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一つの障害も無く意思が伝われば良いのに……。お互いに愛していることを伝えるには、言葉も行動もあまりにも無力だ。血肉も、愛も捧げたのに、お互いが通じ合うのに血も肉も邪魔で、薄い皮すら無駄なものだった。
愛していたのに何でこうなったんだろう……。
こうなる運命だったのかも知れない、坂道を転がった玉がどんどん加速して行き、行き着く先に落とし穴が必然的にあったのだろう。旦那様への愛はそのままあるけど、私の心には家族や故郷へ愛もあった。それは旦那様が教えてくれた愛と同じだった。だから破滅への道は必然だった。
愛を知るのは必然だったから……。
私が魔王城から出た後に、魔物達が狂ったように駆け出したそうだ。甘い香りが城外に漏れて、旦那様は異変を嗅ぎつけて魔物達を掃討した。捕り逃した大鳥が、私の命を狙ってきたそうだ。
二度と狙われないように、今まで以上に幽閉をしようとした。嗅いだ匂いを忘れられない魔物は多いだろう。その対処は理解できる。
旦那様も私が理解しているを分かっていた。
――サブリナのためだ。
――愛しているから、するんだ。
そう言い聞かされたけど、私の心には家族と故郷への心配で膨れ上がり、体中を不安が巡った。父上は、母上は、兄様は、ノイは大丈夫だろうか。心配で食事も喉を通らなくなり、殆ど時間の感覚は無いけど、自分の重さが減るのは感じていた。
私の体調を見て旦那様は考えを変えたようで、旦那様は暗闇から外へ出してくれた。
外に出ると、そこは見たことのない場所で、両側に本棚が広がっていた。もしかしたら、これが真名の保管場所なのかも知れない、私は目隠しをさせずに手を繋がれて階段を昇った。旦那様が壁の一箇所を押すと、壁は音をたてて動いて、旦那様の仕事部屋へと繋がっていた。
「おとなしくしてくれるか」
旦那様の言葉は強制力で包まれていた。
「私には無理です」
思わず頬を涙が伝っていた。
「旦那様には人の心が分かりません」
私は傷付くと分かって告げた。言ってもわからないこと、伝わらないことは山ほどあるけど、それでも分かってくれると藁にもすがるつもりで言わなければいけなかった。魔王なのだから、魔物の王なのだから考えは違うのは分かっている。繊細な感覚も、感情の差異も分かっている。でも、分かっていても、心では理解できないことはある。
だから強い言葉を使った。
「私が故郷を思う心を分かっていただけないのですね」
「サブリナには俺がお前を愛していることを分かっていない」
分かっています。
旦那様は旦那様なりに私を愛してくれた。御飯事のように拙くても、加工も装飾もされていない愛は確かに感じた。それでも感情は複雑なもので、至高の愛も全ての感情は塗りつぶせない、人は一つの物事だけで生きられない。
「旦那様、何が起きているんですか」
「人間たちの争いだ。召喚師たちの命が狙われているそうだ」
「何故ですか?」
「恐らくだが……」
旦那様はその後を告げなかった。
「何が起きているんですか」
「情報が少なすぎる。早合点は禁物だ」
私は自分の部屋に幽閉されることになった。魔王城の維持管理に務めていたらしい使用人たちが身の回りを世話するようになり、息苦しく日々を過ごした。彼女たちは美しい顔をしているが、身体に触れようとすると通り抜けてしまった。
幽霊だ。
「いままでも身の回りに居てくれたの?」
「はい」
彼女たちは同じ顔をしていた。
「……三つ子?」
「はい」
三人が入れ替わりながら世話をしてくれていた。
「サブリナ様が来てから、この城は本当に賑やかで」
嫌味を言っているのだろうか。
顔を見てみると笑顔なので嘘では無いのだろう。
「魔王様が嬉しそうで」
そうなのだろう。
「魔王様はサブリナ様を愛していますよ」
そうね……。
私の体調は悪くなり、気持ちも落ちてきて、喋る事も少なくなってきた。人間たちの争いに巻き込まれて命を狙われている召喚師たち、私のような半人前に何ができるのだろうか。いや、私には出来るはずだ。召喚師の村の中でも一流の召喚師ばかりだった。それでも旦那様を見ることができた人達は殆どいなかったのだ。私は潜在能力だけで言えば、村でも有数だった。
部屋の中では博士が作った花が毎日飾られている。
花瓶から一つ取り、魔力を籠めた。
三つ子の幽霊の前で振ると、嫌がって眼を背けた。
真名を握られて精神を完全に握られているのかも知れない、でも目の前にある餌に反応しないはずが無かった。牙を剥き出しにして食らいつき、続けて私を襲おうとしてきた。私は飛ぶように避け、魔力を叩きつけた。壁を通り越して、遠くへ吹き飛んでしまった。服装を整えて、鞄に必要な物を詰め込んだ。準備している途中に、もう一人の幽霊が来て、私を取り押さえようとして戸惑った。魔王の花嫁に手を出すのを躊躇ったようだ。だけど、私は躊躇せずに魔力を叩き上げて、遥か上空へと飛ばしてしまった。
城の一階に降りて、壁を魔力で吹き飛ばして、再び崖へと駆けた。
もう二度と戻らない――旦那様の愛よりも、家族を助ける衝動に突き動かされた。
三つ子の最後の一人は手加減してこなかった。美しき女が狂乱して最後の晩餐にありついた様な顔だった。歯を剥き出しにして、駆け抜ける私に飛びながら追ってきた。
転んだ。
振り向くと、歯が鼻先を齧ろうとしていた。
恐怖のあまり、押す――ではなく爆発させていた。女は消し飛び、勢いの余り私も吹き飛んだ。後頭部を石にぶつけ意識が朦朧としたけど、狂おしい叫び声で覚醒した。いつも聞いていた旦那様の声だ。飢え苦しむ鬼ですら、もっと弱々しい声を出すだろう。
「サブリナッ!」
周囲の樹木の葉が吹き飛びながら枯れ、突風で吹き荒れた。
危うげだった感情の初めての爆発だ。城の方を見ると細かいものが空を飛び、黒い霧が舞い散っていた。どこからあの力が発揮されるのだろう。
私は振り切るように崖へと向った。
「お前は俺を愛していなかったのだな」
旦那様の体が黒い霧で纏われていた。
「お前が私を名付けてくれなかったのも、愛していなかったからか」
違う。
名付けてしまうと……。
旦那様がそれを真名にしてしまいそうで、私はそれが怖くてつけられなかった。
「ゆくな。お前は俺の物だ。お前は俺以外に触れてもいけないのだ」
圧倒的な嫉妬心が私の全身を絡め取っていた。
「分かっています」
でも――。
崖の奥を覗くと、あちらの森が燃えていた。
もしも森が燃えていなかったら、私の心配が当たっていなかったら、私は旦那様の元から去ることは無かっただろう。
「行かなければ」
「行くな……」
足元に名も無き花が咲いていた。
摘み取り、戻ってくるまで咲き誇るように魔力を籠めた。
旦那様を見ると、私の中に何かが入ってきた。
それは真名だった。
「アルルカン……。旦那様の名前です」
不意をつかれて、旦那様は言葉を失った。
「必ず戻ってきます。旦那様、私の血と肉は行きますが、私の愛は貴方の物です」
私は飛び込むように、世界の希薄な膜を飛び越えた。
断末魔のような泣き声が耳に残った。
「俺を……捨てていかないでくれ……」




