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(やっぱり、先輩に頼るしかないのかなぁ……)
小さく溜息を吐く。
あれから一夜明けて昼休みになった今も、ボクは昨日のことを引きずっていた。
調べれば調べるほど、簡単に治る可能性が消えていく。わかっていても、その事実はボクの肩に重くのしかかっていた。
「はぁ……」
「――って、聞いてるの近衛さん?」
「へ?」
いきなり名前を呼ばれて顔を上げると、そこにいた全員が、訝しげな顔でボクのことを見ていた。
「あ、ご、ごめん!」
「もう……ちゃんと集中してくれないと困るわ。お昼休みだって、そんな長くないんだから」
「ほんと、ごめん! あ、あの、ちゃんと集中するから!」
「……ふぅ、お願いね? それじゃ、もう一度説明するわよ」
台本を片手に持った笹垣さんの声が、体育館のステージ上に響き渡る。その凛とした声を聞きながら、ボクは気付かれないように小さく自分の頬を叩いた。
(考えるのは後だ。今は練習に集中しないと)
今は、昼休みの体育館を使った劇の練習中で、ステージ上には出演者の女子たちが集まっている。というのも、今回ボクたちがやる『ロミオとジュリエット』は、ちょっと変わっていて、出演者が全員女子だったりする。
なぜかといえば、ボクがロミオをやることに決まったとき、クラスメイトである男子から、それなら女子だけでやってみたら面白いんじゃないか、なんて案が出されてしまったからだ。
現在、この場所にいるのはロミオ役のボクと、ジュリエット役の柚乃ちゃん、修道士ロレンス役の鈴波さん、ロミオと対立するティボルト役の笹垣さん、ロミオの友人であるベンヴォーリオ役の宮帆ちゃん、同じく友人であるマキューシオ役の円ちゃんだ。
ちなみに円ちゃんは最後まで出演を嫌がっていたけど、多数決で決まったのだからしょうがない。まさに、身から出た錆だ。
他にも脇役で何人か出演するけど、とりあえず昼休みは特に台詞が多いこの六人でやることになっていた。
学園祭は十一月の第一日曜日に開催される予定で、もう二週間もない。もう少しも時間を無駄には出来ないのだ。
「はい、それじゃあ舞踏会のシーンから行くわよ!」
劇の仕切り役でもある笹垣さんの号令を聞いて、より一層気を引き締める。ステージの上で踊り始めた柚乃ちゃんを見つめながら、ボクはなるべく台本を見ないようにしながら台詞を紡ぎ始めた。
これから始めるシーンは、ロザラインという女性に片思いをしているロミオが、友人のベンヴォーリオとマキューシオに連れられて、父であるモンタギューと敵対しているキャピュレット家で行われる仮面舞踏会に忍び込むシーンだ。
そして、ロミオはそこで踊っているジュリエットを見て、恋に落ちる。
「あちらの紳士の手を優雅に取っていらっしゃるご婦人はどなただろう」
この前の練習のときみたいに声が震えるかと思ったけど、さっき気合を入れたおかげか、今はすんなりと台詞が滑り出てくれた。
「ああ、あの人は松明に明るい輝き方を教えている! 夜のくすんだ頬を染め、揺れて輝くそのさまは、黒人娘の耳にきらめく豪華な宝石のようだ。あのしまっておきたい美しさは、この世のものとも思われぬ!」
一度、声が出てしまえば、後はロミオに成りきるだけだった。自分でも信じられないくらいの声に、空気がびりびりと震えているのがわかる。
そうだ。ロミオを演じている間は、ボクは男でいられる。
今だけは、ボクは堂々としていていいんだ。
「ほかの女に囲まれて、あの人だけが光るのは、あたかも烏の群れにただ一羽、雪のように降り立つ白い鳩。踊りが終わるそのときに、どこに行くのか見ていよう。あの手に触れて、卑しいこの手を清めてもらおう。ああ、俺の心は今までに恋をしていたのだろうか。この目よ、否と言え! 真の美女を、今宵まで目にしたことなどなかったと!」
「なに!? あの声は、たしかにモンタギュー家の者。おい、そこのおまえ! 俺の剣をもってこい! あいつめ、道化の仮面などつけおって、この祝いの席を愚弄するつもりか? おのれ、わが一家一門の面目にかけて、叩き殺してくれよう!」
ボクの台詞に続き、笹垣さんが身振りを交えながら声を出す。
だが、息巻くティボルトはキャピュレットに諌められ、その場は引き下がる。
「無理やりに忍べと言われても、怒りでこの体が震えてくる。ここは引き下がろう。だが、今に見ていろ。必ずひどい目にあわせてやる!」
そして、舞台から退場する笹垣さんを確認すると、ボクは身振りを加えながら、ジュリエット扮する柚乃ちゃんへと近付く。
本来なら、この後にロミオとジュリエットのキスシーンがあるけど、そういった演出は、シナリオを短くまとめてくれた鈴波さんのおかげでカットされている。鈴波さんが言うには、原文通りになんてとても学園祭なんかではできないらしい。というのも、元々この話は、ジュリエットとの純愛を引き立たせるために、登場人物による下品な会話が繰り広げられるのだとか。
そんなことを思い出しながら、ボクは静かに柚乃ちゃんの磁器のような手を取った。
「卑しいわが手が、もしもこの聖なる御堂を汚すなら、どうかやさしいおとがめを――」
しかし、次の瞬間。
「お、やってるやってる。珠希ちゃーん、がんばれー!」
ボクの声は、ここにあってはならない声によって遮られた。
「――っ!」
息を呑んで振り返ると、体育館の出入口に、いつの間にか人だかりが出来ていた。
人だかりは、ほとんどが男子生徒であり、何人か見たことのある顔も混じっていた。それは紛れもなく、以前にボクのファンクラブだと名乗っていた面々であり、なぜかその中には川北先輩の姿もあった。
おそらく、今声を出したのも彼だろう。周りの人間からも、やや非難めいた視線を受けていた。だけど、川北先輩はそれを気にした様子もなく、ボクと目が合うと屈託のない笑顔を浮かべて、大きく手を振ってきた。
「ぅ、ぁ……」
カタカタと足が震えだす。
聞こえるはずもない声が頭の中で響きだす。
頭の中にいくつもの歪んだ口元が浮かび上がり、小さな手が伸びてくる。
――毒が、流れ込んでくる。
「ちょっと、あなたたち! 練習の邪魔をしないで!」
そのとき、体育館中にガラスを弾いたような、透明感のある声が響いた。
それと同時に、何人かの足音が近づいてきた。
「タマちゃん、大丈夫……?」
「おい、タマ。あんなの気にするな。嫌なら、あたしが追い払ってくるぞ?」
声で、それが宮帆ちゃんと円ちゃんだとわかる。だけど、ボクは胸を押さえて俯きながら、荒くなった息を落ち着けるのに必死で、それに何も返すことができなかった。
「あの、近衛さん……? 具合が悪いなら、保健室に――」
そうして、誰かの手が肩に触れた瞬間。
「ひ――――……っ!?」
ボクは無意識にその手を叩き落し、弾かれるように後退っていた。
「え?」
驚いたのは、ボクだけではなかった。
肩に手を置こうとした鈴波さんの目が、メガネの奥で大きく見開かれている。
「珠……ちゃん?」
鈴波さんの背後で、柚乃ちゃんが胸の前で手を絡ませながら、ひどく心配そうな顔で声を出した。
「っ、あ……」
心臓が壊れそうなくらいに波打つ。
「ご、ごめ――」
言い切らないうちに、ボクは震える足をもつれさせながらも、その場から逃げるように走り出していた。
「珠ちゃん――っ!」
みんなのボクを呼ぶ声が背中に掛かったけど、ボクはもう足を止めることなんてできやしなかった。
(どうして……どうして!)
込み上げる吐き気と、肌を伝う厭な汗を感じながら、時折人にぶつかりつつも、ひたすらに女子トイレに向かって走る。
(なんで……女の子なんて、いっぱいいるじゃないかっ……! なのに、なんで! どうしてボクなんだ!)
そのまま女子トイレに駆け込むと、ボクはすぐさま個室に入り、膝を抱え込むようにして便座の上に座った。
(もう……やだ……こんなの、もう嫌だっ!)
汚いとか、制服が汚れるとか、そういうことは頭の中から消え失せていた。ただ、ぎゅっと両手で身体を締め付けながら、嗚咽が漏れてしまわないよう必死に唇を噛んで、後から後から溢れ出てくる涙を制服に染み込ませた。
まるで、体内に満ち溢れた毒を吐き出すように。