忘れろなんて言われたけれど
魔法灯でライトアップされた夜の庭園を歩いていると、突然目の前に何か落ちてきた。ドサリと重たい音がする。イギーはなんだか分からず、落ちてきた方を思わず見上げる。
王宮の高級なカーテンを優雅に揺らす風が、月の面を吹き払う。イギーが見上げる視線の先に、大男のシルエットが浮かび上がる。
窓辺に立つその大柄な男は、銀色にけぶる長髪を靡かせている。魔物のような青白い炎が2つ、黒々とした影の作る顔のあたりで光っていた。
イギーはただ言葉を失い、呆然と男を眺める。兄のお供で参加したパーティーだが、政治談義がつまらなくて庭に出てきたのだ。昨日この地に着いたばかりで知り合いもなく、軽食が振る舞われる時間にはまだ早い。
ここは、ソフィ王女の庭と呼ばれる。魔法灯の美しいこの庭園は、イギーたちシャインリバー家の住んでいた田舎にも聞こえるほどの名園だった。
30年前にソフィという王女様が発明した魔法灯は、美しいだけではない。防犯機能も搭載されている。だから、若い娘たちが独りで見学しても安全なのであった。
さて、この美しい夜の庭で、おろしたばかりの緑色をしたシフォンのドレスで立ち尽くすのは、イギー・シャインリバー。愛らしいキャラメルブロンドの髪を緩く波打たせて菫の花を飾った16歳の乙女である。
見上げた窓から今度は大男が飛び降りてきた。軽く膝を曲げて着地した背中に、ふわりと青いマントが落ちる。イギーの声は出ないまま。
獰猛に燃える銀青の双眸がイギーの優しい暗緑色の瞳を見据えた。豪奢な純白の絹で誂えた上下は血塗れになり、左手には血の滴る剣を下げている。
「忘れろ」
青マントの男は、イギーの方へと腰を折って囁きかける。体格に相応しく地の底から湧き上がるような唸り声である。
イギーは頭が真っ白になっていた。
「あの、お名前は」
特に聞きたかったわけではない。
度を失っていたのである。
「バートだ」
一瞬怯んだ青マントは、やはり唸るように名乗る。
「貴様は」
「は、はい!イグナチア・シャインリバーです!16歳です!先月兄の転勤で王都フルブルームに参りました!特技は風の鳥です!時々イギー順風と呼ばれます!」
イギーの名乗りは聞かれた反射だ。マントの男は徐に頷くと上体を起こし、なんとこちらも名乗り始めた。
「我が名はバート、キルモンテのオズワルドが長子エグバード。当年取って17となる。人呼んで血霧のエグバード。濁流砦の戦いを制した鮮血太子とは我がことよ!」
「御目文字叶い恐悦至極!」
完全に混乱したイギーは、男性式の挨拶をしてしまう。イギーは特に男勝りではない。兄がやりとりする姿を無意識に再現しただけである。
「うむ!よく来たな!」
どうやらバート殿下も、予想外に名を聞かれてパニックだったらしい。今しがた忘れろと脅したくせに、なにやらイギーを歓迎するバート。
名乗りを終えて、奇妙な沈黙が落ちる。幻想的な魔法灯の光に照らされて、血生臭い男が小柄な少女を見下ろしている。
「では、忘れろ」
再び宣言した男は、2人の間に落ちていたものを拾って立ち去った。
「え、人?」
正気に戻ったイギーは、立ち込める血の臭いに冷や汗をかく。大男が小脇に抱えて運び去ったのは、黒ずくめで細身の人間だった。
翌日、イギーは市場の散歩をしていた。引越してきたばかりで友達はいない。昨日のパーティーでは知り合いすらできず、よく分からない流血現場を目撃しただけ。イギーは気分転換に出かけたのである。
「イグナチア様、そちらの通りはおよしになったほうが」
脇道に入ろうとするイギーを、護衛兼小間使のローズが止める。覗くと皮を剥いだ動物が吊るされた肉屋が並んでいる。
「やだ、思い出しちゃうじゃないの。ローズ、教えてくれてありがとう」
イギーは顔を顰めて表通りに戻ろうとした。そこへ、肉屋街の奥から暴徒が走って来る。髪を振り乱して刃物を持った一団に突き飛ばされそうになった。
ローズが庇ってくれたのだが、はずみで何かにぶつかった。頬を打ち付けたのは、なにかがぎっしりと詰まった布袋らしきものである。
肌触りのよい絹は、兄の騎士服よりはるかに上質な布地であるに違いない。目に入ったのは、兄の紺服とは別の、明るい青色だ。故郷の森にいるような、土や緑にも似たいい匂いがした。
「え、あ、ごっ、ごめんなさいぃ」
肉屋街から出てきた男性にぶつかってしまったと気づいたイギーは、心から謝った。
「なんだ、君も俺の命を狙っているのか」
イギーは、どこかで聞いたような声に顔を上げる。首が痛くなるほど上の方から、青白く光るふたつの瞳が見下ろしていた。
「エグバード殿下!」
ローズはイギーの言葉に仰天する。ローズは昨日のソフィ王女の庭に居なかった。お付きの人は別の部屋で待機するきまりだったのだ。それでなくとも下級騎士のローズには、王族の顔などわからない。絵姿は出回っているものの、本人に会って解る人は少ないだろう。
イギーは慌てて数歩下がる。顎のしっかりした浅黒い顔には、今日も血の跡があった。昨日は純白の礼服を着ていたが、今日は青い騎士服である。程よく緩みのある高級な仕立てが、形のよい腕や脚を包んでいる。その袖やズボンには、あちこち赤い斑点が散っていた。
「また会ったな」
「けしてスパイでも暗殺者でもありません!」
イギーは必死で主張する。
「冗談だ。しかし運の悪い奴だ」
バート殿下は凄みのある声で唸る。
「2度も王太子暗殺未遂に出くわすとは」
先程の暴漢は、既に捕縛されてどこかへ引き立てられていった。エグバード殿下は手にした抜き身を軽く血振りして、何事もなかったかのようにガッチリとした腰へと戻す。
「まあ、忘れろ」
ぶっきらぼうに言い放つと、荒々しい動作でバート殿下は表通りに出て行った。頭二つほど群衆から抜きん出ており、だいぶ遠くまで目で追っていられた。あれでは、暗殺者に狙われ放題であろう。
「バート殿下も大変ね」
血塗れの姿と賑やかな表通りがあまりにも不似合いで、イギーはふふっと笑いを溢す。昨日教わった愛称が思わず口から溢れでる。
「王太子殿下がこんなところで何なすってたんでしょう」
ローズが腑に落ちないという顔をする。イギーは可笑しそうに口元を緩めて、遠ざかる長い銀髪を見送る。
「さあ?何か調べごとでもおありなんじゃないかしら?」
「王太子殿下直々に?」
「ふふ、忘れましょう」
市場を離れたバートは王宮の自室に帰ると、不機嫌そうに上着を投げる。
「ああ、血がそこらじゅうにつくだろ!」
金髪従兄弟のアンソニーが小言を言いながら上着を拾った。
「1日経ってないというのに」
バートは吐き捨てるように言った。アンソニーは気の毒そうに従兄弟を見た。
「まあ、今日のは生捕にしたから何かわかるだろ」
「ちっ」
「誰かさんがすぐ殺しちまうから背後関係がわかんないんだろ」
「はあ?生捕にできるような三下は今まで来なかったんだよ」
喋りながらすっかり着替えたバートは、呼び鈴を鳴らして使用人に汚れた騎士服を渡す。
使用人が立ち去ると、2人は窓辺のローテーブルに腰を下ろした。
「それよりバート、あの子すげえな」
「ふん」
バートの眉間に皺がよる。
「目の前に死体が落ちてきても、バートの殺気を浴びても、全く動じなかったよな」
「いや、驚いてたぞ?」
眉間の皺がさらに深まる。
「だけど気絶もしなければ、腰を抜かしもしなかったな」
「まあな」
バートの銀青の瞳がギラリと光る。獲物を見つけた猛獣のようだ。アンソニーは揶揄うように話を続ける。
「あの子、笑ってたぜ」
「なに?」
気色ばむバートに、アンソニーは両手を前に突き出して宥めようとする。
「いやいや、バカにしたわけじゃねえよ?」
「ふん」
「あの子もバートのこと、気に入ったみたいだぜ?良かったな!」
「ちっ」
「なんだよ?」
バートは引ったくるような動作でお茶を飲んだ。アンソニーはニヤリと笑って干し杏子を摘む。
「あったかい目をした子だよなあ」
バートが従兄弟をギロリと睨む。アンソニーは尚も揶揄うように言い募る。
「綺麗なキャラメルブロンドだったな」
「貴様」
「ちっちゃくて可愛らしい」
「よせ」
「あれで風の使い手らしいってのも良いよな」
「いい加減にしろ」
バートはイライラと紅茶を飲み干す。アンソニーはゆったりと干し杏子を齧っている。
それから半月程過ぎた。郊外の森にいたイギーとローズは、急に降り出した雨に驚いて、お弁当を急いでしまう。
ちょうどトレーに並べたばかりのミンスパイは、入っていた籠へと乱雑に投げ込む。陶器の入れ物に入ったパテは蓋を開けただけだったので、再び閉めて木箱にしまう。
2人が急いでピクニックの木箱を馬車に積み込もうとしていると、濡れた落ち葉を踏む音が聞こえた。
「あっ」
木箱を乗せる手が止まる。
森の木立から雨に濡れた大男が現れた。銀青の瞳は殺気に満ちて、今日も抜き身を下げている。鈍く光る剣身から薄赤くなった雨水が滴り落ちていた。
「危ない!」
バート殿下と後に従う金髪の騎士がイギーとローズに飛び掛かる。
「えっ」
乗せかけていた木箱が転がり、陶器や瓶がガチャンと砕ける。飛び散った肉や果物、そして色鮮やかな果物ジュースが木の根や落ち葉の茶色を染める。
「伏せてろ」
バート殿下はイギーの耳元で低く告げると、自分は身を起こしてマントを跳ねあげる。マントには金属を織り込んであったらしく、飛んできた矢が次々に弾かれた。
「よし、乗れ!」
バート殿下の掛け声で、イギーとローズは立ち上がる。イギーは咄嗟に風の鳥と呼ばれる魔法を放つ。鳥の形を取った風が、降り注ぐ矢の雨を吹き返す。
「ひゅう」
アンソニーが口笛で囃す。バートは厳しい顔でイギーの背中を押して馬車に乗せた。馭者台に乗ろうとしたローズも馬車の中に押し込まれ、エグバード殿下が手綱を握る。アンソニーは殿下の隣で行手の枝を切り落として道を作る。
馬車は森を抜け、牧草地を走り、畑を過ぎ、やがて市街地へと走り込む。そのまま一息に王宮につくと、馬は直ちに労われた。
「巻き込んで済まない」
いつもの低い声でエグバード殿下が唸る。
「まあ、こちらへ」
厩の傍からくねくねと狭い道を通り、イギーとローズは黙ってエグバード殿下たちについてゆく。外を歩いていた筈が、いつの間にやら天上の低い石作りの通路にいた。雨水が染み込んで足元をチョロチョロと流れている。
薄暗い石の階段を登ると、突き当たりに壁があった。エグバード殿下が石の一つを押すと、壁は横にスライドしてマントや騎士団の上着が下がる小部屋に出た。
「ほら」
小部屋の隅からタオルを取って、エグバード殿下はイギーに渡す。アンソニーはローズに渡す。渡しながらドアを開ける。小さな机とシンプルながらも上等な椅子のある別の小部屋に出る。その先は壁一面に本棚がある細長い部屋だ。棚の途中にいくつか扉が見える。
そのうちの一つを開けると、落ち着いた金茶のビロードが張られたソファが数脚目に入る。こぢんまりした応接室だろうか。ソファと同じ金茶のドレープカーテンが下がる広い窓もある。そこからはバルコニーに出られるが、今は雨が激しく外も見えない。
「座って」
「お椅子が濡れてしまいます!」
「いいから」
バート殿下が出す有無を言わせぬ声の圧力に、イギーはストンと腰を落とす。泥と小枝や枯葉は歩きながらかろうじて落とした。だが水分は絞らないと無理だ。絞る暇もそんな場所もなく、裾からは雨水が滴っている。
「後日改めてお話しするが」
「え、ちょっとバート!」
エグバード殿下がイギーを睨みつけて切り出すと、アンソニーが止めようとした。
「国政に興味はあるか?」
「はあ?」
アンソニーが素っ頓狂な声を上げる。
「ええと、あまり、その」
イギーは口籠もる。そもそも政治の話がつまらなくて庭園に出たのである。エグバード殿下と出会った、人が降ってきたあの夜は。
「そうか」
「おい、バート!」
人前だと言うのに敬称も忘れてアンソニーが叫ぶ。
「まあ、忘れろ」
バートは銀色の眉毛を僅かに下げて、立ち上がる。
「何かしら着る物を借りるといい」
侍女を呼んでイギーたちを預けると、エグバード殿下は別の扉から出て行く。
「おいおいちょっと」
アンソニーが慌てて追いかけてゆく。
「お前、あれじゃ伝わらないよ!」
「そうか?」
バートは相変わらず眉間に皺を寄せている。
「文官にスカウトされたと思うだろ」
「まさか!」
「思うよ」
「いや、単なる騎士家のお嬢さんだろ?突然文官にスカウトされるわけないだろ」
バートはアンソニーに、呆れた顔で諭すように言った。しかしアンソニーは違う意見のようだ。
「それ言ったら、いきなり王妃候補にされるのだってあり得ないだろ」
「そうか?」
「1回目。暗殺者の死体が落ちてきた」
「うん」
「2回目。逃げた暗殺者に突き飛ばされそうになった」
「ああ」
「3回目。暗殺者の流れ矢に当たりそうになった」
「そう」
「これのどこに、王太子直々のプロポーズをされる要素があるんだよ」
「そうか」
「そうだよ」
2人は話しながら濡れた服を着替える。衣裳室にはアンソニーサイズの騎士服もあるようだ。血で汚れたり、雨に濡れたり、矢で穴が開いたりするからである。
しばし黙考したバート殿下はポツリと言う。
「森が好きみたいだな」
「ああ、ご馳走ダメにしちゃったな」
「うん」
「お詫びのピクニックに誘うくらいならいいんじゃねえの?」
「警護は月狼騎士団を」
「おいって。怖がるよ!」
月狼騎士団とは、エグバード殿下直属の血みどろ騎士団である。
「しかしまた巻き込んだら」
「うーん、見えないとこに配置するならいいかなあ」
「だろ」
イギーは恐縮しきりで断ろうとした。手紙で断られたのだが、アンソニーに焚き付けられたバート殿下は自分で誘いにやってきた。
「以前、市場を歩いていたが、下町風の味が好きなのか」
「あ、その、田舎者なので」
「王都フルブルームには来たばかりだったな」
「まあ、ご存知でしたか」
イギーは驚く。バート殿下は決まり悪そうにもそもそ答えた。
「悪い。調べた」
「暗殺者でも、スパイでもないですよ」
「すまない。一応」
「大変ですね」
イギーが同情して眉を下げると、バート殿下は鋭い眼差しでひたと見つめてくる。
「色々お詫びを込めて、森でお昼をご馳走したい」
「恐れ多いです」
「ううん、そうか、忘れ」
アンソニーがバートの後ろで噴き出した。ローズが変な顔をする。
「バート!頑張って!」
アンソニーの野次にイギーがクスリと笑う。バートはその様子を見て、思わず叫んだ。
「忘れなくていい!」
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