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――世界は毒で満ちている。
ボク、近衛珠希がそのことに気付いたのは小学五年生のときで、それからというもの、ボクはどこにいても息苦しさを感じて生きてきた。
たとえば教室でも、たとえば自分の部屋でも、たとえばファッションビルの中でも。どこにだって、毒はついてまわった。他人の視線、話し声、自分の身体――毒は常にボクの周りに内包されていて、一度それに気付いてしまったら、あとはそれから逃げ回るだけだった。
一時期は、見るものすべてが毒に見えて、本当に誰とも会わず話さず、外にも出ず、自室のベッドの上でひたすらに丸くなって怯えていた。
だって、しょうがない。こんな自分の身体を見られるわけにはいかなかったから。他人はもちろん、血肉を分けた家族にも。
それから半年ほど経ったある日、ボクは自分が病気なのだということを知ることになる。
唯一、ボクを変な目で見たりしなかった(というか、なぜか喜んでいた)妹の柑奈に付き添われて行った病院で、この身体の変化が、実は割りとよくある症例なのだと聞かされた。だけど、お医者さんの話では一過性のもので、治らないという話はあまり聞いたことがないそうだ。
でも、実際にボクはどれだけ時間が経っても治る気配はなく、それどころか言葉の如く、目に見えて悪化していった。
以来、医師の勧めや柑奈の助けもあって、ボクはなんとか社会復帰を果たし、無事に高校へと進学するまでに至った。……ただし、重大な変化を伴って、という条件付きではあったのだけど。
そうして大嫌いな夏が終わり、秋の気配が色濃く出始めた、十月中旬。
あの気持ち悪いイケメンこと川北先輩を引っ叩いてしまった翌日。一時だけ授業から解放された生徒たちの喧騒に包まれる昼休みの教室で、ボクはその噂を耳にした。
「……万能薬?」
ボクはお弁当に向かっていた箸を止め、真正面に座って同じようにお弁当を突付いている中倉円ちゃんの発した言葉を繰り返す。
「そーそー。市販薬なんかよりも効果があって、色んなケガにも使えるから、ウチの部じゃ重宝してるって話。まあ、その分ちょっと値は張るみたいだけどね」
円ちゃんはボクのように箸を止めることなく、お弁当を口に運びながら話す。
「ああっ、円ちゃんってば、口に物入れたまま喋っちゃだめだよ~。……もう、行儀悪いなぁ」
それを見て、ボクたちの隣に座っている深町宮帆ちゃんが、片側にある小さなポニーを揺らしながら頬を膨らませる。
ボクたち三人は、いわゆるお友達グループで、校内では大体一緒に行動していることが多い。ボクが彼女たちを友達に選んだ理由は、二人とも友情を深くまで掘り下げるタイプではないからだ。悪く言えば表面だけの付き合いってことになるんだろうけど、別にボクらは打算で一緒にいるわけじゃない。ちゃんと二人のことが人間的に好きだから、一緒にいる。
ちなみに、ショートカットで少年ぽい雰囲気の円ちゃんは、その見た目通りスポーツ万能で、バスケット部に所属している。よくヒザや手に絆創膏やテーピングをしている姿を目にするけど、それは円ちゃんが活発すぎるからということではなく、程度の差はあるにせよ、たぶんみんなそうなんだろう。
「ねえ、その万能薬って……本当に?」
「ん? あー、まあ量が少ないから滅多なことじゃ使わないんだけどさ。効果は抜群らしいんだよな。なんでも、前に指を骨折した先輩がいたらしいんだけど、全治一ヶ月って言われてたのに、その薬を塗ったら、たった一週間で元に戻ったとか」
「へぇ~。すっごいんだね、そのお薬~」
目を丸くして、感嘆の息を漏らす宮帆ちゃん。
だけど、ボクが訊きたいのはケガに対しての効果じゃない。
「そ、それじゃあっ、びょ、病気とかにも効くのかなっ!?」
「お、おい、タマ……?」
思わず立ち上がり、机に乗り出して訊いてくるボクに、さすがの円ちゃんも少したじろいで、怪訝そうな視線を送ってくる。
「あ……その……」
見れば、周りで談笑していたクラスメイトたちからも注目されていて、ボクはすぐに座り直すと、恥ずかしさのあまり、その場で縮こまった。
「ど、ど~したのタマちゃん?」
「え……あ、うん……ちょっと、ね」
「もしかして、お家の人がなんか病気してるとか、かな……?」
下から顔を覗き込むようにして、宮帆ちゃんが訊いてくる。
その言葉に勢いよく顔を上げ、ボクは片手を顔の前で振ってみせた。
「ち、違う違うっ! か、家族が病気とかじゃなくて……」病気なのはボクなんです。
「ほんと~?」
まだ心配そうに顔色を窺ってくる宮帆ちゃんに、大きく頷く。
と、お弁当を食べ終わった円ちゃんが、正面で机に肘を突いて、何やらにやけた笑みを浮かべていた。
「ふーん……なるほど、そういうことね、わかったわかった」
え……な、何!? 何がわかったのっ!?
だ、だだだめだよ!? わかっちゃダメなんだからっ!
心の中で叫ぶボクを気にした風もなく、円ちゃんはその言葉を口にした。
「タマ。おまえ、男難の相みたいの、解除してもらいたいんだろー?」
「…………は?」
予想外の言葉に、思わず目を瞬かせる。
「あ~、そういえばタマちゃん、昨日また告られたんだって~? これで何人目?」
「お、覚えてないよ、そんなの……」
「うわ、イヤミな発言でた」
「べ、別に、そんなつもりじゃ」
すると、円ちゃんは音もなく立ち上がり、机に身を乗り上げると――
「ふぅん? そんなこと言うのは……こいつかっ、この胸か!」
いきなり、無防備だったボクの胸を鷲掴みにしてきた。
「ひゃ……っ! ま、円ちゃん!? ちょっ、や、やめっ……! 違うの、ボクほんとにそういうつもりじゃ……っ!」
「そうだよ~、円ちゃん。それ言うなら、胸じゃなくて乳でしょ~?」
「いや、それ絶対わざと間違えてるでしょ!?」
ていうか、論点ずれてる。
「白状しろー! おまえが男を誑かしてるんだろー!」
「だ、だからダメ……だってばっ、や……円ちゃんっ! お、おねがいぃ~……み、みんな見てるからぁ……!」
教室には男子だっているのに!
やめて! そんな目でボクを見ないで!
しばらくして満足したのか、円ちゃんはボクを解放して、やたらと満たされた顔を浮かべていた。
神は死んだ。
「ごちそうさまでした~」
お弁当のことなのか、ボクのことなのか、宮帆ちゃんは机の上で両手を合わせてにこやかに言った。……お願いします、前者であってください。
「でもさ、本当にそういうの気をつけた方がいいぜ? ただでさえ、タマは男に人気があるっていうのに、誰にもなびかないから、結構嫉妬してるヤツもいるみたいだし」
やがて、円ちゃんはイスの背もたれに体重を預けると、途端に真面目な顔付きになった。
「嫉妬……? ボ、ボクなんかに?」
「あー、マジだよ、これ。しかも、おまえ昨日、川北先輩のこと引っ叩いただろ。さすがに、アレはマズイよなー」
「し、しょうがないじゃんっ。だ、だってあれはっ! ……って、なんでそんなことまで知ってるの?」
きょとんとしていると、宮帆ちゃんが苦笑を浮かべて言う。
「もうすっごい噂だよ~? なんかね、部活してた子が、偶然タマちゃんが泣きながら走っていくの見ちゃって、その後に頬に手を当てながら川北先輩が階段下りてくるの目撃したんだって~」
「そうそう。それを聞いたタマのファンクラブが怒っちゃって、なんか朝、三年の教室に詰め掛けたらしいぜ? これは、絶対キスされたと思ってるな、あいつら」
「ま、また、あの人たちは……」
この結往学園には、なんとボク(!)のファンクラブなんて恐ろしすぎて信じたくもないものが存在しているらしく、影ながらボクのことを応援してくれているらしい。もちろん非公式。でもって、さっきの話を聞いて分かる通り、全然『影ながら』じゃなかったりする、非常に困った組織である。
さっさと潰れてしまえばいいのにと常日頃から思っているけど、そんなことを言って更に注目を浴びるのも、ボクとしては不本意だ。
そう思って、創設当時から黙認していたわけではあるのだけど……噂だともう校外にまでメンバーがいるとかいないとか。本当、勘弁してください。
大体、応援って何を応援するんだろう。小一時間かけて問い詰めたいところだ。やらないけど。
「で、どうなのよ、そこらへん? キスされちゃったわけ? ファースト奪われちゃったわけ?」
その円ちゃんの言葉に、宮帆ちゃんまで興味津々そうな目を向けてくる。こういうところは、やっぱり二人とも女の子なんだなー、とか他人事みたいに思ってみたり。
「はぁ……するわけないでしょ。直前で引っ叩いて逃げてきたんだから」
「なーんだ、つまんないの」
唇を尖らせて、円ちゃんがイスにもたれる。
「あ、ねえ。それより、さっきの薬って、どこに行けば売ってもらえるの?」
「ん? ああ――薬学部だよ」
何か今、おかしな言葉を聞いた。
「薬、学部……? って、ここ高校だよ?」
「あー違う違う。学部の薬学部じゃなくて、部活の『薬学部』だよ。なんでも、部室がなくて、生物室を部室代わりに使ってるらしいぜ」
「生物室? あんなところで部活動してるの~? ええ~、人体模型とかあるし、なんだか不気味そ~」
露骨に顔をしかめる宮帆ちゃん。気持ちはわからなくもない。だって、人体模型見ながら部活なんて、誰だって嫌だと思う。だって怖いし。まあ、学園内に人体の神秘がたまらなく好きだなんてサイコな方もいらっしゃるかもしれないけど。うん、いないことを願おう。
「そっか……生物室、か」
机の上に置いた紙コップのジュースを手に取りながら、一人頷く。
確かにそれなら今まで気付かなかった理由もわかる。生物室のある特別教室棟は、今ボクたちのいる教室棟と反対側にあって、用事でもなければ放課後に通ることなんてないし。
「そうだ。ちなみに訊くけど、その薬っていくらくら――」
言いかけたとき、小さな衝撃と共に、ボクの体が数センチほど横にブレた。
「きゃっ」
「わっ」
持っていた紙コップが手から滑り落ち、オレンジ色をした中身が床に拡がっていく。
「ご、ごめんなさい!」
驚いて声のした方に顔を向けると、そこにはメガネとおさげの髪が印象的な、クラス委員長の鈴波未紗さんが立っていた。どうやら、よそ見をしていてボクのイスに足を引っ掛けてしまったらしい。
「あ、ううん。大丈夫だよ」
心配させないように笑みを作る。
「本当、ごめんなさいっ。資料を読みながら歩いてたから……」
「えっと……ほんと平気だから、気にしないで?」
それでも鈴波さんは眉尻を下げておどおどしながら、やがて床に落ちた紙コップを拾った。
だけど、当然のことながら紙コップの中は空になっていて、鈴波さんはそれに気付くと、またその場で挙動不審になってしまった。
「ほら、何してるの未紗っ」
そうしていると、いつも鈴波さんと一緒にいる笹垣絢芽さんが、濡れ羽色をした髪の毛を揺らしながら雑巾を片手に駆け寄ってきた。
「ごめんね、近衛さん。この子、いつもぼうっとしているから」
言いながら、笹垣さんは鈴波さんに雑巾を渡し、床に拡がるオレンジ色を拭いとっていく。
「しょうがないよ。鈴波さん、今忙しいんでしょ?」
ボクも床に置かれた雑巾を手にしながら、鈴波さんが持っている資料に目を向ける。
「そっか~。もうすぐ学園祭だもんね~」
いつの間にか、床拭き作業に混じっていた宮帆ちゃんが声を掛ける。
そう、鈴波さんの手元にある資料には『第16回結往学園・学園祭』の文字が大きくプリントされていた。
「う、うん……。でも、そんなの言い訳にならないです……。ジュース、あとでちゃんと弁償しますから」
「いいっていいって。それより、鈴波さんに掛かったりしなかった?」
「あ、うん……それは平気だけど」
「そっか。なら、よかった」
やがて床がキレイになった頃、円ちゃんが持ってきてくれたバケツに雑巾をまとめると、ボクらは揃って手を洗いに廊下へ出た。汚れた雑巾やバケツは、鈴波さんたちが片付けると持っていってしまった。
「学園祭は楽しみだけど、やっぱり実行委員会は大変みたいだね~」
教室に戻って席に着くなり、宮帆ちゃんはのんびりした調子でそんなことを言い出した。
「うん、結往はクラス委員が自動的に実行委員になっちゃうしね」
「まあ、鈴波だけなら心配だけど、笹垣も一緒だし大丈夫だろ」
頭の後ろで両手を組んだ円ちゃんが、声を返す。
笹垣さんはクラス委員ではないけど、鈴波さんと中学校が一緒だったらしく、よく一緒にいるのを見かける。おそらく、クラス委員などの仕事も手伝ってあげているんだろう。
「でもでも~、笹垣さんって確か家庭科部の部長さんなんだよね? それなのに鈴波さんのことも手伝うってすごいね~」
「ま、鈴波も家庭科部だし、二人でやった方が効率いいんじゃないの」
それほど興味もなさそうな円ちゃんの言葉に、宮帆ちゃんは目を大きくして「なるほど~」と呟いている。宮帆ちゃんのことだから、本当に感心してるんだろう。
かく言うボクも、それを聞いて妙に納得してしまったけど。あの二人は、本当に仲がいいらしい。
「それより、おまえの方こそ大丈夫なのかよ、タマ」
「えっ?」
いきなり話を振られて、素っ頓狂な声が出る。
「え、じゃなくてさ。ロミオ役、どうなのよ。やれそうなん?」
「あ、うん……まあ、なんとか」
「えー、ほんとかぁ? この前やったバルコニーの場面、かなりしどろもどろになってた気がするんだけど?」
そう言って、円ちゃんはニヤニヤと唇を釣り上げながらボクを見る。
「あ、あれは……! だって……」
言葉が尻すぼみになる。うまくいかなかった理由があるにはあるのだけど、それをここで円ちゃんに言う勇気もない。
「まあまあ~。タマちゃんだってがんばってるんだから、そんなからかっちゃダメだよ~」
そこへ、すかさず宮帆ちゃんがフォローを入れてくれる。……いい子だなぁ。
「大体、タマちゃんのことロミオ役に推薦したのって、誰だったっけ~?」
宮帆ちゃんがそう言うと、円ちゃんはニヤニヤ笑いをやめて「ぅぐ」と唸った。
そう、学園祭といえば出し物。それはボクたちのクラスも例外ではなく、演劇で『ロミオとジュリエット』をやることになっていた。出演者だけの合同練習も、すでに何度か行っている。
そして、その配役を決めるとき、ボクをロミオ役に推薦したのが、他でもない円ちゃんその人だったのだ。理由は「だって黙ってたらタマがジュリエット役になるに決まってるし。それじゃなんのひねりもなくて面白くないじゃん」だそうだ。
それは確かにボクもジュリエット役なんてごめんだったけど、そのせいで困ったことになったのも事実だった。というのも、相手のジュリエットを演じるのが――って、今はそれよりも気になることがあるんだった。
「そ、そんなことより、さっきの話だけど」
言いかけると、すぐに円ちゃんは察してくれたようで「ああ」と呟きながら、机の上に乗り出すみたいにして腕を置いた。
「なに、タマ。結局、薬買うつもりなの?」
「うーん……まだちょっと考え中だけど」
「ま、行くなら、ちゃんと理由だけは話せるようにしとくんだね。どうやら、薬を何に使うのか、どういう事情があるのか、そこらへんを話さないと売ってくれないって話だから」
「へ~、割とそこらへんはちゃんとしてるんだね~?」
それに円ちゃんは腕を組んで、大きく溜息を吐き出した。
「まーな。いくら万能薬だからって、結局は内緒で薬売ってるわけだし、悪用でもされたらそれこそ売った本人はタダじゃ済まないだろうからな」
なるほど、確かに。
「でも、理由……かぁ」
思わず、嘆息が漏れる。
「ん? なになに? やっぱり他に事情でもあんの?」
「えっと、なんというか、まあちょっとね」
笑って誤魔化すと、円ちゃんは「ふぅん」とだけ言って、それ以上聞いてこようとはしなかった。
まあ、聞かれたところで、説明のしようがないんだけど。
だって、言えるわけがない。
普通の男の子に戻りたい、だなんて。