「やめてよ!」
「やめてよ!」
私は叫んでいた。その叫び声が小さな客間に大きく響き、その響きを聞いて初めて、私は自分が叫んだのだということを知った。もう、訳も分からなくなりそうなくらい、体の中が熱かった。
「お姉ちゃんを、いいこだなんて言わないでよ!」
私はかすむ目を上に持ち上げる。遠い向こうに、父と母と叔母と担任の狼狽した、いぶかしげな顔が見える。
「お姉ちゃんを、『いいこ』なんていう冷たい言葉の中に閉じ込めないでよ!」
私は立ち上がって、担任を押し倒すようにして客間の外に飛び出した。そして急いで靴を履こうとするけど、手が大きく震えてうまく履けなかった。
「慶子!」
やっと自分を取り戻したのか、父の鋭い叫びが客間の入り口から飛んできた。
私は靴を右手につかんで、裸足のまま外に飛び出した。そしていつものように『逃げた』。車と家の壁をくぐるように抜けて、そのまま家の前を駆け下りようとした。だけど、アスファルトの道路は針山のように私の足に食い込んできて、あまりの痛さに十メートルくらい走って立ち止まってしまった。靴を前に放り出し、また履こうと試みるけど、やはり手の震えが邪魔してうまくいかない。私はとりあえずつま先を靴の中に押し込んで、かかとを踏みつけて再び坂を駆け下り始めた。
午後二時の住宅街は、誰もいなかった。私の前から、白い家のつながりがどんどん後ろに流れ去っていく。だけど、私の頭の上の厚い雲は、全く流れ去ってくれなかった。どんなに速く走っても、それ以上のスピードで追いかけてきて、同じような顔をして、私の頭に覆いかぶさってくる。その分厚い雲の顔が、重苦しい表情を作っていた父の顔と重なってくる。その目には、同情と嘲りが隠れているのだ。
私をそんな目で見ないでよ!
五十メートルくらい駆け下りると突き当たりのT字路にでた。私は立ち止まって、追い詰められた目で左右を見る。右はバス通りに出る細道だけど、今日の今の時間は、車一台も通る気配が無かった。左は、住宅地の奥に入っていく道だけど、誰一人としていない。黒いアスファルトの道だけが、そこにたたずんでいた。
なんで……、なんで……、なんで誰も私のことを見ようとしないの? 私はもう誰からも見てもらえないの? もう見捨てられてしまったの?
私は、右の道を駆け下りる。もう頭の中が真っ暗で、自分の心も何もかもが訳が分からなかった。そして、ただ足を動かした。頭の中が動いてくれないのなら、せめて足を動かすしかない。そうするしかなかった。
アスファルトの黒さに導かれていくように私は走る。こんなに走ったのは久しぶりだったので、足が震えるようにしびれてきて、呼吸は大きく乱れていく。
「あ!」
私の足の回転が、体の速度に追いつかずに、私は大きくバランスをくずした。そして、前のめりになって転んでしまったのだ。
アスファルトの上を、私の手のひらと膝頭がすべる。だけど不思議と痛みは感じなかった。ただ、そのまましばらく動けなかった。
「なんで……、なんで……」
私は息を吐くようにつぶやきながら、手を地面について上半身を持ち上げる。腰も上げて、四つんばいの状態になった。目の前に黒いとげとげしたアスファルトがある。そのアスファルトに、水滴が一粒落ちた。
何に対してかよく分からないけど、とても悔しかった。世の中は、なんて理不尽なのだろうと思った。
私は顔をアスファルトの上から持ち上げる。そして、何かを求めるような斜めにゆがんだ目で前を見た。何を求めているのか分からなかった。ただ何でもいいから私の前に現れて欲しかった。そして私を慰めるなりけなすなりして欲しかった。もう、このような、息をしているのかしていないのか分からないような毎日は嫌だった。
私の左前には、驚くほど近くに家が立っていた。背の低い緑の庭木に囲まれて、その向こうに灰色の家がぼんやりと浮かんでいる。そして、その庭木の間からは、薄茶色の犬が、不審者であるはずの私を全く吠え立てなかった。ただその真ん丸の黒い瞳を私のほうに向けている。それ以外は、石像であるかのようにぴくりとも動かなかった。
私は、犬にも見捨てられたんだ、と思った。
その家の向こう側に橋が見える。五メートルにも満たないようなコンクリート製の橋。私はその橋の一番手前に「鴨志田橋」と貼ってあるのを見つめながら立ち上がった。そして、制服についているホコリをはたきもせずに歩き出す。足が痛かったけど、私はその橋のコンクリートだけを見て歩き続けた。そして、鴨志田橋の上にやっとたどり着いて、橋の下を流れる鴨志田川を何となく見下ろした。
私は、まるで私の心だ、と思った。具体的にどこがと聞かれても分からないけど、その鴨志田川の流れを粘土をこねるようにこねて、抽象的な像を作ることができるのなら、それは私の心になっていると思った。
鴨志田川は、幅が一メートルくらいのドブ川で、両側をコンクリートで舗装された岸に挟まれて、真っ黒い水がトロトロと流れていた。
私は、橋のへりのコンクリートにもたれかかるように座り込んでしまった。だけどそのコンクリートは冷たくなくて、逆に温かくさえ感じた。
「アハハハ……」
突然、私が先ほど曲がった曲がり角を、三、四人の小学生くらいの男の子が曲がってきた。後ろには黒いランドセルを背負って、まだ寒い空気に、半ズボンから素足をさらしている。だけど、全然寒そうな感じはしなかった。
輪になるようになって、話に乗り遅れまいと四人が四人とも大きな声でおしゃべりしている。そして、相手の話に力いっぱい笑っていた。
私は、私だけのはずだった世界の突然の侵入者を、呆然と眺めてしまった。そして、この小学生には、今を楽しむことしかないのだ、と思っていた。もし未来を手渡されてしまったら、その未来が恐ろしくてたまらなくて、塾へ逃げ込むことになるのだ。
「私にも、こんな時代があったのかな」
自分の頭の中の記憶に尋ねてみた。だけど近頃は、昔のことなんて思い出さなくなっているので、記憶の引き出しがさび付いてしまっていてなかなか思い出せない。私は、少しずつ記憶を拾い集めることにした。




