表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

王都へ ――別れと再会

〈折角の(運河を掘ろうとの)言いだしっぺなのに、最後は人柱にされたなんてね。

――騎馬川上流に残る民話から〉


「フシーオさんの持ってた銃なんだけどね――」恐ろしい沈黙の中、ビンディーが堰を切って話し出したため、ヤシュタットは金縛りから解き放たれた。

「銃がなんだって?」

「あれね、本当は銃じゃないんだよ。伯爵のおじさんが親父と一緒に発明していた、燃素抽出を利用した工具なの」

「工具?」

 ビンディーはペタンと座りこむ。

「おじさんは燃素の電気抽出を応用して、金属の一部分だけをドロドロに溶かす技術を発明してたの。それを使うと、もう鋲打ちに頼らずに金属同士をくっつけることができるようになる。――そうすると手間も材料費も節約して、丈夫な製品を造れるようになる」

「便利だね」

「だけど未完成でね、フシーオさんが使ったみたいに、一瞬だけ高熱にさせて大穴を開けるばかりでさ。小さくて使い物になるのができるのは何年も先の話だって」

「ふーん。……あ、技科大学から盗まれた機械って、ひょっとして!」

 ビンディーはスンスンと鼻をすすりながらうなずく。

「伯爵のおじさん、他にも色んな発明してたから、フシーオさん、あれ以外にも危ない機械を盗み出してたのかも……」

 ヤシュタットは深くため息をついて、頭をかく。危うく包帯をはずしてしまうところだった。

 ヤシュタットの脳裏には、様々な憤りと疑問が渦巻いていた。しかしそれがどうしても整理できない。重い心境だったが、そんな思考の行きどまりを、何かがぶち破る音がする。

 ――バリン、ズッ、ズズズズ……

 それは頭の中に響くものではなく、坑道に充満するものだと気付いた。

「ジャスタさん、この音って、ひょっとして……」

「うん……」

 ズガン! と、木切れを叩き折る音がした。そしてこの船着き場に、予想通り彼らにとって見慣れた顔が――こめかみにバツ印のガーゼを貼っていることを無視すれば――躍り出た。

「本当に運河があった……」『イ』は他人事のようにつぶやく。後ろにはあの少年と、エッセが隠れていた。――更に後ろには、トン族の、人、人、人……。

「よ、よくわかったねここが」

「ここに住んでる人たちに、虱潰しに訊いたわ。――『おしゃべりな娘だ』ってあきれられたけど。最後は吹き抜ける風を頼りに。

 そんなことよりね、とうとう陸軍が到着したの。早く逃げないと」

「『イ』、ぼくらも君に、教えておかなきゃならないことがあるんだ」ヤシュタットとフシーオは、自分が見たもの、聴いたものを、なるたけ端折らず、かつ正確に伝えた。――たくさんのバフォメットの死、残された親子四人、そしてフシーオの出奔……。『イ』は相変わらず聴き上手だった。

「フシーオくんは、自分のことを勇者オータと言った――、うん」彼女は唇に手を当て、思案する。「父の本に何かヒントがあるかもしれないから、よく読んでおかないと。でも今はそれどころじゃない。あなたたち二人はこの街から脱出しないとね。……この小舟でダルダションまで行けるの?」

「うん、多分ね。ちょっとボイラーに水を入れて、あっためないといけないけど」

「じゃあ、急がないと」

『イ』はひかえていたトンの娘――彼女よりも一回り若い――に何か言うと、娘は手際よくボートの一つをひっくり返し、水路に投げ込んだ。水しぶきが上がり、さざ波が人並み、ヤシュタットの足元にまで届く。ビンディーがそれに乗りこむと、早速配管の中に手漕ぎポンプで水を注入していく。

「うん、燃料もあるし、櫂もある。何とかなりそうだね」

『イ』は両手に持っていたリュックを二つ、ヤシュタットに押し付けた。

「さ、これ、荷物――。ビンディーのは私の荷物から適当に見繕っておいたから。包帯とかも入ってるよ」

「うん、ありがとう。――え?」

「え?」エッセとヤシュタットは、同時につぶやいてしまった。

「君は一緒に来ないのか? なんでだよ、ここまで一緒に来たじゃないか!」

「私も時間がないから、手短に話すね。私がこの街に残る理由、まずはここの人たちが私を必要としているから。陸軍の人たちと穏便に話を進められるのは、ホードガレイアが使えるあたしだけだから」

「君が? 穏便に?」

『イ』は苦笑する。

「ここの人たちは私と違ってまだまだ従順すぎるから、とりあえずのリーダーが必要なの。手だけは出さないように気をつける。父と母が見捨てた故郷を、その娘まで見捨てるなんて、夢見が悪いでしょ?

 それともう一つの理由は、もう乗り物はこりごりだから。それにこの船に乗ったら重さで沈んじゃう」そう言い終えると、彼女は周囲をキョロキョロと見回した。

「――さ、エッセ」少女は『イ』の背中で、巧みに視線を避けていたが、とうとう肩を掴まれてヤシュタットの前に出されてしまった。

「この子にあなたが言葉を教えてあげて。ノートとペンも入っているから」

「ねえ、この子はここで、君と一緒に居た方がいいんじゃないか?」

「私だってこの子と一緒に居たいよ。だけど……」

「だけど?」

『イ』はそこで口をつぐむ。

「とにかく、時間がないの。この子を無事に、ダルダションに連れていって」彼女はエッセの背中を押した。しかし、エッセはまるでトン族のように、口をへの字にしてその場から動かない。

「――わかった、エッセ」

「え? 一緒にいられるの?」彼女は一瞬、目を輝かせたが、『イ』はかぶりを振る。

「一緒には行けないけど、絶対に、絶対あなたに追いついてみせるから。少しの間、ヤシュタットと仲良くしてて頂戴。私と約束して」

「その約束、本当?」

「破ったら私のこと、大嫌いになってもいいよ?」『イ』はしゃがんで、握りこぶしをエッセの眼の前に出す。二つのこぶしをこつんとぶつける、子供の約束の儀式だった。

『イ』が立ちあがると、彼女の背をトン族の男がつつく。彼はどういうわけか、底に穴の空いた鉄鍋を被っていた。

「私はもう行かないと。この船着き場もしばらく隠さないとね。――船の準備はどう?」

「こっちはバッチシ、いつでも出発できるよ」ともについたポンプが冷たい水路の水をくみ上げ、それを温水にし、勢いよく後ろに噴き出して、それを推進力にしてこの舟は進む。

『イ』はビンディーの声を聞くと、エッセの両脇を抱え、彼女をそのポンポン・ボートに載せた。

「絶対の、絶対だよ?」

「わかってる、絶対の、絶対だから」二人の大きい瞳が、水面のように潤んでさざめいていた。

「さ、もう行きなさい。――出して」

 ビンディーがポンプを動かし、ヤシュタットがフシーオと同じく足で岸を突き放す。エッセは小さな手の平で『イ』たちに手を振っていた。

「……あ、ビンディー! 私、あなたに教えておかなくちゃならないことがあった!」

 不意に『イ』が、規格外な大声を出す。驚いてビンディーはポンプを止めるが、小舟は流れに乗って、加速度を増していく。

「なんだ、どうした!」

「あなた、馬鹿なんかじゃないよ。あなたのは多分失読症――ちゃんと治す方法があるから!」

「ええっ、それ本当? ――私てっきり、全部自分の馬鹿のせいだと――」小舟は半分、トンネルに突っ込んだ。ビンディーは舟のともに駆け寄る。

「本当に馬鹿な人は、道化なんてできないから――」『イ』がそう言った直後、ビンディーはアーチの天井に頭をぶつけた。


 小舟はしばらく幽暗の中を、ボボボボ……と、うなりをあげながら泳いでいった。三人は心細げに身を寄せ、何も言わない。時々ビンディーが頭のこぶを恐る恐るなで、「いてっ」と呻くぐらいだ。明かりはポンプの燃料が出す小さな光しかない。視覚が遮られた状態だと親近感が沸くというが、今のところ、効果のほどはわからない。

 水路の底には砂がたまっているらしく、時々船底をこする。……その音は少しずつ高くなってきた。水の流れが速くなってきた。三人の身体が傾いで、舟も小刻みに揺れる。

 ヤシュタットは中腰になり、先をみた――。

「出口が――」先にはオレンジの光が、小さく輝いていた。それが夕焼けだった。トンネルはもう一度傾きを正し、大空間に出る。

 三人の乗ったボートは、大河川と合流した。

「ここはどこだ? この先は何があるんだろう?」

「ええとね、ここは多分騎馬川だよ。ここをまっすぐ進むとダルダション手前にあるジャンミュリョンに着くんだ。巡礼路にある、最後の宿場町だよ」ジャンミュリョンを、オタジア風に発音すれば、ジャンムリオーンだ。勇者オータットが王都に接近した時、最後の防衛線が築かれたところだ。

「地図はないかな」

「ああ、ぼくのカバンにあるよ」ビンディーはヤシュタットから渡された地図を広げ、じっとみつめた。

「……だめだ、気持ち悪くなってきた」ビンディーはへたりこむ。「一字も頭に入ってこないんだもん」

「舟の上で、しかもこんな薄暗がりで読もうとするからだよ」

「そう? でもあたし、字が読めるようになるとは全然思えないんだよね」しかしビンディーは、あなたは馬鹿じゃない、と言ってもらったのは素直に嬉しかった、とも付け足した。

 ヤシュタットは地図を受け取り、中身に目を落とす。字を読むのは至難のわざだったが、予備知識に照らし合わせて、内容を頭に叩きこむ。

「一度この河と合流したあとは、ジャンムリオーンにまで進んで……、うん、そこからはまた隠し水路が通っているみたいだ」

 その水路の末端は【至ダルダション】と書いてあった。勇者オータットもかつて、この水路を通って王都に侵入したのだろうか。

「ねージャスター。お腹すいた。それにおしっこ」思いにふけっていると、エッセが袖をひいた。そういえば、朝食以来、何も食べていない。

「私もまたあれこれ動いて、お腹が空いたよ。何か入ってないかなあ……」ビンディーは『イ』から預けられた彼女の荷袋を開いた。着替えが最小限の枚数と、防光服が二着畳んであり、それを傍らに置くと、底には果実酒の瓶に、革製の水筒、それにチーズ、黒パン、干し肉が新聞紙にくるんで詰まっていた。

「わあ、すごい」

 ヤシュタットも荷物を開ける。ヤシュタットの荷物にも、彼の私物と一緒に、同じく日持ちする食料が入ってた。――いや、それだけではなかった。

「なにそれ、おんなじ本だね」

『イ』はヤシュタットに、父の形見と言える本を託していた。ヤシュタットはその、彼のそれよりも、ずっと読みこまれ、くたびれた表紙を見つめた。

「……どこか休めるところで舟を留めよう。それまでちょっと我慢しててね」

 ヤシュタットはエッセに言い聞かせ、手持ちの簡易ランプに火を点けた。

 舟は一度ガリガリという不吉な音を立てて、川面を滑るように進む。水路から流れてきた土混じりの茶色い水と、遠く黄土山脈から流れてきた黒い水が、長い時間をかけて少しずつ混じり合ってゆく。

 ヤシュタットは櫓を操って岸辺に近付き、堤防の上を観察する。そこには乾燥に強いザワクルミの木が等間隔で植えられていた。

「ジャスタさん、みてみて、街の灯だよ、灯!」陽はとっぷりと沈み、空は一面群青色だった。そんな中、シタ・サーブやコバトよりもひかえ目だが、黄色い光が天を目指して昇っていく。夜目が効かないせいか、それとも都会っ子の性分か、ビンディーは近づく夜の街に、安心と興奮を同時に味わっているらしかった。

「でも、いきなりあそこに突っ込んでいくわけにはいかないよ。腹ごしらえしてから街の様子を探ろう」

 幸いにも岸辺には漁師が使う小舟がいくつも泊められていた。その中に潜り込めば、少なくともすぐに発見されることはなさそうだ。

「ポンプの火は消さなくていいよ。何かあったらすぐに逃げられるようにしないと」

「うん」

「それじゃあまず、エッセちゃんを連れてくね」ビンディーはエッセの手を取り、水音の反響を頼りに船着き場へ降りた。

「あんまり遠くに行かないでよ」

「うん、ジャスタさんも覗かないでね」嫌な肘鉄砲だった。

 ヤシュタットは、食事には手をつけず、『イ』の本と自分の本とを見比べた。出版年を見ると、彼女のは初版本で、ヤシュタットのものは第二版だった。――ページ数が、第二版の方は二十ページ分だけ減っている。その部分が気になり、ヤシュタットは初版本をめくっていった。

 かさりと、紙が二枚こぼれ、膝の上に落ちた。一枚目はエッセがハイヤの自由学校前に捨てられていたときに添えられていた例の手紙であった。ヤシュタットはそれをランプの光に照らして黙読する。……これがスタンソと『イ』がダルダシオーンを目指す理由か。

 しかし随分と薄気味の悪い内容だ。エッセを一人の人格ではなく、ボードゲームの一駒のように扱っている。

 もう一枚の紙は、『イ』からの手紙――ノートの切れ端――だった。走り書きだが、一語一語、必要な言葉だけが並べられた、タイプライター文のように几帳面な文だった。

 それには、『イ』なりの、エッセの出自が書かれていた。曰く、彼女は政府――陸軍とか、保安省とか、そういう大人たちの駆け引きに巻き込まれたのだという。あの子の足が悪いのは、そんな切り札にするため、ずっと監禁されていたせい(コルドラン先生の診たて)。

 だけどこの子そのものの出自はまだわからない。父親も母親も不明。自分が何者かわからないことほど不幸なことはないし、勝手な都合で眼をふさがれていることも同じぐらい不幸。だからわたしたちはこの子をダルダションに連れて行くことにした。それに、国家権力がこの子に関わっている以上この子をハイヤに置いておくわけにはいかないし、この「ゴタク」という人物以外には存在を秘匿しておくべきだとも考えた。

 だからあなたも、反乱者だけでなく保安省、逓信省、陸軍省にはくれぐれも気を付けて。――それからもちろん、このゴタクと言う人物も信頼できない人である可能性が高いから、慎重に動いて。追伸、無関係なあなたをこんな危険な旅に付き合わせてごめんなさい。だけど、私を殴ってもしかたないから、あなたを引き込んだコルドラン先生に一発お見舞いしてあげたらどうかしら? ――だそうだ。

 ヤシュタットは手紙を折りたたみ、再び本に挟みこんだ。『イ』もスタンソ先生も、殴り飛ばすわけにはいかなかった。フシーオが突如――いや、前々から計画していたことなのだろうが、「自分は勇者オータットだ」と言いだし、自分がシタ・サーブの混乱を引き起こし、ビンディーが父親と引き離し、タララ家の住人を大勢殺したのだ。自分はあいつを止められたはずだ、という思いと、あいつの陽気な雰囲気とのギャップによる混乱で、目の前にあるランプの光がにじむ。

 ――人恋しさが爆発する前に、エッセとビンディーは戻ってきた。小舟がもう一度、ごとんと傾ぐ。

「ジャスタさん、どしたの?」

「いや、なんでもないよ」彼は慌てて本を隠す。「――ねえ、君はフシーオのことをどう思う? あいつのせいで君は故郷を追われることになったんだし、君のお父さんだって……」

「なによ藪から棒に――」彼女はパンに手を伸ばし、指先で表面をなぞると、そのなぞった跡沿いに、それは綺麗に三等分された。それをエッセとヤシュタットに分ける。

 さてそのパンをほおばりながら、彼女は思いを巡らせた。

「……お廻りから逃げてる私を助けてくれたのは、あの人だから」

「いやでも、全ての元凶はあいつだろう?」

「それはそうなんだけどさ。――お酒貰ってもいい?」彼女は酒瓶を取り上げ、栓を引き抜いた。ガスが抜ける音がする。そしてそのまま豪快にラッパ飲みした。職人らしい飲み方だと思った。

「酸っぱいけど甘くておいしいね。……はい、ジャスタさんも」

「あ、うん」ヤシュタットも中身を傾けて飲む。「――ぼくはあいつよりも、自分が悔しいんだ。あいつが馬鹿なことをしでかす前に、止める機会はいくらでもあったはずなのに……。そもそもこの旅の言いだしっぺはあいつなんだ。ぼくですら、何らかの形で、君と同じく利用されてたというわけで、今はそれを突き止めないと、もっと大きな罠が――」

「う、うう~ん……」ビンディーは呻いて、ヤシュタットの話をぶった切った。

「? どうしたの?」

 エッセが心配げに顔を覗き込む。

「まっ赤になってるよ、かお」

「あ、本当だ……」

「ごめん、あたしお酒、初めて飲んだの」

「ええっ!」

「酔うってこういうことなんだね。こりゃあ仕事に差し障るはずだよ」

「とりあえず横になった方がいいよ。水を飲めば良かったのに――」

 ヤシュタットは水筒を渡す。彼女は中身の半分を飲んだ。

「飲むと失恋に効くってどこかで聞いたことがあったから……」

「なにいってんのさ」

 ビンディーははずりずりと沈んでゆく。

「仕方ない、しばらく眠らせてあげよう。エッセ、こっちにおいで」

「あたしもそれ飲みたい」エッセは深い琥珀色の瓶を指差す。

「馬鹿言わないで、ほら、お姉ちゃんに毛布かけてあげよう」正しくは毛布ではなく外套であるが、エッセはよそ見をして、お尻にビンディーの防光服を敷いているのもお構いなしだ。

 やっぱり『イ』のようにはいかないな――と思ったが、しばらくするとヤシュタットは、エッセの態度は決して自分に対して反抗しているのではなく、上流から聞こえる物音に気を取られているのだと気付いた。それはざぁっ、ざあっと、規則正しい音で、こちらに近づいてくる。――誰かが舟を漕いでいる音だ。

「エッセ、隠れて!」ヤシュタットは彼女をうつぶせると、大急ぎでポンプを止め――バルブを絞ると、火はブシュッと、酒瓶を開けたのと似た音を立てて消えた――ついでランプも消した。

 相手のボートはのんびりのんびりと接近する。ヤシュタットはビンディーとエッセに覆いかぶさり、息を殺す。水面を掻く音はすっかり近くなり、ヤシュタットの鼓動も大きく、速くなる。かのボートは通り過ぎるのではなく、よりによってこの船着き場に接岸した。

 二本の櫂が引き上げられ、一人がぴょんと上陸する。舟を縄で固定しているのか、少しの間隔が生じた後、もう一人が上陸した足音がする。二人連れとわかり、ヤシュタットは

(……まさか、フシーオ?)と思い、こっそり顔を上げる。先回りしてしまったのだろうか。

 ……しかしそこに居たのは、一人のヒト族と、魔族の男たちだった。ヒト族はフシーオではなく、中肉中背の、頭の剥げかけた中年の男だった。気取ったなまず髭を生やし、ふんぞり返っている。もう一人の魔族は、彼と同じ年格好だったが、引き締まった身体をしていて、まるで軍人のようだった。

「いやはや、成る程確かに川を使えば、いとも容易に街へ進入できるのだな」その言葉はオタジア語だった。「実にすばらしい。――勇者オータットの凱旋のため、何もかも手筈は整っているのか」

(なんだって?)――勇者オータット?

「これからの予定も、すべて準備が整っております。あとは勇者どのがおいで下されば……」

「うむ、すぐに参ろう。新たな時代の息吹を、すぐにこのホードガレイに吹きこまなければ」男は上機嫌だった。態度は尊大だが、所々に貴人が使わない発音が混じり、成り金のような印象を与えていた。

「ささ勇者どの、こちらへ。――馬車を手配しております」

「うむ、見事な計らいだ。王都を陥落させれば、君にはそれ相応の地位をやろう。今から楽しみにしておいてくれたまえ」

 男はふんぞり返って言うが、魔族は静かに笑うだけだ。……彼らはヤシュタットたちの伏せる舟には眼もくれず、前を横切って階段を登っていった。

 ――気配が完全になくなったあと、ヤシュタットは顔をあげた。

「あの男、自分のことを『勇者』だとおもってる……?」彼といいフシーオといい、ヒト族の間ではこの手の誇大妄想が流行しているのだろうか。しかし、あの中年には魔族がつき、フシーオにはバフォメットがいた。彼らを裏で操っているもの――組織が存在するのは明らかだ。

 頭上でカラカラカラ……という、車輪の音がする。ヤシュタットはボートから降りた。これは完全に勘だが、フシーオの裏で糸を引く存在と、エッセをダルダシオーンに連れてくるように仕向けた存在が同一のものに思えて、仕方がなかったのだ。

「――ジャスタさん?」ビンディーが無理に身体を起こす。エッセももぐらのように、身を乗り出した。

「まだ寝てていいよ。――ていうか、悪酔いはずっと尾をひくんだ」

「さっきの人たち、なんて言ってたの?」

ヤシュタットは説明しかねた。

「――もう一人、勇者かぶれの人間が出たってことだよ」

「……なにそれ」

「とにかく変な話なんだけど、ぼくはあの人たちを追いかけたいと思うんだ。だからエッセをちょっと見ていてくれないか?」

「あたしも行くよ。――あたしなら高い所に登れるから」

「無理しないでよ」

「それにここは暗くていやだよ。全部の男がジャスタさんみたいにお人よしってわけじゃないんだから、そばで守っておくれよ」彼女は甘ったるい声を出した。悪酔いでも酔いのうちらしい。それで結局、彼女のわがままを呑んでしまうのがヤシュタットだった。

「わかった。――福血会の事務所か、巡礼協会もついでに探そう。歓迎してくれる保証はないけど」

 ビンディーは手早く荷物をまとめ、それを担ごうとしたが、転倒しそうになり、ヤシュタットは慌てて彼女の手を取り、自分の元へ引き寄せた。平衡感覚のよいアルプでは異例の鈍さだった。

「やっぱり休んでいた方が――」しかし彼女は頑なで、激しく首を横に振る。顔は相変わらず、薄暗がりの中でも映えるほど赤い。

 ヤシュタットはまた吸血族に仮装する。

「エッセ、今は君がビンディーのお姉ちゃんだからね。一緒に居てあげるんだよ」彼はそう言い含めて、彼女の右手を握った。カサカサと皮膜が腕にかかる。エッセは空いた自分の左手でビンディーの腕につかまる。そしてヤシュタットは二人を牽引して、あの自称勇者が通った階段を登る。

 街路に顔が出る前に警戒して、一度立ち止まる――。まだ宵の口だというのに、人影がない。そして当然だが、すでに馬車もない。ジャンミュリョンの街並みはシタ・サーブとよく似ていたが、いささか実利重視というか、頑丈だけが取り柄な建物ばかりに見えた。全ての窓に鉄格子がはめられているのである。路も歩道と馬車道が分離されていて、わだちが出来ていた。

 異彩を放つのは、ここだけではなかった。――しかも、それはこの街が持つ本来の姿ではない。三人がこそこそと辻に踏み込むと、あちこちに人の背丈ほどのバリケードが築かれ、交通を遮断しているのだ。周囲の店舗や家屋から接収した家財を野積みしたらしく、まるで街全体が火事で焼け出されたかのようだ。そんな中でも街灯だけは煌々と焚かれているので、常時と非常時が盛んに力比べをしているような雰囲気だった。

「ジャスタさん、人の気配がする……」ビンディーがボソッとつぶやく。「バリケードの裏に、いっぱいいるんだよ」

「兵隊……?」

「多分ね、靴の鋲がカチカチ鳴ってるもの」

 ヤシュタットは三つの進行方向を見比べた。わかりやすいことに、先ほどの馬車が通過したであろう馬車道だけは簡素な門があるだけだった。あそこをつたって行けば追跡が可能だが、あそこにも一名、人の気配があるという。

「――そうだ、いちかばちか、自分たちの立場を利用できるかもしれない」

「え?」

「ちょっと二人を危険な目に合わせるかもしれないけど……」

「危ないことならシタ・サーブでもタララでもしたから、今更気を使わなくていいよ。水臭い」ビンディーは力なさげに微笑む。

「ありがとう。それじゃああそこまで行くよ――」ヤシュタットは指を示して、路を横切ることを合図した。彼はエッセの足音がカタカタ鳴らないように、彼女をおんぶした。


「あのう、どなたかいらっしゃいませんか?」

門を越えて、そう声を掛けられた兵士は、大儀そうに腰を上げ、門の隙間から三人を見た。ライフル銃はしっかり持ち、離さない。

「誰だ? ここは軍用車しか通しちゃならねえんだぞ?」無精ひげを生やした、魔族の男だった。なんだか酒臭い。

「我々は巡礼者です。先ほどジャンム――ジャンミュリョンについたのですが、このようにバリケードだらけなので入れないのです」

「巡礼者? 巡礼は取りやめになっているのを、貴様ら知らなかったのか?」怪訝そうにいう。

「えっ、そうなのですか? 知りませんでした。――この旅の仲間が途中で体調を崩し、親切な方の元に数日身を寄せていたので。……一体、何があったのですか?」

「おれから話せることは何もねえよ。街の奴らに効いたらどうだ?」彼はぎいっと門を開け、三人を中に導いた。

「ありがとうございます。――彼女はまだ体調が芳しくないので、どこかお医者様にみせたいのです」

 兵士は三人をまじまじと見つめていた。

「今は医者は引っ張りだこだよ。よその街からも人を呼んでいるくらいだ」

「そんなにここの状況は悪いんですか」

「ここは静かなもんだがな。昼間なんてひどかったぜ。――ところで娘さん、あんた酒臭いな」自分のことを棚に上げて、兵士はビンディーの果実酒の匂いを嗅ぎ取った。

「はあ、さっき気つけに一杯だけ飲ませたのです。――お医者様にはちょっと、内緒にして頂けませんか?」

「ふーん、ま、いいだろう」そう言って今度は、彼自身が懐から蒸留酒のボトルを取り出して、ぐびりとやった。ベール越しに、ヤシュタットは苦笑する。

「そっちのお嬢ちゃんは、……巡礼服が似合ってるね。あと数年もすれば別嬪さんだ」

「ひょっとして兵隊さん、この街のお生まれですか」

「そうだよ、なんでわかった?」ヤシュタットは説明を控えたが、巡礼服姿のエッセを見る彼の視線である。この街も無数の巡礼者が行きかった。彼は三人を見て束の間、日常が戻ってきたと思えたのだと推測した。

「医者ならあっちの〈裏切り通り〉にできた野戦病院に居るはずだ。着いたら左に曲がれ。怪我人の悲鳴でいっぱいだから、すぐにわかる。……診てくれる保証は全然ないがな」

「他のバリケードを越えたいときはどうすれば?」

「飲んだくれが身元調査をしたっていえば、納得してくれるさ――」ヤシュタットは頭を下げ、この兵士の元を立ち去った。

 三人はそれから三つのバリケードも難なく越えることが出来た。商店は横から引き出す蛇腹のシャッターで閉ざされ、二階、三階にある住居からはロウソクの、蛇の舌のような光しか漏れないが、一応形を保っている。なんとも肩すかしなことだが、その分〈裏切り通り〉に出た時の衝撃は大きかった。一棟のアパルトメントが、跡形もなく崩れ去っていた。――というより、高熱にさらされて、どろりと融解したとみた方が正しい。屋根の方は原型を残していたが、壁も石柱は一度溶岩のように液化したらしく、路の車道は、発泡した浅黒い物質に塞がれていた。爆発も伴ったのか、対面の建物は飛び散った破片や、熱い飛沫を浴び、ズタズタに引き裂かれていた。せっかくの鉄格子も、衝撃でひしゃげ、ガラス窓や雨戸をぶち抜いている。溶かされたアパルトメントどころか、周囲の住宅でも死人が出たことだろう。周囲では盛んに燃素灯が焚かれ、兵士が潰れた屋根に取りついて中に侵入して住人を救助しようと試みているが、どう見ても分の悪い戦いだった。

 ――これもフシーオが? 外套にくるまれているはずなのに怖気がする。エッセが彼の震えを感知したのか、眼鏡の載った鼻の先を背中にこすりつけた。

「あれが野戦病院? かな」ビンディーが指さす。一カ所だけ扉が開きっぱなしにされ、安い燃素灯の、緑色の強い光がこぼれている。――元々は空き店舗だったようだが、そこからは子供の悲鳴と、夫人のさめざめとしたすすり泣きまで聞こえる。

「まさかホントにあたしを医者に診せるつもり?」

「そうじゃなくて、兵隊さん以外から、話を聞き出す必要があるとおもって……」

 人が否が応にも集まるところには、当然情報も集まる。それは単なる道案内でもいいし、この街で起きた騒乱の漠然とした全容でもよかった。そして案の定、その即席の病院には不安に駆られて、用もなく押しかけた淑女たちがたむろしていた。大部屋の奥には、毛布を敷いただけの簡易ベッドがずらりと並んでいるが、それらには怪我を負った市民や、兵士が横たわり、その隙間を二人の看護師が巡回し、彼らの容体をチェックしている。――治療は一通り終わっているらしい。

「あらあ、あなた方は……? ここの人じゃないわね」表に陣取っていた夫人の一人が声をかける。

「はい、見てのとおり巡礼者です」そう言ってヤシュタットはエッセを降ろした。

「あら可愛い巡礼さんだこと」エッセを見て人々は、三人への警戒を一瞬で解いた。子供の存在とは偉大だ。

 ヤシュタットはこの機会に、訊けることを訊けるだけ質問しようとするが、先に一人の肥満気味の、魔族の夫人が手招いて話しかけられてしまった。

「いやあなたたち、とんでもない時に巡礼しっちゃったわね。二日くらい前ならわたしがこの街名物の卵料理をふるまってあげたのに」

「はあ」この人たちも、日常を回復させることに必死らしい。ヤシュタットは仕方なく、しばらく彼女の世間話に付き合うことにした。

「亭主たちはみんな、バリケード作りとか、そういう力仕事に駆り出されててねえ。あと職場の片付けとか、身元の確認とか、やることが山積みよ」

「ということは、ここにいらっしゃる方々はみんな女性ということですか?」

「そうね、選び放題よ? フフ――あ、そうだわ」夫人はぱんと、両手を叩いた。「実はね、今ここに居るお医者様もね、あなたとおんなじ吸血族なのよ、ねえ?」

 夫人は座っていた椅子から大きな尻を浮かせて、友達に同意を求めた。他の女性たちも、そうそうと相槌を打つ。

「あなたもご挨拶した方がいいわよ? それが吸血族の礼儀作法なんでしょう? 待ってなさい、今から呼んでくるから――」そう言って彼女が毬玉のように、再び椅子から腰を浮かそうとしたとき、奥の部屋――階段が伸びている――から、白衣を身にまとった人物が出てきた。

「おいおい、患者がみな小康状態だからって、騒ぐんじゃない。――うかうか仮眠もできん」

 彼の顔を見て、ヤシュタットはひどく驚いてしまった。

「ああ先生、こんな時に巡礼のお客さんが来たのよ。センセも駆り出される直前まで巡礼をなさってたっておっしゃってたでしょ?」

「巡礼者? どれ――」医師――スタンソは近寄り、二頭身だけ低い、足萎えの少女を発見した。

「え、エッセ! ――するとこっちはだれだ?」

 ヤシュタットはチラリと防光服をめくってみせる。

「お久しぶりです、スタンソさん。――あなたの名刺、とても役に立ちました」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ