ともの死
〈友情と云うものの本質は、トン族のようなものだ。平時はひどく頑丈そうでも、崩れる時にはあっけない。
――ガリーチョ・チュバ〉
フシーオはベッドに寝かされた。床の冷める暇がないが、どうやら彼が、最後の使用者になりそうだった。あ、あ、あ……と、うわごとなのか、悲鳴なのかわからない言葉をもらす。肺にまで十分空気がまわっていないらしい。
「上着を脱がすぞ。――いや、裁断してしまおう」スタンソは救命器具の中に入っていた裁ちばさみを取り出し、フシーオの身体を横にして、衣服を背中側からざくざくと切った。――刃物は血で何度か滑ったが、辛うじて彼の上半身を裸にすることが出来た。フシーオはへその上のあたりを二発の銃弾で貫かれていた。
「こりゃあ、太い血管を切っているな……」
「先生、どうか助けてあげてよ」
「君らは隅っこにいなさい。あの子にあまり血を見せるな」
ヤシュタットは言われた通り、エッセをずるずると連れて行く。ビンディーは息を切らせつつも椅子には座らず、壁際にへたりこんだ。そして膝を抱えて、スタンソの阿鼻を、震えながら聞いている。
「彼を見つけられたんだね。――フシーオの身に、何が?」
「あ、あ、あ、あたし何が起こってんだか、わかんないよ」声が震えて、話をさせるのは酷だった。
「おれは偽物たちに、不意打ちされたんだ……」フシーオが弱々しく左手を上げて言う。
「だまってなさい、君は――」
「いいんだよ先生、おれは大義を果たす前に死んじまうんだ。だからせめて、後世に向けて、おれの記録を……」はあ、はあと、苦しげに呼吸する。
「おれは意気揚々とジャンムリオーンに入った……。明日になれば家来の手引きでダルダシオーン……に……入城するはずだった……。
だがおれは……他にも勇者の末裔を名乗る奴……つまり偽物が……いることを知った。しかも大勢だ。……おれは偽物を成敗しようとした。……したが、あいつらと同じ広場に集められて……殺し合いをさせられた。こっちが燃素銃の引き金を引く前に……弾をもらっちまった……。〈双子の鍵〉も……取られちまった」
「〈双子の鍵〉? 双子って、君の弟のことじゃなかったのか?」
フシーオは痛みにもだえながらも、かすかにほくそ笑んだ。
「……〈双子〉って、あたし、知ってるよ」
「なんだって?」
「伯爵のおじさんが前に言ってたよ。――二つの塔をホードガレイに造って、そこから遠隔の――えーと、『こうしゅうはどう』を出して、この星のどこでも焼くことが出来るっていうおっかない兵器のことだよ。元々は電線なしの通信機になるはずだったけど」
「そんな怖い兵器がこの世に存在するのかい? 本当に?」
ビンディーはかぶりを振った。
「いやあ、おじさんは『あくまでもただの構想だから、君も本気にしないでくれ』って言ってたけど――」
「だけどあるんだよ、一基だけ、ダルダシオーンに……。これだけなら少なくとも……ホードガレイ一国だけなら……いつでもどこでも火の海にできるらしい……。おれは〈双子〉の完成をシタ・サーブで聞き、勇者の末裔としての任務を……こなすことにした……」
「聞いたって、誰に――」
「〈双子〉の中心部を奪い……ホードガレイ中に戦乱の種を播く……。
だがあの街でも既に……おれの偽物がいたらしい……」
「というより、君はだれかにおだてられ、だまされているんじゃないのか? 同じく鴨にされた人間と、ただ同士討ちにされただけなんじゃ――」
ヤシュタットにそう指摘されたフシーオは、閉じかけていた眼を、かっと見開いた。
「き、貴様っ……おれを侮辱する気か……! おれが正真正銘、勇者オータットの子孫だという……証拠があるんだ……!」彼はモゾモゾと動いた。
「おい、じっとしていろ! 勇者だろうがなんだろうが、死にかけている以上、私の言う通りにしとけば安全だ!」
「勇者はこれぐらいのことで弱音を吐けない……。死ぬ間際まで……堂々と……。――クッ、それより医者先生……、脱がしたおれの服の……内ポケットを探ってくれ……」
ビンディーが彼の血に汚れた服を上から叩いた。――何か固い手ごたえに当たり、その正体を取り出す。それは鳥の羽根が円環状に巻かれた、金色に輝く紋章だった。
「羽根飾り……」ホードガレイやオタジアの両国民にはおなじみの、勇者オータットのシンボルだ。「フシーオ、君はこれをどこで――」
「つくらせたんだ、従者に……」
「従者?」
「コバトでおれが勇者の末裔だと知って、慕ってきた奴らが金を出して、な……。そいつら、『勇者がこんなところで腐っているなんて、信じられない』と、おれを盛りたててくれた……。なんでもできる気がした……」
「いや、そもそも、君はなんで自分のことを勇者だなんて――」
「君ももう、しゃべらせるな!」
「いや、しゃべらせてくれ……」フシーオは自分の物語を、天井を見つめながらとうとうと喋り続けた。――彼はその間、みるみる衰弱していき、まるでぜんまい仕掛けが力を失い、ゆるゆると止まっていくかのようだった。
「オタジアに居た時……とある方から……おれのシャサ姓はオータットの故郷にちなんでいると教えられた……。だからおれは金を少しためて、その方の紹介で、専門家に調査を頼んだ……。そしておれが間違いなくオータットの、直系の子孫だと証明してくれた……。おふくろのところにゃ家系図だってあるぜ……。見つけてもらったんだ……」
そして最後に彼はつぶやいた。
「なあ、頼むぜヤシュタット……。お前は勇者の子孫じゃないが、おれの〈とも〉として、おれの志を引き継いでくれ……。魔王を……狂女を倒すんだ……」
「『狂女』? 君が言ってるのは、まさか――」ヤシュタットは医師の口を遮った。
「その紋章を……ヤシュタット……」それをぽつりとつぶやいたきり、彼は動かなくなった。あとはただ血がヒタヒタと滴るだけ。彼の死に気付き、ビンディーがわっと泣く。一方のエッセもぽろぽろと泣くが、どうもビンディーに感化されただけなように思えた。
「……フシーオ、最後ぐらい国に残したお母さんに言葉を残せばよかったのに」彼が散々故郷の母親に手紙や電報を送ったというのは、周囲を欺くためのものだったろう。彼の母は、息子が異国の地でこんな死に方をすることを、きっと知らない。
「しかし、彼は本当に勇者オータの子孫だったのだろうか? この紋章も、こちらに来てから造ったものだというじゃないか」
フシーオの身体からはまだ血が滴り続ける。ヤシュタットはスタンソの問いには応えず、だまって自分の荷物を漁り始めた。
「まさかこれを出す時が来るなんて、思ってもみなかったけど……」
「なにかな?」
……ヤシュタットが取り出したのは、小さな箱だった。
「これは留学のときに、父から手渡されたものです。――いざこちらの偉い方にお会いする機会があったときのために、と」
中身は銀の糸が刺繍されたワッペンが、金製のピンとともにしまわれていた。宿り木の枝が六角形に編み込まれたシンボルだった。
「オタジアでは礼服に自分の家の紋章を縫い込むんですが、これを胸に貼るというのも一般的です。コバト大学の入学式では貸し衣裳にこれをつけて出ました。趣味のいい風習ではないですけどね」
「ふん……」スタンソは何気なく裏をめくった。そして彼は年甲斐もなく「あっ!」と叫んでしまった。そこにはフシーオが持っていた金の紋章と同じ、〈羽根飾り〉の紋が縫い込まれていたのである。
「きみっ、これは一体……」
「勘違いなさらないでください。ぼくがお見せしたかったのは確かにその紋章です。でもぼくは勇者オータットの子孫ではありません」
「どういうことだね?」
「くだらないカラクリです。オタジアの人間の半分以上が、『勇者オータットの子孫』だということになっているんですよ」
「はあ?」
ヤシュタットはこの隠し紋の種明かしをした。――オタジアはホードガレイ内戦末期の軍事特需で経済発展した国で、ヤシュタットの実家もそれで現在の繁栄の礎を築いた。その時代の金持ちたちがしたことと言えば、自分の出自の箔付けだった。彼らは「経済でホードガレイを征服した」という下衆い自負を誇示するため、勇者オータットの子孫という銘柄を求めたのである。彼らは国内にあるオータットに関連する史跡――どれも真偽の定かでないものばかりだが――を自費で整備し、オータットの出身地とされる寒村の住民の籍を積極的に買った。この戸籍証文の取引は年々熱を帯び、ありとあらゆる階層の人間を巻き込んだ泡沫景気にまで膨れ上がった。
「この狂乱ぶりは政府が戸籍取引きを規制まで続いたんですけど、最近でも数年ごとに『あなたはオータットの子孫かもしれません。我々がそれを調査して差し上げましょう』と言いながら近づいて、証拠だという骨董品や、家系図を売りつける詐欺が流行るんです。家系図を造れば『あなたはオータから数えて何人目の人物の、隠し子の子孫です』なんて、調べようのないことまで言って……。そもそもオータットに子供がいたことすら、噴飯モノの話だそうですし」
「そんなことを繰り返している内に、君を含め国民の半分がオータの子孫というわけか。ということは、この羽根飾りの紋には?」
「はい、オータットの末裔という証拠になんて、なり得ません。家系図の方にも、なんの価値もありません」
「ってことは、この人は何の価値もない与太話に踊らされて、人を殺したり、最後は殺されたってわけ?」ビンディーは悔しげ、苦しげに口元を歪ませていたが、それでも涙は収まらない。
「ごめんなさい、あいつを止める機会なんて、ぼくにはいくらでもあったのに――」ヤシュタットはうつむいた。
「君の責任じゃないさ。彼は中途半端に賢かった。だから君や彼女を落としいれたり、巻き込むことばかりに心が奪われて、肝腎の、自分のことがちっとも見えていなかった。己が立っていない人間は周囲の人間からも、正体が怪しくなっているものなんだ。……さて」スタンソはフシーオの亡骸のそばを離れた。「遺体を外に運ぼう。彼は多分、この騒乱の首謀者の中で、唯一身元が明らかになっている人物だ。警察も保安省も、彼を欲しがっているはずだ」
「――はい」
「ちょっと待ってよ、この人はもう、さんざん弄ばれたんだよ? それで死んだあとも、切り刻まれて、身体ん中を見られたりするのかい? そんなの嫌だよ、あたしは!」
「彼が死の間際に話したことは、私が伝えておこう。君らは――そうだな、少なくともここにはいない方がいい」
「でも、どこにいけばいいんですか?」
「うーん」彼はフシーオの血糊がついた腕を組んで考え込んでしまった。「……今は彼の亡骸をどうするかが先だ。これ以上の辱めを受けないよう、出来るかぎりのことをしよう」
フシーオは顔に布切れをかけられて、ヤシュタットとスタンソに担がれて一階の、他の遺体が安置されている部屋に運ばれた。
「待たせたな、諸君」
「あ、先生、その方は――」コシュ・カムの看護師がおずおずと話しかける。
「彼を運んだらすぐに他の患者の手当てに移る」スタンソはフシーオを運びつつ、彼らに警察が来たときの対応法を事細かに指図した。
表に面した急ごしらえの医院には、次々と新患が担ぎこまれ、床は一杯になった。それとは入れ違いに、先ほどまで居た婦人たちも、外の様子を見定めて、各々帰って行ったらしい。彼女らが囲っていた席だけが残されていた。運ばれてきた負傷者たちはは苦悶の表情を浮かべながらも、もはや闘いは終わったと悟っているのか、泣きごとひとつ漏らさず、歯を食いしばって健気に痛みを耐えていた。
――死体安置所は元々、店舗の事務室だったらしく、日当たりが悪い。それに加えて死臭で充満しているため、鼻と耳の奥がツーンと圧し潰されるようだった。他の遺体はみな、息を引き取った後にここまで運ばれてきたのか、麻袋に詰めにされていた。袋の数は五つで、顔のところが大きく膨らんでいるものは純血コシュ・カムのものだろう。いやに頭身が小さいものは、子供なのか、それとも身体がばらばらに砕けたものか――。ジワリと血が、布に染み付いている。彼らはまるで重さで量り売りされる穀物のような扱いで、それと見比べると、多少はフシーオの寝かされかたの方がましなものに思われた。
戦闘の方は収集がついたようだ。街は元の静けさを取り戻した。――いや、大きな街はこんな時間でも人々の喧騒で満ち溢れているはずだ。シタ・サーブもシャンバンハもタララも、そしてジャンムリオーンも、巡礼路筋にある都市は、人の心から街の存在理由まで、なにもかもが変わってしまうことだろう。
スタンソの配慮から、ビンディーはエッセを抱え、治療の邪魔にならないよう表で膝を抱えていた。
「ビンディーを表に立たせて平気でしょうか?」
「それよりも今は、君の方が危険な立場だぞ。ヒト族の残党が井戸に毒を投げ込んだなんて噂が流れたら、ひとたまりもないからな」スタンソは小声でつぶやく。
「それぐらいなら自首した方がマシですかね。その方が安全――」
ヤシュタットの弱気を、フシーオは強く諌めた。
「何を言ってるんだ! 君は何も悪いことをしていないじゃないか。罪のない人間が、大した理由もなく拘束される。世間の動きから取り残され、まともに身体を動かすことすらかなわず、ただ時間が過ぎるのをじっと待つ。そんな状態に置かれることがどれだけ辛いことか、君はわからんのか?」
ヤシュタットは初めこそ、フシーオの怒りの理由が分からず、ただ目を丸くするばかりだったが、そのうち彼が誰のことを言っているのかを把握した。
「すいません……」
「まあ、とにかく、状況をよくなるよう、君は最善を尽くせ。決して自由を放棄しようとはするな。わかったかね?」
ヤシュタットは深々とうなずいた。
死体置き場から出ると、また額の傷が疼く。黄泉から生の世界に戻ってきたような気分だった。
「――これ、あなたにあげないとね」彼女はヤシュタットに、フシーオが持っていた贋物の紋章を手渡した。
「でもぼくは、オータットになる気なんてこれっぽっちもないよ。それより君が持っていた方が――」
「ううん、フシーオさんには国に遺したお母さんがいるんでしょ? 形見を届けてあげないと」
「あ、そうか。そうだね……」しかし息子をたぶらかすために用いられた小道具を、受け取ってくれるだろうか。
「……そういえばさ、ビンディーはどうやってフシーオを助け出せたんだい?」
「あたしは全ッ然助けれてないよ……」
そう言いつつ、彼女は医院の外を出て、街灯の真下を指差した。
「ほら、あそこにある奴を無理に奪って、急いで殺しの場所から逃げたんだ」
「――馬車?」ヤシュタットたちの位置からは、後部車輪と、銃弾がいくつも貫通した、観音開きの扉だけが見えている。灰色がかった緑色をしているため、軍所有のもののようだ。
「馬に引かせてたんじゃ、あんな修羅場をくぐれないよ。……ひどいもんだよ。ヒト族の人たち大混乱で、だれが敵で、味方なのかわかってなかったみたいだから」
「正しくは、『自分以外はみんな敵』――だよ」その場に居た全員が、我こそ本物のオータット二世だと思っていたのだから、同郷人はみな、成敗すべき奸賊に見えたことだろう。
「まあ、そういう怖い話は後にしてね、軍ってすごいね。もうアレを実用化して――」彼女の目元に、技術者としての悦びが湧き出した――が、それはすぐに鎮火した。カッカッカッカッ……と、蹄鉄の足音が複数響いてきたのを、彼女は感知したのである。
(軽はずみな行動だけはよしてよ)
(ジャスタさんも、弱気にはならないでね)
二人は小声で確認すると、ヤシュタットはへたり込んで、ビンディーはエッセを無理矢理抱っこした。
ゲートルを履いた、四人の男たちは、今まで見た陸軍のものとは違う――そして警察のものでもない、灰色の制服を着ていた。しかし付けている腕章が二人ひと組ずつ異なっていた。――エッセは彼らをしげしげと見つめるが、ヤシュタットとビンディーは息を殺す。
「こちらの医師はどなたか?」その内の一人であるコシュ・カムがスタンソを呼ぶ。その重たい声質とは裏腹に、態度は慇懃だった。
「はい、私ですが」スタンソが持っていた書類を看護師に渡した。「スタンソ・コルドランと申します」
「コルドラン先生、こちらにヒト族の男が運び込まれたと匿名の通報が入っております」
「ああ、その男ですか。……彼は亡くなって、いま奥の部屋に安置しています。死に際に彼は、身元を洗いざらい明かしました」
「なに? 死んだと?」
――スタンソはそのコシュ・カムと、しばらく会話をしていた。聞き耳をそばだてていると、ヤシュタットが話したことを元に、フシーオがなぜ自分は勇者オータットであるという妄想に取りつかれたのかを説明していた。――しかし肝心の、彼がどこのだれであるかについては、巧みに言及を避けてくれている。
残った三人の男たちは、横たわる負傷者たちを見渡していたが、この惨状を目にして特に感慨を受けていないようだった。……一番右に居る魔族の男が、にこやかにエッセを見つめる。エッセも彼に目を合わせた。
二人はしばらくにらめっこしていた。この男もジャンムリオーン育ちなのかな? それともただの子供好きかしら……。ヤシュタットは眼を合わせないように注意を払いながら考えた。
「その男は何か、携帯していませんでしたか?」
「……例えば、どんなものです?」
「なんと申しますか、〈紋章〉です」
動悸で身体が揺すれる。あんな価値のないものを、どうして? ヤシュタットはそれを、辛うじて隠した。彼の動揺とは違い、スタンソの肝は座っている。
「そうですな、値打ちがありそうなものは何一つ携行していなかったみたいですが、何か呑み込んでいるのかも。――しかしそうなると、もはや逃げも隠れもしませんがね」
(冗談でもよして)ビンディーが、自分にしか聞こえない声で泣いた。
「コルドラン先生、それはちょっと、呑み込めるような大きさではないのですよ。……ねえ、我々だってお忙しい先生のお邪魔をこれ以上したくありませんし、死者に鞭打つような、手荒な真似もしたくないんですよ」
「はあ、ま、その考え方には私も賛成ですな。では、後ほど……」
「いやいや、これ以上お邪魔しないよう、今すぐ我々も任務を完遂させてしまいましょうか」
「それはどういう――」
スタンソが言葉を紡ぎ終える前に、エッセを見つめていた男が、やにわ細くて軽い彼女の肩に掴みかかった! そのままビンディーが抵抗する間もなく、エッセを力まかせに引きはがす。
「あー! ぎゃー! やだー! おねえちゃーん! ジャスター!」
「ちょちょちょ! あんたたちなんなの!」ビンディーの精いっぱいの抵抗ですら、彼らにとっては赤子の手をひねるようなものだった。どんと腹部を蹴り飛ばされ、背中も漆喰塗りの壁にしたたか叩きつけられる。――ガッと、短く苦しい音が、ビンディーの口から吐き出された。
エッセは引っ越しの荷物のように、残る二人へと軽々手渡される。一番後ろに居た屈強な男が彼女を肩に負った。死体袋と同じ扱いだ。ヤシュタットだって彼女を取り返そうと掴みかかるが、むべなく足払いを決められ、飛びかかった勢いそのまま前方へ投げ出された。
「あー! がー! いやあー! はなせー! クソヤロー!」
「あ、あんたら、あの子が狙いか!」紋章! あの子の背中の、刺青のことか! そう言った直後スタンソも力任せに右下顎を殴られた。彼の身体は捻りを伴って、仰向けに似ていた負傷者たちの上にどしんと倒れ込んだ! 彼の下敷きになった兵士が、怒号――ではなく、忍耐の堰が切れたような、肺の中身を絞り取る、聞くに堪えない悲鳴を挙げる。
「あ、ああー……」
「せ、先生!」スタンソは慌てた看護師の一人に抱きかかえられ、顎を食いしばりながら立ち上がる。口腔内か唇を切ったのか、他の五支族よりも薄い色をした血が、口元からつーっと流れる。
ヤシュタットとビンディーはお互いに支え合って立ち上がる。二人は眼を白黒させながら、あの官吏たち――そしてエッセの行方を捜した。――カツカツカツという神経を逆なでする足音と、エッセが自分たちの救出を求める、気が狂いそうな悲鳴――。それは建物に乱反射して、彼らの所在をかく乱する。……そして小さく、バタンという戸を閉める音。タララで聞いた、蒸気機関のうなり……よりも若干軽い音。
「お、追おう!」ビンディーはみぞおちを押さえながら、よろよろと路に出る。ヤシュタットは、一瞬でもあの男どもに気を許した自分のことが悔しくて、痛みに構っている余裕などなかった。――どういうわけか一瞬『イ』の顔が脳裏に浮かんだ。彼女はあの真っ黒な目を靴墨のように濁らせて、饒舌な口を、真一文字に閉じている。
「ジャスタさん、そっちじゃないよ!」
「はやくこっちにくるんだ、君!」ふらふらと、路の真ん中で迷いかけていたようだ。ヤシュタットはスタンソに左腕を掴まれ、千鳥足で引きずられていく。
「これを使えばずっと早いよ。ほら、早く乗って!」ビンディーは御者台に飛び乗った。ヤシュタットとスタンソも彼女の隣に転がり込む。――しかしこの『馬車』には、馬が繋がれていなかった。
「ああ、駄目だ! あいつらわざわざ馬を――」
「この『馬車』には元々馬なんていないよ! とにかく、弱音はもうナシ! しっかりつかまってて!」彼女は目の前にある金属製のお盆にしがみつき、右手でふいごの取っ手のようなものを調子よく上下させた。……ダスッ! ダダダダダダッ! と、ヤシュタットの足元が小刻みに振動する。その振動が安定すると、ビンディーはお盆を、思い切り右に回した。
『馬車』は一度外に向かって大きく傾いた後、鉄板がきしむ音を立ててぐるりと回り、向きを反転させた。身体が外の方へ、大きく引っ張られ、ビンディーの羽毛と密着する。
「こここ……」『馬車』は車道を快走するが、普通の馬車より速度が出ているので、恐ろしく揺れる。「これって、蒸気機関?」
「違う! あれだとでっかい水槽を担いでないといけないでしょ? 燃素の熱を直接動力にしてるの、多分!」彼女は野戦病院のそばから伸びる路に進入させた。
「これは軍の救急車だ。これで混乱に乗じてフシーオを助け出したんだが――確か二年前に開発されて、投入されたばかりのやつだ」スタンソは座席にしがみつきながら、口元をぬぐった。
「噂では聞いてたけど、ダルダションにしか走ってないから、一度運転してみたかったの!」
「まさか、初めての運転かい?」車輪が古新聞の束を踏みつける。
「ううん、二回目よ。――フシーオさんを連れ出したのが初めて」
「ああ……」冷や汗が傷に染みる。
しかしヤシュタットの憂いとは関係なく、救急車は順調に進む。車輪にわだちが上手く噛み合っているおかげだ。街灯は順々に並び、エッセをさらった男たちのまたがる軍用馬の尻尾が見えてきた。
エッセは真ん中の男に、丸太のような左腕で抱えるように拘束されていた。彼女の四肢が、ブランブランと左右に揺れる。恐怖で動けないのか、それとも眠らされているのか、あの子が動く気配はない。動こうものなら男の腕をすり抜けて、舗装された固い地面に叩きつけられてしまうだろう。
彼らは柵が破壊されたバリケードを二つ通過し、救急車もそれを追う。警備していた兵士は、慌てて左右に避けた。どうやらこのルートを使って、フシーオを運び出したようだ。
馬上の男たちは広場に出た。前述の通り都市の広場は反乱者を押し込んで、まな板の鯉にさせるためという機能もあるが、今回はそれが遺憾なく発揮されたようだ。取り囲む建物にはは凹面鏡と燃素灯で、強烈に照らし出されていた。人型の焦げ跡、流れ出た血、崩れた壁、融けた街灯、瓶、薬莢、煙に灰、割れたガラス――。この追跡を戸惑った表情で見つめる兵士たちが守るのは、端から治療の必要がない、一撃で息の根が止まった者たちの、骸の山だった。
この広場をぐるりと回ると、距離が縮まってきた。
「さすがこ……公用車ですね。みんな兵士が避けてくれる。――ところで、あいつらは何者ですか?」
「さあて、確かあの腕章、逓信省と国家保安省のものだったはずだ」
「だけどエッセを連れて行かなきゃいけないのは海軍省の人間でしたよね?」
「よく知ってたな。――『イ』から教えられたのか」
「はあ――って、前、前!」
男たちは手綱をさばき、まだ突き破られていないバリケードをピョンとひとまたぎした。――救急車には、あんな芸当は無理だ!
「捕まってて!」ビンディーはふいごを更に上下する。それに伴いバスン! という突き上げるような衝撃に襲われ、救急車は盛りがついたように加速した。
「突っ込む気か?」
「へーき、軍用のだから、丈夫にできてるはず……多分!」
「多分か? 多分! ンハッ!」スタンソが悪態をつく。
そのままビンディーはまっすぐ前を向き、長い眉毛を波打たせて有無を言わせず突入する!
「ぃいいっ!」ヤシュタットは情けない声を出してしまった。――しかし彼女の目利きは素晴らしく、馬が跳んだ、低くて薄くなっている箇所にぶつかり、元々家具だった障壁は粉々に砕け散った! ――ヤシュタットの頭上を、とがった木片が飛び越え、屋根のへりにぶつかると彼の頭にガンッと落ちてきた。
「ふう、間一髪だったね」ビンディーがひょうひょうと言う。ビンディーの口調は、心なしかフシーオと似てきた。
「ね、ビンディー……。頼むから君も親不孝なことだけはやめて。君だって君のお父さん、君しか家族がいないんでしょ?」
「わかってる、あたしはただエッセを助け出したい。ただそれだけ」
「ぼくだってそうだよ!」
「また捕まって! もう一度突っ込むから!」
「わあああぁっ!」野郎二人はまただらしない悲鳴を上げる。――新たに出現したバリケードがより厚いものだったからだけではない。最後尾を走っていた馬が怖気づいて手前で荷の足を踏んだ挙句、くるりと反転したからである。――衝突寸前、馬に乗っていた魔族の、肝をつぶした顔がくっきりと浮かぶ。それを見たヤシュタットも、きっと同じ顔をしていたのだろう。
「やっ……だっ……!」ビンディーはハンドルを左右に切って辛うじて回避し、そのままズドンとバリケードに激突する! 一旦ガオン! という衝撃につんのめり、車輪を何度も空回りさせて、強引に突っ切った。
……背後では馬の恐怖に満ちたいななきが響く。ヤシュタットの顔には飛び込んできた破片のせいで擦り傷、切り傷がたくさんできていた。スタンソも、運転をするビンディーも同じ状態である。
「こんな危ない乗り物が馬車に取って代わることはないだろうな」
「ぼ、ぼくも同感です……」
「え? そうかしら?」――傷とほこりにまみれた、くすんだ身体になったあとも、彼女は機械のことを信頼しているらしい。
「しっかし、このままではもうじき街を出てしまうな」
「はあ、それが何か?」スタンソとヤシュタットはようやく、この暴れん坊の乗り物に馴れた。――『イ』ならこうはいかなかっただろうな。
スタンソは話を続ける。
「おかしいとは思わんか? ――これだけしつこく追尾されているのに、我々を撒こうという行使がまったくない」
「行使?」
「つまり、武器を使用するとか、もっと有効な手段で足止めするとかだ。私はさっきしこたま殴られたが、ありゃあ挑発だ」
そんなことをされてしまったら甚だ困るのだが、
「確かに、なんだかおかしいですね。――まるでぼくらを導いているような」とヤシュタットは同意を示した。
「……だったらちょっと、ゆっくり走ってもいいかな……」
「えっ?」さっきまで好調に救急車を乗りまわしていたビンディーが、不意にしおらしい声を出した。
「どうした、散々無茶してきたのに。車の調子が悪いのか? 燃素切れか?」
「いや、ほら、――路が切れてるんだよ」
「はっ?」二人はどきりとして、先を見やる。
「――いや、先ではちゃんと、馬が走ってるじゃないか」
その通り、目の前では三頭の馬が走っている。追う者と追われるものはとっくに郊外に出て、操業を止めて一面真っ暗になっている工場地帯を突っ切る街道を疾走する。……星明かりと半月しかない闇夜の中でも、エッセの白い巡礼服は一輪の月下美人のようによく映えていた。
「――わかった、君、夜目が効かなくなってきたんだな!」
「ついでに耳も眉も効いてないよ……」
「そんな勿体ぶった言い方するな! 我々が運転を代わる!」吸血族なら夜間は真昼と同等だ。スタンソの眼の奥にある輝板がしかし彼女はハンドルを離さない。
「危ないよ! だから二人とも、私の眼の代わりになって――」そう言いかけた途端、進路に壊れた織機が放置されている! 「危ない、ひだりーッ!」ヤシュタットは絶叫する。ビンディーは辛うじてそれを避けた。……が、サスペンションが狂ったように、乗っている三人の身体を引き倒す! 痛い! 肩が、背中が!
救急車は何とか体勢を整えるが、前を行く三人の人さらいは、路地にひょいと入りこんだ。周囲に無造作・無節操にガス管が張り巡らされ、速度がまったく出せない。しかもそれにしょっちゅう車輪を取られ、フライパンの上で煎られる豆のようにポンポンと跳ねた。左右にもふらつき、無骨な煉瓦の壁にこする。その度に、その手綱を貸せというスタンソの怒号が飛ぶ。
追いかけてゆくほどに、ヤシュタットは、あの官吏が自分たちを誘い出しているということに対する確信を深めた。――そしてついに、それが実証された。三人の官吏、それにエッセを運んだたくましい馬たちは、納屋と思われる建物の上へ、まるで雌鹿のように跳び乗り、屋根伝いにどこかへ逃げてしまった。その動作は何か幻影を見せられているような光景だったが、ヤシュタットたちはここでようやく、袋小路に追い込まれたことに気付いた。ジャンムリオーンの街を照らしていたサーチライトと同じものが、彼らを不意打ちに照らす。ヤシュタットとフシーオは目がくらんで思わず細めた。
その隙に物陰から突撃銃を構えた黒ずくめの男たちが何人もあらわれ、三人の乗る救急車を取り囲んだ。目出し帽から覗く長い眉、銃身を隠す翼に生えた羽毛は茶色から黒に染め抜かれていた。
「両手を高く挙げ、そこから降りてこい」彼らの隊長らしき男が、ピピピという、口笛のような音と共に命じる。まずはスタンソが降り、次にヤシュタット、最後にビンディーが降りた。――彼らは別に手荒な手段に打って出る気はさらさらないようだったが、それでも銃口を降ろすことだけはしなかった。
三人は入念な身体検査をされ、フシーオの持っていたオータットの紋章も没収されてしまった。ヤシュタットはこれが禍根とならないことをただ祈るばかりだった。
三人が誘導されたところは大型機械を造る官営工場の敷地内だった。奥のシャッターが少しだけ開き、黄色い光がそこから漏れる。
「腕を挙げたまま、中へ行け――」このアルプの兵士たちは、工場の中に入るように指示した。
「それよりも、あの娘をさらってどうする気だ」
「行け!」スタンソの背中を、アルプ兵の一人が銃床で小突く。彼は渋々歩を進める。ヤシュタットとビンディーも彼の背中を追う。
煌々と光が点く、吹き抜けの工場内は、本来なら造った製品――隅っこに置かれている木箱の焼印から、ボルトやネジなど、汎用な金属製品を造っていたのだろう――を流通に流すまで置いていた所には長い簡素なテーブルが十列並べられ、その上には書類の山に、木枠に収められた得体の知れない機械が積まれていた。ビンディーなら垂涎の光景だが、あいにくヤシュタットは彼女の顔を伺えない。その隙間を、カーキ色した麻の服を着た魔族ヤコシュ・カムが慌ただしく歩いている。どうやらここは、この騒乱の対策室らしい。
「……お前はこっちだ」
「え?」ヤシュタットはスタンソと、ビンディーから離れ離れにさせられた。
「ジャスタさん!」二又に分けられ、ビンディーが彼の背中を追う。しかし身体を、すぐに前に向けられた。
「ぼくは大丈夫、大丈夫だから――」ヤシュタットはそう言ったが、ビンディーとは違い、右肩を銃床で思い切り打ちつけられた。思わずうめいてしまう。やはり無事では済みそうもなかった。