2-1
翌日の放課後。
誰もいなくなった教室で、ボクは机にだらしなく突っ伏していた。幸い、今日は演劇の練習もない。
「はぁ……」
溜息と共に、昨日の先輩の言葉が蘇ってくる。
『薬学部は学園祭の出し物で、とある診療所を開くことになっておる。そこでわらわは女医役をやるんじゃが――珠希、おぬしにはそこでナース役をやってもらうからの』
あの後、二葉先輩は自分の鞄の中からぐしゃぐしゃになった入部届を出しながら、そんな微塵も笑えない冗談を本気で言ってきた。
さすがに女装にも慣れてしまったとはいえ、ボクだってプライドというものがある。必要以上の女装は絶対にしたくない。
だけど。
『嫌なら別に断ってもよいんじゃぞ? ただし、その場合は――』
先輩は最後まで言わなかったが、その後に続く言葉なんてわかりきっていた。
「ああ、もうっ。あの人、完っ全に面白がってる!」
こっちは本気で悩んでるっていうのに。でも、先輩の命令を聞かない限り、ボクは元の体に戻れない。
そう、最初から答えなんて決まっている。ただ、決心がつかないだけだ。
ボクの正体を知っている人間がいるとしたら、何を今更と言われてしまうんだろうけど、やっぱり嫌なものは嫌だ。
周りに人がいないことをいいことに、ボクは豪快に髪をかきむしって溜息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。
「……しょうがない、男に戻るためだ」
呪文のようにぶつぶつと呟きながら、教室の出口へと向かっていく。
そう、ボクには何がなんでも男に戻らなきゃいけない理由がある。
それは――
「きゃ――――!?」
「え」
そうしてスライド式のドアを開けると、目の前に誰かが立っていた。
「うわわ――!?」
驚いて身を仰け反らせる。どうやら同時にドアを開けようとしたらしく、相手も丸い目を大きく見開いていた。
結果として両者とも頭をぶつけるようなことはなかったので、それはいい。
だけど、問題は。
「こ、ここ古森……さん……っ」
そこにいたのが、同じクラスの古森柚乃さんだということだった。
いつも屈託のない笑みでみんなを明るい気持ちにさせ、誰にでも気さくに話しかける彼女は、クラスのムードメーカー的な存在であり、女子からはもちろん、一部の男子からも人気がある。
その気持ちはすごくわかるというか、むしろ、なんでもっと人気が出ないのか不思議なくらいだ。だってボクは、そんな男子たちのコソコソ話を時々耳にしては、ものすごく同意したくなるのをぐっと堪える日々を送っていたから。
「わー、びっくりしたぁ……」
左手でかわいらしく胸を押さえるその姿は、もはや犯罪的だ。
「ご、ごごごめん! びっくりさせちゃって!」
「あ、ううん。こっちこそ驚かせてごめんねー。って、あれ? 珠ちゃんって帰宅部じゃなかったっけ? どうしたの、こんな時間まで」
「あ、う、うん! そ、その、えっと! そ、そう! げ、劇の練習してたんだよ!」
限界まで高鳴った鼓動が、まるで花火があがったときのように身を震わせる。
「練習って、一人で?」
「う、うん」
心の中で落ち着けと念じながら頷くと、途端に古森さんが嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、じゃああたしと一緒だねっ」
「っ!」
落ち着きかけた心臓が、再び大きく跳ねる。
古森さんは「えへへ」とはにかみながら、小さく肩を揺らしている。子供のように無邪気な笑顔はまるでどこかのアイドルみたいでなにこれかわいすぎる。
「なーんだ、だったら一緒に練習すればよかったね? ちょうど、二人とも主人公とヒロインなんだしっ」
「そ、そうだね」
顔が強張って、うまく笑えない。
そう、ボクがロミオを演じる上で一番困っていること――それは何を隠そう、目の前の古森さんこそがジュリエット役だということだった。
「ん? 珠ちゃん、なんかちょっと顔赤いよ? もしかして熱でもあるの?」
そんなことを考えていたら、いきなりすぐ近くに古森さんの顔が現れた。
「う、ううん! だ、大丈夫だから熱とかないから!」
びっくりして一歩後退ると、古森さんは「……そう?」と言って、小さく首をかしげた。
そのまま数秒間、沈黙が流れる。
ていうか、ダメだ。何を話していいのか全然わからない。
「あ、あの! ご、ごめん! えっと、ボクちょっと行くところがあって!」
言いながら、古森さんの脇をすり抜けるようにして廊下に出る。
「あ――」
「ほんと、ごめんね古森さん! そ、それじゃまたね!」
言って、駆け出す――直前、背後から声が掛けられた。
「ちーがーうっ」
「……ぇ?」
ゆっくりと背後を振り向くと、そこにはドア枠に手をかけたまま止まっている古森さんの姿があって。
「柚乃」
ちょっとくすぐったそうな笑顔を浮かべながら、自分の名前を口にした。
「え……? え?」
「だから、古森さんじゃなくて、ゆ、ず、の、だよっ」
一瞬、言われた意味がわからなかった。
けど、すぐに自分のことをそう呼べと言っているのだとわかって。
「あ……ぅ……柚乃、ちゃん……?」
上目遣いにそう呼ぶと、こも――柚乃ちゃんは、満足そうな笑顔を咲かせた。
「んっ、よろしーっ。これからもそう呼んでね、珠ちゃんっ」
なんて言って、「じゃねっ」と手を振りながら教室の中に消えていった。
それを、ぽかんとしばらく見送った後、放心状態から回復したボクは、慌てて階段の影に隠れて、もう一度その名を呟いた。
「柚乃ちゃん……」
そうして彼女の名前を口にしながら、いつの間にかボクの足は生物室のある特別教室棟へと向いていた。
どんなに外見を誤魔化しても、気持ちまでは誤魔化せない。
やっぱりボクは、一人の男として柚乃ちゃんと出会いたかった。