プップー。
プップー。
「え?」
私は、目をぱちくりさせて周りを見回す。すると、地べたに座っている私の左側の驚くほど近くに白い車が鴨志田橋を通りたそうにしていたのだ。バス通りから曲がってやってきたらしい。
プップー、プップー。
私は、自分の足が邪魔になっていることに気付いて急いで足を曲げた。
車は、私を馬鹿にするようにことさらにエンジンをふかして私の前を通り過ぎていった。そして突き当りまで行くとウィンカーをパチパチと点灯させて、私がやって来た方向とは逆の右側へ曲がっていった。
私は、動くボールを追う猫のように、その車の動きを目で追う。右側へ消えていくと、私の視線は標的を失ってしばらく右の角に立っているねずみ色の電柱の当たりを、不安定そうに行ったり来たりした。
車の無愛想なクラクションの音は、記憶の中に潜水しようとしていた私を簡単に水面の上に弾き飛ばしてしまった。しかも、水面の上のさらに上の黒い空まで飛ばされてそこから落下していくかのような気分の悪い無重力感が私の胸の中に押し寄せる。
私はたまらず、両腕で、折り曲げたばかりの足を抱きしめた。手のひらが私の細いすねに触れる。足は地面に熱を奪われてしまったのかひやりと冷たかったけど、そこに私の足が存在することが分かって少しだけ安心した。なぜなら足があるということは、その下に地面があるということなのだから。
「生きることって、皆も私と同じくらい辛いのかな……」
私の小さな呟きは、地面にすぐに吸い込まれてしまう。そして地面をすり抜けて橋の下に落ち、黒く汚れたドブ川に流れに流されていく。
その時だった。
「ああ、カッタルイ!」
「ホント、カッタルイよネー」
「学校がサボれなかったら、誰があんなヤツの葬式なんかに行くかってカンジだよネー」
私の背後から、まだ幼さの残る舌足らずさと投げやりな響きを含ませた声が聞こえてきたのだ。その声から判断すると、まだ私とその声の主との間の距離はありそうだった。
私は顔を橋のへりの上に少しだけ出して、へりの向こう側を見る。私の家へやって来たあの三人の女子生徒だった。川に沿った舗装されていない細い砂利道を、茶髪の二人が前を歩き、その間の少し後ろ側を黒い髪がおもねるようについて歩いている。
私は急いで頭を引っ込めて、息をひそめた。自然と私は橋のへりの裏側に隠れるような格好になって、その三人は私に気付かないのか、自分以外のすべてを馬鹿にするような声が次第に大きくなる。
「でも、オマエにはホント、ビックリさせられたヨ」
「ホント、ホント、なんでオマエあそこで泣けるんだよ」
「私も私自身にオドロキってカンジだよ。なんか、あの葬式の雰囲気が私のおじいちゃんの葬式を思い出させたっていうのかナー。なんか、その時のことを思い出したら、いつの間にか涙がポロリってカンジ」
「オマエ、役者になれるよ」
「ホント、役者でも目指そうカナ。演技派女優ってヤツ?」
アハハハハとはじけるような、だけど作り物っぽい笑いが会話に挟みこまれる。
「ホント、笑いをこらえるのが大変だったヨ。アイツを追いつめた元々の張本人が泣き出すんだから」
「私も私も!」
二人の声は私のすぐ後ろまで近づいてきた。
サーと風が吹いて、足を抱え込む腕の下でスカートが揺れる。
「もう、『ゲーム』、できなくなっちゃったね」
「あ……」
私は、しまった、とひざを抱えたまま左手で口をおさえたけど、一度口から出してしまった言葉は取り返せなかった。口の中で食い止める事と、口から一度でも出す事は百八十度違うことなのだ。顔を、端のへりに置かれた銅像にでもなろうと、ふせて、足は腕で体の中心にギュッと押し付ける。
だけど、三人の会話は止まったままで、足音ですら私の耳には聞こえない。
私は恐る恐る顔を持ち上げて、右上を仰ぎ見た。
三人とも目を大きく見開いて驚いて声が中々でてこない様子だったけど、茶髪は怒ったような顔をして驚き、黒い髪は泣きそうな顔をして驚いていた。
「オマエ、アイツの妹だな」やっと気持ちを立て直したように、私から一番遠い茶髪が、低い声で言った。
私は怯えた表情でその茶髪を見るだけで精一杯で、肯定も否定もできない。
「姉と同じで、ムカつく女だな!」
その茶髪の怒鳴り声に、私の体はビクッと大きく一回震える。その茶髪の鋭く細められた目の向こう側に、いつものあの高層ビルから見た遥か下に横たわっている黒い地面が見えたような気がした。私は口をだらしなく開けた顔を上に向けたまま、筋肉がものすごく速くものすごく小刻みに震えだした。
茶髪はそのような私の様子を、足元のアリを見るような目で見下ろした。
私を、そんな目で見ないでよ……
私の声はのどのずっと下に押さえつけられて外には決して出てこない。
「こんなムカつくヤツに構ってないで、行こうぜ」
茶髪が他の二人の方に顔を向けて言うと、もう一人の茶髪は慌てたように「ホント、ホント」と言いながら、黒い髪は最後まで無言で歩き出した。
私は、首を伸ばして見上げるような姿勢のまま、なかなか動けなかった。どんなに動かそうとしても、首は凍ってしまったように動かなかったので、それが溶けていくのを辛抱強く待たなければならなかった。上方に向けられた視線の先には、地球を窒息させるほど厚い、黒い雲しか見えない。
「ゲーム……?」
息をかすれさせただけのような呟きが私の口から漏れた。
私は自分に残されている少しだけの勇気を右手に集中させるように、右手に力を入れた。ゆっくりと、体と足をきつく縛っていた右手が離れていく。そしてそのまま、スカートの左ポケットの上に、精一杯の優しさでもって重ねた。スカートの布をはさんで、小さく折り畳まれた紙の感触が溢れていた。
「ゲーム……」
どこかでこの単語を聞いたはずだというもろくて透明な記憶が、私の周りを取り囲む。あまりにも透明で、雲に合わされた焦点を一センチずつ手前に引き寄せていかなければ、私の心と、黒い雲の間でのどこかに漂っているその記憶を取り戻せないと思った。
「あれ?」
だけど私は気付いたのだ。
あまりに透明だと思っていた、というよりもむしろ、思い込んでしまっていた記憶は、姉の遺書を読んだ瞬間に私の心の大部分を占拠していた。そして、その記憶は、絶対に忘れてはいけないし、同時に、絶対に忘れることができるものでもなかった。
「『ゲーム』……」はっきりとした声となって、私のつぶやきは口から漏れた。自分の声ではないような感じがした。今まで誰からも似ていると言われたことが無かったけど、そのつぶやきは姉の声によく似ていたのだと思った。
私の手のひらの下から私の体の中に、姉の心を刻み込むように丁寧に書かれた文字が流れ込んでくる。




