前編
クラスメイトの加藤凉太くんは、たまに浮く。
クラスの雰囲気になじめないとか空気が読めないとかいう意味の「浮く」ではなくて、本当に体がふわりと浮くのだ。
私が初めて加藤くんが浮く瞬間を見たのは昨年、まだ中学校に入学したばかりの4月。
となりの席に座っていた松本くんという男子が休み時間に教えてくれた。
「ねえねえ、村田さん。うちのクラスに加藤凉太って男子、いるでしょ?」
まだ数えるほどしか話したことのない松本くんは、やんちゃそうな大きな目をくりくりと動かして、私に話しかけてきた。
私はその加藤凉太という名前を聞いてもぴんと来なくて、うーん、と首をひねった。
何しろ、まだやっと中学校の生活に慣れたかどうかというくらいだ。一度も話したことのないクラスメイトの顔と名前はなかなか一致しない。
「ごめん、どの人かちょっとわからないや……」
私が申し訳なさそうに笑うと、松本くんはまったく気にした様子もなく「そっか」とうなずいた。そして楽しそうに私に顔を近づけてささやいた。
「あのさ、俺、凉太とは同じ小学校出身なんだけど……あいつ、浮くんだよ」
「浮く……?」
聞き慣れない言葉に私は眉をひそめる。
すると、松本くんは私から顔を離して勢いよくぴょんと立ち上がった。
「な、な、あれが凉太だよ。今、机の上に座ってる小さい男子」
彼女の目線の先を追う。私たちが座っている廊下側とは反対の窓際の席で、少し行儀悪く机の上に座り、数人の男子と雑談している背が小さめの男の子がいた。あれが加藤くんなのか。
まだ新品のぶかぶかな学生服と、さらさらで柔らかそうな黒い髪が印象的な男の子だった。
まじまじと観察していると、松本くんがひらひらと手を振って私を手招きしたから立ち上がってついていってみる。
松本くんはざわざわしている教室の中をするすると歩いて加藤くんに背後から近づき、加藤くんと話している数人の男子と私に人差し指を口に近づけて静かにするようジェスチャーする。
そして、松本くんは加藤くんの耳もとで、そおっと息を吸い込み……
「わっ!!!!」
「ふぇああっ!?」
松本くんの大声に驚いた加藤くんが、猫にも似たような高い声とともに肩をびくっと跳ね上げた。
それだけならただ松本くんが加藤を驚かした、というだけなのだけれど、私はその後起こったことに思わず目を見張った。
なんと、加藤くんの体がふわふわと机の上から浮かび上がったのだ。
机と浮いている彼のおしりのあいだは大体30センチくらい。
魔法か手品みたいに空中で止まっている加藤くん。
どういうこと、嘘でしょ……!? と思っているうちに、彼のおしりはすとんと落ちて、元通り机に座った状態になった。
「な? こいつ、浮くんだよ」
まるで自分が浮いたかのように自慢げな表情で松本くんは胸を張った。
松本くんだけでなく周囲の男子たちも大して驚くことなく笑っているから、これは加藤くんにとっては普通のことみたいだ。
大声の主の存在に気付いた加藤くんが、恨めしげに松本くんを睨む。
「まっちゃん。何するんだよ……」
「悪い悪い。ちょっと凉太の特殊能力を村田さんに紹介したかっただけ」
そう言って松本くんが私をちらりと見る。加藤くんと目が合って、私はどぎまぎしながらぺこりと軽く頭を下げた。
「え、えーと、村田夏美です。どうも……」
「うん、知ってる。入学式の日にクラスの自己紹介で聞いた」
素っ気なくそう言われて、なんとなく壁を感じる。初対面だししょうがないか……。
「凉太は人見知り激しいよなあ。そんな冷たくしたら村田さんに嫌われっぞ」
加藤くんは私から目を離して、ぷいと横を向いた。
「うるさい。だいたい、なんで俺が浮くことを村田さんに教えなきゃなんないの」
「だってお前、俺が村田さんと仲いいのかって聞いてきたじゃん。だから凉太も村田さんと話したいのかなって思って連れて来てあげたわけでー」
「ちっがうよ! 俺が話したいとかじゃなくて、ただよく喋ってんの見るから仲いいか聞いただけだし!」
「ふーん」
ムキになって言い返す加藤くんが、またふわふわと浮き始める。一体どういう仕組みで浮くんだろう。
私がぽかんとそれを眺めていると、加藤くんが私の目の前で両手をひらひらと振った。
「浮いてんの、恥ずかしいからあんまり見ないで」
「あ……うん。ごめん」
そんなこと言われたら、なんだかいけないもの見ちゃった気になってこっちまで恥ずかしくなる。
私は加藤くんからそっと目をそらした。
それからしばらくして学校生活に慣れた頃になっても結局、加藤くんが浮く仕組みはよくわからなかった。
彼がときどき浮くことは、彼と同じ小学校出身の生徒にとっては当たり前のことで、特に誰も驚かなかった。
私のような他の小学校出身の人たちや先生は最初こそびっくりしていたけれど、だんだんと慣れていって、夏休みに入る頃には加藤くんが浮いていようが地に足をつけていようが誰も気にしなくなっていた。
加藤くんは色々なときに浮いた。
例えば、授業中に突然先生に当てられたときには一瞬ひゅっと1メートルくらい浮き上がって、すぐにすとんと椅子に落ちた。
それから、クラスメイトが何か面白いことを言ったときには大笑いしながらふわふわと5センチほど浮き続けていたり。
あと、テストの点数が良かったときも、「やったぜお小遣いアップ!」なんて言いながら、数センチ浮いたまま教室の中を歩き回っていた。
どうやら感情の変化に合わせて浮いているみたい。テストの結果が良かったときみたいに嬉しいときに浮くのはちょっと可愛いな、なんて思う。
個人的に加藤くんと話す機会はあまりなかったけれど、私は密かに彼が浮く瞬間を見るのが楽しみになっていた。
そんなこんなで1年が終わり、私は2年生になった。
クラス替えがあったけれど、私は再び加藤くんと同じクラスになった。
「村田さん」
通学バッグの中に教科書やペンケースをしまう手を止めて顔を上げると、バスケ部の練習着姿の加藤くんが緊張した面持ちで立っていた。
5月、ゴールデンウィーク明けの月曜日。
朝から6時間あった授業から解放されたばかりの放課後は活気に満ちていてにぎやかだ。
私は合唱部に所属しているから練習がある。
加藤くんも着替えているということは、今から部活に行くのだろう。
彼とは入学した直後に初めて浮くのを見て以来、ほとんど話していない。
二人だけで話したこともない。
声をかけてくるなんて珍しいな。何の用事だろう。
「どうしたの?」
「あの、えっと……」
なかなか続きを言い出さない加藤くんをじっと見つめると、みるみるうちに彼の頬や耳が赤くなっていく。と、同時に、ふっと彼の目線が高くなった。
あ、浮いてる。
そう思った瞬間、私にだけ聞こえるくらいの消え入りそうな声で、加藤くんがささやいた。
「す、好き、です……」
「……えっ!?」
思ってもみなかった言葉に私がまばたきした途端、加藤くんはふわ~っとさらに浮き上がった。
「わわわわっ」
「だ、大丈夫っ?」
空中でじたばたする加藤くんに合わせて私もあわあわとその場で手をばたつかせてしまう。
なんだか急に顔のあたりが暑くなった気がする。
たぶん、私の頬とか耳とかも、加藤くんと同じくらいかそれ以上に真っ赤になってると思う。
聞き間違いじゃないよね?
加藤くんは男子の中では小柄なほうだから、私と大体同じくらいの背丈だ。
だけど今はいつもより上にいるから加藤くんを見上げる状態になる。空中で加藤くんは気まずそうに口を開いた。
「だから、その……俺と、付き合ってくれませんか」
「っ!」
聞き間違いじゃない!
そう理解したら顔だけじゃなくて体全部が熱くなってしまったような。
どうしよう。私は加藤くんのこと好きかどうかと考えてみると、よくわからない。
けど、嫌いじゃないし、付き合ったらどうなるかな。楽しいかな。もっと彼のことを色々と知ることができるだろか。
頭の中でいろんな考えがぐるぐると混ざって、とにかく何か返事をしなきゃと思ったときには、私の答えは自然と決まっていた。
「ええっと……はい。よろしく、お願いします」
加藤くんに負けず劣らず小さな声でそう言うと、加藤くんの表情がぱあっと明るくなって、
「えっ、付き合うの? おめでとう!」
突然真横から浴びせられた祝福の言葉に、私と加藤くんはぎょっとして声の主のほうを向いた。
松本くんが、乙女のように両手を頬に当ててこちらを見ていた。
というか、我に返って教室を見渡すと、まだ残っていたクラスメイトはみんな、私たちを見てにやにやとした笑みを浮かべていた。
みんな、このやり取りの一部始終を見ていた……? 穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。
加藤くんが真っ赤な顔で口をぱくぱくさせながらさらに数センチ浮き上がる。
翌日加藤くん本人から聞いた話だと、このあと部活中もしばらく浮いていて大変だったらしい。
加藤くんと付き合い始めて数週間。わかったことは、私といるとき彼はよく浮くということだった。
私は教室の中で窓側の一番後ろが自分の席で、加藤くんの席は教卓の目の前、つまりど真ん中の一番前だ。
ある日、授業中に私がぼんやりと加藤くんが問題を解く後ろ姿を眺めていると、視線を感じたのか加藤くんが突然振り向いた。
目が合うと、加藤くんが目を見開きながら、そのままふわりと浮いた。
教室中の視線が加藤くんに集まった。
「おい、加藤なんで浮いてるんだ? 先生別に当ててないぞー」
数学の先生が困ったように頭を掻く。みんながくすくすと笑う中、加藤くんは慌てたように私から目を離して先生のほうを向いた。
「えと、あの、なんかわかんないんですけど浮いちゃいました! わざとじゃないです!」
「いやまあ、わざとではないんだろうけど、なるべく浮くなよ」
「は、はいっ! ごめんなさい!」
加藤くん、ごめん! 私は心の中で両手を合わせた。
「俺、今まではこんなに浮かなかったのになあ……」
加藤くんが校門を出たところで大きく肩を落とした。
太陽が西に傾いてオレンジ色の空から光が差し込む夕方。
下校時刻が近いため、部活を終えた生徒たちがゆっくり歩く私と加藤くんの横を通りすぎていく。
「でも加藤くん、前から結構浮いてたよ」
だらだらと歩きながら私は指摘した。
私たちは途中まで帰り道が同じだから、付き合い始めてからはたまに一緒に帰るようになった。
「うそ」
「うそじゃないし。一年生のときから見てたら何回も浮いてたもん」
「はあ? そんなしょっちゅう俺のこと見てたん?」
「うん。……あ」
自分の失言に思考が停止する。
初対面のときに恥ずかしいからあまり見るなって言われたんだった。
いつも見てましたって暴露したら怒るかなあと隣りを見ると、また加藤くんの足が少しだけ地面から離れていた。
「浮いてるよ」
「い、言われなくてもわかってるよ」
加藤くんはちょっと大げさに深呼吸を始める。すると徐々に足が地面に戻った。
私は前から気になっていたことを訊いてみた。
「ていうか、なんで浮くの? どういうときに浮くの?」
「わかんないけど、生まれつき。母さんが赤ちゃんのときから浮いてたって言ってた。どういうときに浮くかっていうのは、びっくりしたときとかー、緊張したとき、嬉しいことがあったとき、あとなんだろう。なんか色々。気持ちを落ち着けたら元に戻るし、落ち込んでるときや怒ってるときは浮かないかな」
「じゃあ今浮いたのはなんで?」
「……自分で考えて」
わかんないから聞いてるのに何それ。そんな呆れた目で私を見なくてもいいじゃない。
「それじゃあさ、どれくらい高くまで浮けるの? 空飛べたりする?」
「飛べないよ。高くてもせいぜい1メートルくらい」
なんだ、飛べないのかあ。でも1メートルでも浮いたら楽しそうだ。
苦笑する加藤くんに向かって、私はふうんと唇を尖らせた。
「俺も村田さんに聞きたいことあるんだけど……」
「なになにー?」
自分から家族のことや好きな食べ物について加藤くんに話すことは多いけど、何か聞かれることは珍しいかも。
どんな質問でもどんと来い。……と思ったんだけど。
「手、繋いでもいい?」
質問じゃなくてお願いだった。
歩いていた商店街沿いの歩道でお互い足が止まり、カッターシャツの袖から伸びる加藤くんの手に目が吸い寄せられる。
付き合い始めてから今日みたいに一緒帰ったり2人でいることは増えたけど、手を繋いだりとか恋人らしいことはまだしたことがない。
改めて見ると、身長は同じくらいなのに手は私よりも少し大きくて男の子っぽい。
そういうことを意識してしまうと、急に心臓がバクバクと音を立て始める。
私はそわそわした気分を落ち着けるように唾を飲み込んで、手を差し出した。
「……どうぞ」
加藤くんが息を呑むのがわかった。
「えーと、はい」
どんな顔で加藤くんを見ればいいのかわからなくて俯いていると、おそるおそるといったふうに彼の手が私の手に触れてきた。
そのまま私よりもあったかいその手をそっと握ってみる。
すると、繋いだ手がぐいっと上へ引っ張られた。
「うわあっ」
加藤くんが叫ぶ。
私はぎりぎり手が届くくらいの高さにいる彼を見上げて、ぴょんぴょんジャンプした。
「なんでっ? 今度はなんで浮いたのよーっ?」
「嬉しかったから! だからそういうのは自分で考えてって!」
夕焼け空が反射して、加藤くんの髪が赤っぽく輝く。
これ、いつもよりも高い。たぶん1メートルくらい浮いてる。
私は加藤くんをなんとかして降ろしたくて、彼と繋いだままの手を引っ張った。
……違う高さにいるのって、なんだかちょっと寂しいし。




