表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

幼稚園の頃の私は、今の私の記憶の中には全くと言っていいほど存在しない。


 幼稚園の頃の私は、今の私の記憶の中には全くと言っていいほど存在しない。ただ、外で滑り台やジャングルジムでは決して遊ばずに、教室の中で一人でブロックを組み立てたりして遊んでいるイメージとしての自分が浮かび上がる。でも、取りたてて他の子どもたちと変わったところはなかったはずだ。

 だけど、あれは一年くらい前だろうか、自分の部屋の押し入れを整理していたときだった。

 私は偶然、その押し入れの奥に幼稚園の頃の私が書いた絵などが詰め込まれた紙袋を発見したのだ。もちろん私は、胸をなつかしさで一杯にさせながらその絵を一枚一枚見ていった。絵の構図や筆のタッチはでたらめだったけど、色合いなどに時々驚かされた。そして全て見終わったかなと、ぼろぼろに破れかかっている紙袋の中をのぞき見ると、一冊の小さな手帳が申し訳なさそうに入っていた。

 それは、幼稚園の出席帳だった。出席した日は保母さんにシールを張ってもらえるのだ。熊や花のシールがびっしりと貼られている。そして、カレンダー状に貼られたそのシールの下に、一ヶ月ごとの保母さんのコメントが書いてあったのだ。

 私はそれを読んだとき、小さいけどジワジワと首をしめつけて息を奪っていくような絶望を感じた。人間の本質って、どんなに年をとっても変えることはできないんだ、と思った。

 そのコメントのほとんどが、このように書かれていた。

『慶子ちゃん、もっと先生とお話しましょうね』


 私は、アスファルトの上に真っ直ぐに投げ出された二本の足を見る。ひざが赤黒くにじんでいてヒリヒリと痛かった。私は、家に帰って消毒しないと、と思ったけど、道路に下ろしてしまった腰がとても重く感じられて上がらない。何となく首を左へ向けると、橋を渡って二十メートルくらい先に、バス通りの道路が見えた。そのバス通りを時々車が通り過ぎていく。だけど、一台もこちらの方へは曲がってこなかった。私がこんな所に座りこんでいるから車が曲がってこないんだ、と思った。

 仕方がないので、私はもう少しだけ記憶を拾い集めていくことにした。


 小学校一、二年生の頃の記憶は、やはり私にはほとんど無かった。それでは小学校三年生の時は……。


 私は思考の流れをストップしようとした。三年生の時のあの出来事を思い出してしまいそうだった。あの出来事の記憶は、自分の心の底に何重もの箱で囲って閉じ込めていたのだ。もし思い出してしまうと、あの言葉が今言われたかのように鮮明によみがえってきて、体の震えが止まらなくなる。

小学三年の時のあの出来事……。


 私はあの日、給食当番だった。

 私はその日のデザートの担当で、白衣を着てリンゴが一杯入った銀色のアルミ製の入れ物を調理場で受け取り、二階にあった私の教室まで運ぶことが私の仕事だった。

 調理場の前の受け渡し場は他のクラスの給食当番もたくさんいて、混雑していた。四時間目の授業が早めに終わった時は、誰もいないガランとした受け渡し場に一番乗りすることができたのだけど、その日の四時間目は、チャイムが鳴って少したってから終わったのだ。

 私は両手で、台から慎重に入れ物を持ち上げる。そして振り返ろうとした時だった。運悪く私のすぐ後ろに立っていた他のクラスの給食当番に腕が激突してしまったのだ。後ろをよく確認しなかった私のミスだった。その衝突の衝撃で、入れ物の片方をつかんでいた右手からアルミの取っ手が滑り落ちる。そして、アルミ製の蓋の床に落ちるガターンという音と一緒に、リンゴが全て床に落ちてしまったのだ。私には一瞬何が起きたのか分からなかった。

 給食を床にぶちまけてしまうという「事故」は、学校でも時々発生していて、その時の給食当番がしなければならない事はまず給食で汚れた床をきれいに掃除して、それが終わると他のクラスを一つずつ回って、その給食のあまりを少しずつ集めてくる事だった。

 当然私は、手を震わせながら床に落ちた全てのリンゴを拾い上げた。そして今度は足を震わせながら、「リンゴ余ってませんか?」と言って他のクラスを回って行った。逃げ出しそうになる自分の体を懸命に押さえつけて、イントネーションのおかしい声で、「リンゴを床に落としてしまったんですが……」と言い続けた。

 死ぬような思いをして、結局リンゴは二分の一くらい集めることができた。いや、二分の一くらいしか集めることができなかったと言うべきかも知れない。当然、クラスの全員が食べれるわけがない。そこでジャンケンをすることになった。このジャンケンは、先生とクラス全員が一斉に出して先生に勝った者を勝者とするもので、うちのクラスでは、何かを決める時によく行われたのだ。

「ジャンケンポン!」

 先生の声がクラスに響く。

 結果は、三分もたたないで決まった。私は別に勝ちたいとは思っていなかったけど、「私いりません」と言う勇気がなかった、ただそれだけでそのジャンケンに参加していた。そして、運悪く勝ってしまったのだ。

 クラスの当番の男子と女子の二人が、前に出てきて、「いただきます!」と言う。やまびこのように、その後に続いてクラス全員が「いただきます!」と言う。その直後だった。

「え?」

 私が顔を上げると、すぐ横に誰かの人影が立っていたのだ。

「誰かさんのせいでリンゴが食えなくなったのに、誰かさんは食ってやがる」

 私は驚いて横を見上げると、ジャンケンに負けた男子生徒が一人、憎々しげに私の顔を見下ろしていた。

 クラスは、水を打ったように静まり返った。

 それに反比例するように、私の耳の中に聞こえる私の心臓の音は、大音響で私の鼓膜を震わせる。私は体の中が燃えるように熱くなっていく。そして、顔をうつむかせ、スカートごと足の肉を思い切りつかんだ。

「私、いらない……」

 私は精一杯の勇気を振り絞ってリンゴの入っている器を上に持ち上げる。こんな時にどのような顔をしたらいいのか分からなくて、引きつった作り笑いを顔に浮かべながら。

 男子生徒は、リンゴをつかんだ。だけど、リンゴの入っている器をつかんだというわけではなかった。リンゴをそのまま右手でわしづかみしたのだ。そして、そのリンゴを力一杯私に向かって投げつけたのだ。

 リンゴは私の頭に当たって跳ね返り、どこかへ飛んでいった。

 すべてが一瞬の出来事だった。だから私は、一体自分の身に何が起こったのか理解できずに、その男子の顔を茫然とみつめることしかできなかった。

「お前ごときにめぐんで欲しくない!」

 男子生徒は片目を極端に細め、ゴミを見るような目で私の顔を見下ろし、そのゴミの上に吐き捨てるように言った。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ