赤い花の求めたものは
たったひとつ欲しいものがあるの
彼女の言葉を、良く覚えている。頭の中で劣化すること無く、鮮明に。
僕の事をきっと、彼女は覚えていないだろう。それでも別に構わないのだけれど。時折、此方を気遣うような態度は何かを察しているようで。申し訳なくなる。
「今日は、どちらへ行かれますか?」
僕の問いかけに、彼女は微笑んで答えた。
「そんなに毎日、出掛けないわ。貴方も休んで良いのよ?」
「いえ、これが仕事ですから。」
出ていけ、と言われればそうするが。彼女はそんな事を口にはしない。父親の心配症を、知っているからだろう。
親を気遣う優しさは、時には囚われた鳥の様に思える。しかし、それも彼女の優しさだと思えば、哀れに感じる事もない。
大きな屋敷、ふわふわの床、豪華な絵画、色とりどりで整った花。
そこそこになんでも出来た僕は、お嬢様の世話係の座を会得した。まぁ、少しの努力はあったが...泥臭い話はカッコ悪く、己の胸に仕舞っておく。
「今日はね、お勉強よ。」
「お嬢様が、ですか?」
しまった、と思った時には遅く。機嫌を損ねたか、可愛らしく頬を膨らませる彼女。
子供らしい表現に、そろそろ16になるのに、と思う...そこも彼女の良さではあるのだろうが。
「なに?私が勉強したら、変?」
「いえ、そのような事は...」
振り返った彼女の顔が、目の前に大写しになる。内心の動揺を隠し、誤魔化そうと試みるが叶わなかったらしく、彼女はクスリと笑って、後ろを向いた。
「もぅ、初ね。顔が真っ赤よ。」
「そ、そのような事は...」
確かに近づいた顔は、幼い頃よりも綺麗だと思ってはいたが...気恥ずかしさを誤魔化す様に、窓の外に目をやる。すぐに話題は見つかった。
「あ、ゼラニウム。お嬢様、好きですよね。」
「え?」
「ゼラニウムの花。この時期は、いつも探しておいででは?」
「...えぇ、そうよ。大好き。」
花の話だ。分かっていても少し心臓が騒ぐ。喚くだけならば赤子でも出来るというのに、この心臓は言うことを聞かない。
「赤いゼラニウム、お父様が好きだったの。お母様が送っていたんですって。」
「奥様が...?」
「お父様、奥手だから。」
クスクスと笑う彼女に、失礼ながら同意してしまう。奥様の生前は、御主人様はあまりにも臆病だった。
まるで、壊してしまわないように、汚してしまわないように、奥様と接していた気がする。
それは、彼女への態度に上乗せされて、今も続いているが。
「ゼラニウムはね?貴方がいる幸せって意味なのよ。お母様、大胆なの。」
「それだけ、愛されていたのでしょう。」
「うん...大好きだって、いっぱい聞いたもの。」
彼女が幼い頃の、少ない思い出に浸っているのだろう。少し離れ、人が来ないか確認する。
もし来たのなら、この儚い姿を見せたくはない。少しばかりの、醜い独占欲は見逃してもらおう。
まだ、互いに幼かった頃に。彼女と僕は、一度だけ会っている。
僕はその時、この屋敷で花の手入れを手伝っていた。子供の頃より、使い勝手の良い人間ではあったらしい。
泣いている女の子を発見した時は、流石に勝手の良い人間では無かったが。正解なぞ分からず、背を擦ったものだ...我ながら不敬である。
その時の彼女も、こうだった。消えてしまいそうな、そんな雰囲気。繋ぎ止めたくなる、そんな雰囲気。
少し落ち着いた彼女に、僕はこう問うたのだった。
「なんで泣いてるの?」
「お母様が...居なくなっちゃった...」
その時、初めてこのお屋敷のお嬢様だと知った。
...皆まで言わないでくれ、一使用人の子供など、御主人様を見る機会さえあまりにも無いのだ。その御息女など、分かるだろうか?
「ありがとう、落ち着いたわ。」
気丈に振る舞う彼女に、何かしてあげたくて。僕は咄嗟に、近くに咲いていたゼラニウムを渡したのだ。
切って良い程の、小振りの物だが、子供の時分にはむしろ適した大きさだった。
「...赤い、ゼラニウム。」
「今年は、綺麗に咲いたんだ。お花は気分が落ち着くから...少し、持っていって良いよ。」
今考えれば、なんとも傲慢な発言だ。主人の花を、主人の娘に持っていって良いよ、等と。死ね、僕。
だが、彼女は優しかった。笑顔でお礼を返して、僕と会話を続けてくれた。
「あのね、私ももう、色んな事を我慢できる年だわ。でも...ひとつだけ欲しいものがあるの。」
今思えば、彼女は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。内容がアレなので...当時は困惑したが。
少し、酒呑みと縁もあり、耳年増だったのは、関係無いと言っておく。それは、こんな言葉だった。
「私ね、子供が欲しいの。」
続く言葉で、僕は大いに恥じる事になった。
「でもね、私は居なくならないの。私がお母さんになって、子供とお父様と...皆で一緒に、ずぅっと。そうしたら、お父様も泣かないですむよね?」
早く大人になりたいなぁ、と呟く彼女には、薄く涙が滲んでいた。
本当にお父さんの為?と聞く程、野暮でなかった事だけは、僕を誉めたい。
そんな昔を思い出していれば、ふと後ろに温かい感触が広がる。
「ねぇ、聞いてた?」
「申し訳ありません。」
「もう。誰かさんと、お父様がそっくりって話。」
「御主人様と、ですか?...お嬢様ですか?」
「...お勉強してくる。」
不味い、失敗したらしい。難問だろうとも、答えてこその世話係だと言うのに。
だが、答えが分からないのはどうしようもない。くそ、彼女の話を聞き漏らした耳を、切り落としてやりたい。
「ねぇ、早く。教えてくれるんでしょ?」
どうやら、回答のチャンスを失ったらしい。どうにかして、期待には答えたかったのに...
あの時の消えてしまいそうな雰囲気は、既に無いが、それでも危ういと感じてしまう。
繋ぎ止めたくて、僕はこの地位についたと言うのに。問答一つ出来ないとは。
「...はい、これ。」
「お嬢様?」
「その、受け取って、欲しいのだけど...ダメ?」
渡されたのは、先ほど窓にかかっていたゼラニウムの花。
そういえば、彼女に花が落ち着くと話した。それ以来、彼女は気分が落ち込むと、花を生けている。元気になる為に、花を。これは彼女の習慣だ。
となれば、そこまで狼狽えて見えたのか、僕は。不甲斐なさを感じるが、不安を感じているであろう彼女を、待たせる選択肢だけはない。
しかし、僕にまで優しい。自然と口角もあがってしまう。
「いえ、ありがとうございます。」
「...もぅ!」
「お嬢様!?」
何故か怒らせてしまった。そっぽを向く彼女に、慌てて弁明しようとするが、なんとしたものか。
彼女の事だ、僕が気に病むので、元気付けようとしたのだろう。
僕がそれでも隠すのが、気に入らないのだろうか?しかし、僕は使用人なのだ、どうしろと。
「お嬢様!」
「...なに?」
どうにか言葉を繋がないと。
彼女が嫌なのは、親しい人が居なくなる事。自惚れるが、恐らく僕も含めて。
彼女の優しさならば、疑う余地は無い。ならば、僕が消えそうに見えたのか。
呟いた言葉は正解の様で。少し機嫌の戻った彼女に、僕はほっとした。
僕の言葉はこの通り。少し恥ずかしい自惚れで、人に聞かれたならば、穴を掘って冬眠をしよう。
「お嬢様の隣、ここが私の帰る場所です。」