狂女の花園 鎖の広場
〈彼の山羊、隣人も、そして使役する奴隷すらも恐れ河に飛び込む。しかし魚に化けること叶わず、そのまま沈みゆく。
――シャイロン『磨羯星奇談』〉
老人は杖をゆっくり振るい、青いタイル張りの小道を進む。そして彼の両脇に生い茂る草花を、丹念に調べていく。その目的は、彼が言い含めたとおり、この離宮と庭園から人払いが出来ているかを確認するためだったが、その甘い香りは彼のしぼんだ心を慰めてくれるようで、いつのまにかその花々を観賞することに注意を奪われていた。
(ほう、ここに生えているのは全部、香草か)視点を左に移すと、こちらは黄土山脈の裾野に生える植物が移植されて、小指の先程度の大きさしかない、紫色の花をつけていた。地温を上げ過ぎないように、土には白樺の皮を砕いて敷き詰められている。あの子の創意工夫だろう。ここに生えている植物の配置も全部、あの子が指図したものだ。王宮の温室といい、見事なものだ。
老人は感心するが、一方で二つの懸念が、首をもたげた。一人は国家元首としての「彼女」の内心について――。杖に力をこめて視界を広げても、この庭にはホードガレイの国花であるカーネーションが一株もない。そしてもう一つ、これは公人としてではなく、一人の年寄りとしての感慨だが、一昨年園芸家につくらせ、彼女に送ったバラの新品種『ユアナ一世』がどこにもない。それが実に寂しく、それに加えていらだたしい、嫉妬に似た気持ちも沸く。
人を隠しておくにはもってこいの生け垣――それはみなバラだったが、そこにも『ユアナ一世』はどこにもなかった――を、老人は微かな失望を背負って進んでいく。そして生け垣がぷつりと途切れると、視界が一八〇度開けた。老人の道筋の先には、真っ白のあずま屋――ホードガレイでは取れない高級大理石でできていた――が、一段、二段と上がった見晴らし台に建っていた。階段は浜辺に打ちつけるさざ波を模した意匠で、その高さから下界を望めば、海ではなくダルダション湖が一望できる。
「今日はあいにく、見えませんな」あずま屋でくつろいでいた女性に、老人は話しかける。彼女は椅子に座り、何冊かの本を広げていた。それに落としていた視線を、ふと上げる。
「なんのことかしら、おじいさま?」
「おわかりになるでしょう。ここの対岸には、王都があります。さらにその先には、黄土山脈がありますよ」そこにはこの女性の、本来の居城もあるのだ。しかしこの日はうっすらと霞が出て、都市の輪郭はぼやっと浮かぶだけだ。今年は雨期が明けるのがやけに遅い。
老人はあずま屋に近付き、彼女と向かい合わせに座る。
「そこにはあなたをお慕いになる民草が、およそ五十万も――」
「確かに、あそこの花たちにも、もっと気をかけてあげなければなりませんね」女王ユアナは話を遮る。彼女は政と全く関係のない、温室に植えた植物のことを気にしていた。「最近は妙な異国の虫までついて、弱っている株があるの」
そういって女性は振り向いた。彼女はもうすぐ即位四〇周年を迎え、それを記念する様々な事業が進んでいた。かつての幼君も、いまでは立派な淑女になっているはずだったが、子供がいないせいか、それとも内面に秘められた狂気のせいか、実年齢よりずっと若く見え、人生の年輪を感じられなかった。肩から伸びる羽根も、まるで漆のようだ。昔の通り彼女は美しいが、まるで蝋人形のようだった。
老人は、ふっとため息をついた。
「虫といえば――」老人は切り出す。「どうもここしばらく、王宮にとびきり大きな虫が紛れ込んでおりましたな。陛下、もう何度か刺されてしまわれたのでは?」
老人は下から、女王の顔をちらりと伺った。しかし、彼女は動じない。老人は話を続ける。
「これはまあ、老婆心ですが、陛下には最近お悩みがあると見受けられます。そこを良からぬ虫につけこまれて、たぶらかされているのではないか――そう思いましてな。いかがですかな、この年寄りめに、話を訊かせてはくださいませんか? どんな些細なことでもよいから――」
「そんなことでわざわざ執政をおやすみになったの、おじいさま? 最近、サーブやコバト、色んな街に騒乱が起こっていると聞きましたけれど」女王はぽつりという。真っ白い絹の服のすそが、丘を駆け上がってきた風で柔らかくはためく。「それに、わたしがどなたと付き合っていようが、別に構わないでしょう? ……殺してしまえばいいだけのことですもの」
「その話をここでするはやめましょう」老人はうめいた。
「それに私がどうなっても、この国はおじいさまの手腕で、どうにもなるんじゃなくて? それが正しいことなのかは知らないけれど」
子供のような喋りだが、彼女の口から久しぶりに政治的な話が出たため、老人は少し驚いた。確かにこの娘――というには年増だが――の言う通り、国内は水面下でてんやわんやだった。いや、実のところ「てんやわんや」という表現すら悠長すぎる表現だった。伯爵が殺害され、国防のために生まれたあの〈双子〉が、国そのものに牙を剥き出すのは時間の問題だった。
しかし老人はあらゆる憂慮を深い皺に隠して、話を続けた。
「まあ、そうお拗ねなさりまするな……。国民はみな、陛下のことを心より尊敬されて――」
「尊敬されていることが君主の条件なら、私にはもっと尊敬しているお方がいるわ」
彼女の言葉に、老人は色を失った。――そして、今までの疑念が確信にかわり、襟を正す。
「あの輩はもうこの世におりません。既に十年前に、一族もろとも滅びました。自分たちの隠れ家に火を放って――」
「いいえ、あなたが殺したのよ、おじいさま」
強い怒気が、その声に込められていた。
「おじいさまがあの方を、火刑にしたのよ。自分がお若い時に受けた恥辱を晴らすために。その上、ご自分の手は汚すことなく、あの方はおろか、その血を継ぐ全ての人たちを」
そこまで一気に喋ったのち、女王はすっと、呼吸を整えた。
「だけど驚きました。お一人だけ、あの方の血を継いだ女の子が生きていたのですね」
――そんなことまで知っているのか、この娘は!
「……もはや隠す必要はないようですな。確かに、あの場に一人の乳呑み児がいました。突入した保安省の男が、情にほだされて、その子を救いだした。――私もこれ以上血を流すのは無用と考え、その子を世間の目から隠した。多少は酷なことをしましたが」
「鎖につないで言葉も与えず、粗末な生活をさせることが、『多少』?」
「お叱りはごもっともです」もはや隠し立ては無用か。老人は腕を組み、指を動かす。「――王宮に出入りしていた者の目的は、あの児だったのですな。その少女の惨状を伝え、解放するように、と」
「あら、おじいさまもすっかり鈍くおなりになったのね」女王は不敵に微笑んだ。背筋が凍る。
「どういうことですかな?」
「すでにその子は解放されています。――既に巡礼路を通って、ここからすぐ近くにまで来ていますよ」
「何と!」
「嘘ではありません。このホードガレイに、新時代の息吹をもたらすための巡礼を終えようとしているのです。あの方の教義通りに!」
女王は積まれていた本の一冊を引き抜き、テーブルの上を滑らせ老人によこした。表紙には頭頂部の角がない五芒星が描かれていた。
「差しあげますわ、それ――。私は全て諳んじてしまいましたもの」
しかし老人は、それを本の山にそっと戻した。
「いや、保安省の禁書保管室に参れば、何冊でも読めますから」その本は、二十年前に流行り、この老人――宰相ヌガンの手によって解消させられた新興宗教の教義本だった。その教義はホードガレイの創世神話からオータ伝説、各支族固有の神話、民間伝承、怪しい魔術の類まで、ありとあらゆる信仰のいいとこ取りをした、甚だ歪んだ、醜いものだった。
「もうすぐ新たな勇者オータがダルダションに訪れます。そして彼の者は――彼女かもしれませんね――私と、このダルダションを贄に、あの方の魂を宿して、堕落と共に、この地に新たな秩序をもたらしてくださるの!」女王は高らかに笑うが、ヌガンはその話の正体はトン族の死生観と、銀大陸奥地に栄えた石器文明の終末神話を接いだものだと素早く見抜いていた。
ヌガンは杖に力を込めて、立ちあがる。
「その女の子を、捕まえます。――そして背後に潜む組織を、一網打尽にしてみせます」
「もう手遅れなのではないかしら? おじいさまはもうお歳ですから、座して新たな時代をお待ちになっていた方がいいのでは?」
この冷たい言葉を聞き、ヌガンは歯がゆい思いでいっぱいだった。ユアナは自分が古い家系図を漁り、やっとのことで見出した第一王朝の後継者であり、子供を全員戦災や政治的抗争で失った彼にとっては、目に入れても痛くない娘も孫も同然の存在だったからだ。一方的な父性は、手痛い形で裏切られた。――老いらくの恋といっても差し支えのないものだったかもしれない。
老人はよろめきながら、ゆっくりと階段を降りて行く。
「私はあなたにも捨てられた、哀れな老いぼれですが――」降り終えたところでヌガンはそっと振り向く。「私には最後、このホードガレイという最後の守るべきものがあります。死の瞬間まで、これを守り抜きます」
「私はもう飽きたのかしら。あの方のように、今のうちに私もお殺しになる?」ユアナも立ち上がり、高みから挑発した。ヌガンはかぶりを振る。
「陛下、個人としてのあなたにはもはや、愛情を感じられないようになってしまいましたが、この国は今でも、あなたを必要としているのです。愛する人が大事にする物を奪うわけにはいきません。――もっとも、監視を相当、厳しくはさせていただきます」
ユアナもため息をつく。
「ということは、この庭にいられるのは今日で最後なのね? おじいさま……」
……気がつくと列車はゆっくりゆっくりと走行し、揺れもあまりひどくなくなった。そのおかげで『イ』はようやく復活し、エッセを寝かしつけたまま、残る三人を揺り起した。
「もうすぐタララに着くから」
「う、さ、寒い……」全身すっかり冷めてしまっていた。ヤシュタットの身体は、まだまだ小刻みに震える。外の雨は霧雨から粒のはっきりとしたザラメの雨が降る。
「二人の故郷にも雪って降る? あたしは見たことないけど」
「いやあ、初めて見るよ。……こりゃあ、芯から身体が冷えるね」
「歩けば何とか温まるんじゃないか……?」
車線は単線から複線になっていた。駅が近いということはわかるが、このタララの街、相当人工密度が高いらしい。車両の幅すれすれにまで石を積んだホードガレイ風の建物が、古今東西の皇帝が異民族の侵入を防ぐために築いた長城のように、ぎっしりと並んでいる。――そんなにキュウキュウなのに、都市特有の活気がない。枕木を叩く音にすら喧騒がかき消されてしまい、妙にジリジリした空気だけが壁と一緒に迫って来る。そして手前の石壁の奥に、ギザギザの剣山がゆっくりと通り過ぎている。渓谷のわずかな平地に、水周りのカビのように出来た街だとすぐにわかる。わずかなあまりにも峰々が、スパッときりたってそびえたっているので、ヤシュタットは、これが街に漂う圧迫感の原因だろうか。空も何もかもが灰色で、まるで新聞の挿絵をそのまま切り抜いて貼り付けたようだった。
列車はやがて停車したが、あまりに周囲が静かすぎたので、ここが本当に終着駅なのだと、にわかに信じられなかった。市から運ばれてきたものを積んできたのだから、大急ぎでそれを運び出そうとするものであふれかえるはずだが、人の気配を感じさせる怒号も何も、聞こえない。ホームには延々、フロギストン鉱石を詰めた樽が相当量、段々に積まれているが、それを入れ替えに貨車に押し込もうとする人影はなく、むやみに雨に濡れ、中身を湿気らせていた。こっそり逃げ出すには好都合だが、はなはだ不気味だった。五人はカムフラージュのため、また吸血族に扮装して、貨車から降りる。
「ちょうど昨日のうちに廃鉱になっちまったって感じだな」フシーオが言う。もしかしたら市街に出たら、仕事を失った暴徒や餓死者で死屍累々かもしれないとも、彼は重ねていった。
しかし、少なくとも資源が枯渇して、街の存在意義が吹き飛んだわけではないことは、まるで登ってきた太陽に世界が順々照らされていくようにわかってきた。彼ら五人は駅舎から出ることを避けて線路伝いに今まで来たところを逆走することにしたのだが――『イ』は敷石に足を取られる上、エッセを抱っこしていたので、ひどく難渋しつつ歩行していた。丁度家屋と家屋の隙間に、人ひとり分通れる個所があった。どうやら昔の裏路地が、線路を引かれた時に寸断されて、それが放置されているものらしかった。申し訳程度に立てられた柵を飛び越え――『イ』は容赦なくそれを踏みつぶし、街に潜入した。
「何か聞こえるね」先頭を歩くヤシュタットが気付いた。「家畜の鳴き声かな? まるで、喧嘩をしているような……」
「よく聞きなよ。これ、ちゃんとした人語だよ」
「え?」
彼の耳にはホウ、ホウ、そしてバアアとして聞こえなかった言葉は、通りに近付くにつれて、訛りの強いホードガレイアだとわかった。あの言葉の一粒一粒をまき散らすような音は興奮したバフォメットの、吃音混じりの発音だった。
「おれの言うことがわからんか! ゴミの土人形どもめ!」
隙間からこっそりと覗くと、朱色の豪勢だが、田舎くさい服を着た貴族もどきのバフォメットの男――歳は毛深過ぎてわからない――が、鞭を片手に、トン族の一人を激しく痛罵していた。トン族は四つん這いになって、小石のように身体を丸め、それに耐えている。他のトン族はこの二人を遠巻きに眺めていたが、バフォメットは周囲の人間にも何か罵詈雑言を吐いていた。その言葉はいちいちすさまじく、エッセに対して一種の放任主義を採っていた『イ』も、彼女の耳を防光服の上からふさいだ。
しかし、エッセの教育に悪いということがわかっているはずなのに、『イ』は人の輪の中心をじっと見つめている。
「なにしてんのよ。何があったかしらないけどさ、今のうちにさっさとここを離れようよ」
ヤシュタットとビンディーが彼女のそでを引くが、彼女は「大丈夫だから」といって聞いてくれない。……バフォメットはひとしきり下品な言葉をまき散らしたあと、バチィンとひざまずくトン族の背中を思い切り持っていた鞭で叩いた。それにヤシュタットは思わず肩をすくめるが、その音が行っていることの割にあまりに軽かったので、意外な気持ちになった。
その鞭の音をクライマックスに、人だかりがサーッと散った。中から先ほどのバフォメットが、「馬鹿が、クソが」と口汚い言葉を吐きながら、がに股でのしのしと近付いて、ヤシュタットたちの前を通り過ぎた。その途端、男はいきなり卑屈に腰をかがめ、へえへえペコペコと頭を下げ始めた。どうやら自分たちを本物の吸血族の一団だと思っているらしい。臆病そうに草切り歯をへらへらと見せびらかして、媚を売る。あまりにもおべっかを売ることに心を奪われているのか、外套の下から一枚、ビンディーの抜けた羽根が落ちたことにも気付かないようだった。「なにか曲芸をしろ」と命ずれば、宙返りでもなんでもやらかしそうだった。
男は、そのままくすんだ石畳を、逃げるように去っていった。道は凸面になっているので、蹄の先から順に姿が消える。あとには黄ばんでくたびれた木綿のシャツと、穴のあいた幌のズボンを履いた、エッセと同じくらいの歳の少年が、丸まったまま残された。遠巻きに少年とあのバフォメットを見つめていた人々もみな、トン族だった。そんな人々も、一人の少年が痛めつけられることなど日常茶飯事だとばかりに――実際この程度の打擲ごときは、まったく珍しいものではないと知る――散り散りになっていった。ヤシュタットたちの姿すら、彼らの黒い瞳には映っていないかのようだった。
「大丈夫?」そう言って『イ』が少年に、そっと手を差し伸べる。少年はハッと表を挙げるが、彼女の手を見つめたきり、動かない。その顔は『イ』と同じく、作りもののように整っていた。
『イ』の方も気付き、烏色した手袋で隠されたその手をベールの中に突っ込み、中指を口に含んで引き抜いた。少年はその中に収まっていた素肌が、自分と同じものだと気付いて、(あ)と声を漏らしそうになったようだ。そして彼女の手をようやくシッカと握りしめ、立ち上がった。その眼は安心感からか、黒真珠のような輝きを取り戻した。――ヤシュタットは、トン族の瞳が、ヒト族や魔族以上にコロコロとものを言うことに気付いていた。そして、ひょっとしたらヒト族の眼こそが、全ての種族の中で、最も寡黙なのではないかとも思い始めてもいた。
「カ スト ラ?」『イ』がトンの言葉で少年に話しかける。
「ニャ?」
「ベ トスモ クジュリスコ ニィ ソソ ハッ?」
何を言っているのかはさっぱりわからなかったが――なにしろトンの言葉は、ホードガレイアとはなんら共通点がないのだ。
少年はしばらく思案して、こう言いだした。
「ヒョ」そしてそのまま、どこかへ歩きだして行った。
「あの子、なんだって?」二枚のベール越しに、ヤシュタットが訊く。『イ』は手袋を再びはめ、エッセをだっこし直して応えた。
「私は宿の場所を尋ねた。そしたらあの子、ついて来いだって」
「え、あんなにしこたま叩かれたのに? 多分みみずばれになってるよ、あの子の背中」だからそれどころではないはずだと、ヤシュタットは言いたかった。しかし『イ』はずんずんと、少年のあとをついていく。そんなにトン族の身体は丈夫なのだとその背中は言いたげだったが、しかし……
少年は灰色の街をスタスタと歩いていく。すれ違う人はみな、粗末な衣服を着たトン族ばかりで、何か大事な、情熱というか、感性というか、そういったものをぎゅうっと押し殺して、淡々と生きているようだった。建物もよく見ると、頑丈そうな壁として存在していたのは線路側から見てのことで、この通り沿いの道から見るとまともな修繕がされておらず、ひどくみずぼらしい。扉は蝶つがいが壊れて外れかかったものばかりだし、道に点々と、得体の知れない土の塊が落ちている。雰囲気に呑まれて、ビンディーやフシーオも、口を閉ざしたままで、肩を寄せ合っている。――そして時たま、またバフォメットの罵声が谷間に轟き――少年をいたぶっていた、あの男だろうか――ヤシュタットも、まるで自分が拷問にかけられているような気分になり、胸を締め付けられる。
道はどこまでも続いているように思われたが、突如円形の広場に出た。
「なんだこりゃあ……」フシーオが布越しに、戸惑いの声を漏らす。そこは昨日まで居たシタ・サーブの広場とは違い、殺伐としか言いようのない有様の所だった。
ホードガレイの若い都市は、直線状の街路と、それらが収束する円形広場を組み合わせて出来ている。こうすることで軍隊をスムーズに動かして暴徒を軽々と鎮圧できるようにしているというわけなのだが、この広場はそういう、抑圧的な雰囲気が濃厚だった。しかし、憲兵が張り込んでいるというわけでもない。それ以前に人っ子一人もいない。噴水も銅像もない。そして中央には、どういうわけか旧式の蒸気機関がでんと居座り、おざなりな街並みとは対照的に機械本体も、水を注ぐパイプも綺麗に磨かれていた。石畳には、鉄の輪が丁度二つずつ――。
「なにボーッとしてんの?」ビンディーはヤシュタットの肩を叩く。彼はただ乾いた笑いだけをした。一瞬、とてもおぞましい白昼夢を見たのだ。
よくよく周囲を観察すると、この広場はすり鉢状になっている。外縁はまるで、見世物を遠巻きに眺めるには丁度いい階段状になっている。そこから崖の中腹に貼りつく別の街区に伸びる、階段がいくつも走っていた。少年はその内の一本へ進む。少年はその体重も、先ほどの拷問の後遺症も感じさせない、地元民らしい軽快な足取りで登っていく。――もちろん裸足で。階段が途切れたところには、雲が肩の所にまで降りて、防光服を重くしていた。
少年は一軒の、こじんまりとした、万屋みたいな家の軒先で立ち止り、扉をノックした。扉にはかすれてほとんど読み取れなくなった、巡礼協会のイニシャルが架かっていた。しばらくすると、魔族の老婆が、杖にすがりながら、扉を億劫そうに開けた。白内障なのか、左目が白濁し、もう片方の眼には傷だらけのレンズをかけている。肩には毛糸のひざかけをぐるんとまわしていて、腰が曲がり過ぎて、垂れた羽根が地面をこすっていた。
老婆はまずヤシュタットたちを案内した少年を見やり、次に吸血族姿の五人を見つめた。
「あれ、吸血族の方々が、うちのぼろ宿に何の用ですかねェ?」老人は愛想よく、しかし不審げに言った。それを見計らって、まず『イ』が、そしてビンディー、フシーオ、――最後にヤシュタットと、次々つば広帽子とベールを脱いでいく。老人はその様を驚きつつ見つめていたが、少年の背中を押して――彼は鞭打たれたところを触られて、一瞬電流が流れたみたいに身体をよじる――五人を手招きした。
「まあ、事情は中で伺いましょうや。ささ、何もない宿ですが……」老人の様子に敵意は感じられず、五人は安心して中に入って行った。
「とにかく、湿ったお召し物をお預かりしましょう。――そこの暖炉に暖まっておいてくださいな」老婆は防光服を集めて行くと、それをせっせとソファや部屋に通された物干しひもにひっかけてゆく。それが終わると、ずっと立ったままの少年に、ビンの中に遭った飴玉一個をあげた。
「絶対なめてるところを見つかるんじゃないよ。また鞭打ちにされるからね」老婆は気がかりな忠告をするが、少年はそれを聴いているのかいないのか、すかさず飴を口に投げ込むと、さっさと家から出て行ってしまった。
「お婆さん、ここの暖炉、薪なんですね」ヤシュタットが話しかける。彼が観察したところによると、この家はさらに上の階があり、煙突がそれぞれの階をまとめて温めているらしい。
「なんで燃素の街なのに、そんな旧式の暖房しかないのかとおっしゃいたいんで?」老婆はカップの準備をしながら応えた。「燃素は全部都会の方に売り飛ばされて、わしらは使えませんだ。……もっとも、うちはいい方です。巡礼協会の指定宿になっているので、あちらから少し、喜捨金が出ますんでね」
「ということは、普通の人は暖房なんて滅多に使えないってこと?」
「暖房どころじゃありんせん。ちょっとでも贅沢をしていることが分かれば、良くてその場で鞭打ち、タララ様方の虫の居所が悪ければ――」老婆はそこで口をつぐみ、嫌な世の中になったとばかりにかぶりを振った。
「ところで皆様がた、うちに御用と云うことは、巡礼者で……? それがどうしてまた、こんな辺鄙なところに?」
「はは、まあ巡礼者なんですけど、それと同時に、逃亡者というか」
老婆は訳が分からないと、更に首をひねった。『イ』が出入り口の右横に置いた自分の荷物から、シタ・サーブでもらった巡礼協会支部長と、ギギエのサインが入った紹介状を見せた。
「ああ、これ――」老婆は目を細めて上から下に流し読みするが、すぐにそれを丸めなおした。「福血会さんの印まで入っているから、大層な手紙だとはわかるんですが、何しろ私は字が読めなくて、一昨年死んだ亭主なら読めたんですがね。どなたか、代わりに……」
手紙は老婆につかまれながら宙をさまようが、それを『イ』がクッキーをつまむように、やんわりと取り返した。
「要点だけ読みますね、おばあちゃん。『こちらの方々は無実の罪を科せられ、巡礼を中断させられそうになりました。そこでほとぼりが冷めるまで巡礼協会と福血会協同で、この方々を夫人の元に隠すことにいたしましたので、よろしくお願いします。もちろん相応の謝礼は致します。また、危険が迫った場合には、彼らを運河伝いに逃して差しあげてください』――そういうわけですので、お世話になります」『イ』はぺこりと頭を下げ、一同もそれに倣う。
「あらまあ、ずいぶんとおしゃべりな女の子だこと――」老婆はおかしなところで驚いた。「それにあなた、トンなのに、文字が読めるの? しかも、綺麗なホードガレイアで……」
今度は逆にビンディーが、老婆の言葉を不思議がる。
「えっ、それってそんなに珍しいことなの? あたしだって、字ィ読めないよ」
「そういうことを話すと、年寄りの昔話になっちゃうけどねえ」老人はふっと、息をついた。「身体をあったまるまでの間、若い人たち、この老いぼれの世間話に付き合ってくれるといいのだけれど。久しぶりに、まともなホードガレイアを聴けて少し気持ちが、ね……」
「聞きたい、聞きたい!」エッセが一番に、喰い付いた。意味なんて、理解できるのだろうか。
タララはいわば、内戦が終結して国土の割り当てが真新しいベッドのシーツのようにビシッと定められた後でも、余ってマットの下にクシャクシャと押し込まれたかのように無秩序を残された土地だった。――百年も昔に、あちこちを放浪し、牧畜やキャラバンを生業とするバフォメット、そしてトン族が一斉に集められ、島流しも同然に、この岩とカタツムリしかないこの荒野での生活を余儀なくされたのがこの街の始まりだからである。その後フロギストン鉱山が発見され、一躍この国のエネルギーを支える重要な土地になったあとも、この街の劣悪な環境は変わらない。むしろ支配層になったバフォメットが無産階級のトンを生かさず殺さずでせっせと締め付け、トンの生活は荒み、それと平行してバフォメットの心も荒廃していくのだった。
「バフォメットは言われている通り、大層な臆病者でしょう? だからトンにはひどく当たって自分たちを守ろうとするし、外から人を入れたがらない。お国も燃素の採掘を止められちゃ困るし『どうせトンにすることだから』って、どんなにひどいことをしても目をつぶっていて……」老婆は一度、『イ』の顔を伺った。
「でもいつまでもそんな街に我慢しているわけじゃないでしょう? 好きな時に出て行ったりできるんじゃないですか?」ヤシュタットがぬるくなったカップを両手で持ちながら尋ねる。しかし老婆はかぶりを振った。
「この街のバフォメットもトンも多分、勝手にこう思ってるんだろうね。『この街にしか安住の地はない』って。トンは力仕事しかできないし、外で働くにはホードガレイアを覚えないといけないけど、バフォメットはトンが学校に通えないようにしているから」それにバフォメットも、外の土地にはまるで恐ろしい怪物が棲んでいるかのように怯えている。鉱山が産む富に目がくらみ、数十年のうちに、自分たちがかつて、家畜と共に山野を駆けていたということをすっかり忘れてしまったようだ。
「だけどね、本当に昔は、いたんだよ。ここから出て行こうとした若人が一人だけ――」老婆がポンと、軽く手を叩いた。「この街が外に開かれたばかりで、私も旦那と一緒に巡礼協会の出張所――ここのことさね――を造るためここに移り住んで間もないとき、一人のお若いバフォメットが、毎日草の根をかじってばかりの生活に嫌気がさして、出て行ったのよ。一人、同じような歳のトンを、従者に連れて。その二人とも親しくしていて、しょうちゅう私たちの所に外の話を聞きに来ていてねェ。出て行くんだって打ち明けられた時は、ホント驚いちゃって。――まだ鉄道の通ってない時代よ」
「ということは、徒歩で山を越えたってことですね」
「そうなるねェ。……いや、昔には運河があって、それで鉱石を街の外に運んでたんだけど」
「それで、その二人はどうなったんですか?」
老婆は記憶の断片をかき集めるように、天井を仰いだ。
「それがね、今から三、四十年くらい前? だったかしら。ふらりと帰ってきたのよ。従者だったトンだけが、一人で。もう自分の家はなくなってしまったから、ここに泊めてくださいって、そこの扉を叩いたの。
その子、身なりがだいぶ良くなってて、喋るホードガレイアも立派なものになってて、まるで色の黒い吸血族かと思っちゃったくらいよ。それで事情を聞いて、もっとびっくり。主人だったバフォメットと同じく高等教育を受けて、いっぱしの学者先生になれたんだとさ。オータ伝説に関する本を何冊か書き終わって、今はトン族の古い習慣を集める仕事をしているから、里帰りしたんだと。
だけどこの街のトンはほとんど昔から伝わる伝承のことを忘れていて、使っている言葉もかなり単純なものになっていたって、嘆いていたよ。この街ではみんな、肺病や梅毒、それから……まあ、色々な都合で長生きできないから、古い話とかを次の世代に伝えられないわけさね。それに、街中を歩きまわっている内に、バフォメットたちから目をつけられて、自由に動けなくなったから、せっかくの里帰りも三日で終わっちゃってねえ――。私たちには『もうこんなところには帰ってこない』なんて言ってたね」
「なんだか悲しいことですね、自分の故郷を『こんなところ』っていわなきゃならないなんて」
「まあ、一度でも外の世界を見た人なら、そう思うのが本音だわね。私だって、ここに来たばかりの時は何度か音をあげて、旦那に『もうこんなところにいたくない』なんて泣きついたものだからね……。
ところでね、その子は二度と帰らないって私たちに言った時、彼は一人の女の子を連れていたのよ。その子は孤児の奴隷で、本当に身なりがひどくって、私の古着をあげて、ようやく見られる姿になったものさ。『その子をどうするのか』って聞いたら、『この子と一緒に街を出ます。これ以上ここに居たら、この子はあと五年しか生きられない』なんて言ってね」
「だけどよ、そんな小さな子の命を救ったところで、海に真水を注ぐようなもんだろ」
「そう、私もそう言ったんだけど、聞かなくってね。その子も自分に初めて親切をしてくれた彼に懐いていたから、それ以上止めようがなくって、――その女の子も健康なら、今ごろは大きい子供を持っているような年齢ねぇ」
老婆の話は、そこでふと途切れた。
「今でもこの街のひどい有様は全然変わっていないみたいですね」
「変えることを嫌がる人だけが今でもここに住み続けてるようなものだからね。――私もそんな人間の一人かもしれないけど。
鉱山で動かしてる機械は今でも旧式の奴だし、それを修理できる人もめっきり減っちゃったから、本当にだましだましに動かしているのよ。トン族の馬力がなかったら、ここの街は成り立たなくなっちゃう。だけどそんなことを言っている内に、外の具合はどんどん変わっているのよね。あんたみたいにトンの女でも字を習うのが、普通になって……」
『イ』は照れているのか、それともばつが悪いのか、突っ立ったまま、視線をカップの中に落とした。もちろん『イ』のような、学問の出来るトン族は今でもいないに等しい、圧倒的少数者だ。
「ねえ、お婆さん、お話ぶった切って悪いんだけど――」ビンディーが少し身体を乗り出す。「お婆さんの話を聞くとこの街、人を隠すには一番向いてないところなんじゃないの? よそ者には冷たい街みたいだし……」
「まあ、バフォメットたちが明日あたり、何か聞きに来るかもしれないけど、その時はここに来た時みたいに吸血族の格好をすればいいさね。そうすればお金を落としに来た金持ちか、燃素の質が悪くなったから監査に来た役人と思うから。今ごろ急ごしらえでこの街をピカピカにしようとしているはずさね……」あの少年を折檻していた男の見せた、卑屈な表情の正体はそれだった。
「まあ、悪いことがあったら私に任せなさい。久しぶりの巡礼者だから、悪い思いはさせないよ」老婆は活き活きと胸を叩いて応えた。
その後の老婆のもてなしは、確かに決して悪いものではなかった。――モノ不足の街だけあって、出された料理の値段は多少張ったが、何とか常識の範疇に収まる値段だった。寝室も老婆の捨てられないでいる物で棚を占有されていたり、岩の中にあるので外の光が入ってこないという点さえ目をつむれば、温度がほぼ一定で、まあまあ快適と言えた。そこに五人が雑魚寝する形になった。エッセと『イ』、それにビンディーが川の字になり、男二人は念のためドアのそばに陣取る。――ヤシュタットは数日ぶりにお湯の出ないシャワーを浴び、贅沢に馴れきってしまった自分の心に驚かされたが、カーペットの敷かれた寝床は下の階の熱がじんわりと伝わって心地よい。なによりガタンゴトンと揺れないのは有難ことだった。
……しかし彼は、チチチという微かな音の後、またも真夜中に身体を揺さぶられて起こされる羽目になった。またフシーオが問題の種を持ってきたのかとおもい、嫌々まぶたを開けると、小さなろうそくの明かりを頼りにエッセと、そしてビンディーが自分の顔を覗きこんでいたので、まるで内心を覗きこまれたように思えて心臓が飛び出るかと思った。
「な、なに? どうしたの?」
「おねえちゃん、いないの」エッセが半べそでいう。この子は『イ』と一緒にいないとすぐに目を覚ましてしまう。
「それにフシーオの兄ちゃんもいないのよ、ホラ……」ビンディーに言われて確かめると、なるほど彼がくるまっていた毛布はもぬけの空だ。
「こんな時間にこっそり外に出る理由なんてないじゃない? だから私、探しに行きたいんだけど……」
「ああ、いいよいいよ。ぼくが探しに行くから、君はここで待ってて。フシーオまで見つけられる保証はないけど」そう言ってヤシュタットはコートを探すが、それは変装道具と一緒に老婆に預けてしまったのだった。代わりに朝のシャツの上に毛布を引っ掛ける。――その端っこを、エッセがつかんだ。
「……自分の眼鏡を持ってきなさい」ヤシュタットはそう命令したのち、毛布を解いてエッセを抱っこした。
「おお、重いなあ」ビンディーがその上に改めて毛布を掛けた。
ここの家主は専ら一階で寝泊まりし、五人がいる寝室は二階だが、更に二階には、納戸として使われている狭い三階があった。どうもそこに向かって風がピウと吹いている。それに気付いて、ろうそく片手に壁や階段に気をつけながら様子を確かめる。……ヤシュタットは家の屋上、つまりこの街を閉じ籠める崖のてっぺんに出られる小さな小窓があるのを見つけた。ボロボロの木枠で、隙間風が抜けている。そこに這い上がるのには少し苦労したが、ろうそくを近付けて確かめると、内鍵が開いていた。
ヤシュタットが窓を開けると、乾いた冷気が頬をなでる。それに一瞬たじろぐが、身体を乗り出すと、風が吹いていないので、すぐに慣れた。昼間に谷間を覆っていた霧はどこへやら、雲ひとつない見事な満月が輝いていた。エッセはそれに心を奪われ、ヤシュタットも一瞬、心がときめく。
「さあ、夜更かしになる前に二人を見つけよう」そう言って周囲を見渡すと、遠くに月明かりに照らされた人影が、ちょこんと座っている。崖の上にも、あるのは石ころと育ちの悪い野いばらばかりで、それを踏みしめながら背後に寄る――。
『イ』はヤシュタットたちの気配に気が付いて振り向いた。彼女が居たのは崖の際の、本当にすれすれのところで、中途半端な高度があるから平衡感覚を奪われそうになる。谷は右手から左手に向けて末広がりに伸び、その先に列車の駅がある。街明かりがまったくないせいで、まるで鯨の喉を覗いているようだ。岸壁にはヤシュタットたちが泊まっている老婆の家のような横穴式住居があるが、窓はみな固く閉ざされ、まるで砦か、修験者の庵のようだ。大地に足をつけると、悪いことが起きると思っているかのようだ。
恐怖心を受け流そうと、ヤシュタットはエッセを降ろして彼女の横に座る。エッセは早速、『イ』にベタついた。
「起しちゃった?」膝を抱えていた『イ』の瞳は、暗がりの光を最大限取り込むため、より一層、黒の深さを増していた。――しかしわずかに、涙で濡れている。
「すごく晴れたね。――昼間の天気とは大違いだ」
「だけど陽が昇ると、すぐに霧が降りてくるから。……ここに生えてる草木は、月明かりだけ浴びて大きくなるの」
「へええ……」
しばらくの沈黙。
「こんな時間になにしてるの? ビンディーだって心配してたよ? ……そこ、寒くない?」ヤシュタットはそう言うと、彼女が例の、シャンバンハの街で警官の手から取り戻した本を脇に置いているのを見つけた。――ヤシュタットも旅のお供に選んだ、あの本である。
『イ』はどういうわけか、それを隠すような仕草を示し、ヤシュタットは思わず咎める。
「あ、ねえ、そんなことする必要ないでしょ。――それ、別に恥ずかしい小説ってわけじゃないんだしさ」
彼女は頑なだったが、エッセが「読みたい」と言ったので、ようやく手放した。この本には挿し絵も多かったので、エッセでも多分楽しめるだろう。
エッセは皮張りの拍子をペロンとめくる。大きく刷った字なら読めるくらいの月明かりだった。扉が白い光に照らされる。その時、ヤシュタットは古い記憶が洗いざらい絞り出されるように感じられた。脳幹あたりがヒリヒリする――。
「ねね、この『タニク・ポッ』って人――」
それは本の著者名だった。『イ』は気まずそうにサラサラの黒髪をいじる。
「父です、私の。――苗字は一緒にタララを出た主人に決めてもらったそう」
「なんで今まで教えてくれなかったの?」無理に聞き出すつもりはなかったので、声のトーンを十二分に落とす。
「ただ言う機会がなかっただけだから――」
「ひょっとして、お婆さんが話していたトン族って、この人のことなんじゃない?」
ヤシュタットはまた彼女が口をつぐんでしまいそうだったので、本を指差し、話を先回りした。『イ』は静かにうなずく。そして、もはや隠しだて無用とばかりに、淡々の話し始めた。
「父は学問を積むことが許された、初めてのトンだった。この辺の事情は詳しくはしらないけれど、多分内戦が終わったあとの時流に乗ったとか、上手くやったんじゃないかと思う。歴史学者として独り立ちしたばかりの時はオータ伝説のことを調べていたけど、そのうち自分のルーツを知りたくなって、トン族の民俗を調査し始めた。その調査の一環でこのタララを訪れたのが、三十二年前。学問的には、ほとんど成果はなかったけど、代わりに私の母と出会った」
「あの『五年で死ぬ女の子』のこと?」
「そう、父が母を引き取ったのは、たぶん単なる同情心だったと思う。二人は三〇歳以上年が離れていたから。――母は父ほど頭が良くなくって、ホードガレイアを習ってもなかなか覚えられなかったらしいけど、代わりに詩が好きで、父からホードガレイアを教わるお礼にトン語の詩を送ってね。そんな教えたり教えられたりするうちに、男女の仲になって、結婚した」共同体を離れた、二人っきりの生活なのだから、それが当然の成り行きだろう。
「それから二人は故郷の土を踏むことはなくて、私だってここに来ることになるなんて想像もしなかった。二人の魂が、ここまで連れて来てくれたのかも――」
「悪いこと訊くけど、君のお父さんとお母さんは今……」
「二人の身体は、多分滅んだわ」
「多分?」なんだか煮え切らない、おかしな返事だ。
「母は私を産まれたその瞬間力尽きたの。私は母だった土くれの中から生まれた。――『イ』っていう名前は、母の名前をそのまま譲り受けた。全ての生きる力を私に託したから。
父は私が十歳の時、ホードガレイ神話の――魔族と五支族が黄土山脈を越えた伝承ね――傍証を求めて山脈に旅立って、それきり消息を絶った。――私は二人に近づこうと歴史学をかじったり、短詩をひねったりしてるけど、両親には全然及ばない」
「詩かあ。……読んでみたいな」
「トン語で書いてあるから、訳わかんないよ。――そのうちね」
「あ、そういえば」ヤシュタットは訊いてみたくなった。「君があの平原にいったのは、ご両親のお墓参りのつもり?」
ヤシュタットはユニムル道中での、たくさんの墓場について訊いた。トンの死者は広い世界を見聞してまわり、正しい心を持つ子孫には、旅の過程で得た知恵を授けてくれるというが、『イ』はかぶりをふる。
「言ったでしょう? 私たちの魂は一カ所にとどまらない。……だけど正直に言うと、あそこに行けば二人について何か手掛かりがつかめるような気がした。二人の魂に出会えそうで……本当になんとなくで、根拠なんてまるっきりなかったけど。
……さ、もう戻ろう。これからどんどん、寒くなるから」
「あ、待って。フシーオがどっか行っちゃったんだ。知らない?」
「……私が部屋から出たときは、ちゃんと居たけど」
「そっか、じゃあもう、部屋に戻っているのかな。大した事じゃないのかも」――この街に、夜鷹はいないだろうし、とも思った。
「もう行こう。満月の光を浴び過ぎると、気持ちが狂うというから」『イ』はエッセを抱き上げた。「……ありがとう」
「え?」ヤシュタットは訊き返してしまった。この言葉の意味は探してくれたことを言っているのだろうか。それとも自分の身の上話を聴いてくれたことだろうか。――エッセは『イ』の父親が書いた本を、小脇に抱えて、『イ』についていく。
――寝室に戻ると、フシーオが口を大きく開けて、泥のように眠っていた。
「あれ、いつの間に戻ってたんだ?」
そう尋ねられたビンディーは、高イビキをかくフシーオをチラリと見て、こう応えた。
「ホントについさっき帰ってきたのよ? 『どこに行ってたの?』って訊いても何も教えてくれなくて、『明日はとびきり早いから君も寝ておけ』だって」
「おかしなことを言うなあ……」ヤシュタットは髪をなでた。外の空気で、身体はすっかり冷たくなっていた。
「うう、虱につかれたみたい……」ビンディーは老婆に聞き取られない程度の声で愚痴を言った。ヒト族や吸血族でいう、「二の腕」あたりに生えた羽根をもぞもぞとまさぐる。
「ぼくらは全然平気だったけど」
「ってことはあたしの羽毛だけが狙われたってことか……。あーやだ」彼女は身体のあちこちをじれったそうにひっかく。フシーオも服の縫い目が触れる部分をかきむしっているのが気に触った。
朝になると『イ』が教えてくれた通り、タララはまた霧に包まれていた。窓を開けようものなら、部屋にあるもの全てがグッショリと濡れてしまうほどだ。
「明日は早い」といいつつ最後まで眠っていたのはフシーオで、ビンディーと『イ』が、老婆の家事の手伝いをしたのだった。
老婆はボール皿に、固いパンをナイフで刻んでよそい――若干埃っぽい臭いがする――上に缶詰から出したスープをかけた。この陸の孤島ではかなり贅沢な食事だ。
ソファとは違い、さすがトン族の棲む街なだけはあって、テーブルとイスは頑丈なものだった。長いこと使われずに納戸に押し込められていたので、昨晩『イ』が引っ張り出してきたのだ。
「まるで軍からの放出品みたいだな」フシーオが匙でスープをかきこみながら、老婆には聞こえない声でささやく。ヤシュタットはあきれるが、確かにスープの味付けは兵隊向けの、濃厚な味だった。
……その濃厚スープとふやかしたパンを胃に流しこんだとき、ドアがドンドンと叩かれた。
「あんたたち、せめて二階へ!」老婆がシャッと声を出す。一同浮き足立つが、『イ』はさすがに冷静で、五人分の食事跡をその場しのぎとして、流しやテーブルクロスの下に隠そうとした。――しかしこの場では修羅場をくぐったビンディーが一番冷静だった。
「警察とか、そういうのは多分、夜明け前の油断したときにくるもんじゃないのかな。……だからそんなに慌てなくてもいいよ」
「そ、そう?」
「ま、そういうことなら大きく構えていようぜ、なあ」フシーオはそう言って再びどっしりと腰を降ろした。
ドアを叩く音は鳴りやまない。老婆はヤシュタットたちを心配しつつ、そっと戸の鍵を開けた。――そこに居たのは、昨日ヤシュタットたちをこの宿泊所にまで案内してくれた少年だった。彼は何も告げることなく、室内をチラチラと、しきりに気にしていた。
「ベ トスモ マダレスコ イ。……ニィ?」
この言葉を訊いて、『イ』が少年に駆け寄る。老婆は脇によけ、二人は声を潜めて話し始めた。
「――ベ ハカ、ラ」そう言って『イ』は少年を送り返した。
「なんだって?」
「ちょっと行く用事が出来たから……なるべくすぐ戻る」
「一人で行くのかい? やめなよ、ぼくもついてくよ」
ヤシュタットの申し出に、『イ』は思案したが、なかなか首を縦に振らない。
「君は多分人の気持ちを逆撫でするところがあるから――。ぼくなら少しぐらい、問題があってもフォローできるよ。だれかが君に鞭を振るったら、どうするの」そこまで言って、ようやく彼女はヤシュタットに同意した。――そしてもちろん、エッセも彼女についていくといって聞かない。
ヤシュタットは一応追われる身なので、再び吸血族に仮装する。防光服はまだ乾ききっていなかった。
かの少年は軒先でぶらぶらと待ちぼうけていたが、『イ』の姿を再発見すると昨日のように先頭を歩く。四人は階段を下り、あの陰気な谷底にへと、再び舞い戻る。
(……?)ヤシュタットは訝しんだ。霧に遮られて詳細はわからないが、朝の寒さだけでなく、妙な殺気が街に取りついている。
「……ねえ、その子は君になんの用があるの?」
「その子じゃなくてね、どうも私の母が父の時みたいに帰ってきたと思われたみたいなの。この子には事情を説明したけど」
「なんだか厄介ごとみたいだなあ、大丈夫?」
「大丈夫なようにあなたがついてきたんでしょ? 頼りにしてるから」
そう言われてしまうと、ぐうの音も出なかった。
少年は時たまチラチラと後ろを向いていたが、街路の中央で一旦立ち止った。そして『イ』に向かって何かしらの言葉を告げて、側にあったあばら屋に吸い込まれていった。――そこには木戸すらついていない。
一体なんだろう? とヤシュタットが尋ねるより早く、間髪置かずに全ての家屋からトン族がぞろぞろと這い出てきた! 全員ホコリにまみれた粗末な格好をしており、無言のままヤシュタットと『イ』、エッセを取り囲んだ。
ヤシュタットはたじろぐが、同時に奇妙なことに気付いた。――彼らは全員子連れで、子供はみな栄養不良なのか、黒土のような肌色をしていた。大人たちも含め、みなドンと小突けば、そのままぐらりと土に還ってしまいそうなほどだ。
人の輪はじわじわと狭まっていく――。『イ』の視線の先に居る、オーバーオールを履いた、いかにも鉱夫という男が、道案内をしてくれた少年の肩に手を置いていた。彼の丸太のような両腕には、無数の深い古傷が走っていた。
「あの……」ヤシュタットが両手を小さく挙げて敵意がないことを示そうとするが、先にかの大男がぽつりと口を開いた。
「ホ チカス ベ サ?」
「え?」
すると他のトン族も口々に「ベ サ」「ベ ギ」と言いだし、収集がつかなくなった。
トン族の輪はますます小さくなっていく。それにつれ、彼らの表情が、ベール越しでも読み取れるようになった。それは哀願の表情だった。それを観察していると、ヤシュタットでも彼らの求めているものがわかった。
(この人たち、自分の子供を外に連れ出して欲しいんだ)
それはかつて、『イ』の両親がたどった道だった。『イ』は事情を説明しかねて、泣きそうな表情になっていた。そんな里親の顔を見たせいで、エッセも泣き出しそうになる。
「とりあえずこの場を離れよう。どこに行くかはわからないけれど」
「でも……」
と、『イ』はこの人たちを見捨てられずに逃げることをためらった。そもそも彼らに取り押さえられてしまえば、彼女でも動くに動けない。ヤシュタットなら捻り潰されてしまうだろう。――だが、蜘蛛の子を散らすように逃げ始めたのはトン族たちの方だった。
トン族は逃げる途中でも粛々と動く。だから迫って来るものの正体がよくわかった。――遠くから例の、バアアとか、メエエという声と、それとよく似た角笛の高らかな音色が響いてきた。その中にはザリザリという、鎖を引きずる音も混じる。
『イ』はあの少年に「こっちだよ」と腕を引かれていた。もちろん彼女はその腕に一方的に連れられることはなく、冷静にエッセとヤシュタットもひきつれる。三人は家屋の一つに吸い込まれていく。
建物の中は、外見以上にひどい代物だった。壁には漆喰が塗られていたり、裸のランプがぶら下がっているなどの家らしさは全くなかった。「とりあえず街らしくするために建てた」という、偽物の建築だった。屋根はついているのだが、所々に隙間があり、雨も夜露もしのげない。ひとつしかない湿った部屋の中央にはぽっかりと穴が開いており、そこには木切れを三角に組み合わせた、小さな屋根がついていた。そこからは腐ったツンとする臭いが漏れている。少年とその父親とみられる大男はそこに身体を機敏に滑り込ませた。『イ』もそこに滑り込み、エッセを中に降ろす。ヤシュタットも飛び込み、帽子と頭巾をかなぐり捨て、ちらと穴の外から街路を見る。――まるで塹壕戦のために築かれたトーチカみたいだった。
しばらく観察していると、先ほどヤシュタットを囲んだ人々以上に惨めな格好をしたトン族の男たちが鎖を肩に回し、黙々となにかを曳いている。やがて左手から鉄の車輪が姿を見せ、それに続いて、トン族をおそれおののかせた物の正体が見えた。それは蒸気機関――昨日の広場に鎮座していたものとは違い、あちこちの錆止めがはげて、一朝一夕の手入れでは動かせないような代物だった。しかしそのマダラ模様が毒蛇の皮のようで、かえって不気味さを醸し出していた。蒸気機関の上ではバフォメットが二人、四〇〇年くらい昔の聖職者の服装をまとって睨みを効かせていた。彼らの顔を覗き込もうとする前に、『イ』から思いっきり背中を引っ張られた。そのままヤシュタットは穴の中に落ちていった……。
「あそこの坑道は五人家族が暮らしていたんだけど、落盤で全員亡くなったんだって……」『イ』が親子の会話を逐一翻訳してヤシュタットに伝える。親子は使い捨てられたブリキ缶を湯呑み代わりにして、三人に差しだした。中では沸かしただけの生水が、けだるげに湯気を出している。ヤシュタットの頭に地下水のしずくがピチャンと当たった。五人の中央では得体の知れない機械油がチロチロと燃え、穴の奥からは話を一字一句聞き漏らすまいとする人々がじっと様子をうかがっているのだった。
タララの街並みは、ただの張り子だった。ここのフロギストン鉱山で働く人々はみな、ここが開発されたばかりのころの、浅いところを走る坑道を住処にしていた。坑道はクロバチの巣のように細かく仕切られ、それぞれに一世帯が住み着いている。彼らがあの街路に顔を出すのは、食料品や日用品の配給があるときぐらいだった。あの表にある掘っ立て小屋ですら一種のショーケースであり、実際の労働者の生活は、悲惨と十回声に出しても足りない程のもので、確かにこの街に居ては長生きできそうにない。
「ぼくは鞭でひっぱたかれても平気。こんなところに居るより、お外でサボってた方がずっといいんだもの」かの少年はそういって、懲りずにまた外に遊びに行ってしまう。彼の父は眉をひそめるが、引きとめることはしない。
誰もがこの街から出たがっていた。彼らにとっての希望はつまり『イ』の両親であり、二人のことはトン族の神話体系以上に重大な語り草になっていたのだ。しかも、億万長者になったとか、そういう尾ひれを派手につけて――。だから少年は早合点して『イ』を彼女の母親だと吹聴したのであった。
「そうか、その二人はもう、亡くなったのか……」少年の父親は、『イ』の両親が別に金持ちではなかったことより、その事実の方が堪えたようだった。この谷の外でも、決して楽な生活が待っているわけではないと思ったらしい。
少年の父親は『イ』とその両親の経歴をあらかた聞き出したあと、今度はなぜ二人の娘がこの街に戻ってきたのかと尋ねた。ヤシュタットが説明をするが、彼の訊き方は相槌も打たないトン族独特の会話法で、『イ』の会話方法でも、かなり愛想がいいものなのだと思い知らされるのだった。しかし彼はなんとか、
「――それでですね、この街にはダルダションに伸びる運河があると伺ったんです。どうすればそこにいけますか?」
父親はあごをなでる。
「この辺りは清水が豊富で、その水を集めてダルダション湖に水を供給している。――昔はそれを使って鉱石を運び出していたようだが、今はバフォメットが女王に拝謁する時しか使ってないということだ。どこに乗り場があるのかすら、俺たちは知らん」
「そうですか――」しかし今でも、それは存在しているということだ。ということは、こっそり忍び込むか、バフォメットと交渉するかすれば逃走に使える。しかし、この街の抱える事情を考えると、どちらも無理そうだった。
「……それで、俺からもう一つ、訊きたい」
「?」
「今日の街の雰囲気はおかしい。あんたもそう思うだろう」少年の父親は『イ』にささやく。
「そうだ、あの引っ張られていた機械、何なんですか? 相当年代モノみたいだったけど」
トン族の二人はヤシュタットの問いに直接は応えてくれず、「あれは年明けにしか出されなかったんだがな……」という、つかみどころのない言葉が漏れるだけだった。
外ではまたあの角笛が鳴らされ、坑道内をグルグルと響きわたる。父親が中腰になると同時に、彼の子供がもう戻ってきた。――構内には小石を踏みならす音も上げ潮にように鳴って、頭上に今度は小石がこつんと当たり、じんわりと痛む。
「フォ サカ サ!」
「ニャ?」親子はあせった様子で話を始めた。それの内容をヤシュタットは『イ』に訊く。
「トン族は全員広場に集まれって命令が出たんだって」
「え、――は、配給?」
『イ』はかぶりを振った。そんな生易しいものではないらしい。――再び親子の会話に耳を傾ける。
「仕事中だろうが病人だろうが関係なしに、あと十分で出てこいって。……もし遅れたら坑道内に水を落とすって」
「それって危ないじゃないか、メチャクチャ!」ヤシュタットの声もガンガンと響く。危険だとわかれば長居は無用で、五人はさっさと上を目指して這い登っていく。
「あなたはこの子と一緒に居て」
「え?」『イ』はエッセをヤシュタットに預けた。
「私たちばかりのところに他の種族――あなたも含めてよ――が混じると、場合によっては圧死するから」
「あ、なるほど……」
「それで、出た後は宿泊所にいる二人と連絡を取って、お願い」
ヤシュタットは納得するが、エッセは承知しない。彼女をまた放さなくなってしまった。
「エッセ、ぼくといよう」
「やだっ!」
「『イ』とはすぐに会えるさ、ちょっとの間だけだよ。――ね?」彼の猫なで声は辛うじて通じたらしい。パッとこぶしの力を緩めた隙に、エッセを素早くおぶった。
「それじゃあ、丁度いい頃合いで上がってきて」
「でもぼくは、君ほど勘はよくないよ」
「大丈夫、なんとかなるから。――不安ならエッセの勘に頼れば?」『イ』はからりと言う。そして親子二人と一緒に、地上を目指していった。ヤシュタットは苦笑した。
「ホントにすぐあえる?」姿が見えなくなると、エッセが耳元でささやいた。
「会えるさ。昨日の夜だって、すぐに見つかったでしょ?」ヤシュタットはまだチロチロと炎を上げる廃油ランプを持った。煙がひどく、とても顔のそばに置けない代物だった。
ヤシュタットとエッセはしばらくその場でじっと動かずにいた。エッセはあの親子が大事そうにしていた家財道具をいくつか拾い、そのまま手放さない。……しかし、エッセが
「もうここにいたくない」とムズがり出した。「そうか、じゃあ行こう。――口に入れちゃだめだよ」
ヤシュタットは彼女の勘の虫に従った。彼は煙でいぶされながらも、他のトン族の年寄りの背中を追い、何とか地上にまで達した。
そこははじめに入った穴倉ではなかった。頭が割れそうなほど挑発的な角笛の音が谷間に響いていた。ヤシュタットは音楽が分からなかったが、甚だ不吉な音色だった。
蹄がカチカチと鳴る音が聞こえたので、ヤシュタットは反射的に物影に隠れ、それをやり過ごす。そっと足音の正体を観察すると、一人のバフォメット――昨日少年をいじめていた男ではない――が見回りをしていた。彼は王家の紋章の刺繍がが入った、オータ後の内戦時代に使われた尋問服をまとい、とても長い槍を携帯していた。あんな細身では、トン族を攻撃することには敵わないだろう。
男はヤシュタットが這い出た穴とは別の所から顔を出したトン族に罵声を浴びせ、その槍で小突きまわしながらどこかへ曳きたてていった。
「さ、フシーオとビンディーを迎えに行こう」
「おねえちゃんは?」
「先に二人に会うのがお姉ちゃんとの約束でしょ?」そういうとエッセはおとなしくなった。しかし、土地に馴染みがないので、方向感覚がつかめない。若干焦りを憶えていると、――ボンッという、大地と鼓膜を打ち鳴らすような激しい爆発音が谷間にこだました。エッセはヤシュタットの背中で悲鳴を挙げたが、よく通るその声ですらかき消された。その爆発の方向を見やると、真っ黒い煙が立ち上り、なにやら部品らしきものが四方八方に散らされていくのが確認できる。――その内のいくつかが、ヤシュタットたちの方に飛んでくる! 二人はまた物影に隠れる羽目になった。
飛んできた破片は、街路にちりじりに落下し、バラバラと豪雨のような音を立てた。――それが収まるとヤシュタットは落下物のいくつかを見る。それらはぶすぶすとくすぶり、真っ黒に焦げていた。吸血族の手袋をポケットにねじこんでいたので、それをはめて、一つつまみあげる。――機械の装甲らしい。
ヤシュタットはしばらくその破片を眺めていたが、そばにあった別の破片が、異彩を放っているのに気付いた。恐る恐るそれに接近し、観察する。炎にまかれた赤レンガのようで、彼はそれを、慎重につつく。――その瞬間、それはボロリと崩れ、風のまにまに吹かれて跡形もなく消えてしまった。周囲でも、似たような破片が、崩れて元の形を失ってゆく。ヤシュタットはそれの正体に気がついてしまい、激しい吐き気を催した。
「ジャスタ……?」エッセがまた囁く。彼女を動揺させてはならない。何とか胃から逆流する生水を押し戻した。
「平気だよ、平気。それよりも、みんなに――」そう言いかけた時、今度は地鳴りを味わうことになった。あの爆発で呆けた人が、眼の前で起きた惨事――詳細の程はわからないが――をようやく飲み込み、我先にと逃げ始めたのだ。トン族の足音は軍馬の群れよりもすさまじく、それがドンドンと二人の方に近づいてくる!
(逃げないと、あの進路から!)
先ほどされたばかりの、『イ』の忠告が脳裏によぎる。ヤシュタットたちヒト族の身体は、踏みつぶされて四散したあとでも、醜い肉塊として、ずっとその場に残り続けるのだ。
道路の湾曲から、恐慌状態のトン族が、悲鳴もあげずに、無表情のままこちらに接近してくる。その様はさながら、以前『イ』に教えてもらった、心を持たない土人形奴隷だった時代の光景だった。
ヤシュタットは必死にトン族の先頭を走るが、彼らの振動に呼応して、床の石畳がザクザクと割れ、立っていられない! それでも何度もエッセをおぶり直し、駆けて行くと、今度は前方から尋問服を着たバフォメットたちが隊列を組んでいるのを発見してしまった。しかも彼らは旧式の先込め銃を構えていた。ヤシュタットは恐怖心に憑かれ、思わずその場で足踏みをしてしまう。
トン族の群れに飲み込まれようとした瞬間のことだった。彼と同じ真っ黒の防光服を着た男が道路脇の民家から飛び出し――誰かはその、防光服に隠された体格ですぐわかった――ヤシュタットたちを安全なところへ引っ張って行った。
「フシーオ! なんだってここに君が――」
「あたしもいるよ」ドシンと地面に転がったヤシュタットを、ビンディーが抱き起こす。一方の彼女は肌寒そうな軽装をしている。
「ここも危ないぜ。――ちょっと高みの見物にはもってこいの、安全なところがある」
エッセはフシーオに抱かれていた。彼は早口でまくしたて、そのまま廃屋の裏手から飛び出す。三人もそれに続いた。――ハリボテの家々を縫って行くと例の崖がある。ほんの少し傾斜が緩く、近くでみると、取りかかる個所がたくさんあった。その内の一カ所に頼り、五人は這い登る。
ビンディーはさすがに身軽だった。ヤシュタットは彼女に、えっちらおっちらとついていく。エッセがフシーオにおぶられるのを嫌がってしまい、結局彼が背負うことになったからだ。
「どうもここにも家を造る予定だったけど、なんかの理由でほったらかされたみたいね……」彼女は羽根の先で取りかかりの岩を払うと、ノミの跡が出てくる。
「そんなことより下を見てみろよ」
フシーオに言われた通りにすると、下界ではもうもうと土煙りが立ち、トン族の群衆が、まるで小魚の群れのように元の道へ引き返すところだった。彼らは手前で待ちうける銃の列に恐れをなしたというより、小刻みに鳴らされる角笛、そして太鼓の音色に脊髄反射した、という様子らしい。
「へっへ、おかしなもんだな。山羊が牧童のふりをして、人の形をした奴らを裁いているぞ」
「ちょっと、やめてよ」
なんだかフシーオの悪趣味さに、拍車がかかっているように思える。トン族の群衆はようやく落ち着きを取り戻し、後退は粛々としたものに換わった。ヤシュタットも崖の下から彼らを追う。
「あの人たち、結局なんのために集められたんだろう? それにさっきの爆発は?」そして、あの〈肉片〉は誰のものなのか?
「見ればわかるさ――ほら」フシーオは右手を放した弾みでずり落ちそうになるが、辛うじてしがみつく。そこはヤシュタットたちが少年に案内された時に通った広場で、老婆の宿泊所があるのはこことは反対側の断崖ということになる。そこにはあの街を山車に載せられて見世物にされていた重機がぺしゃんこにひしゃげてひっくり返り、あちこちに赤い血糊が点在している。負傷者らしきバフォメットが担架に乗せられ運ばれていくが、ぴくりとも動かない。担架が消えた後、トン族がぞろぞろと道を埋め尽し、すし詰めになった。
「人がようやく集まってきたな――。屋根伝いに近付いて、もっと近づこう」
「あの機械はね、処刑用の執行装置なの」ビンディーが説明する。
「処刑――」
「それもトン族専用のね。あの人たちには縛り首も、斧も効かないから」
ビンディーが彼女の父親に聞かされた話によると、蒸気機関などの動力装置が発明されたのは内戦中で、そもそもの目的は工業用でも軍事用でもなく、敵方のスパイだと疑われたトン族を抹殺するための道具だったという。
「二台がかりで両手両足を引っ張るか、地面に埋めた足かせに固定して、両手を鎖で縛って、鎖を思い切り巻きあげる。――そのあとはどうなるか、わかるでしょ?」
「……うん」そして伸びきった身体は引っ張りに耐えかねて、握りつぶしたクッキーみたいに……。
ビンディーはひらりと、崖からボロ屋敷に跳び移った。
「どんな機械にも、その成り立ちには暗い歴史があるんだ。職人ならそのことを心の片隅に置いておけって、親父の手伝いを始めた時に教えられた。――登れる?」
「あ、なんとか――よっ」ビンディーのように身軽にはいかなかったが、ヤシュタットも屋根に移る。エッセにも怪我はない。フシーオも屋根の上に降りる。
「あの機械が吹き飛んだのはなんで?」
「釜の温度をいきなり挙げようとしたせいだよ、多分。――あの形式の機関は釜に軟鉄を使ってるから、あまり馬力が出せないんだ」ビンディーは鼻からため息をつく。「殺しの片棒を担がされる機械も可哀そうだけど、間違った使い方をされて壊されるってのも、ね」
広場は再び掃き清められた。もう一台の処刑装置は順調に唸りを挙げて待機している。例の時代錯誤な服装を着たバフォメットたちがぞろぞろとやってきて、なにやら長々とした分の大仰に読み始めた。本来この役をこなすはずだった者がさっきの事故に巻き込まれたのか、口調はたどたどしく、所々に混じる訛りに、外国人のヤシュタットも違和感をおぼえる。
「あの儀式には小半時はかかるんだ。もっと近くに行っても大丈夫だな」
「一体この街で何があったの? これからあそこで誰かが処刑されるというのはわかるんだけど」
「『この街』じゃなくて『この国』な」
「え?」
「昨日非常事態宣言が、女王陛下と宰相名義で発令されたんだよ。コバトでのフリゲート艦沈没事件、シャンバンハでの放火事件、一昨日のシタ・サーブでの殺人、破壊活動――いや、シタ・サーブだけじゃなくて、その他の都市でも政府の重要な機関が襲撃されたり、要人が暗殺されたりしていたんだ。『勇者オータが蘇った』とかなんとかで、ホードガレイ中大騒ぎさ。ネズミ一匹でも朽ち縄でも、なにが出ても驚いて失禁しそうなノリだ」
ヤシュタットは眉をひそめる。しかし彼の不愉快などお構いなしに、フシーオは実に楽しそうに説明を続ける。彼は広場をこそっと指差した。
「とりわけビビりまくったのはあいつら」
「バフォメットが? なんで?」
「わかんないのかよ」フシーオはまるで、ヤシュタットを友ではなく従者として見ているかのような口ぶりだった。「それじゃ一から説明するぞ。――まずはな、この非常事態宣言が出されて、まず何がどうなるかというとだな、軍や保安省はまずは主要なインフラが破壊されないように、そちらに人を回すわけだ。現に今、陸軍の一旅団が、治安維持のためこのタララにまで向かっている」
「え! そんなのあたし、初耳だよ。……フシーオさん、そんなことどこで訊いたのよ」
「ともかく、この街はただの鉱山の街ってわけじゃない。ここは首都ダルダシオーンに供給されている水源の一つでもあるわけだ。だから水質を悪化させないよう、フロギストン抽出を現地では一切行えないし、同じく水を汚すから農業も行えない」
そう説明されると、この霧ばかり立ち込める街が、とてつもなく重要な地点だとわかり、バラックだらけの街並みも、心なしか黄金色に輝いて見えた。
「……そうだ、そういうことなら、今すぐこおから逃げないと!」
「まだ話を聞いていろ! それでな、軍隊が駐留した後この街はどうなるかっていうと、バフォメットの奴らはそのまま、鉱山は国有化されて、それどころか自分たちがせっせと溜めこんできた財産全てが接収されると考えたわけだな。それだけは何とかして阻止しなけりゃならない」
「それと公開処刑と、どう関係が――」
「だから、つまりはご機嫌うかがいだよ。反乱の恐れがある奴らをドンドン見せしめに殺すことで、トン族をキチンと押さえつけているということを見せておきたいんだよ。わざわざ古いしきたりを蘇らせてまでな」
「だけどこんなのリンチじゃないか。現代でそんなことをやって、許されるわけがない!」
「そうだよ。とうの昔に尋問官制は廃止されているし、――良く見てみな。そこにいるあいつが読んでる証文、黄ばんでボロボロだろ? 本当なら図書館の書庫にしまってあるような古文書を今のご時世に通用するだなんておもってんだぜ。
……お笑い草だよな。そんなことをしたって、自分たちの首を絞めるだけだってのに、臆病風に吹かれていると、そんなこともわかんないんだよな」フシーオは嘲笑した。
眼の前で長文を読むバフォメットの男は、罪状を読み始めた。――特定の個人に対してのものではなく、古くからトン族に掛けられた誹謗中傷を列挙しているだけの内容だった。
「汝らは裸足で歩いて野の花を踏みつぶし、異なる言葉で恐怖と混乱を播き、呪わしい虚ろな瞳は……」云々。実に陳腐で、退屈な内容だが、儀式の中心に居るバフォメットたちは真剣そのものだった。
ヤシュタットはフシーオの話を飲み込み、自分の身に危険が迫っていることぐらい自覚していたが、それでもこの儀式に遠目から付き合っていると、そのあまりの冗長ぶりに、つまらない大学の授業を聴いているときと同じく睡魔に襲われた。――しかし、処刑の儀式が次の段階に進むと同時に、眠気は全て吹き飛ぶ。いよいよ処刑が始まったのだ。
「さてここからは被告人個人の罪状を、女王陛下に成りかわって申し伝える」
バフォメットたちは急ごしらえの台座の上で儀式を執り行っていた。そこに六人のトン族が三角帽をかぶせられ、足を鎖で繋がれた状態で引きたてられてくる。男女それぞれ三人ずつで、女性はみな『イ』のように滑らかな髪を帽子の後ろから垂れ下げており、色んな意味でゾクッとさせられる。
「……はタララ総領事一族の資産を犯した罪、……は集団謀議、……は窃盗……」書面はよほどむつかしい用語で書かれているのか、読み手は途中でしょっちゅうつっかえた。
「あの罪状はきちんと調べ上げたものなのかい?」
「まさか! 適当にその場で決めてるに決まってんだろ。あいつら、陸軍が到着して止められるまで、何人でも殺し続けるつもりだ」
「止めないと!」さもないと、恐怖に憑かれたバフォメットも、トン族もひたすら不幸になるだけだった。それに――
「そうだな、ひと波乱起こして、その隙に運河を探し出しちまおう」フシーオがひきとった。
「あの蒸気機関ならあたしがお釈迦にできるけど――」
「え、できるの?」
「うん、あれはたくさん生産された型で、据え置きするやつだから、いざ移動させるときにバラしやすくつくってあるんだ。――ちょっと親父の工具を取ってくる必要があるけど」
「それまで時間稼ぎと、陽動をしないといけないな」
「それはフシーオさんたちに頼むね。お願い、だれも殺させないで」
ビンディーはそう言い残すと敏捷に飛びあがり、一度石畳がはげた街路に着地すると、広場に集まる視線の裏をかいて、反対側のバラックの街並みに移った。
罪状の読み上げは終わり、被告人の異議申し立てに移った。――しかしこれはホードガレイアでしか認められていない。トン語には証文としての効力がないのだ。なのでまな板の上のトン族はあっと言う間に静かになった。
「それでは女王陛下の御名代により、貴様らを死刑に処す。まずは『タ』!」一人の女性が喉元に細い槍を突き付けられながら立ち上がる。他の五人とつながれていた鎖が外され、一歩一歩、冷え切った雰囲気の中、地面に埋め込まれた足かせ目指して進んでいく。怪力を生み出すはずの彼女の両手は後ろに回され、幾重もの鎖でぐるぐる巻きにされていた。それを遠目で見つめるトン族の人々は、迫りくる死に恐怖するわけでもなければ、よい見世物だと心を弾ませているわけでもないようだった。
「ねえねえ、おねえちゃんは?」
「――うん、『イ』も見つけよう」ヤシュタットは息を殺しつつ応えるが、間近で異常事態があった。
「あれ、アイツはどこだ?」さっきまで傍らに居たはずのフシーオが、いなくなっていた。そっと屋根の下から見降ろしても、どこにもいない。彼が何を企んでいるのかは知らないが、ヤシュタットとエッセだけが屋根の上に残されていた。
「……ぼくらも行こう」フシーオは心配だが、とにかく『イ』と合流しなければ。彼女だって、座して同胞が八つ裂きにされているのを黙認しているはずがない。場合によっては手荒な手段に出てしまうかもしれない。そうなる前に、自分が汚れ役を背負おう。
ヤシュタットは瓦を一枚剥がし、エッセの手を引きながらゆっくりと広場の方へ屋根伝いに迫る。エッセの足と矯正器具が素焼きの瓦をこすり、カサカサと音を立てる。……時はまさしく、女性の足が拘束され、三角帽で顔を完全に覆い隠されたところだった。そして尋問官が彼女の首に鋼鉄の鎖をまわし、フックをガチャリと留めようとした。ヤシュタットはそこに狙いを定め、瓦をぶん投げた!
暗い色の瓦は緩やかな放物線を描き、ガンッと、尋問官の頭に当たった! バフォメットは何が起こったのかもわからぬうちに、悲鳴一つあげずに卒倒する。
「やった!」エッセが黄色い声を出す。
「な、あ……。し、神聖な儀式を、邪魔――ぼ、冒涜するものは何者ぞ!」尋問官の長は動転してその場で足踏みしつつ、呂律がまわらない中、何とか威厳を示そうとむつかしい言葉を並べたて、ヤシュタットに向かって吠えるた。ヤシュタットはお構いなしに、さらに瓦を取っては、手首で回転をつけて広場に投げつけていく。バフォメットたちはそれだけでもオロオロうろたえ、無闇に歩きまわったことによりかえって自分から瓦にぶつかるかたちになった。
「あの吸血族を捕まえろ! 多少の傷を負わせても構わん!」ヤシュタットに向けて、先込め銃がずらりと並べられた。その筒の穴を見て、ヤシュタットは顔面から血の気が引いた。
(そろそろまずいかな)ヤシュタットはエッセをかばいながらもその場から逃げ出そうとする。――その前にもう一撃、瓦を盲滅法に投げつけ、それは運よく一丁の銃身にガツンと当たって、それに身をすくめた男が暴発させた。その銃声で、またもや暴動が起きそうな気配が、悪寒を伴って街に拡がる。
「……ネ ホソコ ジュ、ネ ココ!」しかし予感が行動に移る前に、聞きなじんだ、とても良く通る声が響く。そのトン語の短い言葉に、バフォメットたちもたじろぎ、だまりこくる。
(おね……)エッセがそう言いかけるのを、ヤシュタットは遮った。
「たったいま、厳粛な審判の場を、けがらわしい言葉で台無しに――バアア――誰だ!」
「私です!」『イ』はきっぱりと、ホードガレイアで応えた。自分たちよりも流暢な言葉遣いを聞いて、バフォメットたちは混乱したようだ。メエメエ、バアバアと無闇やたらとざわめきだす。トン族の人だかりの中が、もぞもぞと動き、やがて街路に『イ』が現れた。
「なんだ、貴様も土くれではないか!」
「そうです。見ての通り、私もトンです」
槍を構えた男たちが二人、舌を出して体温を逃がしながらじりじりと近寄り、『イ』の喉元に矛の先を突き付ける。――彼女はそれを二本とも、片手でしっかとつかむなり、ボキリとへし折ってしまった。彼らは今まで、トン族からこんな恥辱を受けたことはなかったため、折れた木の棒を抱え「あああ」と悲鳴をあげて、ぴょんぴょん跳ねながらどこかへ逃げて行ってしまった。
この様を見せられていた長は、わなわなと震え、角をひと振りした。その仕草で冷静さを幾分か取り戻し、威厳をこめてこう言った。
「――神聖な儀式を妨害した貴様には、内乱首謀罪を適応してやろう。名を言え」
「イ! 母からもらった名前です」そう名乗った途端、トン族の間で、波紋のようにざわめきが拡がる。
「イ……」「ホホソコ……」「イ……」「ホホソコ……」
尋問官たちはその名に一切の感慨を憶えていない様子だったが、彼女が自分たちを仇なすという気配だけは濃厚に感じたのだろう。口からよだれを溢れさせ、過呼吸なほど息をする。『イ』は彼らの、そしてトン族の動揺など構わず、尋問官たちに迫る。
「と、止まれ!」警告をするのと同時に、先込め銃が火を噴いた! 丸い弾丸は至近距離から、『イ』の右こめかみに直撃する!
これが他の支族なら助からなかっただろう。しかし鉛玉は彼女の固い皮膚の一部分を砕くことしかできず、傷口からは血が流れ、それは空気に触れた瞬間乾いて砂粒になり、消えて行った。
「き、き、き、きさんがやはり、は、反乱の首謀者だな。オータの奴隷め、土くれめ!」バフォメットたちはすっかり色を失い、ただ罵詈雑言を浴びせるのみになった。
「怖がらせましたが、私は別に、あなたたちをどうこうしようというわけではありません。ただ、こんな馬鹿げた裁判ごっこを、すぐにやめて頂きたいのです」『イ』は血を流しながらも、知的階級の使う上品なホードガレイアで彼らを諭そうとする。
しかし彼らは骨の髄まで恐怖に取りつかれていた。
「ここにいるもの、全員殺せ! まずはそこにいる女をなんとしても八つ裂きにするのだ! ――バアア、今すぐだ!」長は今にも抜けそうな腰でそう命令する。蒸気機関のそばには、ヤシュタットに瓦を浴びせられてまだ伸びているバフォメットと、処刑されるのを待つ最初の女性がいた。別のバフォメットが、その任務を遂行することこそ最後の希望、とばかりに、女性の元に駆け寄り、鎖のフックをかけようとする。
「駄目だ! 殺すな!」ヤシュタットは屋根から飛び降り、女性の元へ一目散に駆けだす。――途中、また銃声が鳴り、足元で弾が跳ねたらしいが、気にしてなんていられなかった。そのままバフォメットに飛びかかり、つかみ合いになった。
そのバフォメットはなかなか果敢で、まずはヤシュタットのかぶっていた頭巾をはがした。――相手が吸血族なら、これで勝ったも同然なのだが、中身はただのヒト族だ。ヤシュタットは男の角をつかみ、そのまま頭を地面に叩きつけようとする。――しかし男は、手刀の部分に付く蹄の痕跡を、ヤシュタットの額に喰らわす。その固い一撃で、ヤシュタットの額はぱっくりと割れた。だらだらと溢れる血で、彼の視界が遮られる。
バフォメットはその隙をついてバフォメットは、強靭な膝で彼のみぞおちに痛恨の一撃を加える! ヤシュタットはたまらず、ぐううとうめき、呼吸も出来ず転がった。それを見届けると、バフォメットはヤシュタットの息の根をとめようと、落ちている槍の先をつかんだ。
「そいつよりも、この女を殺せ! まずは土くれどもに死の恐怖を見せつけるのだ!」壇上から長が声高に命令する。ヤシュタットはまな板の鯉というわけだった。バフォメットは鎖を、糸の始末みたいにぐるぐると巻き、フックで留めた。
処刑の準備が、全て整った。
「その人は私の友人です。傷つけるのはやめてください!」
「もうだめだ、何言っても通じない……」ヤシュタットは仰向けに転がされながら、真っ赤な視界の中で呻く。首筋に、ヒリヒリとした質感の、冷たい物質が接近してくるのを感じられた。
『イ』はどしっと腰を降ろし、女性と蒸気機関をつなぐ鎖にしがみつく。エッセもよたよた歩きで二人の側による。『イ』の元に行くか、苦しむヤシュタットの元に行くかで、彼女は迷い、硬直する。
「来てはだめ!」と、ヤシュタットと『イ』は同時に叫んだ。
「さあ、始めろ。鎖を巻き上げ、この謀反人どもを虱潰しにするのだ。女王陛下、万歳!」バフォメットたちは一斉に、万歳、万歳と叫び、国歌斉唱まで始めた。一方のトン族は沈黙を守り続けている。
蒸気機関が、主たちの叫びに呼応し、煙突から真っ白な蒸気を噴きあげた! 鎖がじゃらりと鳴り、たるみが少しずつ引き伸ばされていく。女性はもう、自分に迫る死に身を委ねてしまっているらしかった。しかし『イ』はあきらめず、重機との根気比べに挑む――。
しかし勝負は不戦勝という形で、あっけなく終わった。ズン! という重々しい、蒸気機関が出す音とは明らかに異なる音が響く。その異常事態に、バフォメットは一転沈黙した。ヤシュタットは転がされたまま、目元を外套の端で拭った。束の間、視界が蘇る。
見れば、深緑色の機械が、鯨の潮吹きのように、細い蒸気を天に向けて噴出させながら、ズブズブと地下に沈んでゆくではないか! 蒸気機関はブ、ウウ、ウ、ウ、ウウ……と鳴りを潜めてゆき、蒸気を全身から、もうもうと昇らせて全身がまったく見えなくなった。まるで地下から生えた大きな口に噛みつかれ、内臓を押し潰されて断末魔を挙げる小動物のようだった。
蒸気機関が沈降するにつれ、女性を縛る鎖がピンとはじけ、女性の身体も痙攣したかのように引っ張られた。しかし彼女の身体が上下に裂かれる前に、機関の沈み込みは停止した。機械の沈没と同時に、間欠泉のような水柱が、蒸気と共にドドウと昇る。
バフォメットたちは足を震わせて、口をだらんと開きながら街の――そして抑圧のシンボルの死をただ眺めていた。そんな彼らの立ちつくす壇の下からも、ぷかり湯気があがる。
「ううう、羽根が重い……」そこからはビンディーが、全身ずぶぬれではい出してきた。「うわ、二人とも、大けがしてるじゃない! 大丈夫?」
「あ、あんまり大丈夫じゃない……」ヤシュタットが傷口を押さえながら、ほうほうの体で応える。「君が蒸気機関を壊したんだね?」
「うん、何とか間に合ったみたいね――」
ここで今まで呆けていたバフォメットたちが、我に返った。しかし彼らは後ろ盾を失い、いたずらに騒ぐだけだった。
「あああ、貴様ら――、ち、ち、ち……」四舌とよだれをみっともなく垂れさがり、長は泡を吹いた。そして
「っせ、あ、頭狙えッ!」と、たどたどしい身ぶり手ぶりで、ヤシュタットたちの銃殺を命じた。彼らに、震える銃口が次々と向けられ、『イ』が咄嗟に壁となった。
「ぎゃっ」「バアア」――。苦痛にうめいたのは銃を構えたバフォメットたちだった。なんと、さっきまで沈黙と傍観を貫いていたトン族の人々が、足元に転がる石ころを拾っては、壇上にいるバフォメットたちに投げ点け始めたのである。石つぶての雨あられは彼らの角を砕き、豪勢な衣装も、その下に隠された毛皮も裂かれていく。血も流れ、彼らはとうとうたまりかねて自分たちの根城へと逃げ出す。――イタチの最後っ屁とばかりに群衆へ向かって弾丸を撃ち込むが、轟音がいたずらに鳴り響くばかりで、弾は人々の隙間に消えた。彼らは長い間自分たちに恐怖心を植え付け、心の障壁になっていたあの機械から解放された。
「あたしたちも追い掛ける?」
「待って、その前に――」
「傷の手当て?」
「それもあるけど、先に……」『イ』は額を押さえながら立ち上がり、勇んでかつての支配者たちを追おうとする人々を片手で制した。
「ネ ペコ、ベ クチャスコ パ テ……」
人々はまた止まり、じっと彼女を見つめた。
「なんて言ったの?」
「先に、縛られた人を解放する方が先だって言ったの。――この鎖、ちぎれないかな」
「トン族でも無理なの? じゃあ、待ってて。いいものがあるから」ビンディーは水浸しになった工具袋を漁った。彼女が取り出したのは重そうなやすりで、それを『イ』に手渡した。
「あたしはこっちの首の鎖を解くから、『イ』さんは足かせをこれで切っちゃって」
「ぼくは?」
「ジャスタさんは傷口をふさいでたら?」
ヤシュタットはおとなしく、言われた通りにする。額を押さえる手の平に、ヌルリとした触感が伝わる。エッセが心配して――というより、興味本位で彼の指の隙間から傷を覗こうと試みた。
ビンディーは水の滴る両腕で、手際よく鎖を解き、三角帽をはずした。女性は眼に涙を浮かばせていた。お次は両腕の鎖を解きにかかる。『イ』も素早くやすりを動かし、彼女を完全に自由にした。――二人がせっせと同胞を救出している間も、トン族の人々は置物のように、事態が動くのを待っている。
解放された女性は、手足が完全に自由になると、死の恐怖からも解放され、その場でさめざめと泣き崩れた。それが心ある存在の自然な反応だろう。二人は残る五人の囚人たちも自由にしようとする。
「ねえ、どうやってあの蒸気機関を地面に叩き落したの?」ヤシュタットは二本のネジまわしで錠前をこじ開けているビンディーに訊いた。彼女は作業をとめずに応える。
「あの機械がどこから水を補給しているのかって考えてね、地下にもぐり込んでみたの。そしたらこの広場の地下、まるまる貯水タンクになってて、そこから冷却水を補給しててね。すごいよ、まるで地下水脈の運河だ」
「運河――」
ガチャリと音がし、男性を後ろ手に縛っていたくびきが外された。ビンディーは少し手を休ませて眉毛を整えると、次の女性の鍵を外す。――『イ』もその間に二人分の鎖を断ち切っていた。
「それで?」
「配管がウネウネのたくっててね……。どれかのボルトをはずしちゃえば熱交換が止ままるんだけど、そうしちゃうとまたさっきみたく爆発するかもでしょ?」
「いや、それは知らないけど……」
「とにかくそれじゃあ大惨事だなっておもって、ただ止める以外にもっと方法はないかなーって考えて、金づちで弱い所叩きまくってたらボキっと折れてそのまま天井からグシャグシャグシャ……って」彼女は多少興奮した様子で、作業の片手間に両手を振ってみせた。
「冗談だろう、機械がそんな都合よく一気に壊れるかい!」ビンディーはぺろりと舌を出した。今の話は、だいぶ脚色したものらしい。
さて十分もしないうちに、残りの五人も自由の身にすることが出来た。両手についた鉄粉をパラパラと払い、頭から流れる〈血〉をぬぐって『イ』は立ちあがる。――しかし助けられた人達はこれからどうすればいいのか、わからずにただその場にへたり込むばかりだ。蒸気機関が沈んだ穴からは、煮こぼした鍋のように、じゅうじゅうと蒸気が噴き出している。
「さて、これからどうするの? この人たちを連れて、この街から逃げるの?」
『イ』はかぶりを振った。
「とりあえずあなたと、私の怪我の手当てをしよう。この人たちには……、うん」彼女はしばらく思案した。「陸軍がやってきても、消決して抵抗しないように、言い含めないと」
「アッ、そういえば、フシーオさんはどこ行ったの?」『イ』から返却されたやすりをしまったビンディーが、そわそわとする。
「それが、目を離した隙に居なくなってたんだ」
「ふーん、……あの人どうしちゃったの? 突然むつかしい話をし始めたりさ。元々からあんな感じの人だったの?」
「いや、固い話は大っ嫌いだったはずだけど。そういう話をされると酒が不味くなるとかなんとか」
「……探しにいかないと、あたし嫌な予感がするよ」ビンディーは浮き足立つ。
「三人はお婆さんの所へ行って手当てをしてもらって。私はこの人たちをなんとかしてから追い掛けるから」そう言ったのち、『イ』はエッセの視線に気付いた。「大丈夫、私の怪我はツバつけとけば治るから。――さ、もう行って。私だって足と健康には自信あるよ」
ヤシュタットは乾き始めた血をもう一度拭い、エッセを抱きかかえた。『イ』が何かを呼び掛けると、トンの人々は、さあっと進路をつくる。まるで心を操る呪文を掛けられたみたいで、その割れ目を三人は走っていく。
宿泊所の前には、熊のように大きな影と、それとは対照的にちょこんとした影の二つがたたずんでいた。――それの一つはフシーオのものではなかった。あの少年の父親だ。
「ああ、あなた達かい……。あらやだ、ひどい怪我をしているじゃないの」
「一体何があったんですか?」
「それを訊きたいのはあたしの方だよ。――ラッパがやかましく鳴りだして、あたしったら恐くて全然動けなかったんだけどさ。あんたたちのお仲間の、背の高いヒトがこの人の子供をつれて戻ってきてさ……」フシーオのことだ。
「それで荷物を自分の分だけまとめて、その子をつれて勝手に出て行っちゃって……」
「どこに行くとか言ってましたか?」
「いやあ、『この子の案内があるから平気だ』としか言ってなかったねえ。わたしが何を言っても聞く耳持たなくて、ほんと、風みたいにいっちまったよ」
「そうですか……」
さて少年の父親である。彼は群衆の中、息子がいなくなったということを身ぶり手ぶりだけで伝えた。――しかし言葉が通じないので、要領を得ない。老婆もあまりトン語は達者ではなかった。
「とにかくフシーオはあの男の子を道案内にして、この街から出ようとしてるみたいだな」
「すると、駅から?」
「それはないと思うよ。列車なんて動いてないよ。これから兵隊が来るんだし」
「へ、兵隊? あんたたちを捕まえにくるのかい?」
「いえ、そうじゃないんですけれど……」しかし老婆は、当然のことながら三人を不審な目で見る。
「お婆さんには迷惑はかけません。とにかく傷の手当てだけしてもらっていいですか? そしたらぼくらもフシーオを追いかけます」老婆は煮沸した手ぬぐいを破って、それを包帯代わりにした。ひょっとしたら縫合も必要なのかもしれないが、この街にはバフォメットを診る医者しかおらず、バフォメットの棲む地区――通称、宮殿――から絶対に出てこないという。頼りにはなりそうもない。
「バフォメットは普段、そこから出てこないのよ。トンを威嚇してまわる時以外は」
「ここからどう行けばいいですか?」
「それはそこの父親にお訊きなさいな――」
老婆は荷物を持っていけと暗に含めたが、出て『イ』がまだ残っているので、フシーオを見つけるまで、追い出すことだけは勘弁してくれるよう頭を下げた。
「で、どこを探せばいいのか、目星はあるの?」ビンディーは乾いた服に着替えていた。
「あいつはこの街に隠された古い運河を探しにいったんだと思う。それを使ってこの街を脱出するんだ」
「あたしたちを置いて?」
「……」まさか、あいつは口調こそ軽いが、決して薄情な人間ではない。弟が生まれて、故郷に帰ろうとしているような男だ。第一、たった一人逃げる大儀が見当たらなかった。
「とにかく、バフォメットの棲むところに行ってみよう。――あの」ヤシュタットは息子とはぐれて途方に暮れているトンの父親に話しかけるが、あいにく言葉が通じない。身ぶりや表情での伝達も上手くいかず、『イ』がいかに自分たちと合わせてくれていたのか、痛感する。
困った――、ヤシュタットは頬をかく。
「ハ ムノ、ベ ベ!」
「えっ?」
思わず周囲を見渡し、声の主を探す――。
「ハ ムノ! ハ ムノ! ニィ?」
それは視界の下にいた。エッセがたどたどしくトン語を操っていたのだ。
「あなた、トン語できるの?」
「おねえちゃんがしゃべってるの、おぼえただけ」
「――で、なんて言ったの?」
ヤシュタットが尋ねるが、エッセはきょとんと首をかしげた。
「ベ ホホスコ ハ」しかし、何かしらの意味が通じたらしく、父親は手招きする。そして、霞の向こうに見える、断崖に貼りついたアパートの群れを指差す。老婆の家よりずっと大きい。
「あそこに行けばいいんですね?」ヤシュタットも同じ方向を指し示す。あそこなら、谷に降りることなく行くことができそうだ。――少年の父親は意思疎通が出来たのを確かめると、彼は地鳴りを挙げながら先頭を歩く。
途中で谷間の今の姿を見た――。その光景に、不思議な気分になる。ざっと数えただけで千人ほどいるだろう。トン族の人々は、革命――と言ったら大袈裟だろうか――の余韻に酔うことなく、道を整え、処刑台を撤去し、それぞれの日常に戻ろうとしていた。彼らを統率しているのは誰なのか、一目瞭然だった。
「『ヤ』!」父親は霧の向こうにたたずむ、息子の影を目聡く見つけた。そして彼の元に走り寄る。
「君をつれたお兄ちゃんは?」ヤシュタットがホードガレイアで訊く。――少年は上を示した。手の平には小さな銅貨が握られている。
「ヒリ ヒ ――、 ボスコ?」父親も立ち止り、宙を指差す。その指は、断崖に張り出す階段をなぞる。
「ここに案内させたのね」ビンディーも上を見上げる。階段はかなり急で、トン族はいわずもがな、ヒト族やアルプでも昇るのは大変そうだ。
「荷物を預けておいてよかったね」そういうとビンディーは、さっさと四つん這いになって登っていく。ヤシュタットはエッセを父親に預け、ビンディーの後を追う。
身体の重いヒト族に、この高低はきつい。フシーオはここを、本当に通ったのだろうか?
「ジャスタさん、ほら――」最後にビンディーの手――羽毛に隠れて、手の平は鱗で固かった――を借りて、登りきる。
「ありがとう。――ここ、危なくない?」彼が懸念したのは、狙撃だった。バフォメットたちは武装して、自分たちの住居に隠れているのだ。――と言ったそばから、ターンという破裂音がこだました。
「わあっ!」
「平気よ、私たちを狙ったものじゃないみたいだから」ビンディーは片方の眉をなでる。「……あっちだよ、行こう。フシーオさんがひどい目に遭った音なのかもしれないから」
ヤシュタットは怯えるが、覚悟を決めてビンディーを追う。――しばらく進むと彼の恐れは杞憂だと気付いた。家は全て、雨戸までピッシリと閉じられ、まるで嵐が去るのを待っているようだった。それでも念のため軒を借りて進む。――微かに人の気配がした。
「ジャスタさん、見て――」谷底にあるものには及ばないが、地区の突き当たりに広場が彫られ、そこには宮殿のような、カテドラルのような建物がそびえていた。化粧柱もふんだんにくくられ、ホードガレイ国旗が十枚以上翻っていた。
「『ねつれつかんげい』って感じだね――」本来なら、ここに向かっている師団を出迎えるためのものだろう。しかし人の気配は相変わらず感じられない。
「入っちゃってもいいのかな……」
「ジャスタさんは私の後について来て。あたしなら足跡を感じ取れるから。……そうだ、スパナ使う?」
「武器に?」
「親父に怒られちゃうね……。さ」ビンディーは投げてよこした。
ビンディーは入口から、大広間にこそっと顔をのぞかせた。中は赤い絨毯が敷かれ、シタ・サーブの福血会ロビーとよく似ていたが、「汝の~」の標語の代わりに、身分不相応というか、時代錯誤的な、ここの歴代当主と思われる肖像画がずらっと並んでいた。この屋敷は、領主タララ家のものらしい。
「だれもいないみたい――。入っていいよ」
ヤシュタットが侵入する。冒険小説にありがちな、からくりで扉が閉まり、閉じ込められるという演出すらない。吹き抜けになっており、中二階の窓から光が漏れ、明かりには困らない。――窓の間には、女王陛下の肖像画が架けられていた。亜麻色の髪が薄暗がりでも映える。まるでタララ家と女王は対の存在、光と影だと言いたげだった。
「ここの主人さんはどこに行っちゃったのかな。あんまり会いたくないけど」と言った瞬間、また銃声が響いた! さすがにビンディーも柱の影に隠れ、ヤシュタットも一拍遅れて彼女に続く。
「近い! ……でもまた私たちを狙ったものじゃないみたい」そう言いかけたとき、彼女はビクッとした。――が、今度はヤシュタットにはわからない。「今、人が倒れた音がしたのよ。……それに、誰かの話し声もする」
「それはフシーオ?」
「……わからない」ビンディーは左に伸びる廊下をタッと駆けだす。
廊下は等間隔に油の照明が微かに点灯されていた。本当にエネルギー産業の街なのかと首を傾げたくなるほど前時代的な世界だ。ところどころ、天井には明かりとりの窓が取り付けられていたが、それらはみな、閉じられている。
「ジャスタさん、あの部屋」ビンディーは中腰で先を指し示す。そこにはろうそくの炎とは違う、うっすらと光る緑の光が見えた。あそこにはフロギストン灯が焚かれているらしい――。
「ぼくが見てくるよ」
「大丈夫?」
「大丈夫、いざとなったら――」彼は声を顰めながら、ダンベルのように借りたスパナを持ち上げる。ビンディーは真っ白い八重歯を見せて笑った。
ヤシュタットは忍び足で光の元に近寄り、半開きの扉に背中を合わせる。――木の扉には弾が通った跡があり、そこからもまだらな光線が染み出る。スパナを肩に担ぎながら、そっと中を覗き込む。
ヤシュタットは一目見た後、身をバッと乗り出し、扉の前で立ち尽くす。――ビンディーも滑るように彼の傍らに寄り、中を覗いて、軽い悲鳴を挙げた。
「やだ、どうしたの、この人たち……?」
そこには例の尋問官たちを含め、タララを牛耳っていたと思われる身なりの良い人々――もちろんバフォメット――が、椅子から崩れ落ちるようにして倒れていた。全部で五人ほどはいる。壁には何人かのバフォメット兵が、壁にもたれかかるように死んでいた。
ヤシュタットは一番近いところにいた人物を抱き起こす。――彼も息をしていない。よく見ると、胸を焼き焦がすような傷がある。調べると懐中時計がぶら下がり、それが蝋のようにドロドロと溶け、心臓を高熱が貫いたらしい。――銃で撃たれたわけではないようだ。
「ね、ジャスタさん、この人も変な死に方してる……」ビンディーは兵士の死体を観察した。彼が今まさに構えようとしていたそのライフル銃は暴発したのかラッパ百合のようにはじけ、兵士の胴を袈裟がけに切り裂いていた。腰やポケットにもくすぶった跡があり、その身体は事実上ハチの巣にされていた。
「ここの人たち、ずいぶん若いね……」
「え、そう?」バフォメットは老若男女、みな髭を蓄えているので、歳が非常にわかりづらい。「――少なくとも、銃で撃たれたわけじゃなさそうだね。何で殺されたかはわかる?」
「うーん……」ビンディーは口を翼で隠して思案した。「大きな街にある燃素の圧搾機が、こんな風に火を噴き出すかな。一度お金持ちんちにある奴修理したことあるけど」
「争った跡もないね」長いテーブルの上では、卓上の燃素灯が「弱」に合わせて燃えているが、それは三脚とも、行儀よく並んでいた。バフォメットたちの表情は、驚きの感情を示していたが、憤怒とは違っていた。
「ん……」絨毯がぺろんとめくれ、地下に続く縦穴が口を開けていた。部屋の明かりでも底が見える。大した深さではなかった。ビンディーを手招きして、中に降りる。
「セラーかしら?」確かにこの地下室には果実酒の瓶を並べた棚があるが、奥にはまた、半開きの扉がある。そこを開けると、奥に向かって頭を向けている兵士が一人。彼もまた、既にこと切れていた。
「ジャスタさん、シッ……」
「え?」
「だれかが泣いてる声がする。……子供か女の人みたい」
「――ここかな?」
ヤシュタットは焦る臭いの立ちこめる小部屋に入るが、そこには年寄りの遺体があるだけだった。殺された後、椅子ごと真横に押し出され、その時の衝撃か、左の角が根元からぽっきり折れてしまっていた。彼が座っていたのは電信の送受信機の前だったが、装置も誰かの手で壊されていた。散乱するメモも焼かれたか、破られたかしている。
「あたしなら修理できるかもだけど、それより……こっちだよ」ビンディーは壁伝いに進み、別の部屋を見つける。――成る程、確かにここから鼻をひくつかせるような嗚咽が漏れている。
「ヒッ……!」中では綺麗なドレスを着た女性が、三人の小さな子供を抱えてうずくまっていた。
「な、なんで戻ってきたのですか? こ、こ、子供たちの命は、助けてくれると言ったじゃないですか!」女性は後ずさりしながらも、ヤシュタットを睨みつける。男のバフォメットと違い、その瞳には毅然とした光で満ちていた。
「あ、すいません。ぼくはあなたと会うのは初めてなのです。――あの、なにがあったんですか?」
ヤシュタットはスパナを後ろ手に隠した。――優しく話しかけられて、夫人はようやくえずくのをやめるが、未だにヤシュタットを睨みつけている。
「あなたもオータの仲間なのでしょう? よくも主人を!」
「オータ……? あの、『主人を殺した』ってどういうことです? 何があったんですか、教えてください!」ヤシュタットは少し興奮してしまう。それをビンディーに制された。
「あ、あ、あいつは主人や義父や弟たちをおかしな銃で殺して、この子たちにも手をかけようとしたのよ……。それで、わたくしが命乞いすると、『運河の位置を教えたら助けてやる』って……」
「それで、教えたのですか」
「ええ、ええ、運河の発着場に行ける鍵の在り処まで教えてしまって。そうしたらあの人、とても冷たい顔をして、こう言ったわ……」
「なんです?」
「『喜べよ、あんたらは勇者オータットの再誕に立ち会えたんだ』って……、オータットとは、オータのことなんでしょう……?」
「ジャスタさん……」ビンディーがこわばった表情を向ける。
「ええと、奥さん。ぼくらは少し前まで、その男の仲間でしたが、今では彼が何を考えているのかわかりません。――ぼくは彼を捕まえてきます。ですからその、彼が行ったところを教えてください」ヤシュタットは頭を下げる。この時ほど、父から仕込まれた柔らかい物腰を活用したことはないだろうと彼は思った。
「……その部屋はここではないわ。この先は行きどまりよ。運河に続くのは二階にある、私の兄の部屋――」
「わかりました、ありがとう」ヤシュタットは急いで部屋から出ようとした。――が、ふと思い出してもう一度小部屋を覗く。
「――ひっ」夫人は再び子供たちを自分に引きよせる。
「ああ、怖がらないで、ただお教えしたいことがあるだけなんです。
この街は多分いま、トン族が治めています。リーダーはタニク・イというぼくらと同い歳くらいの人です。ホードガレイアも堪能で、優しい性格ですから、彼女を頼れば身の安全は大丈夫でしょう……」
夫人はヒト族こんなことを言われるとは思っておらず、呆然としていた。ふさふさの毛に覆われた耳だけが、ヒクヒクと震えていた。
ヤシュタットたちは階段を見つけ、昇る。銃弾で手すりが砕け、踊り場に飾られていたはずの白磁の壺が粉々になっていた。――二階に上がると、兵士が扇状に倒れていた。――ライフルの銃身はみな破裂していた。
「ここにも隠れている人がいるみたいだけど……」
「それは、まかせよう。――風が吹いているところはない?」そんなところがあれば、そこが運河であり、……フシーオがいるはずだ。
ビンディーは顎をゆっくりしゃくる。ヤシュタットはその方向を進んでいく。夫人は「兄の部屋」と言っていたが、そこは今は使われていない子供部屋らしかった。少年の肖像画がささやかにたて掛けられ、本棚には日焼けた古い絵本が整頓されていた。何冊かが引き抜かれ、床に転がっている。その一冊は中身が四角くくり抜かれ、何か――間違いなく鍵――が隠されていた。
「これだね。――ジャスタさん、急ごう」ヤシュタットが夫人の「兄」に思いをはせている間に、ビンディーはさっさとクロゼットを開けていた。冷たい風が彼女の髪をなでる。
「暗いね――。ジャスタさん、暗がりでも目が効くんでしょ? この先どんな感じ?」
「そうあっさりと目が慣れるわけじゃないけど、わかった、ぼくが先頭を行くよ」ヤシュタットは、地面に転がる南京錠を蹴飛ばした。それはなだらかな下り階段をカン、カンと転がり落ちて行った。
二人は声を潜めて、黙々と歩く。――時々ビンディーの進路が左右に逸れた。何があるかというと、木切れを打ちつけて塞がれた横穴があちこちにあいて、そこからは生ぬるい風が抜けてくる。しかし本道は単調な一本道になっており、五分も歩くと、フロギストン灯の優しい明かりが、新星のように見えてきた。忍び足のつもりだったが、自然に二人の歩調が早まる。
背伸び出来る程度の空間に出た。一見するとカタコンベのようなところだが、石棺の代わりに陸揚げされ、ひっくりかえされた小さなボートが並び、さわさわという水の音がする。天井は煉瓦のアーチが組まれ、まるでモルグの中にいるようだ。
――フシーオはそこにいた。防光服を腰に巻き、ポンポン・ボートに荷物を積み終えていた。船にはもう一人、鼻眼鏡をかけた、こげ茶色のバフォメットが一人、隠れるようにうずくまっていた。二人の気配を感知して振り向いた彼の顔は、今までヤシュタットが一度も見たことがない、勝ち誇ったような表情をしていた。影の加減で、王家の墓を暴く盗賊のようにも見えた。
「フシーオ、戻ってこい! 君は何がしたいんだ!」
ヤシュタットが叫ぶが、彼は懐から赤銅色の、ラッパを小さくしたような細工物を取り出した。――拳銃だ! と二人は咄嗟にその場に伏せる。
ボォン――と弾けたのはフシーオの短銃ではなく、煉瓦に埋め込まれた燃素灯の一個だった。しかしまるでこの部屋ごとが吹き飛んだのかと錯覚する轟音だった。
「さようなら、我が友。お前はおれの大事な片腕であり、隠れ蓑であってくれた」
フシーオは足場を蹴り出し、火の入った動力ポンプの立てる、小舟はボンボンボン……という鼓動のような音を伴って船着き場から離れて行く。
「隠れ蓑? 何のことだ、ぼくらはただの巡礼者じゃないか!」
このヤシュタットの言葉を、フシーオは嘲った。
「人間は全て、隠れ蓑を被って生きてるんだ。どんな偉い人間でもそれを剥げば、真の姿が現れる。懐豊かな銀行家もただのウジ虫なときがあれば、飯盛り娘だって小公女になるんだ。――おれの真の姿はとりわけ上等だ!」
「……何を言ってる? フシーオ、一体君は何者だ!」
ポンポン・ボートはアーチの水路に飲み込まれ、後ろを見やるフシーオの顔は、闇に飲み込まれた。彼の最後の声が反響して、奇妙なうなりを伴ってヤシュタットたちの耳に届く。
「おれは蘇りし、現代のオータットだ! 今こそ羽根飾りの恨みを、この手で晴らす!」