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私は導かれるままに玄関まで歩いた。緊張の余り手と足が同時に出たけど、玄関が開け放たれると気分が晴れた。館の外に出るのは何年ぶりだろうか。もしかしたら初めてかもしれない、中庭では楽しんだ土の感触を楽しんでいたけど、初めて歩く道は微妙に違う感触だった。
道の左右で村人たちが見守るなか、私は姿勢を正して夜道を歩いた。館から歩いた時に、最後に家を記憶の中に留めて置く事を忘れてしまった。
そうして何もかもが手遅れなのを思い知った。
部屋の中も、母上のことも、猫人族のノイのことも忘れていた。
緊張の余り、何もかも忘れていた。
結婚は自由への決別式と言うけど――私には自由すらなかった。私にとって結婚は唯一だった繋がりとの決別だった。
嗚咽が聞こえぬように、泣き顔が見られないように、私は帽子を前面に枝垂れさせた。
村人たちは仮面を被り、陰鬱な音楽を奏でている。
特殊な樹を乾かした打楽器を鳴らして、それが不規則とも規則的とも思えぬ異様な音楽が穏やかに流れている。音楽の規則性を捕らえたのは、崖の上に辿り着いてからだ。影から先は満月が出ていて、百万の星が乳を零したように白く輝いている。
村人たちは潮が引くように、後退りした。しかし両目は百年ぶりに降臨する魔王を見ようとした。それは危険なことだった。いくら熟練の召喚師と言えど、高貴な魔を直視するには一定の魔力を必要だ。
「見てはいけない!」
私は声を張り上げた。
「見たら! 目が焼けるぞ!」
波のようにざわめきが広がり、口々に畏怖の声が広がった。小娘に過ぎないと思った私から指導者のような声が出たからだ。
「娘よ」
父上が私の真後ろにいた。
「健やかにな。血が繋がっていなくてもお前は私の娘だ」
「はい……」
血の繋がった母上も、兄様もいないなか、私の心中を察してくれたのだろう。
その優しさが嬉しかった。
「じきに月蝕が起きる。だが側にいれるのも今だけだ。私たちには魔王の力は強すぎる」
「はい……」
私は簡単な返事しか出来なかった。
これもすぐに後悔するだろう。
父上の言うとおりに、すぐに満月が闇に食われ始めた。風が舞い上がり、遠巻きで見ていた村人達を後退させた。満月を食った闇は輝くように眼を痛めつけ、瞳から輝きを失わせようとしていた。
「頭を下げいっ」
父上と村人が一斉に頭を下げ、長い口上を述べていた。だが、それは聞こえず、私はあちらの世界から隔絶された。足元の雑草が生気を失い枯れ果てた。それは境界の膜が其処を包み込んだからだ。私が立つ所は既に魔王のいる世界に入ってしまった。
「これでは死なないか。それでこそ俺の花嫁だ」
傍らに誰かが立っていた。
白磁の肌に病的な美しさが極彩色を塗布したようで、強く儚げだった。此岸から彼岸へと移り、夜闇は異常なまでに深く沈んでいるが、圧倒的なまでの存在感を持つ男だった。
「頑丈だな。直視しても眼が焼けん」
身体が弱いことだけが取得なのに、生まれて初めて頑丈さを褒められた。
「まだ。最後のお別れを……」
「お前だけならあちらへ渡れる。私は大き過ぎて引っかかってしまうが。それに長々しい口上の途中だ。別れを告げるのはその後でよい」
口から言葉が漏れながら、魔王の眼は私の全身を眺めていた。優しげな感じはするが、異様なほど儚げだ。その希薄さは薄皮を剥いたら凶悪になりそうな気配がした。
「名は?」
「ありません」
「無い……何故? 不便では無いか」
「いえ、名前も魔王様に捧げることになっていますので」
なので――つけられませんでした。とお辞儀した。
魔王は長い間の習慣なので細かい規則を覚えていないのだろう。魔王も長命だとは聞くけど不老不死では無いそうだ。何度か代を変えていれば忘れ去られることもあるだろう。
「そうなのか。ならば、俺が名前をつけて良いのか」
魔王は思いのほか若いようで、肌が柔らかそうだった。私よりは年上だけど、その若さがいっそう危うさを引き立てていた。一度壊れれば最後まで崩れそうな危うさだ。
私は怒らせないように、親しみも込めて返答した。
「はい。親しみやすい名が良いです」
私は以前から名前をつけて欲しかったので少し興奮していた。
もしかしたら頬が赤く染まっていたかも知れない。
「……サブリナ」
サブリナ……あまり聞いたことの無い名前だけど耳心地が良かった。
「ありがとうございます」
「気にするな。必要なものは必要なのだ」
魔王はそう言うと、あちらの世界を睨んで、父の長口上を聞き終えた。
「終わったぞ」
私は踵を返してヌルリとした膜の前に立った。指先をつけてみると、違和感があった。意を決して越えて、父上に向けて手を振った。
「父上っ!」
彼岸へ渡ったと思った娘が戻ってきて、父上は目を見開いた。
「私の名前はサブリナです。忘れないでください。サブリナです」
それを伝えたかった。
誰かに覚えてもらうために名前が欲しかった。
「……健やかにな。サブリナ」
「はい……」
私は魔王の元へ戻ると、手を差し伸ばしてくれた。
「ゆこう。俺の花嫁」
「……はい」




