2-4
やがて始業のチャイムがなり、やっと落ち着いたボクは、涙でくしゃくしゃになった顔を洗うために、力の抜けた身体を無理やりに起こして個室の外に出た。
「ああもう……ひどい顔……」
鏡を見ると、そこには涙の筋がはっきりと浮き出ている頬と、タヌキ目になってしまっている自分の顔が映っていた。
普段からボクはあんまりメイクはしない方だけど、性別がバレてしまわないように、一応初歩的なナチュラルメイクだけは柑奈から教えてもらってやっている。
だけど、今は体育館から走り去ったときのままなので、当然メイク道具の入ったポーチも持っていない。つまり、すっぴんで授業に戻らなければいけないということが、少しだけ憂鬱だった。
「あんまり、すっぴんになりたくないんだけど……」
当たり前だけど、ボクは男だから素顔に自信なんてない。
「……授業サボっちゃったけど、しょうがないよね。こんな顔で授業なんか出られないし……」
蛇口を捻って、冷たい水を手ですくいながら顔を洗う。学園のトイレの備品にメイク落としなんてあるわけもなく、時々鏡で顔を見ては、残った化粧を丹念に落としていく。
最後にハンカチで水滴を拭いきって、もう一度鏡を見る。
「うーん、やっぱりメイクしないと不安かな」
とは言っても、授業中に宮帆ちゃんたちを携帯で呼び出して、メイク道具を持ってきてもらうわけにもいかない。
と、そこまで考えて、深い溜息が口からこぼれた。
「はぁ……なにしてるのさ、ボクは」
これじゃ、まるっきり女の子じゃないか。
もしかしたら、ボクのこういう態度が悪いんだろうか。男だとバレないために、必要以上に女の子を装いすぎてるんだろうか。そのせいで、ファンクラブの人たちとか川北先輩みたいな人が次から次へと出てきてしまうのだろうか。
そりゃ、悪意よりは好意の方が嬉しいに決まってるけど、男の子から向けられるそれが友情じゃなくて愛情だなんて、正直たまったものじゃない。だって、どうあってもボクは男の子なんだから、どんなに男の子から好かれたところで絶対に付き合えないし、付き合う気もない。というか、生理的に気持ち悪い。
「はぁ……一度でいいから、女の子に好きって言われたみたいな……」
――――バァン!
「ひん――っ!?」
呟いた瞬間。
背後に並んでいる個室のドアの一つが突然勢いよく開いて、ボクはびくりと身を跳ね上がらせた。
「話は聞かせてもらったわっ!」
そこからドアに手を水平に突いたまま飛び出してきたのは、あろうことかボクのよく知っている人物だった。
「ゆ、ゆゆゆゆ、ゆ、ゆじゅ……っ!?」
柚乃ちゃんは後ろで手を組んで、外で燦々と輝く太陽みたいな笑顔を浮かべながら、鼻歌交じりに近付いてくる。
「どどど、どうして!?」
「それはこっちのセリフだよっ。珠ちゃんってば、いきなり泣きながらどこかに行っちゃうんだもん。びっくりして、思わず追いかけてきちゃったよっ」
お、追いかけてきたって……。
「じゃ、じゃあ、柚乃ちゃんずっと隣にいたのっ!?」
「はーいっ。おかげで珠ちゃんと同じく、授業サボリでーすっ」
そんなあっけらかんと……って、そうじゃないっ! そ、そそそんなことよりも……ずっとそこにいたってことは……もしかして!?
「き、聞いてたのッ!?」
動揺しまくるボクに、柚乃ちゃんはちろっと舌を出して見せた。
「えへへっ。うんっ、聞いちゃった」
まるで語尾に音符マークでも付いていそうな声を出す。
聞かれてた……聞かれてた……! もう、ボクはおしまいだっ!
「もーっ、珠ちゃんったら、やっぱりそうだったんだねっ? 男子には全然興味ないみたいだから、そうなんじゃないかと思ってたんだよっ。それならそうと、早く言ってくれればよかったのにぃーっ」
ところが、柚乃ちゃんはボクを軽蔑の目で見るどころか、何か友好的(?)な雰囲気を漂わせながら、人差し指でボクを突付いてきた。
「…………へ?」
「あ、安心してっ。このことは絶対言わないからっ」
またも泣きそうになっているボクを安心させるように、柚乃ちゃんはにっこりと微笑みながらボクの頭に手を置いて、柔らかく撫でる。
「な、なに……? ど、どういうこと……?」
「だーかーらっ、あたしも珠ちゃんと同じなんだよっ」
かと思ったら、今度はボクの両手を取って、目を太陽光でキラキラと輝かせながら、柚乃ちゃんは言った。
「あたしもねっ、女の子が好きなのっ!」
「………………」
一瞬、柚乃ちゃんが言った意味が理解できなかった。
「なっ、なっ、な――――」
それが理解出来てくると同時に、ボクは違う意味で動揺してしまった。
「レ、レズっ!?」
「そうだよぉー、珠ちゃんもそうなんでしょっ?」
「ち、違っ……!」
あれ? でもこの場合は、レズってことでいいのかな?
なんて考えていると。
「…………違うの?」
柚乃ちゃんはぶんぶんと振っていた手を止め、目を瞬かせながら訊いてきた。
「あ、いや! えっと、その……」
「ねーねーっ、違うのぉ……?」
うわあ! その上目遣いは反則だあっ!
だけど、ボクはゲイでもレズでもないわけで。
それに、自分が想いを寄せている子にこれ以上嘘を重ねるなんてこと、出来るはずもなくて。
「ご、ごめんね……ボク、別にレズってわけじゃ、ないから……」
だから、ボクは本当のことを口にした。
「あ……」
そのボクの言葉に、柚乃ちゃんは瞬間的に表情を凍らせ、
「…………そっかぁ。違うん、だ……」
少し伏し目がちになりながら、握っていた手を離した。
「あは、ははっ……まーたやっちゃった、あたし……」
(また……?)
一瞬、引っかかりを覚えたものの、だけどボクはそんな柚乃ちゃんの顔なんか見たくなかったから、慌ててその手をぎゅっと強く握り返した。
「で、でででもっ、ボクっ……! そ、その難しいことはわかんないけど……っ、そ、そんなことで柚乃ちゃんのこと、へ、へんな目で見たりしないからっ」
「え……えっと? 珠……ちゃん?」
そんな普段のボクとはかけ離れた積極的な態度に、柚乃ちゃんはぽかんと口を開けたまま固まっている。
「だ、だからっ……そのっ、うまく言えないけど……っ! べ、別に恋愛の形なんて、ひ、ひとそれぞれだと思うし……っ! そ、それにっ、誰にだって、人に言えないことの一つや二つはあるから……っ! だから、その――ッ!?」
そのとき、ふわりと、どこか清涼感のある甘い香りが鼻腔をくすぐり、ボクの顔が何か温かいものに包まれた。
「ふぎゅっ」
「そっか……。珠ちゃんは、あたしの秘密を知っても友達でいてくれるんだ? んもー……珠ちゃんってば優しいなぁ……」
ぎゅう、と柚乃ちゃんは自分の身体にボクの顔を押し付けて、少し熱を含んだ声を出す。
「えっ?」
もしかして、泣いてる……?
「ゅ、柚――」
「だめ」
上を向こうとすると、さらに強く顔を身体に押し付けられた。
「お願い、見ちゃだめ」
だけど、ボクは柚乃ちゃんの身体から香ってくる甘い匂いにくらくらして、それに加え、ふよふよとした感触に、脳が――――
(ふ、ふよふよ……?)
それに気付いた途端、脳の回路がバチバチとショートし始める。
ちょ、ちょっと待って……? このふよふよして、弾力のある感触って――
(ま、まさかっ、ここここれっ、柚乃ちゃんの、むむ胸っ!?)
やがて、頭の中でばちんと音がして、脳のブレーカーが落ちた。
「きゅ~……」
「え……? えっ、えっ? ちょ、珠ちゃんっ!? ど、どうしたの大丈夫っ!? ねえっ、珠ちゃんってばっ!」
そうしてボクは大好きな人の秘密を知って、その大好きな人の胸に抱かれたまま、気を失った。