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撫子小唄 第二部  作者: 888-878こと
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第二部 「zvamo svabwlua」翻弄の=契機たる 黒神

第二部 「zvamo svabwlua」翻弄の=契機たる 黒神






    三弦木撫子さん 二十一歳 誕生日


    四十六  軋み始める歯車



――私は三弦木撫子――

 交錯する視線は、

眺め合うと形容するのにふさわしい。


 折しも、ヤーセン家の姉妹が、カフェから渡り通路を歩いてくる。

 上の姉が、鍔広の帽子の陰越しに、声をかけてくる。

「あら、オーナー。こんにちは」

――いつもありがとうございます――

 振り返り、頭を下げる撫子さんと一緒に、遥さんも頭を下げる。

「いつもご贔屓にありがとうございます」

 末の妹は、日傘の下から通りすがりに

「ごきげんよう」

と一言ばかり。


 見送り、ようやく樹を省みると、

少年は先ほどの大人びた顔とはうってかわり、

すくめた肩で見上げてくる。

「済みません、忙しい中」

――ううん、気にしないで――


 躊躇いがちに、少年は言った。

「今度、お姉さんの写真を取らせてもらえませんか」

――いいよ――

 華が咲くような笑顔の心が、撫子さんの両目に迫り上がってくる。

「ありがとうございます。それじゃ、また来ます」

 そそくさときびすを返す少年を止まらせようと、

撫子さんがその肩に手を触れると、


少年は、痙攣するように強ばらせた体ではねのけた。

――あ――

「大丈夫」

 遥さんのとっさの言葉は少年に向けられたものだけれども、

気持ちは、撫子さんに向かっていた。

 膝を折り少年と目線の高さをそろえる遥さんの両手から、

半歩退く少年ながらに、

「あ、済みません」

と答えさせる。


 先ほどの朗らかは瞳から姿を消している。


 どうして良いか判らない両手の指先を胸の前で緩く構える撫子さんは、

愛想良く、

――ごめんね――

――良かったら、お昼一緒に食べないかな――

でも、少年は

「大丈夫です。食べてますから」

立ち去ろうとする。


 遥さんが背中越しに呼び止めた。

「樹君」

 振り向く。

「お姉さんと、久しぶりにあったんだよね。

せっかくだから、記念写真撮らない」

「あ、

うん、はい」

 いつの間にかしまってあった使い捨てカメラを鞄から取り出す。

 撫子さんと少年を置いて遥さんが離れてゆくと、


二人、微妙な間隔を開けて突っ立っている。


「撮るよー、はい、チーズ」

 もう一枚撮る、という質問には首を振る少年。

 そのまま、カメラを受け取ると、お辞儀と挨拶を済ませ、

小走りに駆けていった。





    四十七  ア ルミ ホー イ   ル



「銀」を被せた奥歯で噛む。

 唾液混じりのアルミホイルを噛む。


 孤独の狂騒は一晩で健やかを蝕む。


 幾重にも皮脂と共に浸み出し混じり合った汗が立ち上らせる獣臭に覆われた体。

 絡みつく頭皮に強ばった髪。

 落ちくぼんだ目。

 皺、刻まれる様に浮かび上がる隈。

 鼻先の汗腺は滲んだ皮脂の粒が並び、

鼻腔には干涸らびた粘液が複雑に絡み合う。

 唇は乾き喉からは吐瀉物混じりの腐臭が立ち上る。

 脱水に絞り込まれた体は骨を浮かべてやつれる。

 首筋の皮は弛み、

静かな吐息は胸を大きく動かす。

 萎みの腹、青黒い痣の膝、


独り自らを慰める事にも飽き、

享楽も切れ、

呆然と寝転がる。


 足の指を交差させ、解き、また力強く交差させ、

爪は隣の爪のささくれを弄り血が滲んでもまた弄る。


 落ち込めるのはまだしも気力に漲りのある証、

力費えれば落ち込む気力しかなくただただ、

白々に寂寞たる厭世な淡色の時を無為に流し行く。


 こびりついた歯垢はティッシュで拭った。

 チヨコレイトを転がっていくつもの包んでいた銀紙が、

手を伸ばし握りしめると指の形を型取る。

 右手で握る。

 左手で握る。


 窶れた笑いは黄泉の笑い。

 慰みに口に含めば、


唾の軋む音が耳介を打ち鳴らす。

 唾の軋む音が。






    三弦木撫子さん 二十一歳 梅雨


    四十八  雨



 今月は、

月末もとうに過ぎたのに、

何時までもあの子の調子が戻らないのね。


 と、

昨日までは遥さんもそう考えていた。


 デザイナーなんて、プライベートとオフィシャルの区別なんかない。


 二重ガラスの間仕切りに閉ざされた執務室であれこれをひねる撫子さんが時折、

窓の向こう、thy の玄関の扉を眺めていることに気付いた。


 雨。


 年に一度の逢瀬に焦がれる二人を悲しませる雨。


「一時になりましたね」

――そうですね――


 お昼のお誘い。

 ホワイトボードの行動予定表、

撫子さんの欄に、

ランチ

と書き込むと、その下の自分の欄に点々を書き込む。


 傘を取り、ドアを開ける。

 外は、雨音が細くなっている。


――止むでしょうか――

「止むかもしれませんね」


 螺旋階段を打ち付けるヒールの音すら湿り気を帯びる梅雨時の雨。

 渡り通路は、

足音が切れるのを恐れるように、

いつも、誰かが来、誰かが行く。


 客足を遮らぬよう、

来る人が参るまで待ち、

会釈し、

店に入っていくのを見送って

足を差し出す。


 路地に出て、右に曲がる。

「止みますかね」

――止みそうですね――

 ふと、角の家から薄暗く茂った木の枝に、

体の下半分が白い小振りの鴉がとまっているのを見た。


 傘を少し上げるようにして見上げると、

嗄れた雀のような鳴き声を残し、

白く染まった翼の先をはためかせて飛び立つ。

「止みましたね」

 野の鳥など、意に介さぬかのように遥さんがそう言い、

傘をよけ天空に手のひらを見せる。


――そうですか――

 撫子さんが傘を畳まないのは、

雲を貫く紫外線を気にしてのことかもしれない。


 なにか、素直になれない心持ちを誰かに伝えたかったのかもしれない。


 角を曲がると、

路地の中央には、

畳む右手を添えた傘を左手に提げ、

曇天を仰ぐようにのぞき見る小学生の男の子の姿があった。


 撫子さんが傘を閉じる仕草は、

明らかに失敗していて、

遥さんには焦っているようにも勿体振っているようにも見えた。


――樹君――

「お姉さん」


 二人が、

同時に、

笑った。





    四十九  ご招待



「今日、お姉さんの写真撮ってもいいですか」

 雨上がりのアスファルトの上を駆け寄ってきた少年は、

傍若無人なほど澄んだ瞳で撫子さんの方だけをまっすぐと見上げてくる。


――お昼、行こうよ――

「お時間、取らせませんから」

――樹君は、何が食べたい――


「今日は、駄目ですか」


 雨上がりの空の下。

 涼風と薄雲から透き通る陽光。

 土の匂い、緑の匂い。

 壊れた雀の様な、鳴き声の下で三人。


――ここで、二、三枚というのであれば、いつでも付き合えるよ――

――樹君は普段、写真を取られる方の気持ちは考えないのかな――

――君が、私を撮りたいと思うように、私も、こういう写真を撮ってもらいたい、という気持ちがあるんだ――


 見つめ上げられる視線、横から見守られる視線。


――私は、樹君のこと何も知らないんだ――


 真面目に聞き入る顔が、不満げを表に出すのは大人も子供も同じ。

 少年が俯く。


 お互い、頑固気質だなあ。


――次は、何時来れるの――

「判りません」

――どうして――

「施設の人が、許してくれないから」


 多分、撫子さんは平静を装いきれていた、と思いこんでいたと思う。

 遥さんは、

穏やかな梅雨の日が、暗転してゆくのを覚えた。





    五十  お話



「今日、お姉さんの写真撮ってもいいですか」

 見上げて来た顔は、涙を堪えることに慣れた顔だった。


 でも、


撫子さんは思わず、声無き声を立てて笑い出してしまう。

――ここで、二、三枚なら時間は取れるよ――

――でも、その代わりお昼に付き合うこと――

 困ったように、眉間に皺を寄せる。

「そんなお金、持ってません」

 また、撫子さんは笑う。

――私がご馳走してあげるなら、平気でしょ――

――樹君の願いを叶えてあげるから、私のお願いも聞いて――


 いいんですか、という及び腰に耳を傾けようとすらしない。


 少年のリクエストは、

日傘を差したまま、角から歩き出してくる所。

 一度目はシャッターを切らず、

二度目に一度、シャッターを切る。


「さあ、行きましょうか」

 成り行きを見守っていた遥さんの声で三人、

――パスタは好き――

「平気です」

 行きつけの、リストランテへ。





    五十一  別館



 夕方から、再び降り出した雨は細長く、

一年の中で一番日の長い季節を、

塞ぐ。


――早めに、上がります――

 執務室を出た撫子さんは、遥さんにそう告げようと机に歩み寄る。

「お帰りですか」

――ええ――

「早いじゃないですか」

――集中力が途切れてしまいました――

 指先で、持っていたボールペンを弄ぶように一回りさせた遥さんは、

「あの子、樹君。きっとまた来てくれますよ」

と微笑んだ。


 他の職員の脳裏に、

宙に浮かぶ力ない微笑みだけを残して、

撫子さんは雨の街に消える。


 膝丈のキルトに合わせたバックル付きのアンクルブーツは雨仕様のフェイクレザー。

 ニットのカットソーと共地のボレロカーディガンは雨の季節の嗜み。


 明治通りから入った路地の更に裏路地の奥。

 民家と民家の隙間に踏み石が並んでいるのは一見、生活用の私的な通路にしか見えない。


 庇が上手によけた雨に木造の看板が濡れている。


 艶のある生地は柄の躍動感を超えて雨粒をはじく。

 その傘を閉じ気味に絞ると撫子さんは、

屋根に覆われた薄暗い径を潜っていく。

 抜けた先には、陰を上手に取り込んだごちゃ混ぜの空間。

 ごった返さない程度の客で、にぎわっている。

 何段かのステップを上がると、歩み寄ったのは

「tefukws mvsgokhm 咲」

と書かれたオープンカフェ。生憎の雨に、店内だけの営業。


「いらっしゃい」

という朗かは撫子さんを認めると地声に戻る。

「来たんだ、かけていいよ」

 咲さーん、と奥の客に声かけられて、はーい、と歩み寄ってゆく。


 空いているカウンターの真ん中に座るのは会話を期待してのこと。

 戻ってきた咲ちゃんは一笑いで尋ねる。

「ミント、シナモン」

 撫子さんは開いたメニューのアップルティーを指さす。

「オッケー」


 雨音が、土の匂い、古木の匂いを運んでくる。






    三弦木撫子さん 十六歳 春 振り返り


    五十二  昔話



 白熱電球の柔らかい光は、

落ち着きの陰を侍らせて店内を輝きに照らす。

――養護施設か――

 咲ちゃんの働く姿を眺めながら、思い返す。




 夜の渋谷を制服姿で歩く愚は、撫子さんにもよくわかっていた。

 法曹とはそもそも、公権力との対決にさえ勝てれば被害者をどれだけ踏みにじっても悼まない心の持ち主で構成されている。

 いざ被害に遭ってしまっても、みんな、後始末を付けるばかり。誰も、取り戻してはくれない。

 老いも若きも男は莫迦でそれ故鼻ばかり利く。

 女の若い肌艶は老いれば取り返しが付かない希少価値に一層の香気をくゆらせる。

 罪は犯し得。

 富を持たぬ物や年幼い物に傷つけられても一方的に失うだけ。


 焦っての近道が却って駅への道を見失わせる。

 静まりかえった宅地の並ぶ暗がりよりは、

幾分か明るい方が駅に近かろう。

 見ず知らずと二人きりになるタクシーは気が重いが、

珍しくこうも迷うのだから、通りに出て拾ってしまった方が早い。

 と、


明るさを求めて曲がった角の先に伸びるのは、

ネオン煌めくホテル街。

 後背は、暗がりの閑静、住宅街。

 二瞬、躊躇うをするが知らぬ振りで歩き出す。


 暗がりと、茂みは怖い。

 突然襲いかかられても、そういう趣味だと思われるが堕ち。

 連れ込まれれば最後。

 そうでなくても人通りは少ない。


 二人、腕を組んで歩いているなら、それが男同士でも寧ろほっとする。

 暇そうに、一人で歩く男の方が気にかかる。

 制服の女の子が、小太りのスーツ男に腕を組む。


 ホテルに入ろうとした所で、いざこざ。

「えー、お金見せてよ」顔を擦りつける。

「そういうのはさ、後でいいじゃん」

「見るだけだから」

「ほら、人来ちゃうよ」

 そういわれた女の子は、自分より頭二つ分背の高い撫子さんを見上げ、

瞳に敵意を込め、

その視線を撫子さんが冷めた目で受け止めると、

急に下を向いた。

 そして再び男に「関係ないよ」と甘えた声を出した時、

ほんの一回瞬きする間だけ、その瞳が撫子さんに漂い、即座に男に戻った。


 情にほだされる人間というのは、

地上で最も唾棄すべき人間だと思う。


 撫子さんは、腕を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。





    五十三  人鏡論



 制服の女の子が、驚いて撫子さんを見上げる。

 その驚きが男の腕にぶら下がる腕に力を込めさせる。

逃げられなくなる危険を感じた男は、

慌てて女の子の腕を振り払うと、

小さく縦に引きつって開いた口から食いしばった前歯を見せつつ、

縦に見開かれた目の奥で、瞳を、

人が隠れていそうな暗がりや茂みに素早く動かすと、

短く勢いよく漏れる息をかけ声にして、

人気の無い方向へ走り出した。


 男との距離が開いてから、女の子が我に返る。

「あ、ちょっ、待ってよ」

 撫子さんが、力を込める。

「んだよ、離せよ」

 その間に、男の姿が完全に消える。

「あっ」

 女の子は状況を飲み込むと、さっきとは違う敵意を込めた目で見上げてくる。

 見下すつもりはないが、女の子から頭二つ分高い上背で見下ろすと、

背の低い方は敵意と侮蔑を感じてしまう。

 離されかけた手を振りほどく。

「苦労して捕まえた客なのに、どうしてくれるんだよ」


 人助けをしたつもりはない。正義を振りかざしたつもりもない。

 行いを未然に止めた所で誰も喜ばないことは知っている。

 ただ、人の意にそぐわないことをした自覚はある。


――ごめんね――

「あ、なんだよ」

――ごめんね――

「口だけ動かしてねえで、なんか言えよ」

 人が集まってきたわけではないが、さすがに周りの視線が気になる。

 長居する所ではない。

――もう、行くね――


 振り返ろうとする撫子さんを、女の子が捕まえた。

「待ってよ。あんた普通の家の子でしょ。十万だけ貸してよ」





    五十四  入り口



 漫画喫茶のペアシートに潜り込んだのは、

同世代の女の子とはいえ、見ず知らずの人間と二人で話すのにそこが一番安全だと思ったからだ。

 相槌以外を携帯に入力することで会話する撫子さんに合わせるように、

最初こそ自分も携帯に入れていた女の子は、

途中から面倒を感じてか、潜めた声で話し出す。


 撫子さんは、

女の子が「鯉村咲」という名前であること、

自分と同い年の十六歳であること、

小学校高学年の頃から、両親の離婚などが原因で施設暮らしであること、

どうしても十万が必要なことを知った。


 どうして、必要なの


 短い単語で尋ねた撫子さんに、咲ちゃんは言い渋った。

「そんなことよりさ、あんた使わないんだったら、パソコン使ってもいい。

私、次の客見つけるから」

 マウスもキーボードも使い慣れていないのか、

たどたどしい手つきで操作し始める。


 それで、いいの


 撫子さんが携帯画面を差し出しても、咲ちゃんは相手にしない。

 撫子さんは、鞄を開けると財布を確かめた。

――なんで、こういう時だけ持ち合わせて居るんだろうな――

 携帯を打ち込む。


 十万あれば、そういうことしないんでしょ


 きっちり十枚を差し出すと、席を立つ。

「待って」

 今度は、撫子さんが掴まれる番だった。

「ありがとう。ちゃんと働いて返すから、連絡先、教えて」

 フリーメールのアドレスだけ伝えた。

 咲ちゃんはメアドからその意味を悟りながらも、健気にメモをした。


 どうやって帰るの


「今更帰っても騒ぎになるだけだから、明日ここから直接学校に行って、そして帰るよ」


 どうして、必要なの


「信じないと思うけど」

 そうして、咲ちゃんの語り出した物語は、この後何度も撫子さんを苦しめた。





    五十五  夜伽語り



 擁護施設なんて言っても、誰も擁護なんかしてくれないんだ。

 あたしんとこは最悪でさ、男女一緒の建物なんだ。

 中学出て直ぐ働き始める子もいるけど、大学に通っても、まだ施設暮らしの奴もいる。

 男の方が力があるじゃん。だから女はみんな、おもちゃにされるんだ。

 大人に言っても無駄。

 わざわざ男達に「そんなことしたのか」って聞いて、「してません」て答えたら、

「してないって言ってるぞ」それで終わり。

 もっとひどい目に遭うんだ。

 慣れたけどね。


 虐待する人間としてだけど、私は親を知ってるんだ。

 親を知らない子がいてさ、妹みたいに可愛いんだ。

 いつか、初恋の人と結ばれるのを夢見て、

そんな施設の中でも健気に頑張ってる。可愛いよ。


 最近、男達に目を付けられ初めてさ、匿ってんだけど、連れて来いってしつこくて、

お金を渡すようになったら、どんどん要求されて。

 それでお金が必要なの。


 信じなくていいよ。

 でも、ほんとのことだよ。





    五十六  会える



 結局、撫子さんは咲ちゃんと朝まで過ごした。

 静寂の朝日が奇妙に清々しい。

 シャワーを浴びさせて、モーニングをおごり、タクシー代を握らせて見送った。


 一晩の、思い出。


 その筈だった。


 二週間も経たずに、フリーメールから「会える」と尋ねるメッセージが転送されてきた時は、

結局、そんな所か、と鼻で笑った。

 時間に余裕があったから、夕方の繁華街を指定した。


 撫子さんを見た咲ちゃんは、優しそうに微笑んだ。

 二人きりになった所で、告げられた。

「あの子、自殺しちゃったんだ。あの晩、ヤられちゃっててさ」


 咲ちゃんの涙が枯れるまで付き合おうと思った。

 涙が枯れることはなかった。


「普通の、普通の家庭で暮らしたいよ」





    五十七  里親捜し



「犬や猫を飼うのとは訳が違うんですよ」

 春先の肌寒さにはコンサバトリーのぬくもりが心地よい。

 祖母は撫子さんの話を聞き終えてから、

ゆっくりと紅茶を口元に運ぶと、香りを楽しんでからそう言って、

口に含んだ。


「もらわれる方が望んでも、そんな子望む人たちが居るかしら」

 老婦は決して、人を嘲り軽んじるような言い方はしない。

 ただ、他人事としての冷静さを前面に出して、撫子さんに現実を見せつける。

――私が、一緒に暮らします――

「あなた同い年の方の親になれるだけ人格が育っているの」

 突き刺さる。


 自分の意見を否定したくての問いではないことは理解している。

 話を続けてゆく為の確認であることも理解している。

 それでも、祖母が寄せる問いに身がすくむ。

「それに、お金でその方の心が救えるわけではないのよ」

――はい――

「それに、平八郎の居ない席で切り出したこと自体がいただけないわね。

私が納得しようとしまいと、あなたのお爺様が納得しなければ何も決められませんよ」

 そこまで言うと老婦は、伴侶を呼ぶ為、無慈悲にも卓上の鈴を鳴らした。


 老爺は、歳を感じさせぬ大きな背中を背もたれに預けて、撫子さんの話を最後まで聞いた。


 そして、

「撫子は、自分の今の境遇に不安なのかな」

――不安――

 撫子さんは少しばかり自分を考えた。

――そうかも知れませんね――


「今、撫子には私たちの与えた富がある。

しかしそれは私たちが与えた仮初めの富で、撫子の力で蓄えた富ではない。

だから、不安にも成れる。

私たちは、撫子の話を聞いても、それも世の中、と割り切ることが出来る。

私たちが、ここまで来る途中で、一つ一つの悲しい物事に捕らわれていたら、

果たしてここまで来られただろうか。


いつか言ったかも知れないが、

富は一所に縒り集めて初めて富で、解せばただの埃だ。

富で世界を救っても、世界を怠惰に貶めるだけだ」

 老爺の話は続く。

 撫子さんは途中から、

俯くように視線をそらして、

そして聞いていなかった。


――私には人一人救うだけの富があります――

 言い返す。

 老爺は、真っ直ぐに撫子さんの口元を見つめてきた。

「無い。

あるのは救いたいという気持ちだけで、

それが相手に必要なものだとは限らない」

――でも――

 老爺の言葉は、どこまでも静かだった。

「他人の道筋を曲げる行為なのだよ、それは。

人の身で神にでも成った気分を味わいたいのか」


 その言葉は、堪えた。

 悲しくもないのに、涙が出る。

――例え神に堕してもかまわない。私はあの子の涙を受け止めてしまったから――

――他の何百人も見殺しにする代わりにでもかまわない、あの子の気持ちを救いたい――


 老婦の差し向けてくれたハンカチを手に取る。

 老爺は撫子さんを見つめ続ける。

 老婦は一度席を外すと、ポットに暖かいお茶を入れ直してきて、それを全員のカップに注ぐ。

 口を付ける。

 涙を拭い、息を整える。


――愚かな事なのは判ります。エゴなのも判ります――

――悪魔の救いを振るうのは一度だけでこりごりです――

――でも、一度だけ悪魔で居させてください――


 老爺の冷静に比べれば、老婦のそれは冷酷を孕むのかも知れない。

「犬猫の里親を捜すようには行きませんよ」

 そこで老爺の顔に苦笑いが、

「花枝、里親は人にだけ使うべき言葉なのだよ」

「あら、そうなの」


 生まれた苦笑はそれでも、

この席で、初めての笑いだった。





    五十八  お爺ちゃん、お婆ちゃん、ありがとう



 空間デザインの会社設立を再来月に控え、

一週間は、慌ただしく過ぎていった。


 独立、と言っても大した独立ではない。

 建築家としてもデザイナーとしてもエスプリを世に馳せる祖父が、

孫のお守りと抱き合わせて、はみ出し者の独立を支援したに過ぎない。

 祖父にしてみれば「お手並み拝見」とでもいった所か。

 当人達には必死ではあるが。


 三人揃って夕食を、という名目で、一週間ぶりに祖父母の家に顔を出す。

 どちらかといえば、話し敵になってくれるのは老爺の方だ。

「どうだ、あちらのマンションは」

――天井が高くて、とてもいい部屋です。見晴らしも――

――ただ、一人でワンフロアは――

「一間ひと間、自分でアレンジしてみなさい。自己模倣にならないように」


 食後、老婦と共に食器を下げ、お茶の用意をして、卓に戻る。

――鯉村さんの話なんですけれども――

――夏山さんが、同居してもいい、と言ってくれています――

「論外だな」と老爺が応ずれば、

「あの子にしては消極的すぎるわね。あなた、相当頼み込んだんじゃないの」と老婦もにべもない。


「世の中には」


 老爺がゆっくりと語り始めた。

「お前のように、その年でのびのびと一人暮らしを過ごすことが出来る者もいれば、

妻子を抱えて路頭に迷う人間も居る。

お前の部屋がいくら広くとも、そんな人たちの全てを救えるわけではない。

救ったつもりでかくまっても、更に堕してゆく者も居る。

お前の会社も、中には、内外装のイメージチェンジを最後の賭けとして取り組む客も訪れるかも知れない。

そういう客に情けをこぼして安価に引き受けても、

お前は良くてもお前の下に就く人々が苦しむこととなる。


人は、精一杯自分一人を救い上げて初めて、気が付いたら周りの人に幸せをもたらし、

その一方で誰かを苦しめて行くことしか、


出来ないのかも知れないね」


――路頭に迷おうとも――

――家族が居るならそれだけで幸せではないですか――

――二親を失った私が――

――似通った境遇の人を――

――二人だけ手助けしてあげるのは――

――世の中から見てもそれほど悪いことでも無いのではないですか――


 撫子さんが不敵にそう言い切ったのは、怯えからで、老婦は言葉の端を即座に捉える。

「もう一人はどなた」

――判りません――


 老爺と老婦は、目線だけを一度合わせ、揃って撫子さんを見つめ直す。

「どうして、二人なんだい」


――私なりに考えました――

――一人なら、気の迷いで終わってしまいます――

――三人も手助けしたら、何人でも一緒、と心の歯止めが無くなるでしょう――

――二人なら、今回の時の反省を教訓に出来るかも知れません――


――それに――


――次が最後であれは、人選が慎重になりませんか――




 穏やかに、あきれ顔を浮かべる二人。

 一息、カップに口を付ける。

「あなた最近、咲ちゃんに連絡はしたの」

――して、ません――

 問いかけに、言葉が詰まる。

 でも、大事な事は、聞き逃さない。

 気まずさで、背筋が丸まるのに、瞳が、期待に見開かれる。


「そんなことで、本当に心配していると言えるのかしら。

咲ちゃんにはつい昨日、女の子だけの養護施設に移ってもらいましたよ、

あそこなら少人数だし。


そこでも、私の方でも今、里親を捜しています」


 撫子さんは、老婦が語り終えるまで、気が付けば息を止めていた。

 はき出す。

――本当に、ありがとうございます――

 安堵に、一粒ずつの涙がこぼれる。


 老爺が、釘を刺してくる。

「花枝がお前の力に成ったからといって、

私たちが、諸手を挙げて賛成すると思ってはいけないよ。

私は、この件には反対だよ。


二人目は、簡単に選んではいけないよ」


 ダイニング向こうのコンサバトリーの更に向こうの、

闇に柔らかく目を向ける。


――判りました――

――お爺様、お婆さま――

「うん」

――本当に、ありがとうございます――





    五十九  センジョウ



 女の尊厳を踏みにじる不埒に、

老婦は容赦をしえなかった。


 数日後、咲ちゃんから連絡があり、また、会った。

「施設、移ったんだ」

 良かったね、と打ち込んだ携帯の画面を見せると、咲ちゃんは首を横に振った。

「私だけじゃ、辛い」


 事を大げさにしない為に少しばかり時間をかけたが、

老婦はその中で最小限の被害の内に、件の施設の経営者を変えた。

 週刊誌こそ嗅ぎつけたものの、確証の取りきれない覆面記事で終わり。


 犯人といえる指導者も男児達も、誰一人裁きを受けるものは居なかった。

 慎ましく女の性が姫事である限り、


社会は、歪みを孕んで歩み行く。


 月が巡り、また、咲ちゃんから呼び出された。

「新しい両親が出来たんだけど、なんか、複雑」

 咲ちゃんはそう言って、顔を左右に引っ張る含みも残しつつ、朗らかに笑った。




――五年前――

 話しかけてきたのは、咲ちゃんの方から。

「珍しいね。デザイナー直々に分店の方にお出ましなんて」

 目を合わせず、口角をつり上げて返す。

「何しに来たの」

 携帯に、打ち込む。


 マスターの顔を見に


「普段連絡してこない癖に、

この間会ったばかりじゃない」

 一言を区切って、咲ちゃんが続けた。

「ほんと君は、いつだって何も教えてくれない」

 笑顔でもなく、嫌みでもなく、悲嘆もなく、諦めるでもなく。


 その言葉に、撫子さんが慌てて携帯を打ち込む。

 thy の組織がいくらか大きくなっても、

一言で撫子さんが態度を改める人は、

咲ちゃんしか居ない。


 昔、私の写真を撮った人が現れた

 私とお話しできる男の子


「へえ。

 良かったじゃん。

 幾つぐらい。格好いい人なの」


 十歳、小学五年生

 施設で、暮らしているって






    三弦木撫子さん 二十一歳 梅雨 再び


    六十  啓示



「続きが、

あるんじゃないの」


 雨音。

 木造のカウンターが柔らかい。

 お茶と、お菓子の匂い。

 誰かが残していった、

煙草の残臭。


 どう思う


「どうって、あ、いらっしゃいませー」

 挨拶の仕方がお互いうち解けている。

――常連さん、かな――

 咲ちゃんが体調を崩せば、その日はお休みの店。

 千世子さんの手のひらの中とはいえ、

仕入れも仕込みも全て一人。


 ミネラルウォーターのお冷やとメニューを運び、

注文を取り付ける。

 雨に、肌寒くなってきたからか、ホットの注文が入る。

 カウンターに戻り、注文を揃える咲ちゃんは、

大人しく待っている撫子さんに、

「出してあげなよ」

と答えた。

「その子が二人目。それで君の役割は終わり。

その続きは私達の番だ」


 そう言い残してオーダーを届けに行く。

 背中を見送る。


 人は、強くなれる。




 その足で、祖父母の住居を訪ねた撫子さんは、

老婦の用意してくれたココアを飲むと、話を切り出した。


――二人目を、見つけました――






    三弦木撫子さん 二十一歳 晩秋


    六十一  雨の客人



 暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったもので、

彼岸を過ぎた途端、日々が過ごしやすくなったと思ったのもつかの間。


 月が変わった途端の、

雨。


 傘を差し、一人で昼食を取りに行く。


――痩せたなー――


 腕を包むカーディガンの袖に、いくらか余裕を感じる。




 夏の日差しは、灼熱に煽情を孕み降り注ぐ。

 汗と、湿気と、異臭と、うだり。

 不愉快ばかりだけれどもどこか、

世の中が解放に躍動している。


 その気がなくとも、お日様が陽気をそそのかすのに、

気持ちが晴れず、

沈んで過ごす夏は、

切なさが孤独に惨めを感じさせて、辛かった。




 だから、空が昨日と今日とで極端に変わろうと、

季節を落ち着かせる雨には救われる。


――樹君とは、もう会えないのかもな――

 行きつけのレストラン。いつもの、窓際の席。

 食欲が無いままに、サラダとスープを頼む。




 単純で純粋な善意のつもりでしかなかった自分が愚かだった。

 一方的に仕掛けられた取り合い合戦は突然の後手が後手に回り、

気が付けば新たな家族となるはずのたった一人の一人は、

個人情報のマオアーに阻まれ、

得体の知れぬ家庭に飲み込まれていった、


らしい。




 一時、祖父母も遥さんも、誰も信じられなかった自分が小さく見えて、

それでも、一体誰のせいにして良いのか気持ちの整理が着かなくて、

一人で過ごすことが多くなった。


 だから食事を終えて、

支払いを済ませ、

ゆっくりと thy に戻っていった時、

最後の角を曲がったところで、


白いランニングとパジャマの下だけで、

両手で両腕を抱え、

背中を丸めて雨に打たれている丸刈りの少年を見つけた時に、


平静を装って呼びかけた。


――樹君――





    六十二  笑顔



 振り向いた少年は、

秋らしい細かな雨に濡れそぼっていることを、

無視することで無かったことにするかのように、

日常の

笑顔で撫子さんを見上げてきた。

「こんにちは、お久しぶりです」


 撫子さんも、何事もなく返事を返す。

――久しぶりだね――

――元気――


 少年が、笑顔だけで答えるのを見て、

撫子さんは一歩近寄る。

 傘を持つ右手を大きく突き出す。

――濡れちゃうよ、入っていきな――

 寒さから両手で両腕を抱える少年は、首を左右に振って後ずさり。

「お姉さんこそ、濡れますよ」

 左手で不器用にカーディガンを脱ごうとしても、雨がまとわりついて格好良くは脱げない。

 それを何とか脱ぐと歩み寄り、黙ったまま見上げ続けていた少年に羽織らせる。

 遠慮がちに、後退しようとする少年の肩を捕まえる。


――雨の日に、全く濡れない人はいないよ――

――よっていきな――


 背中を丸め、左手で少年の体を寄せる。


 thy の建物が、懐深く、二人を招く。





    六十三  憤怒



 遥さんは時計を見ながら、デザイナーおそいなー、と考えていた。

 夏以降、めっきりと落ち込んでしまい、仕事にもメリハリがでない。


 それじゃ、困るんだよな。


 マネージャーとしての役分もある。

 もう一度、お話か。

 そう思っていると帰ってきた。


 一人の、ずぶ濡れの少年を脇に従えて。


「お帰りなさい、どうしたんですその子」

――樹君が、久しぶりに顔を出してくれたんですよ――

「おお邪魔します」

 吃ったのは、体の震えから。

――タオルとか、有りませんでしたか――

 あくまで、もの柔らかに。


「買いに行かせます」

 遥さんが近くにいた社員に声をかけると、

撫子さんは遮るように手のひらを前にかざす。

――応接、空いてますか――

「空いてます」


 撫子さんは背をかがめず、少年に丁寧に尋ねた。

――ケーキ食べて行きませんか――

 頷く。

――コーヒーと紅茶、どちらがお好み――

「紅茶で、お願いします」


 対照的に硬い表情の遥さんは、自ら階下の喫茶店に足を運ぼうとする。

 少年を別室に促しながら撫子さんは、

――マネージャー、ハーフコートを一枚、買い取らせてもらっても良いですか――

 遥さんが頷きながら出て行く。

「済みません」

 見上げてくる少年に笑みを与える。

――折角来てくださったお客様へのおもてなしですよ――





    六十四  激怒



 雨が素材のほのかな香りを漂わせる、


 夜。


 連絡を受けた老夫妻が待っている邸宅に、

撫子さんと遥さんが少年を連れてやってきた。

 スニーカー。少し緩めのデニムにシャツとトレーナー。

 それらを覆っているハーフコートは、少年の膝下まで。

 全てが、新品。

 長すぎる袖の右腕は、寒そうに体に巻き付けられ、

左手は撫子さんの手をしっかりと掴む。


「いらっしゃい」

「良く来ましたね。ベッドの用意は出来ていますよ」

――体を拭いてあげたいのですけれども――

 少年はとっさに、

「いい、良いです」

後ずさり。


 老爺が上がり框にしゃがみ込む。

「お爺ちゃんとじゃだめかな。男同士なら良いだろう」

 肯んじない。

 老婦は老爺の肩に手を置くと、穏やかに促した。

「それじゃ今日はもうおやすみなさい。風邪をしっかり治さないと。薬は飲んだの」

 撫子さんが、まだ、と答えると、白湯をもっていくから、と客室に連れて行くように告げ、奥に向かってしまう。

 撫子さんに促されて上がる少年は寒気に気を取られていたから、

 よほど遥さんの方が固くなって上がった。


 少年に真新しいパジャマを持たせ、先に寝室に入らせて、着替えが終わってから二人も入る。

 ベッドは二台。

 片方に入るように促すと、まもなく、老婦が白湯を持ってきた。

 撫子さんは鞄から薬局の袋を取り出すと、男の子に薬を渡す。

 ぬるま湯で三度目に飲み込むことに成功した男の子と少しの間お喋りをし、

――ちょっと下に降りてくるけれども、その間遥さんが居てくれますから――

と言い残す。

 少年は、聞き分けも良く頷く。




――どこまで、知っていたのですか――

 撫子さんの言葉は鋭く響く。

 肘を突いた両手を口の前で結んだ老爺が、その手を静かに前に倒して答えた。

「八月中旬に、少年野球のチームに入れられた所までだ。最近のことは知らないよ」

――こちらで保護してあげるということで宜しいですか――

「金子さんと相談してみるのは」

――里親から逃げてきた子をまた別の里親に託すのですか――

――施設も、里親ももう沢山です――

――きっとあの子はそう思っているはずです――


「撫子としては」

――養子にします――





    六十五  朝



 細くなったままいつまでも降り続く長雨が夜明けとともに過ぎ去った週末初日の朝。

 早くに目覚めた少年は一人でトイレに行こうとベッドを降りる。


 昨日、夜中のうちに仕事から戻った撫子さんが、

隣のベッドで寝ている。

 起こさないように静かにドアを開けたのだが、

トイレから戻ってきたときは、ベッドに腰掛けていた。


――もう、起きるかな――

「ごめんなさい」


 都内のくすみのない、雨に洗われて空が深みを虚空に突き抜ける、

窓と陽光。


――私も、ちょうど目が覚めたところだよ――

 首を横に振る。

「多分もう直りました。施設に、戻ります」

――まずは体温を測ろうか――


 撫子さんは、穏やかな口調でそう言いきると、体温計をティッシュでぬぐい、

スイッチを入れて手渡す。

 少年は、おとなしく受け取る。


――私は、会いに来てくれて嬉しかったよ――

――しっかり直ったら、ゆっくりお話ししよう――

 無表情の笑顔で頷く十一歳。





    六十六  昼



 二度寝は、深くなる。


 撫子さんが目覚めると、すでに少年の姿はなかった。

 寝間着のまま階下に降りると、

やはり寝間着のままの少年が、

老婦の作った粥を食べていた。


「おはようございます」

――おはよう――

「あなたも食べる」


 撫子さんは、少年の向かいに座り、香草の入った粥を頂く。





    六十七  夕



 窓から差し込む茜色の光線は、

夏以外の季節、

何かを、

思い出させる。


 老爺と少年が、パソコンの前に座っている。

「そこをあけてごらん。そう。そこからカードを出して。

それをパソコンのあそこに入れて。

そうして、こうすれば、ほら」


 自分で撮った写真が、画面いっぱいに広がるのを見て、

少年は、目を見開く。


「このマウスで、ここのボタンを押していきなさい」

 黙ったまま、少年は次々写真を繰っていく。





    六十八  晩



 だらしなくテレビを付けることはなく、

間接照明に埋もれぬように蝋燭の光が胸を張る食卓。

 老婦の手際を、ほんの少し撫子さんが手伝った夕食を食べ終え、

デザートと食後のお茶を嗜む四人。


「樹君は、もう熱は計らなくて良いのかな」

「平気でしょう。夕方も平熱でしたし」

 老爺の言葉に老婦が応える。

「樹君、おじいさんの話を楽にして聞いてくれるかな」

 少年は、改まって三人を見つめる。


「樹君はこれから、どうするつもりだい」

 俯く。

「叱るつもりじゃない。君はここに来てから、叱られるようなことは何一つしていない。

だから、遠慮せずに聞かせてほしい。

樹君、君自身はこれから、どうしたいんだい」


 沈黙。

――私は、君と暮らしたいんだけど――

 撫子さんが口を開いたのは、下に向けたままの少年の視線が自分の方を掠めた瞬間。

――君が、自分のことを話したくないなら、私も、無理には聞きたくない――

――ただ、ただいまって帰ってきた時、君が、おかえりって迎えてくれたらいい――

――逆に、君の帰りを待っているのでもいい――


 まっすぐに、少年を見つめる撫子さん。

 尖らせた口、そらした目、丸まった背中、一粒の涙。


――君だけが、辛い思いをしてきた訳じゃないよ――

――私も施設に居たことがあるんだ――

 老夫婦が目を細める。

 少年は、顔を上げる。

――私達は、お父さんとお母さんを亡くしてしまったから――

 思わぬ口が、ゆっくりと縦に開く。




――話をしたくないなら、したくなった時に教えて――

――明日、児童相談所の人が来るから――

――その人に言えば――

――ここに居ることも、ここを出て行くことも自由だから――

「また、カメラでも触ってみるかい」

 老爺の出した助け船に救われたのは、

少年の方か、


それとも、





    六十九  依怙地



――熱っ――

 紅茶を、

良く冷まさずに口に運び、あわててティーカップからこぼすのはこれで二回目。

 まだ日も昇り切らぬお昼前、

居間。


――天気はあきれる程良いのに、私達はどうしてこんな所に閉じこもっているのだろう――

 と、二階の寝室を気にする孫娘を、老婦は意に介さぬように落ち着き払い、

植木ばさみを手に一人コンサバトリーに向かう。


「俺はこっちの奥に座るから、樹君はそっちの、ベッドの上あたりに座ってよ」

 さっき自己紹介を受けたこの男の名前を、少年はもう覚えていない。

 背丈以上に細身が背丈を見せる背中を、申し訳ないかのような謙虚に丸める穏やかな笑顔。

 両手をテイラード・ジャケットのポケットに納めたカーゴパンツ。

 子供の目から見ても、中年じみた野暮ったさはないが、お兄さんと呼ぶにははばかられる程度の年格好。

「緊張してる。俺も緊張してるよ」

 そう言って、笑う。




「だから、施設に戻るのが一番、誰にも、迷惑をかけないんですむんじゃないかと思います」

「そっか」

 男が絶やさない穏やかな笑みに少年は、油断すまいぞ、の心意気で対峙する。

「ここでも施設でもなく、築志さんの所に戻りたいとかはないの」

「嫌です、築志さんの所は嫌です」

 焦りは、素直に表情にでる。

「そっか。

音朝の家に戻りたいの」

 この質問には、少し時間をかけて答えた。

「別の所にしてもらうことは出来るんですか」

「どうだろう。やっぱりこれまで樹君の過ごしてきた施設の方が、

指導員の人たちも、お兄さんお姉さんも、樹君のことをよく知ってるから樹君も過ごしやすいんじゃないかな」

「別の所にはしてもらえないんですか」

「うーん、僕じゃ決められないからね、ちょっとわからないな。

音朝の家には戻りたくないの」

「はい」

「じゃあさ、ここにいたら良いんじゃない」

 男の、笑顔は続く。

 少年の、苦悩の表情も続く。


「ご迷惑ばかり、かけられませんから」

「樹君はさ、

あ、疲れた」

 首を横に小刻みに振る。

「施設に戻ったら、どうしたいの」


 答えるのに、時間をかけた。


「みんなと、仲良く過ごせたらいいです」

「もし、ここにいられたら、何をしたい」

 間。

「写真を、取りたいです」

 男が初めて見た、緊張からほどかれた少年の顔は、夢に思いを馳せるくつろぎの地平。

「じゃあさ、ここにいたら良いんじゃない」


「ご迷惑を、かけ続けるのは良くないです」




 少年を、上の寝室に一人残して松島は降りてきた。

「三弦木さんは、ご主人も奥様も、彼を養子にするご希望に代わりはないんですね」

 老婦がうなずく。

「あの子、どうしてもここに居たいとは言わなくて、

でも、ここに居たいと思っているのは間違いない、と、思います。

とりあえず、今日は僕だけ帰ります。

また二週間後に訪問させてください」

「ありがとうございます」


 二人で、松島を送り出すと撫子さんは、

階段を上がり寝室のドアをノックした。

「どうぞ」


――お昼に、しようか――





    七十  ようじょ



 このCM、さっき「今日の占い」の後でも流れていたな。

 そう思った時ははや夕暮れ。

 部屋の隅が橙に灼ける薄暗がりの中、同じ、座ったままの姿勢でテレビを見つめる。


 時計の針を見るのも久しぶりなのか、首を動かすだけで肩と背中が鈍いテンポを奏でる。


 もう、こんな時間か。


 頭では、空腹を理解している。

 しかし体はそうは言わない。

 何かをしなければならないと腰を上げる。

 いつの間にか、垂れ流していた尿が床に溜まっていて、足を汚す。


 シャワー浴びないと。


 足が痛い。

 座って、床にへばり付いていたところが痣になっている。

 歩く為に足を曲げると、そこかしこが痛い。


 床も、拭かないと。


 パソコンに向かう。

 椅子にかけると座面を汚すから、立ったまま、起動を待つことにする。

 モニターを横から軽く、何度もはたく。

「ほらほら、お前はいつも遅いな

さっさとしないとコーヒー飲ますぞ」

 画面に表示した口にマグカップを宛がうと、そこから物欲しそうに沸騰したコーヒーを飲み込む。

 飲んでるようひゃひゃひゃっひゃ。

 無目的に、いつもの巡回経路。

「幼女萌え~」「氏ね」とチラシの裏。


「お尻が、

膨らみ、

かけてる、

幼女」


「お尻が、

膨らみ、

かけてる、

幼女」


 何度も、繰り返し呟いているうちに、何かリズムが生まれてくる。

「お尻が、            

     膨らみ、        

         かけてる、   

              幼女」

        「 お 尻 が 、

         膨らみ、    

    か け て る 、    

     幼女」         


 日が暮れる。

 テレビとモニターの灯りだけの室内。

「お尻が膨らみかけてる幼女」「お尻があ、

               膨らみい、

              かけてるう、

                幼女お」


「俺の言うことを聞かない奴が悪いんだ」





    七十一  悪意



「ただいまー」

「お帰りなさい」

 エプロンを付けた老婦が、奥から出迎えに来る。

 靴を脱ぎかけた姿勢から立ち上がり直し、気をつけの姿勢から頭を下げる。

「ただいま、戻りました」

「いつまでも、気を使わないのよ。早く上がって、手を洗いなさい」

「はい」

 古ぼけたランドセルを玄関脇に置き、上がり込む。

 洗面所で手を洗うと、自分用にと宛がわれた部屋へ。

 通学用にしているお古を脱ぐと、自分用に買ってもらった、服に着替える。


 机の上、専用のケースに収められたカメラを取り上げる。

 財布や、キーホルダーが収められたポシェットを取り上げる。

 下に降りる。

 挨拶をするために、食堂に出向くと、お茶が用意されている。

「撮影」

「はい」

「お茶ぐらい、飲んでから行きなさい」

「はい」


 かしこまって座る。

 お茶とスコーン、どちらから先に手を付けるべきかとまどう。

 同席した老婦を盗み見ても、視線を合わさぬようにか卓上の花を眺めやりながら、


落ち着いた、嫋やかな指先。

 結局、お茶から口を付ける。


 出がけを見送られる。

「まだ、うちの子になる気は無いの」

 沈黙の後の「すみません」

 いつものような明るい笑い声。

「良いのよ、ただ『お茶に付き合ってくれてありがとう』とお礼を言わなくてはならないわね。

 帰りは、撫子と」

「はい」

「車に気をつけてね」

「はい」




 傾いた陽光の中、町を目指して歩き出した少年の胸に、

いくつもの大人の顔が去来する。

「学校に行くのは誰のためだと思って居るんだ」

「俺を困らせたいのか」

「よく考えてみようか、誰が一番、君の味方なのか」

「お古がいいとか言って、俺に恥をかかせたいんだろ」

 全て、別人の言葉。なのに、言葉の裏側に利己があるのは驚くほどの共通。


「おまえのために、新品のランドセルを用意したんだぞ」と言われても、

五年生の教室に、二学期の途中から転校生として入って行って、

おぼっちゃまだ、と言われれば、それで全ては終わり。

 実態を見ない大人ほど、「何で」と聞いてきて、本当のことを告げると、向きになる。

 あなたを否定したわけではないんですよ、という言葉は、心の中で我慢して、とにかくやり過ごすしかない。


 多分、この世は、


 多分、殺されることだけはないんだ、と、思う


 事で、生きながらえてきた。


「信じても、いいのかな」

 駅の改札口を、カードをかざして通り抜ける。行こうと思えば、どこにでも行ける金銭的余裕という自由。





    七十二  待ち合わせ



「こんにちわー」

と少年が上がり込むのはおそるおそる。

「あ、樹君来ましたよー」

 女性ばかりの職場では、無意味に歓迎されてしまう。

 幼くても男。

 そういう意味で、

 照れる。


「デザイナーもマネージャーも、今日は出かけていてまだ戻ってきてないの。

そこの応接で待っててもらってもいい」

「じゃあ僕、もう一回出かけてきます」

 小学生が持つには本格的なサイズのカメラを提げたまま、少年が、

応対してくれた女性が止めようとするのも気にせずに扉を開けようとすると、

扉が、外から引きあけられる。

「ただいま、あ、樹君こんばんは」

――来てたんだ、遅くなっちゃったね――

「あ、いえ」

 遥さんに続いて撫子さん。

――ちょっと待ってて。一通り片づけたら帰り支度をするから――

「その間、撮影してきてもいいですか」

 撫子さんは先に自分の上着をハンガーに掛けると、

一旦机に荷物を置いてから上着を掛けに来た遥さんから受け取り、隣のハンガーにそれも掛ける。

――三十分待って。その代わりその後付き合うから――

 机に戻りながらの遥さんは聞き逃さない。

「デザイナー」

――持ち帰ります。明日の朝も八時に来ますから――

「了解です」

 目を伏せるようにして、莞爾と笑む。





    七十三  ぽかぽか



 如何に暦の上で霜が降ろうとも、あたりを取り巻く季節の便りは晩秋と言うにはまだ、

暖かさが二た摘み残っている。


 地下に構えたショップが、

定休日から一週間ほど営業を止め、内装の手直しや商品の入れ替えを行っている間、

お日様さえ、機嫌を損ねなければ、

地下庭のテーブルは、お茶向けの日だまり。


 やや濃いめのベージュのナイロンパンツは、膝から裾にかけてほんのわずかフレアを持っているのに、

裾は緩くシャーリングした紐が覗く。

 上は毛足の長いウールのベスト、共地のアームウォーマーは左右で長さが違う。

 その先につまみ上げたブラックのコーヒーを、深みのある紅の唇から息を吹きかけつつ、一口。

「樹君は、まだ反対しているのですか」


 ざっくり感のあるサイズ合わせのデニムの上にでなければ、合わせることのできない短さのスカート。

 純白無地のTシャツ。

 腰に巻き付けたパーカーのプリントが、レトロな血まみれの熊であることは、

一度広げなければわからない。

 その懐かし感を胎孕していることに満足しつつ、

白いポットから白いカップにミントティーを注ぐ細い指に目を落とす。

――もう、大分打ち解けてきてはいると思うんですけれども――

 どこか鷹揚さを漂わせる苦笑い。


――まだ、私の家にも連れて行っていません――

「知ってるの」

――いえ、あそこが私の家だと思っていると思います――

「連れて行かないんですか」

――お爺さまもお婆さまも、反対なんです――

「まあ、あの人達らしいですね」

 そう言ってカップを口元に近づけながら遥さんが浮かべる笑みは、

珍しく、毒のある笑み。


――お爺さまが言うには――

――まだ他人同士の段階で――

――万が一のことがあったら――

――取り返しがつかない――

――そういうことのようです――


「縁組みしたら、あなた大人しくしていないんでしょ」

 ざっくばらんにそう尋ねられた撫子さんは、

毒をみじんも匂わせない穏やかな笑み。

 木の葉をかすめた陽光が、斜めに笑顔を浮かび上がらせる。


――多分今は――

――思い通りにならないことが楽しい、そんな時期なんだと思います――





    七十四  運動会



 朝から、場所を取ってくれたのはお爺さん。

 お弁当を作ってくれたのは、お婆さんとお姉さん。

 整列しても落ち着かず、目だけを動かして探していると、

大きく手を振ってくれるお姉さん。

 ほんの小さく、瞬きの間だけ手を振ると、

三人揃って大きく手を振ってくれる。


 校庭に並べた椅子に座ると、何かと、気を使ってくれる健斗君が、

「樹の姉ちゃんって綺麗だな」と話しかけてくる。


 お昼ご飯は、おにぎり中心の、豪華すぎないお弁当。

 遊びに来た健斗君や、同じ教室の女子にお裾分けを受けたり、

逆に、持って行ったり。

 そこでも、お姉さんはほめられたり。


 良く晴れた青空を泳ぐ鰯雲。

 鴇色に染める西日が切なくて。


 うちに帰って、つい、居眠り。

 夕飯もそこそこに、就寝。

 次の日は、雨。


 学校から帰って、家族揃って夕飯の後。

 生まれて初めて、動いている自分を見る。

「こんな変な声ですか」

「みんな、そう思うんだよ」とお爺さん。

「あなたの声はいい声よ」とお婆さん。

――この写真、どうかな――

 ご飯粒の付いた頬を左右に引っ張り、歯を見せて笑っているのは大写しの自分。

 後ろにはお婆さん、運動会の人々、その向こうには校舎、

そして、秋の空。


 無言でその写真を眺めている。

 気が付くと、自分に視線が集まっている。

 一つ、愛想笑い。

「あの」

「ん、なんだい」

「今からでも、このうちの子に、成れますか」





    七十五  奉公でも、弟子入りでも、修行でもない



 ジャケットに、マフラーだけでしのげる晩秋が三谷は好きだ。


 かつてオーナーの考房として使われていた三階は、

今やオフィス。

 窓のある面に設けられた会議室で、


次の撮影の打ち合わせも終わり、

ヘアデザイナーもネイルアーティストも帰り、

三谷と遥さんと、撫子さんがコーヒーを囲む。


――大人しくさせますから、参加させても構いませんか――

「今度の撮影、樹君も立ち会わせたら、やはり邪魔でしょうか」


 コーヒーカップを置いた三谷の口元は、大人げない茶目っ気を覗かせる。

「学校は平気なんですか、ああ、創立記念日か」

――全然、でも、選ぶのは本人ですから――

「もちろん、学校はあります。でも、学校と撮影と、どちらを学びたいかは樹君本人に選ばせるのが、

それがデザイナーの方針です」





    七十六  思い通りに行かない



 撮影当日の様子を思い起こすまでもなく、

写真が、どれ一つ満足に写っていないことは判っていたから、

 撫子さんには正直、三谷が、少年の撮影データの現像を確認しようとする意味がわからなかった。


 そこに、失敗を自覚している少年を同席させる意味も。


 thy には、三谷の方が先に来た。

 少年は、約束より三十分遅れて、thy に現れた。

――混んでいた――

「遅かったね」

 撫子さんが交通事情を気にしたのに対して、三谷は、

朗らかに迎え入れただけだった。

 少年の上目遣いはなかなか消えなかった。


「それは、表情を捕まえられませんでした。それも」

「それは、慌ててしまって」

 少年が、一枚一枚丁寧にアルバムに収めた写真を、

三谷は一枚一枚取り出しては眺め、

テーブルの上に重ねて行く。

 その、一つ一つに

いいわけ

を付けていく少年の言葉を聞きながら、

三谷の、

笑ったままの口元に目の光りが増して行くことに、

少年の後に撫子さんが、撫子さんの後に遥さんが気づく。

 気づくほどに、そのまま続けてしまうことには三谷が気づく。


「この写真」

 アルバムに入ったまま、少し眺めていた写真を取り出しながら、

三谷が先回りして口を開いたことを、皆、弁えている。

「僕の指示、判りにくかったかな」

「いいえ」

 即座に次の言葉を続けようとする少年を、

三谷がわざと待っている。

「えーと、あの」


「この時はその前の写真で絞りを開けすぎたなと思ったので、

もう少し、深度を広めに取ろうと思って、後、露出補正もプラスにしました。

ただ、二分の三か一か迷ってて」

「樹君、撮った写真はこれで全部」

「はい。

 全部って言うか、特に変な感じに写っている写真、

目が半開きだったり、口が歪んだりしているような写真ははずしましたけれども、

それ以外は全部の写真です」


 三谷が、しばらく黙っていると、

少年は更に言葉を続けようとした。

 三谷は、それを制するように語り出した。

「樹君、聞かれたことへの返事は、

短く、はい、か、いいえ、だけでいい。

 いいわけは、理由を聞かれたときだけ答えればいい。

相手に、ゆっくり考えさせなければならない。


 写真は、撮った全てを相手に見せなければならない。

 たとえ自分がどんなに不満でも、

取られた側、その写真を使う側はそれを選ぶかもしれない。


 写真でしか表現できないことを表現するはずなのに、

言葉で写真を補わなければならないとしたら、

それは何か間違ってるんじゃないかな」


「はい」


「君には、君の写真の撮り方がある。

 カメラの機能と基本以外に、僕が教えられることは無いよ。

 それはこの写真を見ていても判る。

 だから、自由に撮ったらいい。

 僕から教えられるのは、

人に見せるときの最低限の心構え、それだけだ」






    三弦木撫子さん 二十一歳 暮れ


    七十七  嗜み



 シャツの首元に指をかける。

――ネクタイ、やっぱり苦しい――

「いえ、そんなことはないです」

 常緑樹が、赤と黄色の照明に覆われれば、

街は、歳末に向けて直走る冬至。




 夕方も四時を過ぎれば陽光、僅か。

 祝日が表に人を呼び出している裏通り。

 老婦に着付けられたのは気取ったタキシード。

 thy にて撫子さん遥さんと待ち合わせると、薄明かりの灯り始める街へ。




 打ち放しに曲がりくねった階段を上ると一灯の間接照明に照らされたドア。

 押し開けるまでもなく引き招かれた店内は、

蝋燭が、幾重にも輝く。


 引かれた椅子に最後に腰掛けた後に口を開く。

「立食パーティーって、立ったまま食べるんだと思っていました」

 二人、笑う。

――私たちは、食べることを目的にして行くのではないから、

だからここでお腹を作っていくの――





    七十八  壁の華



 デザート用のケーキを一人つまみ上げたのは、決してはぐれてしまったからではない。

 途切れることなく来訪者のある撫子さんと違い、

身動きの余裕がある。

 ただそれだけ。


 身内の女性に言い寄る男が下心をひた隠しにする様が透けて見えるのは、

良い気がしない。

 知らず、へそを曲げていたかもしれないその時に、

視界の外から

「こんなに若い人も来ていてくれたのね」

と声をかけられる。


 永遠に続かないが故に美しさは女性の上に輝くことを知らない少年だからこそ、

見納めようとしない視線を向ける。

 だから、話しかけやすいのだ、と、

そんな自分を悟れるほどにはミノヴァも成長していない。


 無垢の眼が交錯する。


 細作り、

だけであれば当代の東洋人にもいくらでもいる。

 しかし、天女、仙女のそれではなく、の切なさを醸すのは、

比率。

 長さと細さの按配、節と節の長さ組み、関節の膨らみ加減、皮の下の筋の生え際の高さ。


 妖精。


「どなた」

「僕、三弦木樹です」

「ああ、スィの」





    七十九  輿入れ



「お会いしたこともない人と、どうして結婚できるんですか」

「どうして、自由な恋愛だけが幸せなことだと思うの」

「だって、好きでもない人と一緒に暮らすなんて」

「私一人の目で見るより、まだ若い私の感覚で選ぶより、

大勢の大人たちの目で見た評価の方がよっぽどしっかりしているわ。


 それに、私は由緒ある一族の当主ですもの。

私にとって大事なのは、

私だけではなく、

私と私の一族を守るために何ができるかを一番の価値観にしてくれる人、

それだけ」


 悪気のない優越感を滲ませて、小娘は歯を見せて微笑んだ。

 人形のような小娘と語らうに似合いの少年の組み合わせに臆しない男が近づいてくると、

失礼、と小娘は外そうとする。

 少年は、とっさに、縋るように問い糾してしまう。

「あの、どんな人なんです、お相手の人は」

 露わになった肩がひるがえる。

「どんな、って」

「背が高いとか、二重とか」

「全く知らないの。

 でも、優しそう、という親族の評価を聞く限りでは、容姿はあまり期待していないわ」





    八十  縁 ――えにし――



 プロコフィエフの中からわき上がったシンデレラの様な指づかいで小娘が去っていくと、

一人、取り残される少年。


――どうしてた――

 一息入れるのもつかの間、突然、後ろから話しかけられて驚く。

「ちょっと、ぼーっとしてました」

 振り返り、取って付けたような取り繕いに眼が泳ぐ。

――お話は、どうだった――

「の、えと、誰とですか」

――今日の主催者さんとの、よ――

 言いながら撫子さんは笑ってしまう。


 だから、一言、からかう。

――楽しそうにお喋りしてたね――

「そんなこと無いですよ、緊張しました」

 打って返しの否定が雄弁に肯定するその場しのげずに少年は思い至らない。

 遥さんが胸の前で、左手首をひるがえす。

「そろそろ遅くなりますし」

――そうですね、行きましょうか――


 出がけに、声をかけてきた男をあしらうと、

三人は、

宵闇の中に溶け込んで行く。





    八十一  夜遊び



 遥さんと別れハイヤーに乗り込み夜景の中を家路へと直走る


はずが、


本当に何気はなしに、

――少し、ゆっくりしていかない――

 背もたれに体を預けきった撫子さんが、少年へそうつぶやいた。

「お爺さまもお婆さまも、心配されますよ」

――少しだけ、代官山に――

 少年が言い淀んでいると、撫子さんはメモを書き始める。

「運転手さん、代官山にお願いします」

「えっ、戻るんですか」

 少年が右隣に眼をやると、嬉しそうに頷く長身の女性が一人。

「はい」

「代官山の、どの辺に」

――駅前まで行ってくれたら、後は案内できます――

「まずは駅前までお願いします」




 ささやかに、ジャズが流れるバーの窓際。

 如何にかあがこうにも、不釣り合いな男女。

 炎の、

揺らめき。


――もしかして、眠いかな――

 首を横に振る。

――どうしても、気を遣いながらお喋りするのは、ぐったりと疲れてしまいます、ね――

 建物の視界を遮る物がないため、見通しの良い彼方の夜景に目を落としながら、

四角い無骨なロックグラスのマタドールに、口づけをする。


――何を話していたの――

「な何がですか」

――ミノヴァさんと――

 年の割には小柄な少年は、自分の瞳をじっと見下ろしてくる輝きに目をそらす。

「別に、普通のことですよ。自己紹介とか、あと、

あの人、会ったこともない人と結婚するために、祖国に帰国するんだそうです」

 ノンアルコールでもなじめないカクテルという名のジュースを一口。

「なんか、いい加減な気がします」

――えー、どうして――

 驚かれたことが、むしろ、驚き。

「だって、見ず知らずの人と結婚してしまうんですよ。

不純です」





    八十二  対話



――樹君は、今、好きな人いるの――

 見上げる、見下ろす。

「判りません」

――判らないって言うことは、いるんじゃない――

 笑う。

 困る。

――どんなところが好きなの――

「好きって言うか」

 言い淀んで伏せる。

「よく、判りません」


――同じクラスの人――

「あー、はい」


――私と話していると、疲れる――

「そんなこと無いですよ。それは無いです」

――私も、樹君と話していて疲れたりはしない――

――でも、君のことを気遣っているつもり――

――気遣いたくなる相手のいることが安らぎなんだと思う――

――どうして、君のことを気遣うことが安らぎなのかは判らない――

――君の生い立ちが共感させるのかもしれない――

 そこまで、二人はゆっくりと言葉の意味を味わった。

 琥珀色の流れが、氷と一つになってゆく香りが、

紫煙と相まって漂ってくる。


 炎の、

揺らめき。


――樹君の過去を知って、樹君と過ごしていこうと思ったのは、不純かな――

「僕が、施設の子でなければ、ここまでしてもらわなかった、ということですか」

 微笑みにうなずく。

「不純、なのかも知れませんね」


――もし、君の過去に関係なく君を思いやるとしたら――

――見ず知らずの君を大切にしてしまうことになると思う――

 自分の賢しげを大人げなく思うのはこの場を離れてからのこと。

――思いやることの大切さ、思いやることの覚悟と比べたら――

――過程なんて、そんなに大きなことでは無いんじゃないかな――


――と、私は思うんだ――


 ずいぶんと、氷の溶け出してしまったカクテルを手にすると、

冷たさに手が滑りそうになる。

 一息にグラスを空ける。


 少年の沈黙が続くことに負い目を感じて。

――気を悪くさせたらごめんね――

と目をやると、

どこか、在らぬ世界をとらえる無垢が、まぶたを少し、押し下げている。


――行こうか――

「平気です。

 撫子さんの、言うとおりなのかも知れませんね」

――そっか、行こうか――

「はい」

 二人、立ち上がる姿をウェイターが見ている。




 少年はさっき、たった一つだけ、嘘をついた。





    八十三  身嗜み



 縦に開いた口を大きくすることでィリーヤが驚きを露わにしたとき、

撫子さんも同じ表情をしていた。

――明けましておめでとうございます――

 少年がすかさず、義姉の言葉を繰り返すと、

碧眼の長身が応じる。

「明けましておめでとうございます」


 その挨拶で、目の前にいた背筋の通った老爺が振り向き、緑色の色眼鏡を下げ気味に確かめてくる。

「これはこれはヤーセンさん、明けましておめでとうございます」

「三弦木先生も、

明けましておめでとうございます」


 目を引かぬ緑の深みが気を引くピー・コートの老爺。

 マフラーの凄みの赤以外印象に残らぬ髪を結い上げた老婦。

 マキシレングスの白いコートが迫力を背負う小娘。

 デニムに合わせたスウェードのライダースは鋲に隠れる黒の少年。


 ィリーヤが一行の出で立ちに気づく頃、三弦木家の一人一人も、ィリーヤが、

私情とは一線を画す屈強な男性陣を引き連れていることに気づく。


「靖国でお会いするとは奇遇ですね」

 老婦が笑むと、ィリーヤも笑う。

「戦士の魂を称えるのは、むしろ公徳ではありませんか」

「お国の教えになじまないものかと」

「花江、カソリックなどは参拝を認めているようだね」


 老爺の言葉を聞いて、ィリーヤは胸を張って肩をすくめる。

「国が何の教化を受けようと、一族のしきたりが変わるわけではありません。

 乙女だけがハインダッレの門の彼方へ戦士を誘えるのが、民族の古い習わしです。


 奥様こそ、どうして」


「祖父が、奉られておりますので」


 お互い、言葉の裏を理解し合ったつもりの顔で会釈を交わすと行きちがう。


 堪えるように繰り返す嗤いを付き人が気遣うも捨て置く。

 全員、皮の衣とは豪勢な。

と、

 振り袖と金糸の髪で顔を隠す。





    八十四  温もり



 暖めたマグカップを二つ、老爺が、階段を上がる。

部屋の前で止まり、

「樹、扉を開けてくれ」


 少年が扉を開けると笑顔。

「ココアを持ってきたよ」


 いただきます、と二人で腰掛ける晴天の午後。

「最近は、どんな写真を撮っているんだい」

 マウスを少年から受け取ると、

ふーむ、

と口を閉じたまま、一つ一つ確かめて行く。


 雲の広がる空を背負った尖塔の際に隠れる太陽、

開きすぎた絞りに白飛びした白昼の街頭を、いじり、色の明暗を浮かび上がらせた画、

またげる程度の水路の水面に、ふれるようにレンズを迫らせ、そこから水路の奥行きの空を捕まえる、

影絵の町並みと灼熱の西の空との狭間に落ち行かんとする陽光。


 カメラの画面に浮かび上がる補助線を使えば、誰でも三分の一の構図をとらえることができる。

 それだけに意外を感じることもなく、

こぢんまりとしすぎている。


 すると、複数の写真を横に並べ、一枚の画像に加工した白黒の光画が現れた。


 何かを、

おそらくは人を見上げてうずくまる浮浪者の顔。

 何かを、

おそらくは人を見上げてうずくまる野良犬の顔。

 何かを、

見上げる樹の顔。


 子賢しいと一言で片づければ子賢しい。

 見過ごすが似合いの画像を目の当たりにしてつい、口を開いた。

「樹の、

もう、おまえの家はここなんだよ」

 慌てて肯んずる少年。

「あ、あ、はい。判ってます、ちょっとこれは、おもしろいかな、と思って」


「そうか、なら、

私は野暮を言ったね」

 老爺はそう言って含み笑いのままココアを口に運んだ。






    三弦木撫子さん 二十一歳 晩冬


    八十五  仕切り



 響き渡る。


 カメラの中で、

鏡が跳ね上がる音が都度つど気に障るのは、

三谷が悪いわけでも何でもない。


 その周りで、あちこち撮り回る子供が何とも、気に入らないのだ。


「こっち、もらえるかな」

 三谷の言い方は、

もの柔らかで落ち着いたものなのだが、

それだけに強く反省してしまい、目線を向けても後悔が先に立つ、


 フィルムを換えながら、遥さんとのやりとり。

「今日は、余り気乗りしないみたいですね」

「布帆ちゃんらしい写真に成りませんね」


 聞こえない距離でも、当人だからこそ意味をつかむことができる。


 そんな自分の不甲斐なさに募る焦慮が心を張りつめさせる。


「休憩にしましょうか」

「私はまだ平気です」

 その言葉こそ余裕を見失った証し。


――先に、皆さん休憩してください――

――布帆ちゃん、私も見ているから、少し樹に写真を撮らせてあげてもらってもいいかな――


 少年は義姉と被写体を交互に見比べ、

見上げる様にしてうなずいた。





    八十六  お断りです



「それはちょっと、困ります」

 そういって水を差した布帆ちゃんの断りに、

驚かなかった人は一人しかいなかった。


――そっか――


 幼さの意志は愚かなものだ。

 傷つけてしまったことに傷ついてももう遅い。


 二回、間をおいて三回目のシャッター音が沈黙を裏切る。

「休憩に、しませんか」

 したり顔の三谷に、少年も、布帆ちゃんも、撫子さんも救われる。


 布帆ちゃんと同じテーブルを囲むようにとの、遥さんの気遣う誘いを受け止めれば、

必然、少年とは席を離れることになる。

 気が合うもの同士、話が弾まないわけではない。

 それが、後ろめたい。

 魔法瓶に入れてきたミントティーもコーヒーも、

全てはお弁当に持たせてくれた千世子さんの手によるもの。

 遠近からの談笑が、

出がけの労いの言葉が突き刺さる。


 私の気持ちなんて。





    八十七  唐突



 村瀬さんの声かけで、休憩を終える。

 散らかした紙コップや紙皿を持ってきた袋に片づけ始める。

 衣装を着た布帆ちゃんは、村瀬さんがスタジオに連れ出す。


 会議室に残った人々に、か細い男の子の歌声が聞こえてくる。




  例え私が居なくなっても、日常はいつもと変わらない。

  テレビのバラエティ、仕事の憂鬱、列車は時間通り、日はまた昇る。


  例え私が今日死んでも、 世間は何一つ変わらない。

  友達の笑顔、世界の貧困、煙突は煙を吐き、季節は巡る。


  誰も困らない。

  ほんの小さな波紋では、海は揺らぐことはない。

  私は、ちっぽけだ。




「なにそれ、誰の曲。

樹君ずいぶん暗い歌知ってるのね」

 言われた少年の方が驚いた。

「いつも、お姉さんが歌っているからつい」


 一斉に、一人を除いて全ての視線が集まるときの音を知っているだろうか。


――聞かれちゃってた、か――

 照れ笑い。

――さ、始めましょう――


 皆がスタジオに戻ってきたとき、布帆ちゃんは会議室で何かあったかも知れない、とだけ気がつきかけた。





    八十八  襄麌利観音



 純白という言葉が抱かせる心象をあざ笑うような毒女の薄笑みに顔を歪ませた地下三階のスタジオで、

撫子さんは、

天井から吊した一頭分の枝肉にホローポイントを打ち込み続ける薄闇の中。


 墨汁で落書きよろしく描き付けたのは肥満、長髪、痩身の三体の影。

 火薬の煙と血肉の飛沫の入り混じる障気が鼻を灼く。

 騒ぐことだけが目的だから、弾倉の長いものを選んでも瞬きの間の饗宴。

 次また次と差し替える。


 目前の塊を食材と見るべきか死体と見るべきかも判らない。


 もう止めようと誓ったはずの自分がどうしてここにいるのかも説明できない。

 しかし全てを手配した自らの足取りが脳裏から消えるわけでもなく事実を突き付ける。


 その冷静が狂気を支える主柱であることは狂気に身を委ねるより他処しようの無かった身にしか掴み得ない。


 白無地のヘルメットの中の息が荒い。

 白革のコートに包まれた腕に痺れが差す。

 白革のブーツの奥底で足の指が蒸れる。

 白い埃が姿を霞ませるように舞う。


 大きな破片が堕ちても気にしない。

 狂った手元が向かいの壁に弾を撃ち込む。


 時に閃光を放って跳ね返すのは、半世紀を経たコンクリートの為せる堅さか。


――どうして、このスタジオを取り壊してしまうのだろう――


――どうして、わたしの声は届く人と届かない人がいるんだろう――


――どうして、樹君は、私の歌が聞こえるんだろう――


 幾つ目のアタッシュケースを空けたか判らない。


――どうして樹君が私の歌を歌ったあの時――

――私は、感じたことのない感覚を感じたのだろう――


 肉の殆どを堕とし込んだ撫子さんが、

白無地のヘルメットの下でどれほど薄気味の悪い笑顔を見せながら、

向かい側の壁に鉛弾を弾け飛ばせていたか、


どこの、人成らざる者だけが知っていたのだろう。





    八十九  幻の名機



 カメラ一台を持って街に出た。


 使い捨てカメラで出来ていたことが、このR1αで出来ないはずがない。


 そんな、若気の過信もあったが、

都度自分の手を離れていくカメラではなく、

少しずつ、相手を知っていくことの出来るカメラに愛着を感じていたことに、

樹はまだ気がついていなかった。


 街を、切り取ることが好きだった。

 フリーアングルの液晶は、撮影していることを周囲に気づかれずに、簡単に撮れる。

 気に入らない画像があったら、すぐに確認して簡単に消せる。

 それどころかこれまでから比べたら、妄想のような枚数の絵を、ため込むことが出来る。


 夢のような機械だな。


 だから今日も、

何かを見つけ直すために、

一生懸命写真を撮った。


 撮れば撮るほど、思い違いが広がって行く。

 一息入れようとしても、バッテリーはいつまでも持つ。


 明治通りから入った路地の更に裏路地の奥。

 民家と民家の隙間に踏み石が並んでいるのは一見、生活用の私的な通路にしか見えない。

 木造の看板こそあるものの、とても、入って行くにははばかられるけれども、

その通路に、

一見無関係な何組かが入って行き、あるいは出てくることで察し、


 暗がりにそっと足を踏み入れた。





    九十  彷徨い



 屋根に覆われた径は薄暗く、先の方で左に折れ曲がっている。

 その角を曲がった途端広がったのは、

屋根に囲まれるように切り取られた、

夕焼け空にたなびく雲。


 目前に現れた、眼にも鮮やかな色彩の短い階段の下にカメラを構えると、

自分が入らないように苦労しながら、シャッターを切る。

 画面に表示してみると、何か納得感がない。

 今一度、構図を考えて試そうとすると、人通りが意図を遮る。

「すみません」

 憮然、

とした男が女をぶら下げながら通り過ぎる。


 挫けてしまった気分を誤魔化すためになんだろう、

それは本人もどこか忸怩と感づきながら、

建物の裏手に構えられた店を一つ一つ、冷やかしてゆく。


 雑貨屋のお香の臭いを少し、強いな、と感じながら店を出ようとすると、

視線の先、オープンなカフェで給仕をする女性に見覚えを思い出した。


「咲さん」

「よお、樹じゃん。遊びに来たの」

「いえ、偶然」

 いつまでも背の伸びない少年は、ありきたりの背丈の女性に近づきすぎて見下ろされる。


 片方の唇を、つり上げ、片方の目を、細める。


「おごるよ、何がいい」

「あ、いえ、ちゃんと出します」

「生意気は失礼だぞ」

 顎で指し示されたカウンターに向かう。

 中に入った咲に、メニューを出される。

「ミントティーを、ホットで」

「ミントティーですね、少々お待ちください」


 もう一人の義姉の、穏やかなほほえみ。





    九十一  家族はいつも人生の身近な先生



 ガラスのポットからゆっくりと紅茶を注ぐ。

 白磁に香りが広がる。

 暖かい飲み物の穏やかが口中で冴える。


 注文をこなし終えた義姉が、カウンター越しに向き合ってくる。

 グラスを丁寧に磨きながらお喋り。


「どしたの」

「ほんとに、偶然です。街撮りをしていたら、面白そうなところを見つけて。

咲さんのお店、ここだったんですね」

「そっか、てっきり」

 言いよどんだ言葉を聞き逃さない。


 無言に促されたのは一瞬。

「なにか、悩んで来たのかと思った」

「そう見えますか」

 ポットの中を控えめにに舞う茶葉に心を奪われながら尋ね返す。


 明るい嘆息に義弟を見守るのは、切り離せない家族の情。

「樹は普段、人の悩みを聞いてあげてる」

 首を横に振る。

「人の悩みに耳を傾けることで、自分の悩みに答えが出ることもあるよ」


 いったん言葉が切られる。

 少年が開きかけた口に先んじるように、

だから、と言いかけたところで、

注文のかけ声がかかる。

「ゆっくりしててね」





    九十二  団欒・終業後・帰宅してから



 遥さんから見て、

最近の撫子さんは仕事以外の楽しみを見出してしまったと感じる。

――お先に失礼します――

 もう、何ヶ月もデザイナーには言っていない言葉。


 私が、マネジメントしている会社だしな。


 一抹の寂しさ。


 撫子さんが溶け込んでいった宵闇の広がる窓の向こうを眺めていると、

来客を告げるフォーンが柔らかく鳴り、花束を抱えた青年が、現れた。

「撫子さんに約束がありまして、参りました」





    九十三  切り出し方



 近づく春を先取りした日だまりが差し込む。


――覚えているのは――

 打ち合わせのための応接に、飲み物を差し出しに来ただけの永澤さんですら、

均整というのは何も上背だけが作り出す美ではないのだな、

と気付くのが異常を通りこすほど自然なため意識に上らずただなぜだか、

退室するのが惜しくなるほどの空気を作ることができるのが、

――東島さんの印象力、でしょうか――

「トウシマさんの印象が」

 それとなく、名詞を裏返されて遥さんが気がつく、

「ハルシマさん、とお読みするんでしたね、失礼いたしました」

 笑う。

「もう、生まれつきですから」


 ゆったりとしたお喋りから、

穏やかさに押し問答が差し込んできたのは、意思の疎通の二つの齟齬から。

「こうしてゆっくりお話ししても、

確かに、撫子さんの言葉は聞こえてこないんですね。

 でも、こちらの意志を伝えることはできるでしょうし、

会話は、

電話ではないのですから」


「私は、

夏山さんの言葉ではなく、

三弦木さんの表情と会話がしたい。

 オーダーをお伝えしたい。

 是非、お一人でお越しください。

 もちろん、ご案内させていただきます」





    九十四  ご招待



 夏山さんが言葉を選ぼうとしていたのは母性本能から。

 それを知ってか知らずか、やはり知ってか、

――判りました、何時がよろしいですか――


答えた撫子さんに、

目を伏せた会釈を持って

「ありがとうございます」

と答えてみせる東島の所作は、やはりどこまでも紳士でいて、それでいて意志の確かさを表す。





    九十五  契約だけの関係



 水着姿の女性は特に胸が豊満で、

仕事疲れの男性なら、誰もが少年期の心を呼び起こすだろうな、

と撫子さんには思えた。


 ホルターネックの黒無地のワンピース。

 脇腹から背中にかけてくりぬかれている。

 へその少し下から胸の谷間に差しかかるまでも切り抜かれている。

 丁度、バストサイドとヒップサイドに残された生地が、

二つの胸のふくらみとおなかを露わにしているようにも見える。


 東島は、撫子さんを招き入れるのもそこそこに、

デザインと称して、半裸のモデルの元に戻る。

 アシスタントとともに、生地の量を微妙に計ろうとして、

大きめに切った生地を当てさせたり、

部分的に切り取らせたりして、


満足すると更衣室に向かわせ、

「型紙を起こして」

と指示を出す。


「紅茶とコーヒーはどちらがお好きですか」

 ボール紙で閉じられたリングノートにペンを走らせ、


ご自分で


と記すと頷かれる。


 コーヒーを お願いします




 飾りっ気のない生木の作業台。

 生木の作業椅子に腰掛けて待っていると、

東島が手ずからコーヒーを三つ運んでくる。

 その後ろには、

スーツ姿に着替えた先ほどのモデルが筆記用具を携えてくる。


――仲良いんだな――

「服飾でいくつかのブランドを展開していますけど、

僕、想像力がないんです。

だから、モデルを目の前にして直接確かめていかないと、

整理できないので」


 聞かれてもいない筈の質問に、東島はのんびりと応え始める。


「こうして、打ち合わせの書記役もやってもらってます。

 基本的に毎日出勤してもらっています。

 電話も取り次いでもらいますし、

昼食もできる限り一緒にしてますし

休日も

予定さえ空いていればよく、一緒に過ごします」


「でも、雇用関係を超えることはないんです。

 彼女で、六代目のモデルです」


 割り切った女性の表情は愛想よく。


「発表時期ごとに自分の作品を振り返ると、

その時期、その時期のモデル達の個性に引きずられた癖が出ていますね」





    九十六  顕示



 何の気まぐれか山高帽をたしなんだ男が、

膝を伸ばした踵を大股に、

thy の渡り通路を自信たっぷりに渡ってくる。


 階段を上がり、一つ、深呼吸をするまでの間に、

目があったスタッフへのウィンクは忘れない。

 右手の甲でノック。

「こんにちは、淵上ですよ」


「デザイナーが外しているときにいらっしゃるなんて、珍しいですね」

 遥さんの、

何気ない世間話にさも得意そうに鼻を高める。


「時には、会わずに用件を伝えてこそ、


粋というものではありませんかな」


 そうですね、と、遥さんは穏やかなほほえみ。

「そろそろ、私のショップスの模様替えの時期であることは、

デザイナーにはお見通しでしょうから」

 そう言われてなお、遥さんは穏やかなほほえみ。




 本人は決して肯んじないだろうが、

お目当ての帰りを今か今かと待つかのように、

子細を事細かに語った淵上が重い腰を上げる。


「こんにちわー」

 開いた扉から現れた少年を、

眉間を上に引き上げて見つめる。

「どちらの僕ですかな」

「デザイナーの弟の、樹君です」


 立ち上がりににこやかに、

「君、樹君」

歩み寄る。


 胸に手を当てる仕草すら当たり前に。

「初めまして、淵上と申します。

 お姉様にはいつもお世話になっているのですよ。

 ところで、


なにか好きなものはあるかい」


「はい、家族とのんびり過ごす日曜日です」

 遥さんは、紳士に対峙する紳士に舌を巻くより、

「そう、ごきげんよう」

と笑顔で去ってゆく淵上の顔つきに、

笑いを堪えずにはいられなかった。





    九十七  夜遊び



「こんばんは、淵上ですよ」

 大振りの花束を抱えて宵闇の中、背筋のいやに通った男が thy を静かに尋ねてくる。


 この所、何度も続く空振り。


 にもめげない笑顔は通り越した爽やか。


「では、この花束をデザイナーに、

お礼の、印として」


 そこまで話したところで

「こんばんは」

と少年が上がり込む。

「あ、ピ、

淵上さん、こんばんは」


「こんばんは。この間は、遊びに来てくれてありがとう。

 今日はそろそろお暇しようと思っていた所だよ」


 穏やかな沈黙を挟む。


「折角だ、たまには樹君に、

入り口の所までお見送りしてもらおうかな」


 戸惑いながらも樹には、断る理由も感情もなかった。


 先に、階段を下りてゆく間も、


後から、渡り通路をついて行く間もこれといって会話はなかったが、


誰もいない出入り口で立ち止まると淵上は、

よく晴れた星空を制する満月をしげしげと眺めた。


「君、樹君。

 果実を心から楽しむためには、

時には空腹も心地よいものだね。


 月には、決して辿り着けないわけではないのだから」


 樹のはるか頭上にある顔が、どんな顔つきで憬れていたのかは判らない。

 見下ろして来て、

「ごきげんよう」

と言ったときの淵上の顔は、

月影の中、


穏やかに慈しんでいた。





    九十八  批点



 thy に戻った樹を、遥さんが迎え入れる。

「どんなことをお話ししたの」

「なんか、月面旅行がしたいみたいですよ」


 眉間にしわを潜めて笑む遥さんは、いい匂いがした。


 だから、扉を開けて撫子さんが入ってきたときに樹は、

一人で不審に狼狽えを隠した。


「どうでした。東島さんの評価は」

――余り、お気に召さなかったようですよ――

「そうですか」

 まるでいつものことのように受け流した遥さんの気遣いも、

他のスタッフの挙動にかき消される。


――今日はもう、大丈夫ですか――

「先ほど、淵上さんがいらしていたぐらいです」

――まだ、そちらの方が楽しかったかもしれませんね――

――お先します――





    九十九  月



 樹の楽しい時間は、撫子さんの寛ぎの時間と同時に始まる。

 月明かりの下、

優しく歩む。


 失った話題に気遣う心もなく黙っていることと、

相手の問いかけをいつまでも待てることとの違いは、

大人と子供にある。


 去来する、一つ一つの言葉。




「そう言えば、どこかで見たことある感じがします」

「安心感はありますよね」

「あそこだ、国道六十六号沿いの梅が池のお店にそっくりだ」

「コンセプトはとてもよい」

「経営のことも考えて、什器の位置はもっと増やしてください」

「ありがとう、満足してますよ」




「今日は」

 樹と交錯する視線は、自分より彼方の高見を見上げている。

「とっても綺麗ですよね」

 驚きが紅を差す。


 振り返り様に見上げると、

斬れそうな円かの冴ゆるかぐや姫。


――そうだね――

 手を、差し出す。

冬なのに、

暖かい。

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