして私を責めるの? どうして私をそんな目で見るの?」
私は訴えかけるような口調で言った。
「どうしてって……」
「お姉ちゃんがこの家に生きていたのと同じように、私だって必死になってこの同じ家で生きていたんだよ」
私の体の中は燃えるように熱く、体の外はヒリヒリと痛かった。父と母は私の言葉に答える言葉が見つからないのか、目を丸くさせて黙っていた。その二人の様子を見て、私は少しだけ落ち着くことができた。私は、「そんなことは今は関係ない」と絞るような声で言った。
日中の暖かさがまだ残っているのか、部屋の中はストーブをつけていないのに寒くない。だけど、私の左にある大きなガラス戸を通って、夜の冷たさがこの部屋にどんどん忍び込んできている。
「お姉ちゃんは遺書で、『お父さんが私に言ったことは結局守れませんでした。ごめんなさい』って謝っているんだよ。お父さんは、お姉ちゃんになんて言ったの?」
「明子がそんなことを?」
まだ遺書を読んでいない母が、驚きの声を上げる。
父は口を開かなかった。指一本さえ動かすことが出来ないような重い沈黙が、突然私を襲う。母も私も今は口を開くべきではなかった。母はどう思っているのか分からなかったけど、私はそう思った。
ガガーとバイクの音を響かせながら、夕刊を配りに新聞配達人が私の家の前を通る。そして、徐々にその音を小さくさせてバイクが一軒ごとに私の家から遠ざかっていく。
それでも父は黙っていた。




