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結婚前までは物語で、結婚後は歴史が始まる――と本で読んだことがある。恋愛物語が結ばれて終わりになるのが多いのは、結ばれた後が物語としてツマラナイからと言うことを言いたいのだろう。
私たちは恋愛期間も無く結婚してしまった。
魔王と人間の結婚は、魔物と魔物……人間と人間……同族間の結婚とは様相が違っていただろうけど、お互いが理解を深めながら愛し合う生活は楽しかった。
物語と歴史が混じった状態……夫婦でありながら同時に恋人同士だった。
そんな曖昧で、境界も定かでは無い関係、永遠と思える日常が続いた。日は秒のように流れ、月は確実に過ぎ、年は砂埃のように堆積した。
心を証明するのは難しいけど、旦那様が与えてくれたのは言葉にすることができる。
「旦那様は、私に愛を教えてくれた」
それは確実なことだ。証明できないけど、確かな感覚が心臓と共に体中を巡る。血よりも熱い何かが、私の心を乱して締め付けてくる。私の血肉は旦那様の物だけど、心は捧げてしまった――はずだった。
私が捧げたのは心ではなく、愛だった。
終わりは突然だった。
異世界との境界線から魔物たちが駆けて来て、たゆたう日常は終わりを告げた。
最初は静かに、徐々に煩くなった騒動は、召喚師達の異変だった。あちらの世界の召喚師達の死傷者数が日毎に増えていき、契約を終えて出戻ってきた魔物たちで、街中が溢れかえっていた。
召喚師と契約する魔物は街を一体で滅ぼすほどの強さであり、強さは傲慢と直結して、この世界の治安が悪化した。乱暴者が安定を崩すのは、人間も魔物も変わらないことだった。
私は魔王城の窓から双眼鏡を使って近くの街を見た。
旦那様に捕らえられた魔物は口の端に血糊がついていた。
召喚師を食べた跡だ。
それが契約をするということだ。死んだ後に魔力が充実した血肉を捧ぐ、それを食らうために魔物は奴隷のように使役して、従順に召喚師に従うのだ。
それは常識だったけど、私に衝撃を与えたのは、それが知り合いの召喚師の魔物だったからだ。ベヒーモスと呼ばれる魔物で、恐ろしく強く、恐ろしいほどに気高かった。
館の中庭で、あの牙に触れたことがある。
あの牙が召喚師を貫いたのだ。気づいた時には嘔吐していて、誰もいない寝具に包まって寝た。旦那様も魔物たちの取り締まりに出ていていない、魔王城の中はほとんど人気が無くて誰も私を慰めてくれなかった。
気を取り直したのは二日後、話し相手を見つけたのは三日後だった。
「魔王はお疲れのようです」
博士も暫く魔王城に来ていなかったようで、鎧を着込んでいた。戦えるか分からないけど豪華な鎧で傷も無数にあった。手入れはされているので昔の傷のようだ。柔らかな雰囲気と違い戦闘経験があるのかも知れなかった。
「何があったの」
「あちらの世界で召喚師狩りが行われているようです」
「どうして?」
「それが分かれば苦労はしないのですが」
張り付いたような苦笑だった。
鏡を見ると、そこには大人になった女性がいた。私も大きくなった。子どもが出来ても産穢に負けずに元気な子を産める身体だ。館にいた頃とは比べ物にならないほどに頑丈になった。魔王城の中で幽閉されているのは変わらないけど、肉体労働をして、そして暇な時間で鍛練を重ねた。
召喚師としての鍛練だ。
基礎的練習だけではなく、本読んで自分で考えた召喚術の練習もした。契約をすることは出来ないので契約の方法と、魔法陣の作り方を何度も行った。魔力の簡単な操作しかしてこなかったため難しかったけど、召喚術をやろうと思えばできるくらいになった――と思う。それに簡単な護衛術も習得した。魔力の塊を外にいる相手に叩きつける方法を思いついた。魔法使いなら魔力を雷や氷にしたりする方法を使うけど、力自体を衝突させる方法なら正式に訓練しなくても可能だった。
城の壁を壊したのは、この力だった。
あまりの威力と音に驚いたけど、驚く暇は無かった。土と石に躓きながら、昔の記憶を頼りに走った。すぐに誰かが追ってくるとは思わなかったけど、あちらの世界の状況を急いで確認したかった。
目指す所は故郷と繋がっている崖だ。
あの崖はあちらの崖と繋がっているはずだ。そこから覗いてみれば、故郷が無事かどうか分かるはずだ。
しばらく走っていると、誰かが追いかけてくるような錯覚に陥った。
何度か後ろを振り返っても誰もいない、急いで確認してきたい、焦りに似た感覚が警戒心を鈍らせた。闇に影が差した。誰かが私の上を飛んでいる。気づいた時には草叢に身を投げて、大鳥の爪から逃れていた。大鳥は大きな鳴き声をあげて、旋回して再び戻ってきた。
大鳥にとって、私はご馳走に見えただろう。
召喚師の肉体は魔物にとって絶品だ。一回の生で一度も味わうことができないかも知れない旨味だった。魔王の花嫁だとしても、罰により死ぬかもしれないが、それでも食欲に抗うことができなかった。召喚師に従い、奴隷と化す魔物が多いことからも考えて、私は最後の晩餐に最適なのだろう。
「さ……」
私は思わず「サモンッ!」と叫びそうになったけど、契約した召喚獣はいない。子供の頃の憧れが死の間際で思考を混乱させていた。
爪を逃れて、羽の追い討ちを逃れるために手を翳した。触れて瞬間に魔力を細い管から押し出す感覚で、魔力で強打した。羽が穿ち、血の霧が充満する。大鳥は飛ぶ手段を奪われて地を這ったが、それでも足を動かして私を狙ってきた。興奮した声をあげ、私と離れると愛おしそうに鳴き声を上げた。
不気味な声に全身が鳥肌だった。
疲れも厭わず、崖にたどり着いた。身体が丈夫になって来ていたけど、それでも走るのには身体がついてこなかったようだ。崖の草むらに横たわり心臓が鳴り止むのを待った。
そして、崖から身体を乗り出して、あちら側を覗いた。
直接村が見られるわけではなかったけど、あちら側の森は静かだった。誰かが居ないかなと思ったけど、森は寝静まっていた。こちらでも見たことのある樹だけど、懐かしくて涙が出て来た。
私は此処で魔王の寵愛を受けているけど、それでも孤独だった。
無くして、手に入らなくなったものは、全て愛おしい。
全身が冷たくなり感覚がなくなるまで座って眺めていた。痛みを感じながら歩いて帰り、魔王城へ入ると、旦那様が怒りの形相で私を捕らえた。気づいた時には誰も居ない暗闇に閉じ込められていた。
それでも――旦那様が愛おしかったのは変わらなかった。
愛が由来の怒りだと分かっていたから……。




