発端/序幕
闇夜が広がるように。
漆黒の翼が部屋中に満たされていく。
それを見つめる紫水晶のように光る大きな瞳を見つめ返す、赤い瞳。
うっとりとしたように細められた赤い瞳が次の瞬間、怒りを滲ませた黒い光を帯びた。
『…忌々しい印をつけられたな』
視線を移したその白い腕に光る、金色の輪。
バサリと翼が羽ばたいた。
カラン、と乾いた音を立てて。
ただ金の輪だけが床に落ちていた。
+ + + + +
「帰ってきたねえ、ネーロ」
町を見渡せる小高い丘から、私は眼下に広がる景色に安堵のため息をついた。
「今日も休憩していい?」
私の問いに、幌馬車を引く黒毛の馬が頭を下げる。
———本当にウチの子は頭がいい。
中に人間が入っているんじゃないかと思うくらい、頭がいい。
馬車から降りるとネーロに繋いでいた横棒を外してやる。
身体が軽くなったのが嬉しそうに頭を振った、艶々した黒毛を撫でると私は柔らかな草地に腰を下ろした。
ここからの眺めが好きだった。
小さな町を一望できる、とっておきの場所。
仕事帰りにここを通る時は、こうして無事に仕事を終えた喜びと感謝を捧げるのだ。
私を育ててくれた親父さんと、私をこの世に生んでくれた顔も知らない両親と。
それから———私をこの世界に連れてきたカミサマに。
本当に、自分がこんな馬を曳きながら荷物を運ぶ仕事をするなんて、あの頃は思いもよらなかった。
日本という、この世界には存在しない国に生きていた頃は。
いわゆる「異世界転生」というやつだ。
前世でそういう小説が好きでよく読んでいた。
まさか自分の身にそれが起きるとは思いもよらなかったが。
前世での死因も、小説によく出てくるパターンだった。
休日の買い物帰りにトラックに轢かれそうになった子供を助けたら、代わりに自分が死んでしまったのだ。
気がついたら白い空間にいた。
目の前の、ヒトのような何かが喋っていた。
本当は死ななくていいはずの私が死んでしまったのが可哀想だから、生まれ変わらせてくれると。
何か希望があるかと聞かれたから、どうせだったら魔法があるファンタジーの世界がいいと答えた。
あとお芝居が好きだったから、そういうドラマチックな経験がしてみたい、と。
そうかそうか、とそのカミサマらしき何かは頷いて、それならついでに特別な能力も付けてあげよう、と言った。
おおチート能力ってやつだよね。
ワクワクしながら光に包まれて、そして気がついたら。
五歳の私は、鄙びた小さな町の馬方の家にいたのだ。
魔法?一部の人は使えるね。私は使えないけど。
ファンタジー?精霊とかいるらしいね、どこかには。
チート能力?何それ美味しいの?
せめて特別な容姿を…と思うけれど、確かに顔は可愛い方だと思うけれど色彩は前世でさんざん見慣れた黒目黒髪で。体型も普通。
つまらん。
何もない田舎町で、馬車に荷物を乗せて運んでお金をもらう生活。
毎日繰り返される、平凡な日常。
食べ物に困る事はないけれど、贅沢ができるお金なんてない。
———これって前世の会社員生活と変わらなくない?
いやでもあの頃はまだ、休日にお芝居を見たり本を読んだりと趣味に勤しめた。
今私が住んでいる田舎町には芝居小屋なんてあるはずもなく、旅芝居の一座が年に一度やってくるかどうか。
本は高価で買えないし図書館もない。
悲しい。
最初の話と違うじゃないかー!
カミサマのバカー!
「平穏なのはいいけど…何のためにこの世界に転生したんだか分からないね」
聞くのは馬のネーロだけなので、私は思ったことを声に出す。
この町の人たちは優しい。
一年前に養父を亡くした私に気遣って、あれこれ助けてくれる。
多分十七歳の、半人前の馬方である私に仕事を振ってくれる。
幸せといえば、それなりに幸せな生活で。
…ドラマチックな出来事なんて全くない生活だけれど。
一つだけ何かがある可能性があるとすれば、私の素性が分からない事だ。
ある日私は、ネーロと一緒に親父さんの厩にいたらしい。
身体の大きさから多分五歳くらいだろうと思われた。
言葉は喋れるけれど、記憶がない。
自分の名前も両親の事も———何も分からなかった。
転生したにしても、この身体を生み落としてくれた親はいるはずだ。
けれど全く…前世の事はあれこれ覚えているくせに、生まれてから親父さんに拾われるまでの記憶が全くないのだ。
「私の本当の名前はなんていうんだろうね」
本当のお父さん、お母さんはどこにいるんだろう。
顔を上げるとネーロがじっと私を見つめていた。
真っ黒い瞳に、意外と長い黒い睫毛。
私を見つめるその眼差しは、優しくて…どこか、悲しそう?
「…寂しいんじゃないよ、私にはネーロがいるし」
気がついた時からずっと傍にいるネーロ。
とっても頭が良くて、力持ちで、丈夫な、大切な私の唯一の家族。
「帰ろっか」
立ち上がってスカートについた草を払う。
見上げると、雲ひとつない空が赤く染まり始めていた。