プロローグ
◆ 使用上のご注意
人に嫌われないように、だけど好かれないように、いつも謙虚な姿勢を心がけ、目立たず地味な存在でいること。それがボクの選んだ生き方だ。
小学校の卒業アルバムの集合写真でクラスのみんながとびきりの笑顔を浮かべる中、右上でポツンと浮いている自分のスナップ写真(これはボクがそうしてくれと言ったのだけど)を見たときから、ボクはその生き方を貫いてきた。それは、あれから三年経った今でも変わらずに守り通してきたはずで――。
それなのに。
「ね? 珠希ちゃん、頼むよ。とりあえず、俺と付き合ってみてくれない? 一ヶ月だけでもいいからさぁ」
なんでまた、ボクは相も変わらず男の子から告白なんてされているんだろう。しかも今回は、校内でもトップクラスのイケメンで、女癖が悪いって噂の川北先輩だし……。
「はぁ……え、あ、いやボクは」
「ん? なになに? 一ヶ月じゃ長い? んー、それじゃ一週間でいいや。ね、ね、それならいいでしょ?」
全くもって、よくないです。
「そうじゃなくて、あの、だからボクは――」女の子が好きなんです。
なんて言えるわけがない。そんなこと言ったら、色々と大問題だ。
「うーん……。どうしたらわかってもらえるのかな、俺のキモチ」
屋上へと続く階段の踊り場。鉄扉の脇にある窓から差し込む茜色を遮るように、壁に手を突いてボクを見下ろしながら、先輩は芝居がかった溜息を吐いた。
……ごめんなさい。一生わかりたくないです、そんなキモチ。
「あの……ボクなんかのどこがいいんですか?」
「どこって言われてもなぁ。今時いないくらい清楚な感じとか、大人しくて控えめで、なんかこう大和撫子っていうか? たまに何にもないところでこけたりするところも、なーんか守ってやりたくなっちゃうんだよね。ああ、あとあと、そのウェーブがかったふわふわの長い髪も、すっげー似合っててカワイイよ」
悪かったですね、パーマとかじゃないですから。ただの癖っ毛です。
「……って、え? ボ、ボクが清楚?」
「うんうん。あ、そうそう、それにボクっ子っていうのが、またいいね。実は俺さ、結構ボクっ子って好きなんだよ」
ボ、ボクっ子? なにそれ?
「それに――」
「え、まだあるんですか?」
驚いて視線を上げると、思いっきり先輩と目が合った。恥ずかしくて、すぐにまた下を向いてしまう。ボクは人の目を見て話すのが苦手で、母親や妹にも直せ直せってよく言われているけど、なかなか直らない。
(って、あれ?)
と、そこで先輩の視線が微妙に外れていたことに気付いた。というよりは、ボクの顔の下を見ていたような……。
「――――っ!?」
その意味を悟って、反射的に両腕を胸の前で交差させる。ふにゅん、とした弾力のある感触に、腕が押し返されそうになった。
……今、絶対ボクの胸見てた。
それを裏付けるかの如く、見上げた先輩の視線は、人気のない階段下の廊下に向いていた。
ボクはうんざりして小さく溜息を吐くと、先輩の顔から視線を逸らしつつ、独り言を呟くように声を出した。
「あの、ボクなんかやめといた方が、いいと思いますよ……?」
「へ? なんで?」
俯いているボクの頭上で、大きく目を見開く気配。たぶん、そんな返しが来るとは思っても見なかったんだろう。
「えーっと……そ、そう、ボクって色々と面倒な子だしっ!」
これで諦めてくれることを期待して、先輩の顔を見上げる。だけど、先輩は首に下げたプレート型のペンダントを揺らしながら、一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、声を立てて笑い始めた。
物静かだった校舎に先輩の笑い声が場違いのように響いて、微かに聞こえていた部活動に勤しむ生徒たちの声をかき消す。
……こっちは、ふざけて言ってるわけじゃないんだけど。
「あ、あのっ……本当なんですからねっ?」
「っひー、ハハッ、おーけーおーけー、だいじょーぶ。俺、面倒なコなんていっぱい見てきたから。むしろ、そういうことなら他のヤツなんかより、俺の方が合ってるって。ほら、もう俺と付き合ってみるしかないっしょ、これは」
だめだこの人……全然引き下がってくれる気配がない。まあ、バッサリ斬って捨てることのできないボクにも問題があるんだろうけど。
だって、しょうがない。ボクは恋愛経験なんてゼロに等しいくらいだし、相手を傷付けずに上手く断る方法なんて知らないんだから。こんなことを言ったら情けないヤツだと誤解されそうだけど、ボクとしては現国なんかより、そういった身になる講義をして欲しいと、割と本気で考えるくらい情けない人間なのは否定しない。
うん、ダメ人間街道まっしぐらだ。きっとボクみたいなのが恋愛マニュアル人間になるのかな、なんて考えていると。
「そっかそっかー。ん、わかったわかった。じゃあ、手っ取り早く安心させてあげるよ」
下を向いていた顎が、ぐいと持ち上げられた。
そして、先輩の顔がゆっくりと近付いてきて――
え? え、ちょ、ちょっと待って。……そ、それって、もしかして?
「ひ――――」
理解した瞬間、全身が粟立ち、ぞわりと背筋を何かが駆け抜ける。
「嫌ぁ――――――っ!!」
喉から声が出ると同時に、パァンという小気味のよい音が耳を刺激した。
気付けば、運動をしたわけでもないのに、肩で息をしている自分がいて。
「………………あ」
「ってー……」
うわ、やっちゃった。なんて思う暇もなくボクは頭を下げていた。
「あ、そ、その……ご、ごめんなさいっ!」
そのまま、叩かれた頬に触れている先輩を横目に、ボクは今日一番の大きな声を出して、そこから逃げるように階段を駆け下りた。
(うわああああ! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――っ!)
じん、と痺れた手の平から、身体中に拡がっていく熱。
(もうやだ……もうやだ! お願いっ……誰か、助けてよぉ……!)
薄っすらと滲む視界を袖で拭いながら、ボクは自分の身体を呪った。
あの日からずっと、ボクの世界は毒で満ちている。