耳かきと僕の性生活
耳かきは三月二十一日の午前中に僕の隣の部屋に越してきた。彼は綺麗ですらりとした奥さんを傍らに置いて、僕に引越しの挨拶をした。
「隣に越して来た者です、つまらないものですが」彼はそう言って僕にハンドタオルとバスタオルのセットを渡した。
「これはわざわざご丁寧に」と僕は言って頭を下げた。久しぶりに他人から物を貰った気がする。「新婚ですか?」
「ええ、まあ」と彼は頬をかりかりと掻きながら言った。「子供ができてしまったものですから。耳かきの結婚に関する法律とか彼女の両親の説得とか、いろいろと大変でしたけれどなんとか結婚できました」
彼がそう言うと、彼の後ろで爪楊枝のように立っていた彼の奥さんはぽっと赤く頬を染めた。彼女を見てとても綺麗だと僕は思った。こういうのってどうでもいい事なんだろうけど、なんだか少しうらやましいし、それに腹が立つ。恥ずかしさから頬を赤くする耳かきの奥さんなんて他にはちょっといない。
「あなた、そんな事言わないでよ、恥ずかしいから」と耳かきの奥さんは頬を赤くしたまま言った。
「だって本当のことじゃないか」と耳かきは奥さんに笑いながらやさしく言った。「まあ、そういう事ですから、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ」と僕は笑顔で言って、そして僕たちはそれぞれの世界へと別れた。
お互いの生活は坦々と進んだ。耳かき夫婦と僕の生活に実際的な交差点はなかったが、あまりに壁が薄いアパートだったので僕たちはその点ぼろ屋で暮らしたつつましい兄弟みたいに、嫌でもお互いの生活に生じる音声を共有することになった。時折隣からはあんとかやんとかそういう声が夜中に聴こえてきたりもしたし、多分彼らには僕はぱたぱたとパソコンのキーボードを叩く音が一晩中聴こえていたはずだ。でも僕も耳かきも、お互いに文句を言うことはなかった。そういう時代だったし、そういう建物だったからだ。それに僕としては、夜中に仕事をしている間、綺麗な耳かきの奥さんのあんとかやんとか声を聴くのはどちらかと言えば幸せな事だったからだ。他人の性生活を身近に感じられる機会ってそんなにあるものじゃないし、それになんと言っても彼女は耳かきの美しい奥さんだからだ。それは僕の中で、もはや一人の人という見方をするのではなく、カテゴリ的に一般化されたものだ。文化人類研究所的な建物に「耳かきの奥さん、剥製」なんてものがもしあったとしたならば、僕はなんとしてでもそこに忍び込んで、閉館して薄暗くなった室内で焚き火をしながら彼女をずうっと眺め続けるだろう。ある人が1980年代の電化製品における科学的進歩、というカテゴリに異常執着するのと同じ事だ。耳かきというのはかなり性欲の強い生き物だけれど、耳かきの奥さんというのも絶対的に完全に性欲が強いのだ。というより、よほど性欲が強くないと耳かきとなんて結婚できない。だからたまたま隣の部屋に住んでいる僕みたいな他人にそういう声を聴かれても特に何も思わないし、どちらかと言えば聴かれた方がかえって興奮しちゃったりするはずだ。
僕なんかの性欲は耳かきのそれに比べるとゴジラと空気中のアルゴン分子を定規で比べるようなものだから、絶対に耳かきなんかとは結婚できない。夜更けに薄暗い洒落たバーで、いくら美人の耳かきに誘われたとしても僕はその申し出を丁重に断ると思う。それは耳かきとセックスをしたくないからではなく、僕のアルゴンなささやかな性欲によって彼女をがっかりさせるのが目に見えているからだ。僕だって性欲が尋常じゃないくらい強ければ、美しい耳かきとセックスがしてみたい。もし時期があえば結婚だってしてもいいと思っているくらいだ。それくらい、僕の性的好奇心を押しとどめさせるくらい耳かきの性欲はエジプトのクフ王ピラミッドみたいにがっしりとしたものなのだ。そして僕の性欲は気の毒な老け方をした犬みたいなものだ。
彼らが僕の隣に引っ越してきた三ヵ月後に彼らの娘は誕生し、それからまた一年経った頃に、彼らにとっての二人目の女の子が生まれた。もちろんその間中ずっと耳かきの奥さんのあんとかやんとか言った声を聴き続けたわけだが、不思議とそれには飽きることがなかった。それは僕が異常性癖を持っているか、あるいはあまりの日常的あんとかやんに僕が慣れてしまっただけなのだろう。そのどちらのカテゴリに僕が属するのか、僕自身には判断をつけかねる。
そしてもうそろそろ彼らに三人目が生まれるかもしれないなという時期にさしかかった時、ある五月の晴れた日の夜に、突然耳かきが僕の部屋を訪ねてきた。彼は疲れきった顔をして、僕の部屋に上がりこむなり、居間にあるソファにどさっと倒れこんだ。僕は彼がまともな思考形態を取り戻すまで、床の上に座り込んでじっと黙って待った。しばらくすると彼はゆっくりと起き上がり、非礼を詫びた。耳かきというのは基本的に自分勝手な生き物だけれど、非礼を非礼と知って謝る事も知っているのだ。
「突然すみません。実はあなたに話したい事があってここにきたのですが、なんだか急にめまいがして……。本当に失礼な事をしました」
「別に構わないよ、誰だってめまいくらい起こす。それがたまたま他人の家に上がりこんだ瞬間だっただけだよ」と僕は言った。でも僕にはわかっていた。彼はめまいなんて起こしていないのだ。ただ、彼はなんらかの自体の深刻さについて僕に感じ取ってほしいだけなのだ。「それで、何かあったの?見たところとても疲れが溜まっているみたいだけれど」
「実はそうなんです」と彼は俯き、はあと大きなため息をつきながら言った。「離婚しようかどうか、悩んでいるんです」
「離婚?」と僕は驚いて言った。僕はそう言ってしまった後止まった時を再び動かすために冷蔵庫からビールを四本取り出し、彼に差し出した。彼は礼を言って僕から缶を受け取り、ほとんど一気に飲み干した。離婚、と僕は思った。
「はい、離婚です。精神的な意味でも離婚でもなく、メタファーとしての離婚でもありません。実際的に僕は由香子と離婚しようかどうか悩んでいます。あの紙に名前を書いて、ぽんと印鑑を押すやつです」
「いや、言ってる事はなんとなくわかるけどさ」と僕は言って言葉につまった。「でもさ、君と彼女は上手くいっていると思ってたな」
「上手くいってますよ。こんな事いっちゃ恥ずかしいですけど、なにもかもぴったりって感じのする相手同士なんです」と彼はまだ俯いたまま言った。「料理の好き嫌いから、物事の感じ方から、セックスから、なにもかも」
「じゃあ別れる事なんてないじゃないか」と僕はビールを一口飲んで言った。
「セックスがすごすぎるんです」と彼は水族館の巨大水槽にスポイトで水滴を落とすみたいに、小さな声でぽつりと言った。
「セックス」と僕は絶望的に言った。そして彼が話し出すのを待った。彼はもう一本のビールをゆっくりと飲み干した後に再び話し始めた。
「あなたも彼女の声は毎晩のように聴いていますよね」と彼は言った。僕は黙って頷いた。
「迷惑じゃなかったですか?」
「全く」と僕は言った。全く。でもなんで過去形なんだ?と僕は思った。
「それなら良かった。いや、なかなか訊きづらい事ですから。……それで、どの辺まで聴こえてます?」
「どの辺とは?」
「つまり、夜中の何時まで?」
「十二時までだな。僕は夜中の十二時になると、まるでロボットの電気回路が全部いっぺんにショートしたみたいにがくりと眠ってしまうから」
「そうですか。いやね、あれ毎晩朝日が昇るまで続いていたんですよ」と彼は世界の常識を語るような調子で言った。たばこを吸うと体に良くないとか、火は暖かいとか、そういう事を言う調子で彼はそう言った。
一晩中、と僕は思った。彼女の声は三六五日中三百六十日くらい聴こえていたのだ。
「いや、僕も耳かきですからね、人間よりはずいぶん性欲の強い方ですよ。若い頃なんかは毎日知らない女の子と寝ていました。本当に休みなく毎日。しかしね、由香子は人間だけれど耳かき的な性欲では対抗できないくらい、性欲が強いんです。僕も信じられないくらいです。このままこんな生活が続くと仕事だってろくにできないんですよ。僕の会社はいい給料をくれる代わり、わりに厳しい会社でして、一年間に一度でも遅刻するととてもややこしい事になるんです。給料が半分になったり、とんでもない量の仕事を嫌がらせに与えられたり」
僕は呆然としてしまって、言葉というものが出てこなかった。耳かきより性欲の強い人間なんて知らない。僕の若い頃の友人も女性の耳かきと付き合った事があるけれど、結局は音を上げてしまった。その男も性欲が強い方だったけれど、彼は同棲して三日でげっそり痩せ、僕に「ありゃ、異常だよ」とだけ言ってどこかへ消えた。今でも彼の消息を知るものは誰もいないのだ。No one Knows his whereabouts.He was missing.
「どうすればいいでしょうか?このままだと僕の体は滅茶苦茶になります」
「とにかく、奥さんと一度セックスについてよく話し合うばきだな」と僕は言った。そう言ってしまってから、なんだか僕は急に自分が老け込んでしまったような気がした。「君の悩みを思い切って打ち明けてみるんだよ。奥さんも君の悩みについてきっと理解するだろう。耳かきより性欲の強い人間がいるなんて、ちょっと想像がつかないけど」
「そうですね、妻にそんな情けない事を言いたくはないですが、そうしてみます。セックス以外は本当にぴったりですから」
「がんばって」と僕は彼に言った。
「夜中にすみません、どうもありがとう」と耳かきは言って僕に一礼をし、玄関からするりと出て行った。僕の部屋には三本の空き缶とまだ飲んでいる途中のビール一本が残された。
耳かきの女の子と付き合ってみるのもいいかもしれない、と僕は思いながら、その残ったビールをぼんやりと飲んだ。