逢う魔が刻と砕けた卵殻
〈彼が出会った怪物――。目が四つに、闇を吐く口が四つ。病を播く鼻の穴が十二個。
――イーコ『聖水物語』〉
ヤシュタットたちは一度外に出て、階段を通ってスタンソ医師が仮眠室にしている二階の部屋に通された。ドアが開くと、プンと、強い煙草の臭いがベール越しにも感じられる。ヤシュタットは鼻腔が刺激され、思わずくしゃみする。この部屋も爆風を喰らったのか、窓には遮光用の黒いカーテンが貼られ、その上から元は本棚か何かだったらしき木の板が打ちつけられていた。
「外套は椅子に架けておきなさい。いつでも羽織って出られるように。――なにか食べるかね?」
「いや、もうお腹は膨れてます。それより彼女を横にさせてあげてください」
「ああ、ついでに君の怪我も見よう。……このアルプのお嬢さんは、どうしたのかね?」
「ただのヤケ酒です、よ……」ビンディーがリンゴのような顔色で言う。外の風に当たっていたため、少しはマシな具合にはなっていたが、とりあえず医師が仮眠していたベッドに横になった。傍らには水差しと背もたれのない椅子が置いてあり、エッセがちょこんと座った。
「ところでスタンソさん、なんでここに?」
「おいおい、聞きたいことが山のようにあるのは私の方だが、――まあいいか」彼は自分のあごをなでた。「私は若いころ、父の薦めで――まあ、家の体面を気にしての、半強制だったが――軍医をしていた。給料こそ良かったが、あまりよい環境の職場ではなかったから、三年程度でやめたがね。それでも予備役に籍を置いていたから、非常事態宣言が発令された折、招集されてここに配置された」
「ははあ」
「ここの惨状は、君らも見ただろう? ……宣言が出されて、ここが最前線としてある程度要塞化された後にあんな風になったんだ」
「被害はどれぐらい出ましたか?」
「本日の明朝からかけて、複数の建物が壊されて、市庁の第二庁舎に小学校、高級住宅……合わせて十五の建物が『溶かされ』た。正午を過ぎるとお次は暴動だ。『オータ義勇軍』を名乗る得体の知れない集団が湧き出して、軍と戦闘になった。――戦闘の技術は拙いが、射程の長い、良い武器をなぜか持っていてな、大昔の内戦に比べれば小競り合いの域だが、この医院に運び込まれているのはもっぱらこの戦闘の巻き添えになった民間人だ。彼らの先頭に立っていたのはみなヒト族で、狙撃されたか、味方の流れ弾に当たったかのどちらかで、全員死んだ」
倒れた家屋に居る人間は、きっと石材と一緒に溶かされてしまった……。その当然の思考の帰結に、ヤシュタットは身震いした。スタンソも同じことを考えていたのか、一旦言葉が詰まった。
「ジャンムリオーン以外の街の様子はいかがですか?」
「戦闘こそ起きていないが、タララやシャンバンハ、クルージオなどでは、市民による恐慌が発生しているらしい。内戦に備えて食料品の買い占め騒ぎが起きているところはまだ生易しい方で、特定の人物のリンチが起きたりで、警察隊が出動したりと、血生臭いことにはなっているそうだ。――血の臭いは嫌いじゃないが、銃剣で人の身体が引き裂かれているのは、頂けないな」『タララ』という言葉が出て、エッセとヤシュタットは視線を見合わせた。
一気に喋って疲れたのか、スタンソは隅に転がっていた、汚らしい椅子を引き寄せた。
「――さて、次は私が訊く番だ。『イ』はどうした? それと君の連れは? ……それと、このお嬢さんは……」
「ぼくたちシタ・サーブを出たあと、タララを経由して、そこの隠し運河を使って来たんです」
「シタ・サーブはともかく、なぜタララに?」
「おいおい説明します。そうだ、福血会から何か連絡は入っていませんか?」
「非常事態宣言が出されて、電信はおろか、郵便ですら〈親展〉が通用しなくなったんだ。だから福血会は各都市ごとに孤立した状態にある。この組織の最大の強みが封じられてしまったわけだから、手も足も出ん。――しかしシタ・サーブの話なら良く知っている。エスタリオ伯爵が殺害されて、彼の発明品が複数盗まれたり、破壊されたとか――」
それを聞いて、ビンディーは頭を浮かせた。
「あ、あたしの親父は無事なんですか? ひどい目に遭って、もう働けない身体になってたり……」
「ああ、アルプの職人が逮捕されて、その娘が逃走中だとは聞いていたが、君のことだったのか。――それと、事件にはどうやらヒト族が関わっているとも聞いたが……」彼の猫のような瞳が、ヤシュタットの方に向く。
「そっちはジャスタさんじゃないよ。あたしのヘマのせいで巻き込んじゃったけど――」
「彼女――ビンディーは、ぼくの名刺を家に置きっぱなしにしたんです。だけど全ての元凶は、フシーオなんです。少なくとも、シタ・サーブの事件については」
ヤシュタットはフシーオがエスタリオ伯爵について、そしてタララの暴動と、バフォメットの虐殺について話した。
「なるほど、彼は今まで二度、夜中に突然抜け出して、その翌日には騒乱が起きたわけか」
「はい。タララの粛清騒ぎも、彼が唆したに違いありません」
「しかしシタ・サーブもタララも、フシーオ単独で動いたとは思えないな」
「彼はぼくらより一足先にボートでタララを脱出しましたが、その時にはバフォメットを一人、お供に連れていました。それと、これは先ほどのことなんですが――」
ヤシュタットは自分たちよりも後に魔族とオタジア人の二人組がこの街に侵入したこと。その内の一人はフシーオと同じく、自分のことを勇者オータットだと言っていたことを話した。
「こんな騒ぎの中、その二人は市内に入れたみたいです。軍か政府の人間が関わっているんでしょうか?」
「うん、そういえば政府は陸軍省の権限を大幅に国家保安省に移している。軍に不穏な動きがあることは漠然と掴んでいるらしいな」
「しかし自称オータが何人も出るなんて、気色悪いことですね。仮に軍が噛んでいるとして、そんな奴らを使って、一体何がしたいのでしょう?」
「軍という組織の陰謀じゃないだろう。――もっと大きな存在か、あるいは小さな存在が腫瘍みたく、あちこちの組織から血管を引き込んで、手玉に取っているという感じだな」
「その〈存在〉ってなんですか?」
「さーて、宰相殿下が内戦を終わらせたときには、秘密裏に多くの諸侯国内部にコネを造って、手引きしたという話はあるが――」
「宰相? だけどフシーオは外国人ですよ? それに宰相って、今でもこの国の指導者なんでしょう?」
「ああ、そんな大人物がそんな廻りくどい、しかもこんな杜撰な計画を実行する理由も目的もない。――むしろ反乱は、宰相殿下のつくった警察機構に、次々と絡め捕られて収束していっている」
「フシーオやぼくが見た、もう一人の勇者は、これから何をするつもりなのでしょう?」
スタンソは軽く頭を抱えた。
「さーてなあ。ま、でももう逢う魔が刻は過ぎた。悪事をこなすには丁度いい時節を損なったわけだ。それに、軍備ではなく反乱の首謀者を逐次投入するなんて、古今東西聞いたことがない。あちらさんにとっては、どうせ、負け戦さ」
「そうか、そうですか、――そうですね」ヤシュタットの声はうわずった。「でもフシーオはそのことを理解しているのでしょうか?」
スタンソは答えず、内ポケットに入ったシガレットケースを探すが、エッセを見てその指を離した。小さく咳払いする。
ヤシュタットの額の傷は、スタンソに三針縫ってもらって収まった。その塞がった傷口の上からさらに包帯でぐるぐる巻きにして、吸血族の仮装から、戦闘に巻き込まれた一般市民に着替えた。
それから二、三時間もすると、ビンディーの酔いはある程度よくなり、頭痛を抱えながらもベッドから起きあがった――代わりにエッセが、脚の矯正具をはずされて、ベッドに寝かされる――そして彼女は食事の続きを希望した。ヤシュタットは『イ』が用意してくれた食料を再び広げる。
「これも『イ』が準備してくれたんですよ」
「そういえばあの娘、どうしてるんだ?」
「はあ、タララのトン族の頭に担がれて、駐留してきた陸軍との交渉役をするっていってました」
「あの子が『交渉役』だって? そりゃあ無茶だなあ!」スタンソは膝を叩いた。
「そうかな? あたし、どうして二人が面白がるのかわかんないよ」
「あの子はああ見えて喧嘩っ早くてね、彼と知り合ったときなんか――」
「もうそれはやめましょう。なんで怒ったのか、理由を教えてもらいましたから」
「ほう? それは――」と、スタンソが興味深かげに身を乗り出した時、外から木板を突き通って太鼓のようなタタタ……という音が響く。瞬間、彼の表情が真顔になった。
「始まったな。――予想よりも遅かったが、私の出番が来たらしい」彼はいそいそと立ち上がり、颯爽とドアへ向かう。
「私は一階にいるが、君たちはここにいなさい。――いいか、絶対に外に出ようなんて考えないでくれよ」彼は賢明な忠告を残した。
ヤシュタットはなんだか心細くなってしまい、椅子を掴んでビンディーのそばによる。
「ここはちゃんと燃素灯が点いてるね。――タララとは大違いだ」
「そうだね……」彼女も天井をちらりと見た。「『イ』さんは大丈夫かな。――そう簡単にはあの蒸気機関は直せないとおもうけど、また誰かトンの人がひどい目に遭ってなけりゃいいけど」
「もしそんなことが続いていたら、彼女のことだ、実力行使で鉱石の供給を停めるよ」
「ってことは、この明かりが点いているうちは、『イ』さんは無事ってことだね」
外では銃撃戦がまた始まった。ヤシュタットとビンディーは無言で見つめ合い、息を潜めて事の成り行きを見守った。
……ブゥン! と、お次に響いたのは空気が膨張し、弾けるような音だった。ヤシュタットが暮らすコバトではよく、軍艦が礼砲を放つが、それとは明らかに異質な衝撃だった。しかもそれに続いて、ズズズ……という、底が抜けるような地鳴りが到達する。燃素灯が、ぶすぶすと一瞬弱まった。二人は思わず、ユサユサと揺れる照明をじっと見つめてしまった。
「……ジャスタさん、あたしもちょっと〈お化粧〉したくなっちゃったから」
「あ、うん」
ビンディーは立ちあがり、足音をたてずに部屋から出て行く。
ヤシュタットはしばらくエッセの寝顔を見つめていたが、近くでまた地鳴りがすると、彼女はぱっちり目を覚ました。ヤシュタットの方を見る。
「ジャスタ」
「ん?」
「おねえちゃん、帰ってきた?」
「あー『イ』は歩きだからね。そう簡単にはここに来れないよ」
「おばかね、羽根のおねえちゃんのことをいってるの」いつの間にかこんな小生意気なことを言うようになったのか――。しかしオンナノコがこういう口ぶりをするのは、本来ならもっと早い時期のはずだ。
「ああ、うん、確かに遅いね」もう一発爆発の衝撃が届く。それに伴って、ヤシュタットの心の中に、嫌な予感がふつふつと沸き立つ。
「……まさか」ヤシュタットは扉をおもむろに開けた。階段はさらに上へ続いているが、そこには割れたまま放置されていた窓がある。――トイレに向かい、ノックしても誰もいない。そしてドアには鍵が掛かっておらず、中には誰もいなかった。――そもそも中は外から飛び込んできた瓦礫が散乱し、とても使用できる状態ではなかったのである。割れた窓には一枚、茶色い羽根が抜け落ちていた。
ヤシュタットはたまに、賢明的――というより打算的すぎる自分が嫌になることがある。外は戦場であり、スタンソはじきにやって来る負傷者のために、医官として闘い、ビンディーはきっと、フシーオを見つけるために飛び立っていった。そんな中、自分は一人、医師の忠告通り、エッセと共に小さな小部屋で、息を潜めていることを選んだのである。
……だって、しょうがないじゃないか。ビンディーを連れ戻すにも戦いの素人が武器もなく飛び出していったところでしょうがないし、医療の知識がない自分は、スタンソさんの手伝いもできない。そもそもヒト族がこの騒擾をアジっている以上、自分が飛びだしたら逮捕されるか、袋叩きされるのがおちだ。ここで、『イ』との約束を愚直に果たしているのが正しい行動だ。このことをだれも咎めることはない。――しかし無力感でいっぱいだった。フシーオが自分たちと別れたときの、あの勝ち誇ったような顔が忘れられない。
二人はベッドに腰を降ろし、ドアの方を見つめている。
「……ねえ、エッセ。二人っきりになったとき、『イ』のお姉ちゃんは何をしてくれた?」
「んーとね、おはなしを、たくさんおしえてくれたよ」そう言うと、ホードガレイアの叙事詩をとうとうと暗誦し始めた。ヤシュタットはそれにしばらく耳を傾けていたが「ぼくもオタジアの古いお話を憶えていたらよかったんだけどな……」と頭を抱えた。
「――そうだ、あの本」ヤシュタットは今一度、『イ』の父親が書いた〈オータ伝説小論〉を見比べてみることにした。初版から二版になるときに削られたページを見つけるために。
初版の目次をめくると、おかしな点はすぐに見つかった。
「第一章『オータ以前のホードガレイ王国の世相』……」自分の持つ二版にはこの章はない。まるごと削除され、全ての章の番号が繰り上がっている。喉が渇くのを感じながら、その章を読む。――少し近いところで、また銃声がした。
「……一般に、オータ到来によってこの国の黄金時代が一挙に破壊されたという認識が、数年前まで続いた大空位時代によって熟成されたが、この認識は改めなければならない……」それは、オータットが上陸する前の、繁栄のあまり増長し、腐敗と荒廃の極みに達したホードガレイ社会が描かれていた。特にオータ上陸の五年前から干ばつによる飢饉が頻発し、国民の不満が膨れ上がっていたにもかかわらず、国は海外の領土を拡大することにばかり執着し、その植民地経営ですら武力にしか頼るものがないという杜撰なものだった。――そこには彼が二版の本で描いた、全ての民族が調和する世界といったものとは程遠く、この章があるのとないのとでは、本が訴えるメッセージが大きくゆがめられてしまうのだった。
とくに章の後半では、王族――とくに名君とされたコスジオン沈黙王とその周辺人物の凋落ぶりについて書かれていた。海外との交易が盛んになるに伴い、海から遠く離れたダルダシオーンの影響力は相対的に下がっていき、それが後の群雄割拠時代の元になった。当時の王族たちの貧窮ぶりはすさまじく、それでも権威を維持するために庶民が捨てた生ごみを食卓に飾っていたというから凄まじい。少しでも窮乏を補填するために、どこの馬の骨ともわからない、やくざまがいの連中と婚姻を結び、その生活は精神面でも荒んだ。そんな中生まれたのが沈黙王だった。
彼はおとなしい性格であり、皇太子時代から、周囲にたむろする、アクの強い性格の成り上がりたちと全くそりが合わなかった。しかもそれが曲がりなりにも親族である上、寡黙で政治的発言を控える彼を利用しようと、片時も側を離れない。即位する直前には王の精神はすっかり病みきってしまった。彼は心労のあまり、国教と土着の宗教が融合した怪しい呪術に傾倒するようになり、当時に建造された宗教施設にはその意匠を見ることが出来る。そもそもダルダシオーンは、そんな沈黙王のオカルト趣味に乗っ取って都市が改造されたという。
彼に政治的能力は皆無であったが、それでも名君と崇められたのは、ただ国の景気が良かったおかげである。庶民は自分の生活水準さえ良くなれば、国の棟梁がいかに無能であろうと、一向に構わないのだ。
ひょっとしたらこの王こそオータットの到来を望み、さらには彼の王都侵入を手引きした人物なのかもしれない。しかしこれは著者の推測にすぎないので、さらなる客観的調査が必要だ――と、『イ』の父親は章の末尾を結んでいた。
「ジャスタ?」
「うん?」はっと顔を上げた。
「ジャスタもおしっこ?」
「あ、いや、ぼくは大丈夫」……読み切ったとき、よほど深刻な表情をしていたに違いない。この章は、名君と呼ばれていた王の品位を傷つけたとして削除されたのだろう。――ヤシュタットは、この章からとんでもないことを示唆されたようで、危うく飲み残していた酒瓶に手が伸びるところだった。
外から、今まで聞いたことのない、じゃりじゃりという音がした。馬車が石ころを蹴飛ばしながら走る音に似ていたが、どういうわけか蹄の音がしない。
「羽根のおねえちゃん、帰ってきた!」
「えっ?」
「ホントだよ、おねえちゃんの声がするよ」
その直後、階段をあちこちにぶつかりながら駆け上がる、複数人の足音が響き、ドアがガンガンと叩かれた。
「開けてくれ、負傷者がいっぱいすぎて、ここを使うしかないんだ!」スタンソの声だ。
「手が塞がってるの、早く!」ビンディーの声もする! ヤシュタットは慌ててドアを引いた。
スタンソとビンディーは、ヒト族の両手と両足を担いでいた。……それは、フシーオの身体だった。