少年時より
父が死んだのは小学四年生の頃だった。それまで僕は優等生として、人気者として振る舞っていた。だが、父の死をきっかけにそれができなくなった。
僕はーー何を話そうか。…例えば、小学校の教室で、放課後の遊びで、僕は明るい人気者だった。お調子者で、いつも明るく気さくに振る舞っていた。他人を笑わせるのが好きだったし、みんなに楽しんでもらおうという道化精神があったのも確かだった。そういう意味において、僕の学生生活は順調だった。
だけど思うんだ。学生生活が順調だなんて事に何の意味がある? …僕も高校生になって、ようやく理解できてきた。みんなは、ただ明るく楽しそうにしている人を好むのであって、実際にその人が楽しいかどうかはまるで気にしてないって事に。
その事に気づかせてくれたのが父の死だった。僕にとって父は、大きな手のひらであり、手の感触だった。父は体温が高くて、子供の頃、父の手を握ってお祭りに行った時、手のひらが暖かかったのを今も覚えている。
父が急に病気になって、発覚後まもなく死んでしまって、それから僕もおかしくなった。だけどさ、思うんだよ。「こっち」の方がほんとだったって。みんながおかしかったんだよ。ほんとうに。ただのお調子者、お気楽な人を好いたりするというのは野蛮な事だった。だって父は死んだんだ。もう何も戻って来ないんだ。それなのに、悲しい事、決して忘れられないような事なのに、その後にどうやって僕はまた陽気な人間に戻れるというんだろう? そんな方法ってあるかい?
父の死から僕が学んだ事その一……他人の望むものに自分の全てを投げ出してはならない。
実を言えば、僕は、僕がこんな風に憤るのが間違っているとはよくわかっている。父の死の後、クラスメイトはみんな優しくしてくれた。僕の父が死んで悲しんでくれているだろうと、みんなは優しく振る舞ってくれた。だけど、僕の目には、みんなが嘘をついているようにしか思われなかった。
その後、つまり小学校から中学校に上がっても、何にも変わらなかった。何一つ変わらなかった。みんなはテストが大変だとか、近くにボウリング場が出来たからそこに行ってみようとか、木村に彼女ができたらしいとかそんな事ばかり言っていた。僕は未だに父が死んだ事を引きずっていて…もちろん、みんながこんな風に思うっていうのはよくわかっている。「いつまでもくよくよするな、前を向いて行こう」 …だけどさ、逆だったんだよ。僕にとっては逆だった。僕は父が死ぬまで前を向いて、他人に合わせて、みんなを喜ばせるのを楽しいと思って生きてきた。だけど、全部嘘だってわかっちゃったんだ。そう、父の葬式の日。みんながしおらしく手を合わせている姿を見て「こいつらみんな嘘つきだ」って思っちゃったんだ。だって、みんなが、僕の中にある深い深い悲しみに気づいて理解する日なんて未来永劫ありっこないって気づいたから。そもそも、仮にそれに気づいたからってそれが何だ? 喪失というのを分かち合う? …馬鹿言わないでくれよ。みんなには未来があるんだろ? 前に進むんだろ? 勝手にしろよ。僕はずっと前を向いて生きてきた。それが急に後ろ向きになった。いや、むしろ、最初から後ろ向きに進むべきだったとさえ、思っている。僕はみんなとは違う方向に歩き出した。僕は一人になった。
それで? どうしたって? …別にどうもしなかったよ。高校生になっても気持ちは変わらなかった。まわりは変わっても自分がそのままなら全ては一緒だ。誰も僕とは遊びたがらなかった。僕は暗い顔をしていたから。みんなは明るくて、かっこよくて、朗らかで迷いのない人と付き合いたがった。僕はそうじゃなかった。みんなは僕が意固地になっていると思っていた。僕が、明るい人達を妬んでいると考えていた。だけどそうじゃない。何かが失われるっていうのは文字通りに失われるって事なんだ。死ぬって事は消えるって事なんだ。死んで何かが残るなんて事はありえない。どんな天才だって、苦しんで死ぬ。死ねばそれきりだ。死ぬ前にベートーヴェンを聞いたら心が洗われるなんて事があるかい? 死が救われるって事があるか? …全てはまやかしだし、みんなが興じているゲームなんてまやかし以上のなにものでもない。みんなは何を夢見ているんだ? 僕には理解出来ない。失う事を人は理解しない。そういうものが現実になると、みんなは急いで砂を被せて、蓋をして、なかったかのようにする。だけどさ、そんなの無駄なんだよ。そういうものはやってくるんだよ。それまでの間、深淵に落ちるまでの間、僕らは気晴らしとなる演芸をやっている。全部気晴らしだ。それをあんなに馬鹿みたいに騒いで…。
もう締めた方がいいだろう。この締りのない文章も。あれから、僕は変わった。今、僕は少年院にいる。クラスメイトを思い切りぶん殴ったら、パキッって音がして鼻がねじ曲がった。そいつの鼻がぐにゃって曲がってぼたぼたと血が落ちて、そいつは奇声を発した。僕はその奇声に更にムカついて、頭を肘打ちした。そいつは崩れ落ちた。だけど、後で判明したんだけど、肘打ちの方はあんまり効かなかったみたい。
どうしてそいつを殴ったかって? …そんな事忘れたよ。そいつが、些細な事で僕を苛立たせたんだろう。あるいはお決まりの偽善的な事を言ったのか…。思い出した! そいつは、僕の席に来て言ったんだ。「お前がそうやって暗くしてるとみんなが迷惑してるんだ」 そいつはそう言った。僕は頭に来て、立ち上がった。「なんだよ? やるのか?」 ビビりながらそいつは言った。僕は無言でぶん殴った。
みんなが喧嘩を怖がるのは、なにか失くすものがあると思っているからだ。秩序を守っている方が、秩序を守らないよりも「得」だと前提しているからだ。良心なんて高級なものがある奴を僕は見た事がない。それで、僕には失うものがなかった…というか、そういうものがそもそもなかったし、僕らは失う一方だって知って、そういう事がわかってたんで、躊躇なくぶん殴った。人を殴る、殺す。そういう事は実はとても簡単なんだけど、やられた方はたまったものじゃない。それは知っている。
だけど残念だったのは、そいつが即座に殴り返して来なかった事かな。まわりの馬鹿達はみんな遠巻きで見ていたし、誰も、注意する人間もいなかった。誰かが救急車と警察呼んだみたいだけど、僕のところに向かってくる勇気のある奴はいなかった。正直に言って、その時、僕は死にたかった。今気づいて、の話だけどさ。もし、僕が殴った奴が切れて僕を殴り返してきたら、蹴ってきたら…僕はそいつが好きになれたと思う。だけどさ、そいつは残念な事に「先生に言うから」ってうめきながら小声で言った。そんな事したって無駄なんだ。お前は殴られたんだから、殴り返してこいよ。ファイト・クラブ!! 僕を殺したっていい。それくらいの準備はできたさ。僕だって、死ぬ準備はあった。その用意は、小学生の頃のあの葬式の日にすでに済ましていた。
今、僕は少年院にいる。僕は自分のした事をちっとも反省していない。少しも反省していない。ここから戻れば、まわりの人はまた僕を遠巻きに見て、「更生」するように促すだろう。小学生の頃の、優等生の、人気者の僕に戻るように言うだろう。僕はもちろん戻らない。僕は走り続ける。気が狂うまで、死ぬまで走り続ける。僕はもう…疲れた。僕には何もない。父の死が僕を変えてしまった。僕の魂を壊してしまった。だけど本来、これがあるべき事だったのさ。そういう意味でも、僕は反省していない。だから、こういう文章を書いた。この文章はネットかどこかに載せようと思っている。いずれ、外に出る時が来たら、さっさとアップロードしようと思っている。
そうして、みんなの憎悪を満身に浴びて、そんな状態で首を吊って死にたい。今はそんな欲望に取り憑かれている。だって、みんなが僕に向ける憎悪は、いずれ、僕が今抱いている憎悪に辿り着くだろうから。そうなれば、つまり彼らの僕への憎悪がやがてもっと巨大な、自分自身と生に対する呪われた感情へと行き着いたら、そこまで行けば、僕もみんなを許すし、みんなも僕を許すし、僕が殴った奴も僕を思い切りぶん殴って、僕に生きた感覚ーー「痛み」を喚起させてくれるだろう。そうなったら、それは…素敵な事だ。それはいいな。自分で思う。うん、悪くない。僕は…ムカついたんだ。いろいろなものに。親父の死体を見て、それがただの「物」だって誰もが認めて僕も認めざるを得なくなった時から、僕は世界の全てにマジでムカついたんだ。だけどそれもいずれ…昇華されるだろうさ。宇宙か天国ででも。僕は、この文章をいずれネットに上げようと思っている。みんなのキレた顔が思い浮かぶ。僕はその顔を愛す。憎しみを露わにする彼らを愛する。だけど彼らは顔を見せない。未だに守るべきものがあると思ってやがるんだ…。
さて、僕はこの臭い、狭い部屋でそんな日を夢見ている。最近は、同室のオカマが夜中にしょっちゅう呻いてたから、傷にならないよう腹を殴ったらおとなしくなったよ。ようやく静かに眠れそうだ。僕はここを出る日を夢見ている。楽しい楽しい気持ちで夢見ている。まてよ、そう考えたら、僕は「前向き」に生きているのかもしれないな。不思議だな。全てを呪う気持ちになっても、破壊する気持ちでも、それ自体は「ポジティブ」な気持ちなんだ。あーあ、楽しいな。これから先が楽しみだ。僕は、「前向き」に生きている。誰にも負けないくらい「前向き」に。死は僕を変えた。僕も死に向かおう。グッバイ、アディオス、前向きな生。そうして来い、僕の好きな、暗いじめじめした冥界よ。今からそこに向かう。でもそれまでーー収監期間が開けるまでーーまだ少しの時間がありそうだ。




