時間とめもりー
一人称です
残念ながら、私たちは別れる運命にある。
出会ったときにはもう決まっていた。
いや――正確にはいつを出会いと言うのだろう。
この街は呪われた。
そして、一年の記憶と思い出が、すべての住民から奪われたのだ。
+ + +
国により正式に発表された経緯はこうだ。
ちょうど一年前、我々が住む街全体に悪魔が呪いをかけた。時間をかけてゆっくりと、住民全員が死に至る危険なものだ。
それに気づいた国の魔術師団が、必死に解呪の研究を進めた。結果、本当にぎりぎりの瀬戸際で、住民は救われた。
呪いは人間の記憶に侵食する外法で、掛けられた時点からの記憶を消去すれば取り除かれるらしい。そうと知れてから国の魔術師団が過労死寸前まで働いてくれた甲斐もあり、我々は全員死を免れたのである。
本当に幸運と言える。
何はともあれ生命あってこそなのだから。
解呪のため記憶が失われたとはいえ、たかだか一年程度、生活に殆ど支障がある訳ではなかった。
――この一年で大きな変化があった者以外は。
即ち私たち夫婦二人のことである。
私、セシル・ロイド(旧姓)と、夫のユリウス・ミュラーは、どうやら消えた一年の間に知り合い、結婚した……ようなのだ。
お互い当然憶えてもいないので、役所の公的記録と、解呪を受ける前に自分で一年の出来事を記載した確認書を読んだ。
筆跡は自分のものだが全く実感がない。内容も極めて簡潔だった。
『セシル・ロイド・ミュラーはユリウス・ミュラーを愛し、結婚した』
今となっては訊いてみたい。
一体どこをどうしたら、私があの男を愛することができたのかと。
+ + +
「俺が結婚? お前のような地味な女と? まさかだろう?」
開口一番に吐かれた暴言は、今でも印象に残っている。
私が地味で冴えないのは認めるが、まさかというのはこちらの科白でもある。
何だって、こんな軽佻浮薄な男と!
ユリウスは兵士だった。
それなりの規模の街なので、食うには困らない職だ。二十歳そこそこなのでやや早いが、年齢的には結婚していておかしくはない。
ただ彼の風貌は明らかに堅実とは程遠く、はっきり言うと派手な遊び人に見えた。長身で見目も良く、一般的には女性が放っておかないとは思う。
その証拠に、記憶が失われてすぐ、彼の幼馴染を名乗る可愛らしい女の子や、行きつけの酒場で仲良くしていたという美人、どこぞの商家のお嬢様……他にも入れ代わり立ち代わり様々な女性が家を訪れ、何故勝手に結婚したのかだの、私みたいな女は相応しくないだの、言われ放題されたものだ。
女性たちの言い分は勝手極まりないが、まあ自分でも概ね同感である。
結婚する(した覚えはないが)前、私は街の古い食堂を手伝って生計を立てていた。顔は十人並みで、何の変哲もない平凡な女である。親には先立たれて親族もおらず、所謂天涯孤独の身の上で、資産などある訳もない。
こんな私でも、いつか――贅沢はできなくとも、小さな暖かい家庭を作りたい。そんなささやかな願いはあった。まったく何を血迷ったのか。
正直すぐにでも出て行きたいが、未だ彼との家に留まっているのには理由がある。お互いに話し合って決めたことだ。
結婚していた、夫婦であったということは……つまり。
「子どもが出来ていないとさえ判れば、速やかに別れますからご心配なく」
ユリウスにも取り巻きの女性たちにもきっぱり断言している。
やや生理不順ではっきりしないが長くて二ヶ月程度、自分も相手も周囲も、我慢できないことはないだろう。
◆ ◆ ◆
ユリウスはあまり帰宅しない。
最低限の着替えを取りに来るだけで、日中は仕事、夜は呑んでいるか女性と遊んでいるのか。夜中に寝るだけのために戻り、明け方知らぬ間に出勤する。どうでもいいし、興味もなかった。
私は主婦になってから(多分)働いておらず、手持ち無沙汰なので一通りの家事だけはこなす。
食事を作り、洗濯をして、家を掃除する。たとえ夫が戻ってこないとしても、現状では養われている身なのだから当たり前だ。
整えられた家を眺めるとちょっとだけ安心する。
早くから独りで生きてきた私は、家庭に密かな憧れがあった。
優しい夫、やんちゃな息子、愛らしい娘、皆が暮らす陽だまりのような家……何もかも、淡い夢だけれど。現実は――遊び人の夫に決して望まれない子ども(仮)と、空っぽの家しか手に入らず、更にそれすら失われるなんて、自分は余程家庭に縁がないらしい。
自嘲しながら、私は作りかけのスープをかき混ぜた。我ながら良い出来だ。
食堂勤めの経験もあり、料理は得意だった。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ。早く食べてね愛しい貴方。私の私の旦那様」
最後の味付けを調えながら、私は奥様方の間で流行っていた歌を口ずさむ。癖みたいなものだ。
以前はいつか本当に旦那様が居たらと想像して作っていた。皮肉なものだ。野菜くずを使っただけの質素なスープなど、あの派手な男は絶対に口にしないだろう。
台所で作業していたため、私は全く気づきもしなかった。
そのとき何の理由かユリウスが珍しく家に帰ってきており、私の下手な歌を聴いていたことを。
+ + +
「何だ、それ」
「あ……ら、お帰りなさい」
急に背後から声をかけられ、私は面喰った。
「夕食の、スープを作っていたのよ」
「今の妙な歌は?」
「知らないの? 主婦というのは唐突に鼻歌を口ずさんだりするものなのよ」
「ふぅん」
私は長身のユリウスに少し近い位置で見下ろされた。どうもスープに興味があるらしい。普段外食が多いので、家庭料理が珍しいのか。
「召し上がる? ……いえ、夜はお出かけよね」
「皮肉か?」
ふん、とユリウスは鼻で嗤った。
「食い扶持が増えたんだ。遊び歩くにも懐が厳しいんだよ」
「それは悪かったわね」
記憶がないとはいえ自分の意思で結婚したはずなのに、往生際の悪い男だ。たかだか一月やそこらの期間、耐えることもできないのか。
文句は言いたかったが、そこは大人としてぐっと堪える。別に私とて、見ず知らず同然の自分の分まで生活費をいただいている感謝がない訳ではない。
「きちんと決着したら働いて返すから。当面の間、不便をかけるのは申し訳ないけれど」
「……どこで働いてたんだ?」
「三条通りの食堂よ」
「知らないな」
「そう。別に有名店でもないからね」
「食堂の娘なのか?」
「いえ、ただの手伝いよ。私の親はもういないの。話さなかったかしら」
こうも会話に疲れを感じるとは、本当に私たちはどんな経緯で結婚まで至ったのだろう。気まずくなり、私は目を逸らしてスープの表面に視線を移す。
「それで、どうするの? あとはパンくらいしかないけど」
「それだけ?」
ユリウスが怪訝そうに言った。
「夕食時に貴方が帰ってくるなんて思っていなかったから、用意してないわよ。残っていた野菜くずの始末をしたの。そうね、ベーコンがまだ余っているから、焼くくらいならできるけど」
「お前は小食なのか、セシル」
「……え?」
ほぼ初めて名前を呼ばれて、私は動揺を隠せなかった。意外だ。この男、私の名前をちゃんとわかっていたのか。
「え、ええ。もともと食べる方ではないわね。男性とは違うし。それに一人だとそんなに手の込んだ料理しないわよ、普通」
「そういうものか」
「それで……どうするの、食事」
「……折角だからいただこう」
「へっ?」
自分から尋ねたにも拘らず、まさか是の返答が返ってくるとは思わなかった。
何の気まぐれだろう。私にはやはりユリウスの性格や真意は把握できない。
結局、食卓に着いた彼は、野菜スープをいたくお気に召したらしく、私の明日の朝食分まで平らげてしまった。
それだけでなく、その日を境に家で食事を摂ることも増えた。
もしかして私、過去にも胃袋を掴んで結婚までこぎつけたのかしら。
◆ ◆ ◆
私たちの関係はほんの少しだけ変化した。
ユリウスは今までより帰宅するようになり、夜遊びは目に見えて減った。夕食も朝食も自宅で済ませる。少しでも節約になるかとお弁当を作ったら、案外嫌がらず持っていった。
食卓では多少の会話もする。つまらない、他愛もない話題ばかりだ。職場の話、近所の話、子どもの頃の話、今日の料理の話……でも、話すのは徐々に苦ではなくなった。
あとどのくらい、私はユリウスと一緒にいられるのだろう。
……いつ、また独りに戻るのだろう。
期限が近づいている。
端から承知の上とはいえ、僅かでも人間関係が構築された今は、ちょっとだけ寂しかった。
+ + +
その日の午前は、天気が良かったので洗濯をしていた。
真っ白なシーツをお日様の下に広げて干していく。横にユリウスの服も並べる。下着を洗うのは最初は嫌がられたが、最近は慣れたのか任されている。別に洗濯女の仕事くらい経験はあるので、変に意識されるのもおかしいと主張して役割をもぎ取ったのだ。
いつ終わるかもしれない生活でも、その間くらいは快適に過ごしたいじゃないか。私だって束の間でも儚くとも、優しい夢を見たかった。
埒もない考えに頭を振り、私はそっと嘆息する。
作業を終えて庭から家屋に戻ろうとすると、外から不意に名を呼ばれた。
「セシルさん。セシル・ロイドさん……」
「はい?」
声の方向に顔を向けると、そこにはいつぞや相対したユリウスの幼馴染が立っていた。
「ええと、貴女は確か」
「……クラリス・レンブラント」
「そうそう、クラリスさん」
小柄で愛らしい少女は、雰囲気に似合わず険しい面持ちで私を見ていた。
「セシルさん、貴女、いつになったら出て行くんです?」
クラリスは迷いもなく、憤りをぶつけてくる。私は冷静にそれをいなした。
「前にもお話したと思いましたけれど」
「……!」
大人しそうな女に反論されるとは思わなかったのか、クラリスは悔しそうに唇を噛んだ。
「嘘よ!」
「は?」
「本当は子どもなんて出来ていないのに、嘘を吐いてユリウスから離れないんでしょう? あんたみたいな女、彼が相手する訳ないもの!」
興奮したクラリスは眦に涙を滲ませていた。
……うんざりする。
もちろん彼女が主張したくなる気持ちもわからないではないけれど。
「お引き取りください、クラリスさん」
私は無表情のまま告げた。
「そして待ってください。貴女と彼は長い付き合いなのでしょう? 絆を信じているなら、結婚相手に忘れられた哀れな女に、ほんの少しの時間くらい恵んでくださらない?」
「な……っ!」
後半は完全に皮肉だった。
いくら見かけが冴えなくとも、独りで働いて生きてきた女がそんなにか弱いはずないじゃない。
クラリスが唖然としている隙に、私は洗濯籠を抱えて家に入った。
――異変が起きたのはその直後だった。
+ + +
最初は緊張からくる精神的なものだと思った。
室内に入りほっとした途端、私は蒼白になる。
唐突に、何の前触れもなく込み上げる吐き気が襲う。不浄に駆け込むと、そのまま嘔吐した。
「……はっ、はっ……」
胃の中の全部をなくしても、まだ気持ち悪い。
症状は暫く治まらなかった。
時間が経ち、身体が落ち着いた頃、私は更に顔を蒼褪めさせた。
まさか……まさか、まさか。
まだ確証はない。医者に診てもらわなければ、勘違いや杞憂の可能性もある。
けれど、もしそうだとしたら。
子ども――。
恐れていたことだ……最も恐れていたことだ。
間違いでないのなら、私にとってもユリウスにとっても最悪の事態だった。
夫婦生活を送っていた事実すら忘却の彼方なのに、私たちは突然親として、小さな生命を背負わなければならない。
決着をつけると主張したものの、実際にどうしたらいいのかわからず、私は途方に暮れた。
堕胎する――?
いや、絶対に無理だ。
宿った生命には何の責任もない。それに、国の必死の尽力により救われた人間が、記憶にないからと罪なき子どもを見捨てられるだろうか。
では……ユリウスを頼って子を産み育てる?
「……ふ」
あり得ない想像に、私は苦笑した。
きっと彼は私を妻と認めないのと同様に、我が子とも思わない。無理に寄り掛かっても、負担どころか害悪でしかない。
では私がたった独りで、身重の身体を抱えて働きながら出産し、幼な児を養いながら生きていけるのか?
多分それしか道はないのだろうが、不幸な結末以外とても想定できなかった。
身体を壊して流産、或いは無事産めても碌な仕事には就けず、女として最後の手段を用いても、ぎりぎりやっていけるかどうか。
「酷い呪いだわ」
憎々しく、私は呟く。
今更言わなくとも、悪魔の齎す悲劇など残酷に決まっている。
ああけれど、街の住人の多くは概ね弊害もなく、元の生活を続けている。
ユリウスだって一時的に不自由はしても、私さえ去れば以前の暮らしに戻るのだろう。
どうして私だけが、私の大事な家族になる子どもだけが、どん底に落とされ惨めな想いをしなければならないの。
いいえ、もっと不運な人間もいるかもしれない。一年の内に大切な誰かを喪った者だって。
大丈夫……私はまだマシだ。
可哀想な私の子。
誰に望まれなくとも、父親に忌避されようと、私だけは必ずあなたを守るから。
……ごめんね。
◆ ◆ ◆
疲れて自室で休んでいたら、いつの間にか日が暮れていた。
階下で物音がする。ユリウスが帰宅したらしい。私は重い身体を引きずって階段を下りた。
「……お帰りなさい」
「セシル?」
「ごめんなさいね、食事の支度ができていないの。その……昼間ちょっと具合が悪くて」
「寝ていなくていいのか?」
ユリウスは私の顔色を確認すると、さすがに心配した。
「ええ、多分……。少し待っていてちょうだい。簡単なもので良ければ作るから」
悟られたくなくて、私は逃げるように台所に向かい、竈の前に立った。
塩漬けした鶏肉があるから、野菜と一緒に炒めれば一食くらいは賄える。そう判断して作業をしようとするが、何故か指が震えて動かない。
どうしてなの。これではユリウスに不審を抱かれてしまう。
「どうした? 体調が悪いなら別に今日は」
「平気よ!」
「た、確かにまだ本調子じゃないかもしれないわね。でも」
「セシル……何があった?」
上ずった声から私の強がりに気がついたのか、ユリウスは直球で訊いてきた。
そうね、最近知ったけれど、貴方は腹芸も嘘も好かない、真っ直ぐな性格だったみたいね。
「昼にクラリスが仕事場に来た。お前について何か意味不明なことを喚いていたが、関係あるか?」
「へ?」
その後の衝撃で、彼女のことなどすっかり失念していた。確かにクラリス嬢なら、侮辱されたとユリウスに泣きついてもおかしくない。
だが今の私には、部外者の少女がどうしようがさして意味はない。というより、どうでもいい。
「クラリスさん……なら、午前中に来たけど」
「何か言われたのか?」
「別に……大したことは。余計なお世話とは思うけど、貴方、彼女のことあまり構ってあげてないんじゃないの?」
「はあ?」
ユリウスは戸惑ったように声を上げた。
「どういう意味だ?」
「いえ、不安そうだったから、彼女」
「何を勘違いしてる? あいつと俺は単なる幼馴染だ。特別な関係じゃない」
「そう……なの」
やや苛立ちを含んだ否定の言葉を、私はどこか遠くで聞いていた。
別に知ったことではない。
彼女が貴方の何であれ、もっと他に特別な存在がいるのであれ。
――関係ない。
私と貴方とを結ぶものは最初から何もない。
哀れで愛しいこの子以外、もう何もないの。
「か……んけい、ない、のよ」
「セシル?」
視界がぐらりと揺らぐ。
眩暈が襲ってきて、私の身体は溶けるみたいに崩れた。
「――セシル!!」
ユリウスが私の名を叫ぶと同時に、逞しい腕が伸ばされた。
暖かい人肌の温もりを感じつつ、私の意識は緩やかに薄れていった。
+ + +
目が醒めると、寝室にいた。
記憶を失って以来一度も使われていない、夫婦の寝室だ。ちなみに、現在は二人とも自室に簡便な寝具を持ち込んで、お互い別々に眠っている。
なぜ私がここに――?
眩しさのため少しずつ目を開けると、部屋にはユリウスと初老の医師がいた。そうか、そういえば私は倒れたのだ。
「大丈夫ですかな、奥さん」
「え……ええ」
「大事な時期ですので、無理はいけませんよ」
医者は穏やかに笑った。
私の心の内は真逆だった。
「では、お大事になさってください」
「どうも、ご足労をおかけしました」
ユリウスが礼を言い扉を開けると、医者はそそくさと帰って行った。忙しいのか……それとも、私たちの間に流れる不穏な空気を読み取ったのか。
私は右手を自分の腹部に当てる。まだ何も兆候はない。けれど本職の医師が診察したのなら、それはきっと。
「……さて」
大きく息を吐くと、ユリウスはとても低い声音を私に向けた。
「説明してもらおうか。いつから知っていた?」
「確証はなかったわ」
言い訳のように私は答える。
「それに気づいたのは今日よ。話すのは医者に行ってからと思ったの。隠してた訳じゃない」
それに……あともう少しだけ、心の準備をする時間が欲しかったの。
けれど仕方がない。
知られてしまった以上、話し合いをしないでは済まされない。
「交渉しましょう、ユリウス」
私は覚悟を決めた。
「交渉?」
「そうよ。正確にはお願いだけれど」
ユリウスは怪訝そうに横たわる私の顔を覗き込んだ。実際は見かけほどいい加減でも人の悪い男でもない。付け入るようで申し訳ないが、譲歩を引き出せなければ私と子どもの運命は終わる。
同情でも義務感でも何でもいい。協力してくれるよう言葉を選ばなくては。
「子どもが産まれるまででいいの。ここに置いてください」
「セシル……?」
「動けるようになったら、すぐに出て行くわ。子どもは貴方に迷惑をかけずに育てます。生活費もちゃんと返す。利子もつけます。借用書も書くし、何年かかっても身売りをしてでも絶対に支払う。約束する。だから」
「おい、セシル」
「記憶がないのに悪いとは思っているわ。だけどちょっとだけでいいから、この子を哀れんで。お願いします」
「寝てろ!」
頭を下げようと上体を起こそうとすると、物凄い勢いで制止された。病人には優しいのか。ならば赤子にも期待していいだろうか。
「お前は……本当に俺のことを何とも思ってないんだな」
「ユリウス?」
仰向けのまま視線だけユリウスに向けると、彼の表情は複雑に歪んでいた。苦しそうにも哀しそうにも見えた。
「形式的な父親としてでも必要ないか。嫌われたものだ。まあ無理もないが」
「……は?」
「何言ってるの。嫌がるのは貴方でしょう? 私はこれでも自分のことはわかっているのよ。本来なら貴方みたいな男性と結婚できるはずがない、見窄らしい女よ。貴方もここ暫く地味でつまらない暮らしをしたから、身に沁みたんじゃない?」
「ああ……退屈で、窮屈で」
「そうでしょうとも」
「でも嫌じゃなかった」
「え?」
耳を疑う私の前に、ユリウスは一枚の書面を差し出した。
寝ている私にも読めるように掲げる。
それは――記憶を失うより以前にユリウスが書いた例の確認書だった。
『ユリウス・ミュラーはセシル・ロイド・ミュラーと結婚した。たとえ記憶がなくなろうとも、自分は永遠に彼女を愛し、添い遂げることを誓う』
「あら……情熱的ね」
「正直自分でも信じられなかった。俺は恋愛感情など知らない男だからな」
ユリウスは自嘲して語った。
「俺もお前と同じく、早くに両親を亡くした。兄弟は離散して行方も知れない。兵士志願して生活はできたが、心に余裕はなかった。女とは適当に遊ぶが、一夜限りの割り切った関係だけでよかった。軽蔑するか?」
「別に。全然意外ではないし」
それはそれで少し寂しいな、とユリウスは詮なきことを言った。
「まあ兎も角、俺は家庭には無縁の人間だった。嘘は言いたくないから白状するが、今でもお前を好きだとか愛してるとかはわからない」
「……そう」
改めて告げられなくとも、先刻承知している。
私には何の感慨もない。
「だが――」
「この家は居心地が良かった」
「家?」
「ああ。お前の守るこの家は、記憶よりも遥か以前に俺の手から失われた理想の家庭だった。おそらく……消えた俺はそれを含めてセシルを愛していたのかもしれないと、そう思わされたんだよ」
整頓された部屋、磨かれた壁や床、木漏れ日の射す窓辺、清潔なシーツ、温かい食事……それらすべてがユリウスには眩しかったのだと伝えられた。
何だろう。褒められたようでくすぐったい。
「役に立てていたなら、良かったわ」
「ありがたかった」
「じゃあ家政婦として雇ってくれる?」
「それは無理だ」
冗談よ、と私は微笑んだ。
否定されても傷つきはしなかった。もはや充分に報われた気がした。私の大切な夢は知らず叶えられ、たとえ誰が憶えていなくとも、確かにこの家に在ったのだ。
ほらね、私は大丈夫なの。
思い出と我が子だけを胸に抱いて、きっと生きていけるわ。
この家を去っても……貴方の元から離れた後も。
「それで、私は滞在を許されるかしら?」
再び訊き直すと、ユリウスは僅かに眉を顰めた後、急に真剣な面持ちになった。
真摯にすら思える眼差しが私を捉える。
「ユリウス?」
「なあセシル、試してみないか?」
「え?」
何をと問う前に、ユリウスが言う。
「お前と俺と……子どもとで、家族になれるか試してみないか?」
「もちろん駄目だと思ったらその時点で諦める。お前が無理でも俺が無理でも家族ごっこは止めにしよう。そうなっても出産や子育ては責任をもって援助する。その程度の甲斐性はあると信じてほしい」
私の思考はユリウスの並べる言葉に追いつかなかった。
彼はいったい何を言っているのだろう。
物凄く都合のいいように捉えると、まだ当面は私と夫婦を続けたいと、そう聞こえたけれど。
「……嫌か?」
「いえ、嫌ではないわ。ただ」
「俺を信じられないか?」
「貴方をと言うより、状況をね。いくらなんでも、私がお得過ぎないかしら」
「そんな風に考えるお前だから、俺は安らげたんだろうな」
多分……と嘗ての自分を想像して、ユリウスはぎこちなく笑った。
ああ、そうか。
私は漸く納得する。
こんな風に言ってくれる貴方だからこそ、嘗ての私は愛したのね。
二人の日々は永遠に取り戻せない。
愛し合った記憶も、積み重ねた思い出も、もはやこの世のどこにも存在しない。
でもやっぱり……大丈夫だったじゃないの。
「――ありがとう」
◆ ◆ ◆
それから私たちがどうなったのか、多くは語らない方がいいだろう。
第一子は女児だった。
彼は楽しそうにお父さんをやっている。
次は弟がいい、なんて笑いながら。
その希望は近いうちに叶うかもしれない。
私の夢は本当に現実となった。
最初から、私たちは幸せになる運命だったのだ。
<完>
ありがとうございました