第26話『師匠と弟子』
桃木ロウゼンは、ユウキの住んでいる教員寮を木陰に隠れて眺めていた。
渋川サクラが突撃してからすでに一時間。何を話しているのか想像がつく。そして背後から近づく少女からもユウキを心配している気配があふれていた。
「おお、ツバキか」
「あの……えっと、私をご存じで?」
戸惑うツバキに、ロウゼンはハッとする。彼女と直接顔を合わせるのはこれが初めてだ。ロウゼンにとっては見知った相手でも、ツバキからすれば初対面の怪しい老人に過ぎない。
なによりも事は極秘作戦。自らの関与はあまり詳しく話さない方がいいだろう。
「ユウキの生徒じゃろう? 鬼灯のやつから今日の話も聞いとるよ。儂の弟子がすまんかったな」
「では、あなたが桃木ロウゼン様!?」
「様などつけんでいい」
「いえ、そういうわけには……」
ツバキは恐縮して、うつむいてしまった。こうして直に顔を合わせると、桜葉ツバキと花一華ユウキの共通点を実感せざるを得ない。
「まぁ好きに呼びなさい」
ロウゼンの言葉を最後にどちらも口をつぐんでしまった。気まずいからではない。ロウゼンはツバキが何か話したそうにしているのを感じ取っていた。
しかしなかなか語ろうとしない。それでもロウゼンは待った。自分に自信がない子が自ら行動しようとしている時は、どんなに時間がかかっても待ってやるのがよい。
これまでの経験でロウゼンが学んだことだ。
「……あの、ロウゼン様はこちらで何を?」
ようやくツバキが口を開いた。ロウゼンは自嘲を浮かべつつ答える。
「ユウキの様子が心配でな。じゃがその必要もなかったようじゃ。サクラという子は、どうやらユウキに合っているらしいわい」
寮の外まで漏れ出していた悲しみの気配が薄らいでいる。
サクラと話すことで、ユウキの抱えていた膨大な闇が少しずつほぐれているのだろう。
「……えっと、サクラはいい子ですよ。ときどき真っ直ぐすぎるけど」
「そうか。そうらしいな」
「……いえ、私がひねくれてるのかもしれません」
「そうは見えんわい。お前さんもまっすぐじゃ。雰囲気がユウキに似とるわい」
「……同じことをサクラにも言われました」
「そうか」
ツバキはロウゼンの隣に立ち、寮を見つめた。
「先生とサクラ、どんな話してるんだろう?」
「恐らくじゃが、自分の生い立ちじゃろう」
「生い立ち……ですか?」
ユウキの許可なく、ツバキに話してよいものか?
数瞬迷うロウゼンだったが、気付けば口が勝手に動き出していた。
「ユウキの蒼脈は大部分があの子が持って生まれたものではない。亡くなった兄弟子と姉弟子から送りものなんじゃよ」
ロウゼンの口からでもツバキには真実を教えたほうがいい。それがユウキのためにもなると思えた。
ユウキにとっては恥ずべき秘密かもしれない。しかしロウゼンは、ユウキに自分を恥じてほしくなかった。
「亡くなった? あの、えっとどうして……」
ダイゴとヒナゲシの命を奪ってユウキが生き残ったのではない。
師匠でありながら三人の弟子を守ってやれなかったロウゼンに全ての非がある。
「儂のせいじゃ。儂の命を狙った族が儂の不在時、ユウキの元を訪ねてしまったんじゃ。そして兄弟子と姉弟子はユウキを守るため、命を散らしたのじゃ」
「そんな……」
「ユウキもその時、致命傷を負っておった。姉弟子の方は治癒魔法が得意じゃったが……」
「治癒魔法は、使用者だけじゃなく、負傷者本人の蒼脈にも治癒性を持たせて外と内から治療する。だから負傷者本人の量が多くないと効果が薄い、ですよね? でも先生の蒼脈量なら……後天的に身に着けたってことは……まさか」
「そうじゃ。ユウキの負った傷は、当時のユウキの未熟な蒼脈量では直し切れん。じゃから姉弟子は、兄弟子と力を合わせてユウキの治癒をしながら二人分の全蒼脈を移植した」
あの場にロウゼンが居れば、暗殺者撃退後、ロウゼンの蒼脈を移植してユウキを救えた。
ユウキのためなら蒼脈なんて惜しくはなかったのに。
「それをユウキは自分のせいで兄弟子と姉弟子が死んだと思い込んでおる。儂のせいなのにな」
あの日、狼牙隊の第一分隊隊長から狼牙隊総隊長への昇進が決まり、諸々の手続きのため道場を開けてしまった。
その結果があの惨劇である。
くだらない昇進のために、大切な弟子二人を失い、たった一人生き残った弟子の心が壊れた。
「ユウキのやつは、生き残ってしまった自分が二人の夢を叶えねばならんと思い込んでしまったのじゃ。じゃが、授けられたモノが大きければ大きいほど、重圧がのしかかる。日増しに重みが身体へ食い込んでくる。常人には到底耐えられない苦痛じゃ。大きすぎる力は人間を容易く滅ぼしてしまう。花一華ユウキもそうした人間なんじゃよ」
「先生が?」
「あいつの背負った重圧は、想像を絶するモノだったはずじゃ。ましてそれが家族のように慕っていた人の死によってもたらされたのだとしたら。ツバキ、例えばサクラが死んでしまって彼女が莫大な遺産をツバキに残したとしよう。嬉しいか?」
ツバキは首を激しく横に振った。
「嬉しくないです。そんなのいらないから、生きててほしいです」
「では、もしもサクラが遺言でその遺産を使って何かを成し遂げてほしいと言ったらどうする?」
「もちろんそのために使います。サクラの想いを叶えるために」
そう、花一華ユウキも桜葉ツバキと同様に優しい人間だったのだ。
「善良な人であればあるほど、個人から託された想いは呪いになる。呪いはいつまでも、どこまでもその人間を蝕んでいく」
「先生の夢は大切な人から託されたモノ。だから先生は……」
「あるいは、あの子たち叶えてくれと懇願したか? いや、確実に何も言わなかったじゃろう」
ダイゴとヒナゲシが自分たちの代わりに夢を叶えてくれと言ったか?
そんなはずはない。あの二人が、自分たちの遺言がどれほどユウキを苦しめるか知らないはずがないだろう。
「自分たちの遺言がどれほどの呪いになるかを知らないはずがない。あの子たちが望んでユウキに呪いを残すはずがない」
「じゃあ先生は何で?」
「蒼脈を託された意味が欲しかったんじゃと思う。蒼脈を受け取る理由が欲しかったんじゃと思う」
「意味と理由を得た先生はどうしたんですか?」
「鍛えたのじゃよ。自分をな」
あの日々を思い出すだけで涙がこぼれそうになる。
ズタズタに引き裂かれた心に追いつくように、身体をとことんいじめ抜いた。
「しかし尋常なものじゃなかった。左目の傷跡も修行の過程でついたものじゃ。ユウキが十四の時、初めて真剣を使った立ち合いの時、やつのあまりの気迫に儂の手元が狂ってな……じゃが失明寸前だったというのに、奴はその後十七時間も修行を続けた。手当もせずにな」
一生消えない傷跡を残し、それでも弟子を止めることも出来ずに、言いなりになって何が師匠か。
常に自責の念にかられつつ、しかしユウキの歪んだ願望を叶える手助けをしてしまった。
「そうじゃ。平凡な人間は、強大な力を手にすれば狂うか、心を壊すか、身を滅ぼす。あの子は、心を壊してしまった。あの子は平凡で何の才能もない子だったが、ただ一つ優しすぎたのじゃ」
ユウキが自分と同格になれるはずがないとロウゼンは考えていた。
大切な愛弟子ではあったが、才能があったから弟子にしたのではない。
臆病だけれどとても心優しく高潔な少年に、少しでも自信を付けさせてやれればいい。そんな気持ちでユウキを弟子にしたのだ。
「儂は止める事も出来んかった。何もしてやれんかった。あの子が求めるままに鍛えてやる以外になかった」
たどり着いたのは達人の極致。
いかなる強者であっても怖気を覚えて立ちすくむ強さを平凡な少年が手にした代償はあまりに大きかった。
「強さの代わりに、あの子はそれ以外の全てを失ったのじゃ……そしてようやく手に入れた夢も守れなかった」
狼牙隊第一分隊の壊滅。
今日の模擬戦での惨敗。
二つの挫折は、ユウキにとって存在意義の否定に等しいはずだ。
「儂はあの子と出会った事を後悔しておるわい。儂さえいなければ、弟子の誰一人として死ぬことはなく、ユウキは地獄に身を落とさずに済んだのじゃ。全て儂が起こした事じゃ」
ユウキを見る度に思ってしまう。
弟子になんてするんじゃなかった。
「なんと詫びればよいのか分からぬわ」
ひたすらに過酷な運命を授けてしまった。
「儂は一体何のために、何のためにあの子に戦い方を教えたのじゃ」
強くなればなるほどユウキの苦しみは増していく。
「後悔しかしとらん」
たった一人の弟子を救えず、何が世界最強か。何が蒼脈師の頂点か。
腕っぷし以外に取り柄のない情けないじじいの間違いではないか。
「周りからも甘い師匠だと良くたしなめられるわい。じゃがそれでも儂は、あの子を――」
ロウゼンさえいなければ、花一華ユウキの人生は幸福足りえた。
出会わなければよかった。あの子を苦しめるだけなのだから。
「すまんな。愚痴ってしまって」
「いえ……でもロウゼン様」
「なんじゃ?」
ツバキは、まっすぐロウゼンを見つめてくる。その表情は、自信に満ちあふれていた。
「えっと。先生は、辛かったかもしれません。でも、あの、ロウゼン様との出会いを後悔はしていないと思うんです。なにかあった時、自分を責めるのは、みなさんが大好きだからだと思います。私ならきっとそうだから」
ツバキの訴えは、ロウゼンにとって甘美な毒だ。言ってほしい言葉がそのまま音になって鼓膜を揺らしている。
「だからロウゼン様も出会いだけは後悔しないでください。先生は、あなたのことが大好きなんです」
すがってはいけないはずなのに、すがりたくなる。
望んではいけないはずなのに、信じたくなる。
花一華ユウキにとって、桃木ロウゼンという師匠が居たことに、かすかでも良い意味があればよかったのだと。
「私と先生は似ています。自分に自信がないところとか、自分が嫌いなところか……でも違うところがあります」
「なんじゃ?」
「優しくて頑張り屋なところです。えっと、私は嫌な奴なんです。サクラに嫉妬してばかりで、自分を鍛えようともしなかった。でも先生は違った。頑張って強くなって、私にも優しくしてくれて、だから……私は、先生みたいな強い人になれたらいいなって思ったんです」
「ユウキに?」
「それで私が憧れる先生のそういうところ、ロウゼン様から受け継いだんだなって、お話していて実感しました」
そうであればどれほど嬉しいか。
どれほど救われるか。
「私は、先生のおかげで誘導魔法の才能に気付かさせてもらいました。だから強くなりたいんです。恩返しのために。それに私の夢でもあるから」
「夢?」
「サクラを守れるぐらい強くなりたい」
――ああ、やっぱりこの子は、自分の運命に逆らえないんだよ、ケンジロウ。
「そうか……そうじゃな。それはいい夢じゃ。儂は、そろそろ行くかのう」
「お会いしなくてよろしいので?」
「こう見えても忙しい身じゃ。帰国したばかりじゃが、すぐまた別の国での任務に行かねばならん。それに――」
ロウゼンの心を安堵が満たしていく。ユウキは、大丈夫だと。ツバキとサクラが傍にいてくれれば、きっとユウキの心を救ってくれる。
悔しいが、生徒たちにユウキを任せると判断した鬼灯の正しさを認めるしかない。
「お前さんたちが生徒でいてくれるなら大丈夫そうじゃわい」
「あの、ありがとうございます」
大切な弟子を救ってくれる少女に、何の恩返しもしないのは罪だ。
「ツバキ、儂が言ってよいことはあまりに少ない。じゃが、どんな苦難が待ち受けていても諦めんことじゃ」
「ロウゼン様」
待ち受けている苦難は、ツバキの想像を絶するだろう。
心が折れそうになる事もあるはずだ。けれど大丈夫だ。ツバキたちがユウキの心を救ってくれるように、ユウキが磨き上げた力は、ツバキたちを守る牙となる。
「ユウキは、儂の自慢の弟子じゃ。あれは強い。何か起きてもあいつを信じてやってくんかのう? 必ず何とかしてくれるはずじゃ。あやつは儂がひいき目なしに認めた最強格の蒼脈師の一人じゃ」
「はい。信じています」
「とは言え、ダメなところもある奴じゃ。一緒に成長してやってほしい」
「はい」
「苦労をかけるわい。あ、あとはちょっとした助言じゃ。得意を伸ばすのも結構じゃが、苦手な技術から逃げ続けるのも関心せん。たとえ二流の技でも覚えおいて損はない。実戦では二流の技でも使い方次第で切り札になる。誘導魔法だけじゃなく、才能がなくとも他の技術もきっちりと学ぶことじゃ」
「はい。花一華先生に教えていただきます」
「ではな」
微笑みながら夜の中に溶けていくロウゼンを見送ったツバキは、サクラと勇気のいる職員寮を見つめた。