1-3
「うぅ……痛い……」
「…………わらわのせいではないぞ」
ようやく、人工の明かりが灯された生物室。
リノリウムの床に座り込み、スライディングしたときに出来たすり傷をハンカチで押さえるボクを、その少女は腕を組んで見下ろしてくる。
「き、君が自殺なんてしようとするからでしょ!?」
「だから、自殺なんぞではないと言っておるじゃろ」
嘘だ……あんなの飲んで平気な人なんているはずないもん……。
「……いいよ、わかった。じゃあ、今の先生に言っても問題ないよね?」
「な――――」途端、少女が絶句する。
「待て待て待たんか貴様。じ、自分が何を言っているか理解しておるのかっ?」
……あれ? なんでいきなりこんなに動揺してるんだろう……。確かに、先生に言ったら根掘り葉掘り訊かれるだろうし、そう言えば理由を話してくれるかと思って口にしたんだけど。なんとなく、それが嫌……とかじゃなくて、怯えてるみたいな感じがする。
「じゃ、じゃあ理由を教えてよ。なんでこんなの飲もうとしてたの?」
「……ぅ、むぅ」
その言葉に、少女は腕を組んだままで困り顔を浮かべる。
どうも、何か言いたくないことがあるのは明らかだけど、自殺未遂の現場を目撃してしまった以上、いくらボクだって何も訊かずに帰るわけにはいかない。
「……わかった。じゃあ、やっぱり先生に」
「ま、待てっ! そ、それだけはダメじゃっ!」
立ち上がり、教室を出ようとするボクの袖を引っ張ってくる。
その姿は、デパートでワガママを言いながら母親の袖を引っ張る子供みたいで、ボクは思わず苦笑してしまった。
「……どうしてダメなの? それに、君って本当に高校生? えと……何か理由があるなら、お姉ちゃんにお話ししてごらん?」
少し腰を屈めて、少女に話しかける。
あんまり子供相手に話したことなんてないけど、うん。今のはボクにしては上出来だったと思う。……お姉ちゃんって自分で言うのは、やっぱりなんか気持ち悪かったけど。
なのに。
「………………」
少女はむすっとした表情で、少し上にあるボクの顔を真っ直ぐに睨んできた。
「え、えっと……?」
「……おぬし、名前とクラスはなんじゃ」
「あ……そ、そうだよねっ。人に物を訊ねるときは、じ、自分からだよねっ」
あれ? なんか立場が逆転してる?
「えっと、ボクは近衛珠希。一年C組の生徒だけど……君は?」
学年を言った途端、少女が嘲笑を浮かべた気がするけど……き、気のせいだよね?
「ふんっ、耳の穴かっぽじってよく聞け。わらわは二年A組の水端二葉じゃ」
言って、少女は心なしか誇らしげに、少し背を反らせた。
「へ、へぇ~……二葉ちゃんかぁ……。い、いい名前だねっ。そ、そっか二年生なんだ? 二年生ね……にね……二年っ!?」
そんなボクの反応を見て満足したのか、二葉と名乗った少女は口を三日月形に歪めて、鼻で笑った。
「え……二年って……ダ、ダメだよっ! は、早く小学校に戻らないとっ!」
「だれが小学二年生じゃ!?」
「え……だって」
背はボクの肩くらいの高さしかないし、ほのかに膨らんだ胸は、どう見ても発育途中だし、負けん気の強そうな顔も、あどけなさが残るどころか、はっきり言って幼い。
「このっ……ここまでコケにされたのも久しぶりじゃわい……」
怒り心頭といった様子で呟きながら、少女は制服の内ポケットから生徒手帳を取り出して、ボクに向けて広げて見せた。
そこには四角く切り取られた証明写真と、結往学園の文字と印章、そしてさっき教えてもらった少女の名前に生年月日、学年学級までもが記されていた。
「な――――」今度はボクが絶句する。
少女は今度こそ勝ち誇ったように、ほのかな胸を大きく張ってみせた。
「どうやって小学生がここまで完璧な偽造を!?」
「喧嘩じゃな!? 喧嘩を売っておるんじゃな!?」
もう一度、生徒手帳を見つめる。絶対に偽造だと思ったのだけど、そもそもボクには本物と偽造の区別なんかつかないし、大体からして生徒手帳をここまで精密に偽造したところで少女に得になることがあるとも思えなかった。
「ええぇ……じゃ、じゃあ、本当に先輩……なんですか?」
「ようやくわかったか、この無礼者めが」
細く開いた窓から吹き込む風に、色素の薄い髪をなびかせながら、二葉先輩(本当に高校生らしい)は大きく鼻息を鳴らした。
しかし……小学二年生は言いすぎだとしても、この背丈、どう考えても小学五年生並みだ。前髪ともみあげをバッサリと水平に切ったロングヘアー(確か姫カットって言うんだっけ、前に柑奈から教えてもらったけど)は、確かに少し大人っぽくはあるけど。それにしたって、いいところ小学校六年生ぐらいにしか見えない。そのくせ、言葉遣いは年寄り臭いというか古臭いというか……。
「あのぅ……それで、先輩はその、どうしてあんなことを?」
恐る恐る訊ねると、先輩は少しの間難しい表情を浮かべていたが、やがてこれ見よがしに溜息を吐いてみせた。
「……わかったわかった。話せばいいんじゃろ」
「え、いいんですか?」
「よいも何も、話さなければ教師に言いつけると言うたのはおぬしじゃろうが」
小さく首肯する。だって、こんなの見過ごすわけにはいかない。
「ただし! いいか、この事は他言無用じゃ。それが出来ぬというなら――」
「出来ぬというなら……?」
ごくり、と唾を飲み込む。
「わらわが卒業するまで、毎朝おぬしの上靴のどこかにガムをくっ付けてやる」
「なんて地味に嫌なことをっ!?」
ガムなんて素手で取れないじゃないか! それなら、まだ画鋲の方がマシだよ!
「ええい、うるさいっ。要はおぬしが黙っておればよいことじゃ! よいな!?」
慌てて、何度も頷く。そりゃ嫌がらせを毎日受けて平然としていられるほど、ボクは図太い神経はしていない。
それに、誰だって言いたくないことの一つや二つはあるから。
しかしなんというか……先輩って下らないことに全力を尽くす人なんだなぁ……。
そうして少し間を置いた後、少女――二葉先輩は、どこか誇らしげに小さく膨らんだ胸をわざわざ強調しながら、その事実を口にした。
「わらわはな、普通の人間ではない。毒と呼ばれるモノ――正確には、人体に害を及ぼす物質を取り込み、その成分を体内で薬液へと変え、体液として外に排出することが出来る高貴な生き物じゃ」
「ど、毒を……取り込む……?」
「そうじゃ。簡単に言えば、毒を飲んだり、食べたりする妖怪じゃ。それによって、わらわは効能の高い薬を生成することが出来る。薬学部に行けば万能薬が手に入るなどという噂が流れておるらしいが、おぬしも聞いたことがあるじゃろ?」
「は、はい」
知らないわけがない。それを耳にして、ボクはここにやって来たんだから。
だけど――
「……なんじゃ、何か言いたそうじゃの?」
「……………………ぃぇー」
すごく、胡散臭い。
「……信じてないじゃろ?」
「はい」
「なんでそこだけハッキリ答えるんじゃ!?」
「だ、だだだって……! し、信じられるわけないですよぅ!」
びくびくするボクとは対照的に、二葉先輩は肩で荒く息をしながら、やがてさっきボクが叩き落した洗剤を拾ってきた。
「ええい、わかった。証拠を見せればよいのじゃろう!」
「証拠って……」ボクは探偵に追い詰められた犯人ですか。
「おい、おぬし。確か、珠希とか言うたの」
「ひゃ、ひゃい……っ! そ、そうです……けど……」
うぅぅ……二葉先輩って、姿形はまったく怖くない(むしろ可愛らしい)のに、出てくる声に物凄い迫力があるのはなんで……?
「珠希、おぬしヒザをケガしておったの?」
「え? あ……はい」
ボクはスカートの中が見えないように気を付けながら少し裾を上げて、さっきスライディングしたときに出来たすり傷を見せた。
「えと……あの……こんなので……?」
すると、二葉先輩は少し腰を折り(それだけでヒザに顔が来るとかすごい)、なんの断りもなく素手で滲んだ血を拭う。
「痛っ……!」
「我慢せんか、このくらいっ。……ふん。ま、よいじゃろ」
「あ――」
言って、今度はちゃんと足を折って屈むと、止める間もなく洗剤を少量飲み込み、ふぅと息を吐いた。
「わわっ……そ、そんなの飲んで本当に大丈夫なんですか……?」
「心配いらん。……よし、すこーし沁みるかもしれんが、動くでないぞ?」
呟くと同時に、二葉先輩の顔がボクのヒザに近付いていく。
「え、あの、なにを」するんですかと言いかけた直後に来た刺激に、思わず身体がびくりと跳ねた。
「ひぅ…………っ!?」
「あーほら、動くでないと言うたじゃろうに」
ぴり、とした刺激が、何度も背筋を突き抜ける。
それに、このちょっと怪しげな音……って、もしかして……!?
「ちょ、ちょちょちょっ!? せ、せせせせんぱいっ!? な、ななな何を!?」
「見てわからんか。傷口を舐めとるんじゃ」
なめ――――――――!?
ふっ、と意識が遠くなる。な、なめ、舐めてるって……先輩……あなた……。
「やっ……ひっ……、やめ、……っ、先輩やめてくだっ……さ……」
「黙っておれ、もうじき終わる」
そんなこと言われても――っ! 色々とっ、色々と問題がぁ――っ!
「……ふん、こんなもんじゃろ」
「あぅ…………ぅ……」
二葉先輩の顔が離れると、ボクはそのまま力が抜けて、だらしなく床に座りこんだ。
ああ……なんだか人として何か大切なものを踏みにじられた気分が……。
「もうボクお婿にいけない……」
「あん? 何を言うておる。元々、婿になんぞいけんじゃろうが。それよりホレ、見てみんか」
ボクの気持ちも知らず、二葉先輩は得意げな顔を浮かべて、捲れ上がったスカートから覗くボクの脚を指差した。そこには、さっきまで先輩が舐めていたヒザがあって、今しがた出来たばかりのすり傷が――
「え……あ、あれ?」
すり傷が。
「…………うそ」
ない。ない。……なくなってる!?
「現実じゃ、たわけ」
「え……!? だ、だって……そんな!?」
自分のヒザと、目前で仁王立ちしている二葉先輩とを交互に見る。
そのボクの驚きようにプライドを持ち直したのか、細く開いた窓から吹き込む風に艶のある髪を揺らしながら、先輩はしたり顔で鼻を鳴らした。
すごい……すごい……!
「すごいっ!」
「ふふん、いいぞもっと言え」
「尊敬します崇拝します!」
「そうじゃろ、そうじゃろ」
「これこそが天賦の才能ってものなんですね!」
「あははははっ!」
「さすが先輩! 見た目は子供、正体は妖か――」
「やかましい!」
頭を踏まれた。
「だ、れ、が、子供じゃ! それに、そのネタは危険じゃからやめんか!」
そ、そんなこと言われても……うぅ、おでこ痛い。
「それで? おぬし、一体なんの用だったんじゃ」
頭から足をどけて、先輩は大きく両足を開き、腕を組んだまま訊いてきた。
そうだ……驚いてる場合じゃない。ボクは、そのためにここに来たんだから。
「あ、あの、一つ訊きたいんですけど……」
恐る恐る顔を上げて、その疑問を口にする。
「先輩が治せるのって……ケガ、とかだけだったりしますか……?」
「ん? どういう意味じゃ」
「えと……だから」
そんなボクの煮え切らない態度に苛立ったのか、先輩の足がさっきボクを踏みつけたときみたいに、もう一度ゆっくりと上がった。
「わ、わっ……ま、待って……待ってください! い、言いますからっ」
先輩の足が床に落ちたのを確認して、小さく安堵の息を吐きながら、今度こそボクは先輩に訊ねた。
「あの、先輩は、もしかして病気とかも治せたりしますか?」
すると、先輩はそんなことかと言わんばかりに溜息を吐き、ボクを見下ろしたまま、その答えを口にした。
「おお、治せるに決まっておるわ。まあ、万能ではないがの」
それを聞いて、ボクの心臓は大きく跳ね上がった。
「ホ、ホントですかっ!」
「今更、嘘なんぞついてどうする」
なら……なら……この身体も治るっ!?
そう思った瞬間、ボクは姿勢を正して、先輩の前に両膝をつき、頭を下げていた。
「二葉先輩! お、お願いがあります!」
「お、おう。なんじゃ」
いきなり変わったボクの態度に、少したじろぎながらも先輩が返事をする。
そして、ボクは一度、深く息を吸い込み、
「先輩っ……! ボクの……ボクの――――――!」
勢いよく顔をあげた、刹那。
「――――っ!?」
外で強い風が吹き、それは細く開いた窓から生物室の中に入り込んで――
「ボク、の…………クマさん……ぱんつ……」
視界の中心に、女児用パンツが飛び込んできた。
「……………………」
なんということでしょう。
デフォルメされた、たくさんの小さなクマたちが、何か言いたそうにこちらをじっと見つめているではありませんか。幼女たちだけではなく、未だ発展途上の少女にも使えるようにという匠の心遣いが窺えます。パンツ職人すごいなぁ。
なんて馬鹿なことを考えていると、いつの間にか突風は収まっていた。やがて、ゆっくりと先輩のスカートは元の形へと戻り、その影になっていた先輩の顔が見えてくる。
「~~~~~~~~~~…………っ」
それはもう、耳の先まで茹でたタコみたいに見事なまでに真っ赤になっていて。
「せ、先輩……?」
「っ!」
ボクはとりあえず何かを口にしなければと、慌てて言葉を探して、ぐっと握り拳を作りながら満面の笑みを浮かべて言った。
「あ、ああ、あのっ! それ、すごくお似合いですっ!」
「死ねぇぇえぇぇぇ――――――っ!」
そうして選ぶ言葉を間違えたと悟ったときには、ボクは再びひんやりとしたリノリウムの床におでこを打ち付けられていた。
だって、しょうがないじゃん……それ、似合いすぎなんだもん。