2-6
「ったく……昨日、釘を刺しておいたというのに、何をしておったのじゃおぬしは」
「……すみません」
三日目ともなれば、さすがに見慣れてきた生物室。
そこでボクは二葉先輩に初めて会ったときのように、床にぺたんと座りこんでいた。
というか、正座をさせられているんだけど。
「まさか、また教室で迷っていたなどと抜かす気ではあるまいな?」
「ち、違いますよ……。きょ、今日は本当にそういうのじゃなくて……ひ……っ!」
先輩がいきなり机に平手を叩きつけ、ボクは反射的に目を閉じた。
「ええい! 言い訳なんぞ聞きたくはないわ!」
「ええっ!?」
何をしてたのか訊いてきたのは先輩なのに……理不尽だ。
「珠希、おぬしどうやら下僕の自覚が足りないようじゃのぅ? そうかそうか……なら、今日は部活は取りやめて、じっくりその身に教え込んで――」
「わわっ、ちち、違いますってば……!」
じり、と先輩がボクに向かって一歩踏み出したのを目にして、ボクは動物的な直感で危険を感じ取り、早口で遅れた理由を述べた。
「だ、だから今日はボクお昼休みに倒れてそれからずっと保健室にいたんですぅ!」
「よし、部活を始めるぞっ」
すると、先輩はその場でバレエダンサーのように、くるりとスカートを翻しながら反転し、机へと向かってしまう。
「――は?」
「な、何をしておる! 部活を始めると言っておるのじゃ! さ、さっさとせい!」
いきなり百八十度変わった態度に呆気に取られるボクを見て、先輩は何やらひどく動揺していた。
「ちぃ……! ということは、珠希のやつは香波と会ったのか……。くう、こんなことならもっと早く何か手を打っておくべきじゃった……!」
かと思えば、今度はぶつくさと独り言を喋り始める。
「あ、あの……?」
「な、ななななんじゃっ!」
「そういえば……その……二葉先輩と香波先生って……」
「や、やめろっ! わらわの前で香波の話をするなぁっ!」
さっきから気になっていたことを訊こうとしたら、先輩は『香波先生』という言葉に反応して、手で耳を塞いでしまった。
二人の関係って、一体……。
そんなボクの好奇心めいた視線を感じたのか、先輩ははっと顔を上げ、
「そ、そうじゃ! た、確か中庭の花壇に鈴蘭があったな! 珠希っ! おぬし、ちょっとそこまで行っていくつか取ってこい!」
なんて、ボクに命令してきた。
「え? すずらん、ですか?」
「そうじゃと言っておるじゃろ! ほ、ほれ! さっさと行ってこんか! お、おぬしはわらわの下僕なんじゃからの!」
びしぃっと先輩はボクを指差すが、その顔には冷や汗らしきものがだらだらと吹き出していて、目はどこを見ているのか、くるくると面白いように回っていた。
「えと……でも、スズランって……」
「わ、わらわはその間に準備をしておるからのっ」
そうしてボクの話も聞かず、再び背を向けると自分の鞄の中からポータブルDVDプレーヤーと思しきものを取り出し「ええい、面倒くさがって洗剤なんぞ使わずに、初めからこうしておけば……」なんてぶつぶつ言いながら、他にもいくつか空の小瓶を机の上に置き始める。あのときはあまりに色々と衝撃的で気付かなかったけど、どうやら初めて会ったときに先輩の顔を照らしていたのは、DVDプレーヤーの液晶画面だったらしい。
「せんぱぁい……」
「う、うるさいっ! 行けと行ったら、行くのじゃっ!」
もう先輩はこっちを振り向くつもりはないらしく、ボクは渋々と冷たい床から立ち上がった。
(はぁ……。しょうがない、行って来よ……)
「もう……先輩ってば、スズランなんか取ってきてどうするんだろう」
階段を降りながら、一人ごちる。
「ていうか、勝手に花壇から持ってきたりしていいのかな。……よくないんだろうなぁ」
あんまり、先生とかに怒られるようなことはしたくないが、命令なのだからしょうがない。なにせ、ボクは『絶対服従』と言われているんだから。
「これ以上、注目を浴びたくないんだけど……って、あれ?」
溜息をこぼしながら中庭に出ると、そこには意外な先客がいた。
慌ててボクは身を隠すと、校舎の影から顔だけを出して、花壇の前にいる二人の様子を窺った。
(あれって、川北先輩と……鈴波さん?)
どうして、なんの接点もない二人がここにいるのだろう。
鈴波さんは、体の前で祈るように手を組みながら、何か川北先輩に話している。何を話しているのかまでは、ここからでは聞き取れなかったが、どうもいい話ではないみたいだ。川北先輩は顔をしかめながら、どこかあらぬ方向を見ているし、鈴波さんは眉尻を下げながら、何かを必死にお願いしているように見えた。
(もしかして――)
一瞬、色恋めいた想像が頭をよぎる。だとしたら、少し気まずい。だって、どう見ても二人の様子からは、うまく事が運んでいるようには見えなかったから。
そして、もし本当にそうであれば、そこにはおそらくボクの存在が関わっている。
(タイミングの悪いときに来ちゃったな)
二人が和気藹々と話しているんだったら、ボクもあまり気にせずに花壇までいけるんだけど、これじゃ出るに出られない。しかし、ずっとこうやっているわけにもいかない。帰りが遅くなればなるほど、二葉先輩が不機嫌になるのは目に見えている。
(どうしよう……)
スズランなんてなかったと先輩に報告するか? だけど、それじゃもし二葉先輩が確認にでも来たら、嘘をついていることが一発でバレてしまう。
(うーん、困ったなぁ)
そんなことを考えながら顔をあげると、
「――いい加減にしてくれ!」
ちょうど川北先輩が鈴波さんに向かって怒鳴り、そのまま去っていくところだった。
ほっと胸を撫で下ろし、数秒間息を潜める。そして、校舎の影から身を滑り出させると、ちょうど今来た風を装って鈴波さんに声をかけた。
「あ、鈴波さん」
すると、鈴波さんはびくりと肩を竦め、振り返った。
「え……? あ……近衛、さん……」
願いは聞き届けてもらえなかったのだろうか。鈴波さんの表情は、見るからに意気消沈していた。
「ちょうどよかった。あの、昼休みはごめん……。その、心配してくれたのに、いきなり手を叩いたりしちゃって……びっくりしたよね? ほんと、ごめん」
軽く頭を下げると、鈴波さんは力のない笑みを浮かべながら、顔の前で右手を軽く振った。
「あ、大丈夫です、気にしてないから……。ただ……ちょっと、どうしたのかなって思ったけど」
「うん……ちょっと人が集まりすぎて混乱と緊張が一気にきちゃって……。大丈夫、次からはちゃんとするから」
「そう、それならいいんですけど……」
言って、鈴波さんは視線を落とす。
「何かあったの?」
こういうのは卑怯だなと思ったけど、何があったのか尋ねるいい機会だとも思った。だって、今のことにボクも関わっているのなら、気にならないわけがない。
「……ちょっとだけ。でも、大したことはないんです」
だけど、鈴波さんはそう言って、花壇の前に屈み込んだ。
ボクも花壇に用事があったので、彼女と同じように膝を抱えながらスズランの花を探した。
「うまくいかないですね……人間って」
すると、鈴波さんは溜息交じりに、そんなことを呟いた。
「鈴波さん?」
「人間って、なんでこう複雑なんでしょうか。好きな人に好きだと言ってもらいたい――ただ、それだけなのに……」
その言葉に、ボクは何も言えなくなる。きっと、鈴波さんのそれを邪魔しているのはボクだ。そのボクが何を言ったところで、鈴波さんには届かない。それが、なんとなくわかってしまったから。
「だから、少しでも可能性があるのなら――」
そうして、鈴波さんが何かを言いかけたとき。
「未紗っ」
誰かが校舎から駆けてくるのが見えた。
「……絢芽ちゃん」
「未紗、一体何をしてたの?」
息をきらしながら、笹垣さんは立ち上がった鈴波さんの肩に手を置く。
「何って……花壇のお手入れしてただけよ?」
「嘘言わないで! さっき、上から見てたんだから。あなたと明人が一緒にいるところ」
明人――? 話の流れからすると、川北先輩のことだと思うけど……どうして、笹垣さんが川北先輩のことを下の名前で呼ぶんだろう。
気にはなったけど、とても聞ける状況でもない。
「……」
鈴波さんは、それに何も返さず、視線を地面に落とした。
「ねえ、あいつに何か言われたの? それなら、私が――」
「いいの。絢芽ちゃんには、関係ないから」
「関係ないって、未紗……」
気まずい沈黙が落ちる。
たぶん、鈴波さんにも色々と事情があるのだろうけど、きっとここにボクがいたんじゃ何も言えないだろう。
そう思って、ボクはさっさと用事を済ませて立ち去ろうと、二人に声をかけた。
「えっと、二人ともちょっといい?」
鈴波さんが、幽鬼のような動きで振り返る。笹垣さんはボクがいたのに気付かなかったのか、少し目を白黒させた後、ばつが悪そうに視線を逸らした。
それを知りながら、ボクはわざと苦笑を浮かべながら言った。
「あのさ、スズランってどれかわかるかな?」
同時に、二人の目が丸くなる。
「スズ、ラン……ですか?」
「そう、ちょっと頼まれちゃったんだけど、どうも見当たらなくて……」
片手を頭の後ろにやり、困り顔で笑う。
「えっと……スズランなら、これですけど」
うわ言のように呟くと、呆気に取られている笹垣さんの手をすり抜け、鈴波さんが花壇の前に屈み込んだ。
そこには、ルビーのような色をした丸い実が成っていた。
「え……これ?」
目を瞬かせながら言うボクに少し微笑み、鈴波さんはいくつかそれを取って、ボクの手に置いた。
「スズランは四月から五月にかけて咲く花なので……今の時期だと、もう種子しか残ってないんです」
「へえ……知らなかったよ。でも、これもらってっていいのかな? えっと……一応、学園のモノじゃないの?」
「大丈夫です。少しくらいなら、私の家から持ってきますから」
「家?」
小首を傾げて問い掛けると、意外な方向から声が返ってきた。
「……未紗の家は花屋をやっているのよ」
自分の体を抱きしめるように腕を組んだ笹垣さんからは、いつもの威風堂々とした雰囲気は感じられなかった。
「ああ、そうなんだ。なるほど、詳しいわけだね」
言って、立ち上がる。
これ以上、この場にいても余計に二人を気まずくさせるだけだ
「二人ともありがとね、助かったよ。えっと……それじゃ、また明日」
それに、こんな元気のない笹垣さんを見ているのも、正直辛かった。どんなときも凛としている笹垣さんを、密かにボクは一人の人間として憧れていたのだから。
「……別に、私は何もしてないわ」
そして歩き始めたボクの背後から、笹垣さんの覇気のない声が聞こえてきた。
それは薄い霧のようにボクの耳を撫で、空に溶けた。




