2-2
「遅いっ!」
生物室に入った途端、耳に響いてきた言葉がそれだった。
「ご、ごめんなさい……」
「もう授業が終了して一時間も経っておるぞ!? 珠希、おぬし今の今まで、どこで何をしておったのじゃ!」
な、何をしていたと言われても困るんですけど……。
「ええい! もごもごしとらんで、はっきり喋らんか!」
「は、はいぃ! きょ、教室でどうしようか迷ってました……!」
軍人並みに背筋をただし、ボクは正直な理由を述べる。
「迷ってたじゃと……? おぬし、男に戻りたいのではないのか?」
「あー……えっと、その」
そこでボクは、昨日は話さなかった本当の事情を先輩に伝えた。
すると、先輩は唇を三日月形に歪めて「ほぅほぅー」とフクロウみたいな声を出した。
「あ、あの、茶化さないでくださいっ。これでも……その、本気なんですからっ!」
「じゃったら、もっと堂々とせんか!」
「ひゃっ!」
いきなり、思いっきり背中を叩かれてしまった。
先輩の容姿が容姿だけに、小学生になぐさめられているみたいで情けない。
「痛い……」
「まったく……おぬし、男ならもっとしゃっきりせんか」
呆れ顔を浮かべながら、先輩は自分の鞄が置いてある机へと歩いていってしまう。
そんなこと言われたって、少しはボクの気持ちも考えて欲しい。こっちはいつ男だってバレるんじゃないかと、毎日ヒヤヒヤしているんだから。こんな状態で堂々としていられる方がおかしい。
「ほれ」
と、そんなことを考えて唇を尖らせていると、目の前ある机の上にドサっと何やら分厚い本が積み上げられた。
「え? あの、これは?」
「なんじゃ。珠希、おぬし本当に男に戻る気があるのか?」
机にうず高く積まれた本の背表紙を見ると、それが女性化乳房症や、薬に関する書籍だということがわかった。それどころかネットでも調べてくれたらしく、まるで論文みたいな厚みの、プリントアウトされた用紙も積まれていた。
「こ、これ……もしかして、たった一日で……?」
「ふんっ、勘違いするでない。別におぬしのためではない。ただ男であるおぬしの胸が、わらわの胸よりも大きいのが我慢ならんだけじゃ」
そう言う二葉先輩は、さっきのボクみたいに唇を尖らせてそっぽを向いていた。
調べてくれた理由を聞いたわけじゃないんだけど……まあ、いっか。
「うわ……すごい。どうやって、これだけの情報を……」
いくつか本を取ってパラパラと捲っていくと、ちゃんと女性化乳房症の症状や、対処法などがいくつも記されていた。
「薬や毒物を扱うからには、それなりに知識も持っておかねばならんのじゃ。伊達に薬学部しとらんわい」
その言葉に感嘆の息が漏れる。
というのも、正直ボクは、薬学部なんて二葉先輩が小遣い稼ぎのためにやってるだけの部活だと思っていた。……口が裂けても言えないけど。
「女性化乳房症というのは、それを見る限り、男なら誰でもかかる可能性があるようじゃの」
「あ、はい。それは病院でも言われました。でも、大概はそのまま治っちゃうから心配ないって……」
言いながら、自分の胸を見下ろす。
医師の判断が正しかったかどうかはわからない。でも、結局ボクの胸は膨らみ始めて四年経った今でも、ちっとも治る気配がなかった。
「ふむ……稀にそういうこともあるようじゃの。しかも、原因が不明ときておる」
二葉先輩の言う通りだ。だから、ボクは医師や柑奈の薦めで、こうして女の子として生きている。現状は、それしか方法がないから。
「珠希、おぬし胸が膨らみ始めたのはいつ頃じゃ?」
「えっと、十一歳――小学五年生のときです」
それを聞いて、先輩は少し思案顔になる。
「あの……どうにか、ならないんですか……?」
「むぅ……それはまだなんとも言えんのぅ。胸の成長がいつ止まるかなんぞ、おぬしの身体以外誰も知らんしの。それに、まずは原因を調べる方が先決じゃ。そうすれば対処法も見えてくるかもしれんからの」
そう言って、先輩はボクの隣にどっかりと腰を下ろす。
と、風に乗ってふわりと微かに甘い香りが鼻を掠めて、ボクはなんとも言えない気持ちになった。
女性化……というからには、もしかしたらボクからもこんな匂いがしてるんだろうか。なんか微妙な気分だ。
「女性化乳房症になる原因は三つ。一つは、思春期の生理的な変化によるもの。もう一つは薬の副作用。最後は、男性ホルモンを投与することによって引き起こされる、エストラジオール――女性ホルモンの代表的な成分への変換、じゃの」
先輩はボクに身体を寄せつつ、資料を覗き込みながら呟く。
ボクの位置からだと、先輩の後頭部が視界にあって、その髪は夕陽を受けてキラキラと幻想的に輝いていた。
「え? 男性ホルモンを投与しても、女性化乳房症になるんですか?」
「ふむ、どうもそうらしいの。ほれ、見てみい」
先輩が指差したところには、男性ホルモンであるテストステロンという成分が、女性ホルモンであるエストラジオールに変換してしまうことによって起きるらしいことが書かれていた。どうも、男性ホルモン製剤を投与することで、その変換率が高まってしまうらしい。
「うわ。男性ホルモン打ったはずなのに、女性化しちゃうって……なんか本末転倒ですね」
「薬とて毒になることは往々にしてあるわい。それに、おぬし。他人のことを笑っていられる状況ではないじゃろうが」
言われて、思わず溜息が出る。
「まぁ……そうなんですけど……」
「とりあえず、これは除外じゃな。おぬし、男性ホルモン剤の投与なんぞしたことはないじゃろ?」
「あ、はい」
「じゃとすると……やはり思春期の身体の変化かのう。副作用のある薬は、その歳じゃ飲めんのが多いしの」
「ぁ……」そこで、プリントアウトされた用紙に見覚えのある文字を見つけた。
胃薬――そう、胃薬だ。
「ん? なんじゃ、なにか思い出したのか?」
「そ、その……ボクここに書いてあるこの薬、その頃に飲んだことがあります」
ガスターと書かれた箇所を指差す。
すると、先輩は一瞬だけ目を丸くし、やがて小さく息を吐くと口に手を当てて何やら考え始めた。
「なるほどの……。さては、それで身体に変調をきたしたな」
「え……ど、どういうことですか?」
先輩はそのままの体勢でボクを横目で見ると、イスの背もたれに身を預け、言葉を選ぶように腕を組む。やがて、また小さく息を吐くと、ボクが指差していた場所に指を置いて言った。
「つまりじゃ。これはあくまで推測じゃがの、思春期でホルモンバランスが崩れておるときに、さらに女性化乳房症の副作用がある薬を飲んだことで、おぬしのホルモンバランスが女性側に傾いてしまったんじゃ」
「そ、そんなこと……」
否定は出来なかった。ボクがこうしてここにいるんだから。
「そうじゃ、あり得んことはない。この世に絶対なんてものは存在しないんじゃ。そして、おぬしはそのままホルモンが女性側に傾いたまま、成長してしまったんじゃな」
「そ、それじゃ男性ホルモンを打てば……!?」
解決法が見えたことに喜ぶボクとは反対に、二葉先輩はさっきよりも難しい表情を浮かべて唸っていた。
「確かに、理論的にはそうじゃがの。さっきも説明したとおり、男性ホルモンとて副作用はあるんじゃ。それで今よりさらに女性化したらどうする? そうなったら、おぬし本当に男に戻れなくなるぞ?」
「あ……」
そうだ。さっき、先輩に他人のことを笑っていられる状況じゃないって言われたばっかりなのに……。
「まあ、そんなに気を落とすでない。どうせ、学園にいる間は女のままで過ごすんじゃろう? なら、焦らずにじっくりと考えてみることじゃな」
言って、先輩はイスから立ち上がり、帰り支度を始めてしまう。
だけど、ボクは身体がいつもより重くなった気がして、しばらくそこから立ち上がることは出来なかった。