その猛り、拳にかえて
今、何か音が────────。
それは無視していいほど些細な破裂音。繁華街の喧騒と屋台の賑わいに埋もれた微弱な違和感があった。パァンという音はそれでも耳にこびりついていた。来た道を戻り、路地へ分けいる。路地は丸で異界。暗く、涼しく、喧騒も賑わいも背後にフェードアウトしていく。人は影も居らずただ、ごぉ、という空調の排気音しか聞こえない。路地は十字に別れた。十字に差し掛かるとき、怒号を確かに聞いた。
「おらおらおらおら!旦那は呼ばねえのかよぉ!旦那はよぉ!」
「許して…もうやめて……」
掠れた懇願と、すすり泣く誰か。声は怯えていた。理不尽な何かに押しつぶされ今にも消え入りそうな女性の声はさらなる罵声の前に打ち砕かれた。
「なぁにが許してだよ、豚女!米兵とヤりまくった淫乱クソ便女が!」
聞くに耐えない罵声。既に我慢の限界とかそういうものは俺の中ではち切れていた。
甲高い叫びが────────罵声と怒号にかき消される。女性が講義したのか、男どもが黙らせたのか。もはや頭に入って来ない。ただ目に映る惨状があった。十人程の中年親父に囲まれた子供と若い母親。母親は大きな手で口を鷲掴みにされ壁に押し付けられていた。周りはゲラゲラと笑っていたがチラホラこちらにも気づいたようだ。全員Tシャツには「平和を取り戻せ」の文字。
「やめろ、テメェ────────!」
「んだテメェ、糞ガキがぁ!」
取り巻きの一人、三十代の男が角材を持って立ち塞がる。構うものか、振り抜かれる角材を無視して拳を叩き込む。脇腹には鈍痛、だが拳には確かな手応えがあった。
「おぶ、ごぁ…」
間抜け面晒して男は大の字にコンクリートに倒れた。
「何だこいつ」
「何だてめえは」
「死ねてえのかガキィ!」
「おい、どうした!」
「何、何なのよ」
あわてふためくオヤジども。中にはおばさんも含まれていた。気が立っていながらもそんなどうでもいい事を頭の中で考える。
「子連れの母親から離れろ、老害ども」
強く、短く、ただ思う事をぶつけた。キョトンとする者や変顔で威嚇する者、罵声を浴びせる者もいた。
「ヒーローごっこに付き合ってやる暇ねんだよ糞ガキ!とっとと失せねえとぶっ殺すぞ!」
母親を壁に押し付けていたリーダー各の男が女を話して金属バットを手に迫る。
「やれるもんならやってみろ!」
大口叩いたがこちらは徒手空拳、角材までは距離があり取ろうにもしゃがめばバットで叩き殺されるだろう。九人を相手にステゴロ、不思議となんだか高揚した。ここまで不利を強いられたのはいつぶりだろうか。下手をすれば中坊以来だ。だがそれがどうした、あの母親はさっきまで抵抗する力もないままこいつら達と対峙していたんだ。ここで引き下がることは何より俺自身が許せない。大きくバットを振りかぶる初老のオヤジ。一か八かバットの間合いに入る。中途半端に詰めたらお終いだ。やるならとことん、必ず勝てる位置へ。オヤジの腕が肩に直撃する。
「おぐっ」
「はぁっ!」
悲鳴はオヤジのだ。なまじ強く振り下ろしたがために肘関節を痛めたのだろう。それは最大の隙だ。拳を高々と振り上げ振りぬくは渾身のアッパーパンチ。オヤジはそのまま後方に大きく吹き飛ぶ。カランと金属バットの落下音が平和団体のリーダーの敗北を響かせる。
「おい老害ども、この二人みたいになりたくなきゃさっさと失せやがれ!」
老人たちは渋々その場を去る。顔は覚えたぞ!とか、死ね!と、暴力!訴えてやる!次はないぞ!見逃してやる!など酷い負け惜しみも醜悪なだけに今は俺の勝利を彩る凱歌のようだった。
「あ、あの!ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
笑顔で泣きながら子供を抱き寄せる母親の表情は何より晴れやかで、あの醜悪な凱歌を跡形もなく粉砕してくれた。