私はゆっくりと立ち上がった。
私はゆっくりと立ち上がった。
私は、宙に浮いている姉を見て、姉の部屋に駆け込んで、姉の遺書のこの部分を貪るように読んだ。そして「あんな姉が、そんなイジメを受けるわけがない」とだけ思ったのだ。その思いが、私の中でいつの間にか『事実』にすりかわってしまっていたのだ。もしかしたら、「よく笑う、優しい姉」とう偶像にすがって、私の存在の、ある部分は成立していたのかもしれない。
体を反転させて川の流れを見つめる。鴨志田川は相変わらず真っ黒だった。
「『“あんな姉”ってどんな姉なの?』と誰かに聞かれたら、私には絶対に答えられるはずなんてないのに……。自分からも逃げようとしていた私には……」
私は、川に向かって呟いた。
姉は自分が生きていることについて、自分の責任でもって真剣に考えていた。逃避ばかりしてきた私は、生きることはもちろん、死ぬことからすらも逃避するかもしれない。だけど、人に自分が生きていることの責任を押し付けた自分の人生って、本当に「自分の人生」だと断言することができるのだろうか。自分の人生の責任を家族に転嫁して一時的に心が楽になったとしても、その先にあるのは、それ以上の耐え切れないほどの孤独なのではないだろうか。
このような思いが、頭の奥から外に押し寄せてくる。
少し先にあるバス通りを通る車が、時々私の鼓膜を震わせた。生ぬるさの中に、研ぎ澄まされた冷たさを潜ませたような二月の不思議な風が、時々私の頬をなでる。
橋の下でいつまでも分からない黒い流れが、とても悲しかった。
「ただいま……」
小さな声でつぶやいて顔はうつむきながら、私は玄関のドアを開けた。
空はますますその黒さを増し、その黒さに熱を吸い取られていくのか、空気がひどく冷たいものに感じられる。まだ三時くらいのはずだけど、家を出た二時から急に三、四時間ワープしてきたような気がして不思議だった。
私は、外の空気から自分の体を切り離すように体をドアの中に押し入れる。
「慶子!」
「え?」私は、驚いて顔を持ち上げる。
帰ったら親に何かを言われるだろうとは予測していたけれど、ドアを開けたこんなにも直後に、ドアのこんなにも近くから言われるとは思っていなかった。
それよりも、居間の一番奥のソファーにどっしりと座った父が、私の顔を決して見ずに、あの私の心を大きく震わせる低い声で、「慶子、どうして、あんなことをやったんだ?」と、窓の外の庭木に言うように言う光景を心に浮かべていたのだ。
私の心は、予想外の父の出現に、いつものように「壁」の中に隠れて嵐を過ぎるのをひたすら待つということはできない。暴風雨にさらされて、その身を大きく震わせていた。
見上げた先に存在した父の顔は、目は大きく見開かれて、眉間はきつくしぼられていて、そして口は不機嫌さを象徴しているように「へ」の字に鋭い角度で曲がっている。
父のそのような顔が私に向けられたことは今まで一度も無かった。
「どうして先生にあんな恥ずかしい事を言ったんだ」
「……」一言も答えられない。ただ、心臓だけが今にも壊れそうなくらい速く脈を打っている。
「どうしてかと聞いているんだ!」
「あなた、近所にも聞こえますから、そんな大声で叫ばないで下さいよ」
私はその声で、母が父の真後ろに立っていることに初めて気付いた。父の体に物理的に隠れていたのか、それとも父の存在に精神的に隠れていたのか分からない。母は私のほうに泣き出しそうな、心配そうな顔を向けている。だけど私には、その目が心配しているのは私なんかではない、それ以外の何かを心配しているのだと思った。
「明子ももういないのだから、慶子ももっとしっかりしないと」母は、フッと視線を父に移しながら小さな声で言った。
私の心臓は、その光景を目の当たりにして突然落ち着き始める。頭の中へ過剰に流れ込んで、私の目の前を真っ赤にさせていた血もおさまり、薄膜に包まれたような父と母の姿が静かに明確に見えてきた。
「どうして、そんなことを言うの? お姉ちゃんはお姉ちゃん、私は私じゃないの……?」
父は私のこの言葉を聞いて、ハーとことさらに大きく溜め息を吐いて、首を小さく左右に振った。
「お前は明子と違って、本当、できの悪い子だよ」
私は、父のはいたこの言葉以上に、これを言った時の父の目が信じられなかった。情けなさそうな諦めのようであり、ゴミを見るような軽蔑を含んだ濁った目。
その時、父の目は道端の石ころを見ているようななんの感情も含まない無関心そのものの目になった。
私は今度は、信じられないというよりもむしろ、胸が痛くなるくらいの悲しみを感じた。その目は、今まで父が私に向けてきた目そのものだったのだ。
「どうして私をそんな目で見るの……」
「え? 言いたい事があるのならもっとはっきりと言え」
私の呟きがあまりの小さくて聞き取れなかったらしい。だけど、そういった父の口調はさきほどとは違って、無関心で面倒くさそうな響きをにじませていた。早めに私との会話を打ち切りたがっていた。
「お父さんは、お姉ちゃんじゃなくて私が自殺してくれたのならよかったのにって思っているんでしょ!」
私は訳も分からず、大声で叫んでいた。なんだか、私の中の別の私が叫んだような感覚だった。もしかしたらそれは、「壁」の外に突然放り出されて、雨に打たれながら途方に暮れている私の心の悲痛な叫びだったのかもしれない。
父は両手を握ってプルプルと震えている。そして裸足のまま右足を玄関の下に踏み出した。
「あ!」
気付いた時には、私の左頬はパチンと叩かれていた。とても痛かった。
私は泣き出しそうになるのを必死にこらえて、すぐ前にある父の顔を見上げる。今なら父の顔のどこかに私が必要とする何かが見つかるのではないかと思った。だけど父の赤い顔に埋め込まれた目には、私に対する憎しみしか無かったのだ。私に対する悲しみなんてこれっぽっちも無かったのだ。
「どうして……、どうして……」
「あ?」
「……どうして私には話しかけてくれないの? お姉ちゃんにはあんなにも話しかけていたのに!」
私は靴を脱がずに、父の横をくぐり抜けて家の中に駆け上がった。そしてその勢いのまま階段を駆けのぼる。裸足の時や靴下を履いている時とは違って、靴で蹴られている階段はダンダンダンと今まで聴いたことの無い音を立てた。
「慶子!」
後ろから、父と母の声が私の背中に追いすがる。だけど父や母自身が私の後を追う様子は全く無かった。
私は自分の部屋に飛び込んで、バタンとドアを思い切り閉め、思い切り顔をベッドに押し付けて、そして思い切り泣いた。




