9
私は旦那様の真名を奪った。名付けたのではなく、真名を暴いてしまったのだ。それは旦那様も知らなかった名前のはずだ。それがどのような影響を及ぼすのかは分からない。
絶対に等しい忠誠をお互いに交わして、私たちは別々の世界にいた。
愛を残し、名も無き花も置いて行った。
影響があるとしても、それを気付くのは遥か未来だろう。
私の肉体は様々な感情が動かしている。もう止まらない、止まるべきではない、止まらせるわけにはいかない、新鮮な空気が肺に満ちた。
懐かしい気がする。
崖から昇ってくる風も、森の静かな冷気も、何もかもが懐かしい気がする。この崖は一度しか来たことが無い、でも私が生まれ育った世界だ。深呼吸して精神を落ち着かせて、魔力が波立たないように沈着するのを待った。体内に海が篭っているように波が乱反射する。
森の木の葉が炎上しながら舞い、私が村に行く道を塞いでいるようだ。行く道を探していると、空に炎が舞い上がった。炎の塊は、空で翼を広げて、再び滑空した。森に姿が消えた途端に大きな衝突音が響いた。腹の底から響くような重低音だった。火の鳥を操るほどの召喚師がいただろうか。私の実の父も強力な魔物を操ることができたらしいけど、都合よく来ているとは思えなかった。戦闘が行われている森を迂回して、遠回りして村に向った。
家々が大きな蛇に蹂躙されたように壊れている。
蚯蚓が這ったような跡がある。
私は木の裏に隠れて、蛇の正体を見た。蛇女が口の端から泡を飛ばしながら家を破壊していた。狂気が宿っている。そして蛇女の姿も異常だった。色んなものを合成したような姿で、背中に大きな茸が生え、胸から犬の顔があり、頭は二つあった。
気が遠くなる……。
私はあの魔物を全て知っていた。
あの魔物は母上の召喚獣だ。
そして、蛇女の頭の横には母上の頭があった。召喚に失敗したのだ。自らの身体がある座標に召喚してしまうと、あのように身体が合成されてしまう。初心者も上級者も気をつけなければならない失敗で、毎年何人かが犠牲になっている。でも、これは異常だった。使役している全ての召喚獣が合成されている。事故の犠牲者は頭が変になってしまう人が多いらしい、もしかしたら肉体の部位には何かしらの記憶が保持されているのかも知れない。
あれは母上であって、違うのかも知れない。
館の方を見ると、館も押し潰されていた。父上は母上と戦うことができただろうか。無理だ。そんなことができるはずが無い。精神を病んでしまったときも、父上は母上を愛し続けていた。
愛と殺意が同居すれば、自らの身体に返る。
壊れてしまった館へ行こう――そう思ったときに、影から美青年が現れて私の事を押し倒して隠した。嗅いだことのある匂いだ。猫耳の美青年は美しい毛並みをしており、猫人族だと知れた。
ノイだった。
「何故、ここに」
「ノイ……」
「こんな時に来ては……逃げてください」
ノイの喋り方は自然のままだ。召喚獣になっていないようだ。でもあれから年月が経っている。ノイは兄様が召喚獣にするはずだった。
ノイは母上を見て、項垂れた。
「見てしまわれたのですね」
「うん……」
「ここは戻るべき場所ではありません。魔王の元へ戻ってください」
「でも」
「あなたがここに来ればややこしい事になります。人間に食い物にされ、魔王からも見離されてしまえば、召喚師は終わります」
会話すらままならないくらいの断言だった。
「何でこんなことが起きたの?」
「人間の中に人間をやめて、圧倒的なまでに強くなろうとしようとする者が現れたのです。召喚事故……あなたの母上のような合成獣に、意図的になろうとするものが現れました」
空から火の鳥が現れて、母上に突撃した。
「あなたの父上も捕まりました。他の方たちも捕まりましたが、あなたの母上だけが最後まで抵抗して、自らを合成獣になりました」
家は崩れているが、死体は一つも無かった。
「母上と戦っているのは……」
火の鳥を操り母上と戦っているのは、兄様だった。最後にあったときよりも屈強になり、可愛さは消えたけど強さが増したようだ。頬から涙を流して、母上を殺そうとしていた。
「そんな……」
ノイに肩を掴まれた。
「戻ってください。あなたには辛すぎる」
でも――。
その時、母上と眼が会い、火の鳥を叩き落してこちらに向かってきた。
「おまえはぁ、おまえはぁぁぁ!」
大きな手が目の前に落ち、私は腰が抜けそうになりながらも逃げた。
逃げるしかなかった。
「サブリナ。なんでここに」
久し振りに会った兄様は怒っていた。
初めて名前を呼んでくれたのに、怒っていた。
「おまえのせいで、私は……人生を失った……」
母上が私を追ってきた。
火の鳥が後ろから襲い掛かり、嘴で後頭部から貫いた。それでも動く。私に向って蛇の尾を振り下ろしてきた。私は手を翳して尾を魔力で跳ね返した。
「止めろ! その手で母上に触るなっ!」
母上は後ろ向きに飛んで、火の鳥に包まれた。
「兄様……」
「闇に捧げられた者が戻ってくるなんて……」
兄様は親指で涙を拭い、母上に頭を下げた。
「馬鹿なのか。この事態は君のせいではない、君のせいでは無いが、君が戻ってきたら駄目なんだ。魔王はどうした? 君だって召喚師の端くれだろ。魔物が召喚師の身体に執着するのと同じで、魔王だって君の血肉に執着しているんだぞ。魔王は魔物を大勢こちらに派遣してくる。人は死ぬ。召喚師たちも今以上に苦境に立たされる」
頭を振って、混乱を消そうとしていた。
「私はただ兄様たちを助けに来ようと」
「それは分かっている」
兄様は苛々を隠せなかった。
「だかな、君がここにいる以上、合成獣の件は僕たちのせいにされるかも知れない。魔王の花嫁が逃げたせいでこんな事になったと……」
森の炎が家屋の残骸に移りつつあった。
「戻れ……魔王の元へ」
「兄様」
「僕は君の期待には答えられない。僕は母上を殺すためだけにここに来たんだ。肉親の愛情などすでに捨てた」
兄様は火の鳥に合図をして、母上だったものを燃やし尽くした。
「もう一度言う……戻れ」
「兄様……」
「これは召喚師の戦いだ。供物に関わる余地は無い」
「兄様……」
これが、あの優しい兄様なのだろうか。
「これは俺たちの戦いだ。お願いだから、帰ってくれ」
君が居ないから俺は――悪になったのに。
兄様は呟き、その後何も言わずに消えた。
「ノイはどうするの」
「臍の緒を食べましたから」
猫人族のノイは間違って、私の臍の緒を食べたことがあった。
だから――付いて行くと言った。
そんなの義理にもならなかった。
私は兄様の態度を悲しみながら旅立った。
……それから94,176時間経った。




