第29話 閑話 アンナ・ローデヴェイク
――コンコン
クラウディアの護衛騎士に選ばれた2人が、月の宮に用意されてあるアンナの私室の扉をノックする。
「――入れ。」
クラウディアが知る普段のアンナとは別人のように低く威圧的な声が入室を許可した。
「失礼致します――」
背筋を伸ばして入室した騎士2人は、部屋の奥で静かに座っているだけで殺気を感じる存在に目を向けた。
天井近くまで高さのある大きな窓を背景に、重厚なウォルナット製の執務机と椅子が配置されてあり、椅子に浅く腰掛けている。
目の前の存在は、クラウディアを心より愛するアンナ本人であるにも関わらず、普段とは全く違う人間のようにも見えた。
「報告を――」
クラウディアに接する時とは別人の様な態度でアンナは命じた。
騎士二人を見つめる藍色の瞳は、この世の深淵を感じさせるように昏い。
まるで魔物と対峙しているように肌の表面にヒリリとした痛みを感じる程の緊張を覚えながら、騎士2名は一礼した後報告する。
「はい。本日のクラウディア様の身辺に不穏な影も、何者かが入れ替わった等の違和感もありませんでした。穏やかに1日をお過ごしになられたようです。
動くとしたら、明日以降。教会関係者による不穏な動きが見られる可能性がございます。今、背後関係を調べていますが、明日の拘束後、関与した者を全員吐くまで拷問にかける予定です。」
「――そう。護衛騎士を明日から4名付けれる?
――――例え陛下が狙われようとも、姫様を最優先。…という意味の護衛だが。
用意出来るか?」
「はい。我々は姫様直属の護衛騎士です。姫様最優先は至極当然です。
近衛騎士団に所属してはいますが、陛下の勅命で何より優先すべきは姫様の護衛と言われております。」
「ウルリヒは分かった。ランベルトは?そちらは元々陛下の護衛だった筈。いざという瞬間に優先出来るか?」
ランベルトは常に無表情を崩さず、アンナに視線を真っ直ぐ向けると口を開いた。
「陛下には姫を守れとのお言葉を頂いている。守るべきは幼い姫であろう。」
「残り2名の選定は任せる。影は常に張り付いてはいるけれど、過信と慢心は何よりの敵と思え。護衛失敗に恩赦はない。――戻っていいわ。」
アンナは護衛騎士2名が、静かに室内を退室したのを確認すると、椅子の背もたれにトスっと身体を預けた。
――聖女ぶった枢機卿の娘。私の姫様に向けていたあの不快な目…不愉快だ。
アンナの目がギラリと光る。
アンナは帝国の皇族に代々仕え、帝国の裏を取り仕切る一族の娘であった。
一族の表の顔は、現宰相が名を継ぐ歴史ある侯爵家。
裏の顔は影を取り仕切る一族であり、女男に関係無く徹底的に暗殺者として英才教育を受けさせる暗殺者集団だ。
無論アンナも血反吐を吐く様な英才教育を受けた。
女である為、兄や弟と一緒に跡取りの座を狙う事は出来なかったが、すこぶる優秀であった。
今現在、宰相の補佐職についているのは長兄で、文武ともに優秀過ぎる男だ。
だが、皇帝に少々傾倒し過ぎている事も含め、最優先は現皇帝陛下だ。
前皇帝の弟で陛下の叔父であるアレス・ヴァイデンライヒの次に宰相となるのは、長兄であろう。
現在、宰相補佐は三名いるが次期宰相に最有力候補なのは長兄だと推されていることからも、間違いなさそうだ。
よっぽどの不手際を侵さない限り脱落はないと思われる。
あの皇帝陛下を生神のように崇めている長兄がそんな愚を犯すとも思えない。
そのまま突っ走るに違いない。
ただ、兄も私も二人が皇族籍から万が一抜けたとしても、お仕えし続けるであろう。主と認めた者に対する唯一無二の忠誠心は一族の特性であるが、兄も私も濃く受け継いでいる。兄は陛下で私は姫というだけの事。
姫に関しての全ては、私が完璧に取り仕切るつもりだ。
アンナは侯爵令嬢でありながら、クラウディアの実の母親は側室であった為、その側室付き女官として潜入していた。
宰相である父が、皇帝の側室になったその時から監視する為に、娘を敢えて女官として付けたのだ。
陛下との初夜を迎え、部屋から一切出る事ない寵愛の一週間を過ごした側室。
愛妾を100人も抱えた後宮を持つ色狂いの皇帝の寵愛は、過去に類をみない最長の2ヶ月続いた。
側室は類稀な輝く美貌と、どんな男も骨抜きになり夢中になる妖艶な肢体を持つ絶世の美女であった。
寵愛が続くのは想像通りで、皇妃の威光が霞むのを感じた。
それほどに寵愛された側室も、皇帝の子を懐妊した。
陛下の子を懐妊したことで盤石となり、その地位は皇妃を凌ぐのではないかと思われた。
……しかし、懐妊が判明したその夜から、パッタリと陛下のお渡りが途絶える。
妊娠した側室を敬っての事かと思われたが、無事に陛下の子を出産した後も、以前の様な寵愛が側室に授けられる事は無かった。
連日連夜だったお渡りは、妊娠出産後は週に一度ある程度。
それでも、もう1人の側室や冷たい関係の正妃とに比べれば、会いに来て貰えていた方かもしれないが。
側室がクラウディアを一切顧みなかったので、アンナがクラウディアを育てた様なものだった。
産声をあげてすぐの事、男児では無い事が判明したクラウディアは、母親からバッサリ切り捨てられた。
陛下の寵愛を妊娠によって絶たれ、出産した子はパパラチアサファイアを持たぬ女児。
皇帝陛下の寵愛を一身に受けた妃は格別の優遇を受け、誰もが己に恭しく頭を垂れる。その甘い蜜の味たるや痺れる程の歓喜に悶える。
その味を知った後に待っていたのは、この扱い。
甘露の味を知らなければ、それを求め苦しまずに済んだものを…。
あれだけ愛を囁かれ、昼も夜も傍から離れ難いとせつなく溜息を付き何処へ行くにも伴った癖に。
妊娠によって残されたのは、使えない娘と、掌を返すような寒々しいベッド。
その後、囁かれる悪意ある噂話――――
あれもこれもそれも全て、この子を産んだ所為だと側室は思ったのかもしれない。
クラウディアに何の咎があろうか。
ヴァイデンライヒ帝国という大国で皇女という高い身分の生を受けたにも関わらず、誰からも顧みらぬ扱いをされる程の罪を犯してしまったのか。
側室である母親からは切り捨てられ、父親である王も無関心な娘。
乳母だけが日に何度か乳をやりには来るが、子守り担当のメイドもオムツ替えの為だけに何時間かおきにやってくるのみ。
男児で無かっただけ。
パパラチアサファイアを持たぬ継承権の無い娘。
高貴な身分の皇女であるも、クラウディアには誰もいない。
誰にも求められる事のない可哀想な子…それが1番最初の印象だった。
赤子なのだ、おざなりな世話だけで済む筈もない。
言葉も話せない赤子には泣く事しか訴える手段はない。
皇女の部屋は、側室に宛てがわれた宮の一室にある。
側室の部屋へと向かうには、必ず皇女の部屋の扉がある長い廊下を通る。
扉一枚隔てた向こうで、赤子の泣き声が聞こえていた。
いつそこを通っても泣き声が聞こえるのだ。
泣き止ませる為に抱きあげてくれる腕も、宥める為の優しい声もなく、ただ放置されていた。
――私の任務に子守りは含まれていない。
私には関係のない子だ。
何の利も無い上、関われば面倒事になるのは分かりきっている。
そう最初は自分に言い聞かせていた。
しかし、連日の様に母を求めて泣く声にとうとう耐えきれず、アンナは皇女が居る部屋の扉を開けてしまった。
室内に設置されたベビーベッドへと近付き、泣き喚く皇女を覗き込んだ。
そして、世も末もない様に泣き喚く皇女を落とさない様に気をつけながら、そっと抱き上げる。
まるで魔法によって沈黙させられたかの様に、ピタリと泣き声が止んだ。
静かになった赤子を見て目を丸くするアンナ。
そんなアンナを焦点の合わぬ眼差しで見つめた後、クラウディアは幸せそうに笑った。
それは、まだ穢れを知らぬ魂の輝きを現すような、透き通る程に純粋で無邪気な笑み。
愛を請う笑顔にアンナの心臓が何かにギュッと掴まれるかのように痛む。
その笑顔を見つめるだけで、経験した事のない気持ちが次から次へと溢れて止まらなくなるのだ。
――笑った。たったそれだけで、アンナには充分だったのだろう。
人と人が一目で強く結ばれる時、御大層な理由など無いのかもしれない。
後付でこうだったああだったと付ける事はあっても、少なくともアンナの心を掴んだのは、笑顔だけである。
それからずっとアンナの中で、クラウディアは何より大切な存在で、アンナの優先順位の不動の1位であり続けている。
側室の監視は続けた。
しかし、アンナの優先はいつもクラウディアだった。
側室の監視など片手間でこなせる。
クラウディアにどんなに時間を割こうとも、父親に任された仕事さえこなしていれば問題ない。
アンナは実に優秀だった。
そして、アンナの配下も優秀だった。
側室の監視は毒杯で毒殺されたその日まで続けられた。
何年間か監視対象であった側室であっても、何の情もない為、憐れむ気持ちすら湧いてこなかった。
心が落ち着かず騒がしいのはただひとつ。
クラウディアは傷ついていないか、辛くないか。
月に一度、親と子に何故か設けられたお茶を共にする日。
陛下には一切似ておらず、側室に生き写しのような娘。
「せめて貴方が陛下に少しでも似ていれば、愛して貰えたのかしらね。」と言われた事もあった。
陛下に顧みられぬ存在のクラウディアにかける言葉がソレなのかと。
腸が煮えくり返る程の怒りを必死に押し殺し、メイドとして静かに立っていた。
暴走せぬ様に握りしめた拳から血が滲む。
お前が要らぬなら姫様は私が大切に慈しみ育てよう。
お前の存在など要らぬよう、満たしてあげよう。
アンナは誓ったのだった。
亡くなった側室は自業自得としか思えぬ程の性悪でクラウディアに対する仕打ちを心底軽蔑していたのでどうでもいいが、大切なクラウディアにはほんの少しでも傷ついて欲しくなかった。
親子と呼べる情など欠片もなかった母親の死についてアンナが話した時、クラウディアは驚いてはいたが、悲しんではいなかった。
ただ少しだけ寂しそうな表情をしたかもしれない。一瞬だけ。
その後、王宮へ移る話をすると、舌っ足らずな言葉でアンナも着いてきてくれるかと仰ってくれた。
勿論、アンナはそのつもりで居る。
大切な愛する姫様の傍を離れるつもりは毛頭ない。
――が、お願いされるというのはとても幸せな事だと思った。
姫様に望まれているという事なのだから。
私の大切な姫様。
姫様へ向けられる悪意は、全てこのアンナが始末しますからね。
どんな憂いも寄せつけませんよ。
自分は聖女だと言い張る愚かな女には、誰を相手にしているのか丁寧に教えてあげなければなりませんよね。
枢機卿という後ろ盾がなければ、まず聖女などなれる器でもないというのに。
親の威光で甘やかされた娘なのでしょう。
分不相応にも皇妃など何故望んだのかしらね。
無知って怖いですわ。
教会と王家が結ばれる事がないのは、勉強を始めたばかりの幼い貴族の子供でも知ってる事。
皇妃を狙う癖に、姫様を憎むなんて一番愚かな行いをするのだから、人としての知能も低いのでしょう。
一度しっかりと、思い知らせたてあげますわ。
愚かな娘の為になると枢機卿もお喜びになって下さると、やり甲斐が出来て退屈せずにいいのですけれど。
アンナは執務机に並べた22もの暗器をひとつひとつ確認すると、また元の場所へと慣れた手付きで手早く戻した。