燃素の谷へ行く
〈奇妙な事象の影にこそ、偉大な進歩の手掛かりがある。私はそれに関心を抱き、よっく確かめようとしているだけだ。
――『エスタリオ伯爵自伝』〉
「いやさ、夜道を歩いてたらさ、びらりと飛び付いてきたんだよ。空から」フシーオはせわしなく両手足を動かして、状況を説明する。「物盗りかと思ってゲンコツ喰らわそうとしたらさ、間一髪でこの娘だって気がついて、その上気ィ失ってたからさ……」
それを聞くヤシュタット、『イ』の眼の前で、ビンディーが宿泊所の二段ベッドに寝かされていた。仰向けで、下着一枚に隠された痩せた薄い胸を上下に膨らませている。枕元には工具と外履きでパンパン膨らんだカバンが置いてある。それには擦り切れて開いた穴とは別に、虫に食われたかのような円もあった。ヤシュタットが訝しんで中を見ると、ヤスリと一緒に潰れた弾丸がこぼれおちた。ぎょっとするが、それをそっと自分のポケットの中に入れた。タイミングを見計らって、捨ててしまおう。
ビンディーの呼吸は一応しっかりとしているが、その格好と、黒く汚れた足の裏が、彼女のくぐってきた修羅場を語っていた。しかしその中身が何なのかは、ビンディーの口から直接訊かなければならない。
この会話をするほんの三十分前――。日の出前だというのに、ヤシュタットたちが雑魚寝する部屋は、突如としてサイレンの音に包まれた。それだけならそのまま睡眠を続行できたかもしれなかったが、ヤシュタットはゆさゆさと身体を揺すられて、半強制的にベッドから立ち退かされてしまった。しぶしぶ目を開けると、寝ぼけまなこに女性をしっかり抱きかかえたフシーオが立っていたのである。彼はぶしつけにも、ヤシュタットを片足の先で揺すっていたのである。慌てて女性に寝床を譲ると、それが昼間に出会った道化の女の子で、二重に驚いた。名前は確か、ビンディーだ。
「あ、この子、どうしたんだよ!」
「シーッ、シーッ!」
フシーオは開かれていた入口のドアを閉め、いそいで「だまれ」の仕草をするが、それもむなしく『イ』と、彼女に添い寝されたエッセも次々と起きた。なお悪いことに、今はもう一つのベッドで眠りなおしてくれていたが、エッセがムズがり出してしまった。
「……親父ィ」『イ』がビンディーの煤けた足を、ほったらかしにしてあったタオルで拭うと、彼女が目を覚ました。
「……あっ、あれっ?」ビンディーは訳が分からず、跳ねるように身体を起こした。「ここは?」
「巡礼者用の宿泊所だよ」ヤシュタットが教える。「フシーオが君をここまで連れてきたんだって」
「あ、明かり消して!」ビンディーはベッドから出て窓際に走ろうとするが、その拍子で上の段に頭をぶつけてしまった。
「ぎゃん!」
「もうしばらく寝てた方がいいよ」
「うう……、とにかく、明かりを消して。それにカーテンもしっかり閉じて。静かにしてて!」彼女は涙をにじませながら、忙しく指を動かして指示をとばした。羽根が一枚抜けてベッドの中に落ちる。
「追われているの?」
ビンディーはうなずいた。ヤシュタットは自分のランプに明かりを灯し、光量を絞れるだけ絞った。そして彼女の指示通りに部屋の照明を落とした。
「一体何があったんだ。あんた、だれに追われてる? それはこのサイレンの音と関係してるのか?」フシーオは声をひそめながらも、まくしたてるように訊く。
「もっとゆっくり訊いてあげなよ。連れてきたのは君だろう?」ヤシュタットが彼をたしなめる。そして待ってましたとばかりに、『イ』が代わってビンディーに顔を寄せる。
「あなた何か悪いことをしたの? 昼間私たちに話したこと以外に」
「まさか、あたしは濡れ衣だよ!」
「わかってる。――だから、あなたが今まで見たもの、聞いたもの、されたことを、最初から全部話して。お願い」
淀みのない『イ』の声に安心したのか、ビンディーは少しずつ話を始める。自分はどうやら、やってもいない殺しの嫌疑を掛けられているということ。それで自分の父親がひどいめに遭わされたこと。自分は遮二無二その場から逃げ出したけど、蟻塚の塔から飛び降りて、死ぬかとおもったこと。
『イ』がビンディーの話に耳を傾けている間、ヤシュタットはそっと、フシーオに尋ねた。
「そういえばなんでお前、こんな時間に外を出歩いてたんだよ」
ヤシュタットに不審がられたフシーオは気まずそうに下を向くと、彼の袖を引いて部屋の隅っこに連れて行った。
「実は俺、――夜鷹を買いに行ってたんだ」
「は?」
彼の告白に、ヤシュタットは呆れかえってしまった。夜鷹と云うのは、早い話がアルプの安い娼婦のことである。新市街には娼館がいくつかあるが、コバトのそれとは違って春を売っているのは専らアルプの女たちだった。アルプの娼婦は他の種族のように夜目が効かないうえ、感覚器官である眉を剃り落とされていた。そうすることで、客の顔を彼女たちが認識することなく秘め事ができるのである。これは客の秘密がばれないための工夫であると同時に、女が逃げ出さないための予防線でもあった。彼女たちは毎夜どこの誰ともわからない男どもに抱かれ、顔が特定されないのをいいことにひどい目に遭わされることもある。そして例えお腹が大きくなっても親は誰かわからない。前者も後者も、待っている結末は泣き寝入りだ。彼女たちがなぜそんな悪辣な仕事にしか就けないのかというと、非力なアルプの女が出来る仕事といえばそれぐらいしかないからである。文盲とはいえ手に職があるビンディーは少数派であり、恵まれている方なのだ。
「絶対あの娘には言ってくれるなよ。それと、『イ』とエッセにもだ」
ヤシュタットは旅の仲間に不和を生みたくないので、しぶしぶながら同意した。
「しかし、よくもまあ帰って来られたなあ」外ではサイレンの音が鳴りやまない。この宿は大広場の真ん前に面しているのだ。そんな目立つところにあるというのに、どんな道を通れば逃亡者の娘を抱えて歩いてこれたのか。褒め言葉を使えば、豪胆といえる。
「……あーッ! どうしよう、あたしポカしちゃった!」自分が静かにしてと言ったのに、ビンディーは突然隣の部屋まで響きそうな声を挙げる。
「落ち着いて――」
「どうしよう、あんたたちも逃げなきゃだめだよ。今すぐに!」『イ』の静止を聴かず、彼女のパニックは収まらない。ついに『イ』はビンディーの肩をつかみ、自分の眼を見つめさせた。エッセがわがままを言った時によくするお説教方法だ。彼女は別段怖い顔をしているというわけでもないが、この瞳に見つめられると、誰でも魔術に憑かれたように大人しくなる。
ビンディーはようやく落ち着いて、自分の犯したというポカについて語った。
「ジャシュタさん、あたしね――」ビンディーはヤシュタットの姿を薄暗がりの中で探し、語りかけた。彼は、ここで名前の訂正は野暮だと思い何も言わないでおいた。
「ぼくがどうかした?」
ビンディーは少しうつむいて、申し訳なさそうにこう言った。
「その――あたし、自分ちにあんたの名刺置きっぱなしにしちゃったよ……」
それを聞いて彼の視界が暗転する前に、ヤシュタットたちの部屋のドアを、だれかがノックした。ドンドンと、ルームサービスの類にしては力んでいる。
「さ、サツだ!」
「あなたは静かにして、せめてベッドの下に隠れてて!」再びパニックを起こしかけたビンディーを、『イ』は的確にたしなめる。
そして忠告通りビンディーが彼女の荷物ごと隠れるを見届けると、『イ』は顎でヤシュタットに(出ろ)と合図した。
ドアは引き続き強く叩かれている。ヤシュタットは先ほどの鉛玉をひとまず放り投げ――それは上手くフシーオが捕まえた――恐る恐るノブに手を掛けた。
「……は、はい」
彼はそうっと手前に戸を引く。――立っていたのは、少しふくよかな魔族の女性と、顔色の悪い、ヤシュタットたちよりは若干年上らしき吸血族の男性が立っていた。幸いにも、彼らからは敵意を感じられなかった。
「すいません、夜分に起こしてしまいまして。――私は巡礼協会の職員で、こちらの宿泊所の管理を任されておりますロルラです」
「私は福血青年会のギギエと申します」
「はあ……」
丁寧に頭を下げた二人に、ヤシュタットも戸惑いつつお辞儀する。「あの、一体なんの御用ですか?」
二人は目配せをする。
「お話をしたいのは山々ですが、ひとまず福血会のシタ・サーブ・ロッジ――支部にまでご足労願います。あそこは一種の治外法権ですから。……荷物もいそいでまとめてください」
ギギエの声には焦燥感がにじむ。ここは素直に従った方が、浮かぶ瀬もあるだろう。
「みんな、聞いた? ぼくらもここから逃げた方がよさそうらしいよ……」一同は固唾を呑んでヤシュタットの背中を見つめていたが、無言のまま荷造りを始めた。フシーオも先ほどの弁明とはうってかわり、まるで口が縫い合わされたかのようだ。
「すいませんが、ちょっと時間を下さい」
「はい、しかし、一刻の猶予もありません。三分が限度ですからね」
ヤシュタットはうなずいて、再びドアを閉じた。――それを見計らって、ビンディーがほこりまみれになってベッドの下から這い出てきた。彼女は再び、その頭を景気よくぶつける。
「あ、いてっ! ……ま、待って、あたしをここに置いていく気?」
「あたしの服を貸すから、一緒に逃げよう」
『イ』がビンディーに救いの手を差し伸べる。彼女はアルプの娘に、昼間着ていたあの【派手な服】を貸し与えた。ビンディーが着ても、あまりけばけばしい印象を与えなかった。
「頭を隠したいんだけど、……それに翼もさ」
「ここの毛布借りればいいんじゃないか?」フシーオが応えた。
『イ』はもう荷物をまとめ終えて、巡礼服を着てそうっとエッセを抱きあげる。
「もう行きますよ、よろしいですか?」
「はい、もう大丈夫です――」ヤシュタットもクシャクシャの衣服をリュックに押し込んで、どうにかこうにか立ちあがった。結局彼が先頭に立ち、ビンディーが最後尾という隊列になった。
案内された福血会のビルは大通りに面しておらず、道中点々と居た人間は全員、会の者だったようだ。彼らに守られながら、七人は半地下の福血会の玄関をくぐった。――その先にあるのも、豪勢なホテルと言われたら信じてしまいそうな、綺麗なロビーがあった。ただホテルと違うのは、天井には垂れさがる鍾乳石のような珍しい装飾が施されている点と、例の〈汝の地を分けよ〉が受け付けの後ろにでカデカと掲げられている点だ。
安全な建物の中に入っても、ビンディーはかぶった毛布を取ろうとしない。そして『イ』も、エッセを無理に起こそうとはせず、未だにしっかり抱きかかえている。
「ただいま地下二階と三階では、正会員と準会員の方々による緊急会議を行っています」ギギエが説明する。正会員というのは吸血族だけで構成されるメンバーで、本部や他の支部への出入りも自由な会員のことだ。一方の準会員というのは、正会員の紹介と、一定額の献血もしくは献金で入会した非吸血族の会員で、出入りできるのは会員登録した支部のみである。
「その会議の内容が、ぼくらとどう関係するんです?」
「そもそもこの街で今、何が起こってるんだ? まずはそれを教えてくれよ」フシーオがぶしつけに尋ねる。ギギエは五人に、ひとまずソファに座るように薦めた。『イ』は自分が座るべきスペースも使い、エッセを横にした。彼女はその傍らに立つ。
「も、毛布使えばいいよ」ビンディーがようやくその茶色い覆いを脱いだ。ロルラが(あれっ)という表情をしたが、追及はしない。
ギギエが説明を始める。
「今夜、このシタ・サーブ市で、三つの大事件が起きました。それが一体何なのか、情報がこの福血会にも続々と集まってきましたので、かいつまんでお話しします。
まずは一つ目――シタ・サーブの証券取引所が放火されました。幸いにも炎はすぐに発見され、ボヤで済みましたが、明日の取引は無理でしょう。隣の電信所から書類を送り出す通気管も、その他演算機、タイプライター、みな駄目にされました。どうやら犯人は機械類をハンマーで叩き割って、それから火を放ったようなのです。下の階でされている話のほとんどは、これによってもたらされる損失についてです。
そして二つ目――こちらは窃盗です。国立技科大からどうやら、なにかしらの実験装置が持ち出されたそうです。情報収集を急いでいますが、なにしろ門外漢なことなので、どういう用途のものか、どのような大きさのものか、さっぱりわかっていません。しかし国家保安省の人間まで出動している点、大層な物なのでしょうね。
最後に三つ目――これは殺人です。それも重要人物、国の宝ともいえる人物が襲われました。……オタジアの方でもご存じでしょう。電気技術の基礎を築いた、ジェジェ・エスタリオ伯爵です」
「ええっ!」最も驚きを露わにしたのはビンディーだった。エスタリオ伯爵は電気工学の権威で、燃素によるエネルギー革命の立役者だった。オタジア生まれの二人だって彼のことを知っている。
彼は元々、市井のエンジニアだったが、今から約十二年前、発明され、王都ダルダションに設置されたばかりの電信線が、運用開始からわずか一日で謎の発火事故を起こしたのだ。エスタリオはその原因を官庁が定時に行う通信にあるということを突き止めた。特定の電信リズムが、とある区間の電線と共鳴し、植物樹脂製の被覆線から燃素を絞り出していたのだ。この発見により、安全に送受信ができる電信符号の種類、送信速度が再検討され、さらに電信柱の間隔などの国際ルールも決められた。……それだけではない。彼はその事故調査結果を元に、水力発電で得られる電力を用いることで、安価で効率よく燃素鉱石からフロギストンを取り出せるようにしたのである。さらには都市から吐き出される生活ごみからも、フロギストンが抽出できるようにもなった! これらの功績が高く評価され、彼は爵位を授けられたのだった。その後も海底電信ケーブルの敷設計画を成功させて世界の距離をひと跨ぎに狭め、つい最近は新聞などで「もはや電信には、電線が要らなくなる!」と豪語していた。早い話が無線通信の研究をしていたのである。
そんな大人物、国の宝が殺された。
「そして、こちらはどうも犯人が割り出されているようで、警察もその被疑者を確保しようとしているのですが……」
「まだ捕まってないんだよね。……あたしがここにいるんだから、当たり前だよね」ビンディーが肩を落とし、ソファに深く沈んだ。一同の視線が彼女一点に注がれる。ロルラがギギエにそっと耳打ちしたが、ギギエはなぜか、別段動揺した様子はなかった。
「あなた、スンズ工房のお嬢さんの……」
「あたしんちのこと、知ってるの?」
「知っているも何も、あなたのお父上――スンズ氏はここの準会員ですよ。しかも、名誉会員でいらっしゃるエスタリオ伯爵の紹介で、入会したのです」
「そうなんだ、初耳だよ」
「殺された伯爵さんとは、どういう関係だったの?」ヤシュタットが尋ねる。
「うちの経営が軌道に乗るようになったのは、あのおじさんから仕事をもらうようになってからなんだよ。ようは私が身体を売らずに済んだ、恩人ってわけさ」
世界的な著名人を「おじさん」と呼ぶあたり、その付き合いの深さがうかがえる。――しかし、そう言ったあと、ビンディーは頭を抱えて余計に落ち込んでしまった。
「……それなのにあたしってば、恩知らずにも程があるよね。『どうせつくるのはオモチャだから』って、その設計図パクってさ」
「でも、殺してはないんでしょ?」
ビンディーはうつむいたままうなずいた。
「どういう筋書きでこの子がその伯爵を殺したってことにしたんだ?」フシーオが少しばかり音量を落として聞く。「設計図を盗用しているのを咎められて、それに逆上してグサッ――てか?」
「そういう私情だけで動いたという、単純な事件だとはさすがに思っていないようです。なにしろこうも立て続けに事件が続いたのですからね。ですからあなたを捕まえて、裏で糸を引く人物をあぶり出したいのでしょう。本気であなたが人を殺したとは思っていないかもしれませんが――」
「あたしのことはもういいよ、聞きたくない」ギギエがそこまで喋ったところで、ビンディーが物憂げに、くぐもった声を漏らす。「それよりさ、あたしの代わりにとっ捕まった親父はどうなるの? あんな身体だし、かなり手荒なことされてたから、心配でさ」ビンディーは今にも泣きだしそうだった。
「スンズ氏は我が国の、これからの工業発展にはなくてはならない方です。我々福血会も、警視の方々と接触を取って、すぐに解放するようにお願いしているところですが――」
「あたしが逃げているようじゃ駄目だよね」彼女は渋々立ち上がろうとするが、ギギエは手の平を突き出し、その必要はないと諭す。
「あなたがぬけぬけと出て行ってしまわれれば、口封じのために消されてしまいます。内通者がいるかも」
「で、でも親父が――」
「スンズ氏はきっと大丈夫です。娘のあなたならわかるでしょう? 伯爵が亡くなった以上、彼こそ我が国最高の職人だと。あくまでもあなたを誘い出すための人質なのですから、これ以上手荒なまねをするということは恐らく、ないでしょう」
「じゃああたしはこれからどうすればいい?」
「それにつきましては、そちらの方々と一緒にご説明しましょう」そう言ってギギエはロルラに説明を譲った。
「その前に念のため、名前を確認させていただきます」ロルラは宿泊所の宿泊記録らしき帳簿を広げた。「ジャスタ・プネスさん、フシーオ・シャサさん、タニク・イさん、……それから、エッセちゃん」
自分の名前が呼ばれたのを、エッセは耳聡く感知して、目を覚ました。『イ』が毛布に包んだまま、彼女を抱きしめる。
(タニク・イ?)ヤシュタットは軽く首を傾げた。それが『イ』のフルネーム? 〈タニク〉と云う名について聞き覚えがあるも、それが喉元まで出かかっていて、非常にむず痒い。
「みなさんはこちらの福血会さんからのご依頼のため、長期の宿泊を許可致しました。しかし、それがもはや、難しくなったのです」
ホードガレイは住民の戸籍登録県以外での宿泊日数を、よほどの事情がない限り二日までと制限していた。それ以上宿泊期間を延長したい場合は身元保証人を立てた上で自治体経由で逓信省に申請しなければならない。それは巡礼者でも同じことで、ヤシュタットたちはスタンソの仲介で、福血会のお偉いさんが保証人になってくれていた。ほとんど名義貸しのようなものだったが、それでも彼らは新しい街に着く度に、スタンソとの連絡を取るついでにその保証人に挨拶をしていたのだった。
「難しくなった、とは?」ヤシュタットが尋ねる。
「国家保安省が、この街に長期滞在している人物の洗い出しを始めたのです。――既に三つの五つの宿泊所に捜査のメスが入り、みなさんの泊まる宿泊所にも、間一髪で手が伸びるところでした」
「だけど、ぼくらはやましいことなんて、何一つしてないよ」ヤシュタットは抗議する。そしてビンディーがおずおずと訊いた。
「まさか、あたしが助けてもらったのを、誰かに見られていたとか?」
ロルラは首を横に振る。「いえ、そうではありません。――ただ」
「ただ?」
「ただ、あの――、皆さんがちょっと特殊ですので、目に付けられる可能性が、非常に高いのです」そう言って彼女は『イ』を一瞥し、すぐに視線を戻した。「失礼な言い方を申しますとみなさん巡礼者というよりも、その……無政府主義者という感じで」
これでもかなりオブラートにくるんだ表現で、ヤシュタットは苦笑する。ここまで種族がバラバラにほどけていると、何らかの政治的意図を持った集団のように見えてしまうらしい。
「あとみなさん、うかがうところによりますとシャンバンハ市でひと騒ぎを起こしてしまったと……」
またあの横暴な警官のひきつった顔を思い出し、うんざりとなる。――だけど、おかしいな。
「ぼくらあの時、自分の名前を出したりしてなかったはずだけど」
「わざわざ国家保安省を動かして、巡礼協会に登録なさった記録を差し押さえたらしいですよ。あちらの協会から、注意するよう通達がありまして」
うんざりを通り越して、見上げたものだとも思った。恥をかかされたという一方的な私怨で、単なる巡礼者を追いかけ、尻尾を出す機会を狙っていたとは。
「そんなことに力を注ぐ暇があるんなら、爆発事件に全力を出せよ能ナシ」フシーオが毒づく。
「でも笑い事じゃないよ、君、名刺を……」
「名刺?」
ヤシュタットはビンディーに代わって、ロルラに事情を説明した。
「それは――とてもまずいですね」
「ごめんなさい」
「謝る必要はないですよ。とにかくみなさんは危ない状態にあるのです。――このようなことで巡礼の方を危険に合わせるわけにはいきません。ダルダションの協会本部が、保安省に直接交渉してみなさんの潔白を証明して下さると思うのですが」
「そんなことまでしてくれるのか。……だけど時間がかかる、と」
「はい、申し訳ありません」彼女はぺこんと頭を下げた。
「そして私からも、悪いお報せがあります」ギギエが引き取った。「先に簡単な――またまたで恐縮ですが――説明をさせてください。
我々がみなさんをお招きしたのは、福血会の掟を守るためです。それはすなわち、相互扶助です。福血会は正会員でいらっしゃるコルドラン医師から、あなた方が無事にダルダションにたどり着けるよう、最大限の便宜をはかるよう依頼されているのです。会員内での約束は、絶対です。我々は、何としてでもみなさんをダルダションに送り届けなければならない。ですから事態が収拾するまで、何ヶ月も隠れられるような場所を提供することぐらい、今までなら出来たのですが――」
「でもそんなに長く、こんな大人数を隠すなんて無理だよ」
「たとえお一人でも、この状況では無理になりました。それが悪い話です。もはや我々ですら、人も金も動かせない状態であり、時間が過ぎるほど、状況はわるくなりましょう……。なので次善の策として、みなさん五人がこの街から脱出できるよう手引きいたします」
「あたしはいいよ――親父を放って逃げるわけにはいかないし、この人たちの立場まで悪くしちゃったんだし」
「しかし、それでどちらにお隠れするつもりですか? 一番この街から逃げなければならないのは、あなたなのでは?」
そう言われてしまうと、ビンディーはぐうの音も出ない。
「我々も、準会員であるスンズ氏の救出に全力を挙げますが、正直申しましてあなたがこの街に居続けることの方が不都合なのです。あなたは逐電してしまったということにした方が、まだ交渉の余地があるのですが――」ギギエはそこで話を打ち切ってしまった。少々内情を明らかにしすぎたと、後悔しているらしい。
「とにかく、私たちが少なくともシタ・サーブ郊外に出られるようには致します。そこから先の移動は、申し訳ありませんがおまかせします」
「で、おれらはどこに行きゃいいんだ。巡礼の旅を続けられるのか?」
「巡礼路沿いを通るのは無理です。何しろ大街道ですからね。もはや巡礼者も監視対象になるでしょう。……しかしダルダションには行けますよ。迂回路になりますし、危険性も大きいどころではありませんが」
「あんたたち、そこまでして巡礼を終えなきゃならないの?」ビンディーに訊かれて、ヤシュタット、フシーオ、そして『イ』は目を見合わせた。しかし全員、はっきりした答えを持っていないらしい。
「まあ、どこを旅の目的地にするか考える時間はあります。今はシタ・サーブからの脱出、それが大事です」そしてギギエは、二階へ続く階段を示した。「みなさんにはちょっと、あちらで着替えてもらいます。……衣装が少々足りないと思いますが、まあ、何とかなりますでしょう」
「衣装?」
ギギエは有無を言わさず、五人を奥の間に通した。彼がドアを開けると、過水――オキシドールの臭いが、つんと拡がった。
シタ・サーブの朝は遅い。ようやく山地から光が漏れ出しても、実際に太陽が顔をのぞかせるのはそれから十五分ほど後になる。
吸血族にとっては家に引き上げるまでの貴重な猶予時間だったし、夜鷹たちにとっては客から解放されるまでの、長すぎるお預け時間だった。
近頃になって、この長い昼と朝の合間に、せわしなく働く人々が現れた。――その人々の働きぶりは、真新しい総合鉄道駅でみることができる。そこではまだ旅客輸送をほとんど行っておらず、もっぱら貨物輸送のための荷物の詰め替えが行われていた。
西北西に伸びる鉄道路線からは、この街の産業を支えるフロギストン鉱石が、採掘直後フレーク状に加工され、木製の樽に詰められて運ばれてくる。それとは入れ違いに、この街からは卸売取引された生鮮食品――野菜、果物、淡水魚、そして牛乳! ――が梱包され、氷と共に樽や木箱に詰められ、沿線で開かれる朝市に間に合わせるべく、労働者たちの手によって、次々と貨車に積みこんでいく。電信・蒸気機関以上に人々の生活の充実を実感させたのは、この鉄道による食品輸送だった。どんな山奥でも魚を食べられるようになり、都会では生野菜を食べることが流行した。満杯になった貨車には、白墨で「積み込み済み」のサインと、目的地を記した番号がプレートに書き込まれていく。
この時間帯の駅は常日頃から戦場だった。何しろ鮮度、そしてスピードが命なのである。――しかし今朝はそれに加えて、ピリピリとした、静電気のような物々しさが添加されていた。警察犬を連れた巡査が、労働者の間を縫って何人も配置されており、警戒の目を光らせているのである。時々彼らは屈強なコシュ・カムの男とぶつかり、男は反射的に悪態をつき、罵声を浴びせるが、直後に彼ら以上に筋骨隆々、牙の鋭い犬にほえ立てられ、すごすごと仕事に戻る。
……さて、警察犬の一匹が、一つの貨車の前に立ち止まって、しきりに吠え始めた。その手綱を握る巡査が、一段上にある扉の取っ手を見つめる。出入り口は一カ所だけ。それを確認すると、ヒモの通された呼子をピィーッと吹く。――あっと言う間に五人の巡査が、貨車を囲む。全員固唾を呑み、口を真一文字に結んだ。
この貨車を発見した巡査が、犬の手綱を別の巡査に預けた。そして扉に手を掛け、左に引いた。ガ、コンという鈍い音と共に、冷気と鉄のような匂いが足元から這い上がり、犬の嗅覚を弄ぶ。その吠え声は一層に激しくなった。
「……?」踏み込んだ巡査は積み荷を見て不審がる。中には氷詰めになった木箱がいくつか転がっているだけだった。氷が融けるのを遅らせるために麦わらの菰で周囲をぐるりとくるんである。その内の一つを明かりに照らして精査するために引きよせると、貼られた伝票に書かれた品物の名前に肝をつぶした。
「ち、血だ! 生き血が詰まってる!」
それを聞いて、官吏たちはざわめく。その動揺を感じて、犬がまた吠え始めた。品物を見た巡査はそれこそ転がるように貨車から逃げ出してきた。
「どうやら吸血族のための血を運ぶ物のようだ。……『福血会』のロゴもこの目で見た」
この報告を聞いて、巡査たちは一歩、二歩と後退した。吸血族は経済力を持っている分ホードガレイ社会からは一目置かれてはいたが、定期的に血を飲まなければならないというその特性に嫌悪感を憶える者は少なくない。むしろその吸血と守銭奴の印象を結びつけて、ひがみや妬みをむき出しにして、積極的に毛嫌いする者の方が圧倒的に多かった。特に法の番人を自負する官吏たちにとっては、お金の力でこの国を影で動かす彼らは、目の上のたんこぶだった。
そして今回も、その吸血族によって捜査がかく乱された。警察犬はこの血の匂いをかぎ取ってしまったのだ。こいつらは人語を解せず、捜査の目的を知らない。だから普段行っている死の匂いの追跡を行ってしまったのだ。
「はあ、とにかく、ここははずれか。――別を当たるぞ」警察犬は一応、その頭をなでられ、褒められるが、この塩梅じゃまた同じ失敗を繰り返すかもしれない。
巡査はここで、散開を決定した。非常時とはいえ、吸血族とあまりいざこざを起こすわけにもいかなかったし、血がなみなみと蓄えられている場所には本能的な〈ケガレ〉のようなものを感じてしまい、この場からとっとと離れたかった。そして逃走者を捕まえて、徹夜の勤務から解放されたい。扉はまた、固く閉ざされた。
警官たちが立ち去るのとすれ違いざまに、何かしらの家財――大きさからして食器棚だろうか――を積んでいると思われる木箱が、台車に載せられ駅に搬入された。それを見送る防光服に身を包んだ吸血族の男。彼から袖の下を握らされた労働者は、何も言わず、黙々とそれを運んでいく。――木箱は全部で三つあったが、その内最後に運ばれたものは金塊でも積んでいるのか、四人がかりで運ばれている。まだ涼しい時間だと云うのに額に流れる汗の量が尋常ではなかった。その〈家財〉は大胆不敵にも、先ほど警察が調べた、生き血の貨車の前で止まった。三つの木箱は屈強な男たちによって運び込まれていくが、最後の箱だけはわざわざ油圧ジャッキを用いて持ち上げていた。男どもはしばらく車内を歩き回っていたが、やがて出て行き、貨車の扉を再び閉めた。積み込み作業は佳境を迎え、一瞬構内は静寂に包まれる。……それも汽笛の音で遮られ、ようやく朝日に包まれた。そして半里先にある青煉瓦組みの車庫から蒸気機関車がのんのんと、何機もバックしながら接近し、作業員の指示に従って貨車を連結していく。機関車一両につき、貨車をおよそ三十両ずつ引っ張っていく。
ぽぉーっ、と、幾分か低い、お腹にまで響くような汽笛が轟く。それを合図に、肩をすくめたくなる、バンッという音が鳴り、それに続いて猛獣が檻を引きちぎるようなメリメリメリ……という音までする。冷静な思考でいられれば、それが自分をこの密室から救い出してくれる人物の立てている物音だとわかるはずなのに、ヤシュタット嫌な冷や汗を滝のように流してしまった。
「大丈夫?」怪力でこじ開けた穴から、『イ』が彼にそう話しかける。外からは新鮮な空気――そして泥炭を焼いた煙の臭いが彼の鼻腔をくすぐった。『イ』はそう声をかけた後、一気呵成に残りの合板を素手でいっぺんにはぎ取った。彼女の足元では、額に玉の汗を光らせたエッセがひっついていた。二人とも喪服のような防光服をまとっていて、その傍らにはなにやらボソボソと声の聞こえる未開封の箱が壁面にたてかけられ、もう一個の箱は内側から物すごい力で突き破られ、横倒しになっていた。
ヤシュタットは等身大の木箱の中に、屈葬のような形で収まっていた。なぜそんな格好でいなければならないかと云うと、他の仲間たちの荷物の、ほとんど全てが足元に押し込まれていたからである。足を伸ばすと、危うく攣りそうになった。
「だいじょうぶ?」エッセが手の平で汗を拭きながら、『イ』の真似っこをしつつ彼を見上げる。この子はやたらとヤシュタットに話しかけてくれるようにはなった。
「ぼくは大丈夫。……エッセも狭い所、平気だった?」
「お姉ちゃんがいた」つまり『イ』と一緒にいたから、怖くなかったと言いたいのだろう。彼女の会話は、まだまだ断片的だ。
「そっか、えらいね」ヤシュタットはそういって彼女の頭をなでる。何が偉いのかは自分で言っていてよくわからなかった。子供を褒める時の常套句だ。
「さびしくなかったの?」彼女は嬉しがる前に、独りぼっちで暗闇の中に居たヤシュタットのことを心配した。少し顔がほころぶ。
さて、『イ』はエッセに「釘に触っちゃだめ」と注意しながら、残りの箱を開ける。力任せに板の隙間に指をつっこんで大穴をあけ、そこに腕一本をまるごと押し込んで引っぺがすのである。せめて開ける前に、何か声を掛けてあげればいいのにと、ヤシュタットはそれを見て思う。
最後の箱に梱包されているのは、もちろんフシーオとビンディーだった。種族が違うとはいえ、男女が一つの密室に閉じ込められていたのである。いくらヤシュタットとはいえ、下世話なイメージが一瞬脳裏にかすめる――首を左右に振り、その考えを消した。
「どうしたの? ジャスタさん、気分悪いの?」その様子を見たビンディーが、素知らぬ顔で話しかける。
「まったく、吸血族はよくもまあこんな格好して外を出歩けるよな。まるで香草の包み焼きにされた気分だ」フシーオは一息ついて、冗談を言う。「――ここも似たようなもんか。香草焼きじゃなくて、石炭焼きだけどよ」
五人は陽が昇る前に、吸血族の衣装を借りて、会議を一時閉会させて問題を自宅に持ち帰る福血会の正会員の群れに紛れて旧市街を抜けた。会議に参加していた正会員の数は三〇〇人を軽く超え、あの建物の地下には相当立派な空間があるらしかった。
そして警察をかく乱するために採った手段が、献血だった。子供であるエッセと、針が皮膚に通らない『イ』を除いた三人が血を抜き、それをギギエたちが予め駅に持って行ったのである。そして散々構内に匂いを残して、五人が脱出する時に備えたのであった。――その生き血が詰まった箱はどこを見回してもない。彼らが載せられた時に回収されたと見た。福血会にはほとんど無償でここまで援助してもらったのだから、せめて血ぐらいを残していくことが出来て、ヤシュタットはほんの少し気持ちが軽くなるのだった。
『イ』はガタゴトと揺れる車内で、内側から扉を解放した。列車は断崖絶壁をすれすれでかすめながら、単線を快調に疾走している。「おそとがみえない」エッセは不満そうに言ったが、石造りの橋で峡谷を越えると、ようやく扉の方にも景色が入りこんでくる。幹が痩せて、ひねくれながら伸びる松しか生えていないが、ここで一同はようやく、本物の新鮮な空気を吸うことができ、エッセも上機嫌になった。
ヤシュタットが大きく伸びをすると、エッセがそれを真似する。『イ』が「外に顔を出しちゃ駄目」とエッセに注意すると、自分の防光服を脱ぎ捨て、空になった木箱を丁寧に片付け出した。そんな風にテキパキ動く彼女とは対照的に、フシーオとビンディーはまだ一緒に無駄口を叩いている。ビンディーはフシーオより頭一個分だけ背が低く、寄り添っているとお似合いのオシドリ夫婦のようだ。なにしろ彼女を助けたのは彼なのだから、気が置けないのは当然か。
「この先はトンネルが多いらしいからさ、こまめに扉を開け閉めしないと、煙でひどいことになるよ」地元の人間らしく、ビンディーが解説する。
「行ったことあるの?」
「あたしじゃなくて、親父がね――」そこで一瞬言葉が詰まる。しかしすぐに顔を上げた。「いっちばん長いトンネルが確か五里もあるんだ――そっから先はひたすら下り坂で、もうトンネルなしにタララ市に行けるよ。時間は片道三時間半ってところかな」タララ市は、同名の山師がフロギストン鉱山を開発するために切り開いた街だそうだ。初めのうちは小さな掘っ立て小屋が一軒建っているだけだったが、今では大集落になっているという。――もちろんそこは、巡礼路の本筋ではなかった。しかし全ての道は王都に繋がっているし、その街は一種の治外法権だから、人を隠すのには都合のよいところというわけだった。ビンディーはまるで自分が見てきたかのように、その街のことを話した。そしてその話を、エッセはフンフンと繰り返しながら記憶していく。
「あたしの話なんか憶えても、どうにもならないよ――」ビンディーが恥ずかしそうに言うが、エッセはお構いなしである。
「おおい、早速トンネルだ」首を出して外の景色を見ていたフシーオが、四人に声を掛ける。そして立ち上がって扉を閉めた。また真っ暗になる。そしてその度、ビンディーは轟音の中、自分の身の上話をするのだった。それは昨日交わした会話よりもより突っ込んだものだったが、彼女は会話の末尾に、いちいち「あたし無学だから、細かいことはわかんないけどね」とどうでもいい予防線を張るのだから、ヤシュタットは妙に居心地が悪くなるのだった。
……さて、ヤシュタットにとって、ちょっと意外なことが起きた。三つの短いトンネルをくぐり、緑色の馬鹿でかい甲虫が貨車に飛び込み、すぐさま出て行ったのちに、ビンディーの言っていた長いトンネルに突っ込んだ。窒息するような時間が経過したあとにそこを抜け、道中の折り返しにまで差しかかると景色は一変、霧雨が降りしきるようになってしまった。おまけに標高が高くて、恐ろしく寒い。まるでこの大陸の、三っ脈を挟んだ北側のような、憂鬱な天気だ。こんな気候のところに来ることなんて想定していなかったから、彼らは全員、荷物から外套を引っ張り出して羽織っただけでなく、さっき脱ぎ捨てたばかりの防光服の厄介になる羽目になった。トンネルがなくなった分、尾根と谷の狭間を縫い、さらに軌道がおざなりなのか、ひどく揺れる。なので結局扉を固く閉じて、ランプの明かりに頼ることになってしまった。そんな中、『イ』が目に見えて衰弱し始めたのである。さっきからこの貨車で最も頑丈に思われる、進行方向の後ろ側の壁に膝を抱えて座っている。
「ちょっと、あなた、大丈夫?」ビンディーが訊くと、『イ』は弱々しくうなずく。しかしその大きい瞳はランプの光を映さないほど淀んでいる。
「おねえちゃん、いたい?」エッセは彼女によじ登ると、その口を開かせようとしたり、腕を伸ばそうとした。
「あ、ちょっと――」
「好きなようにさせてあげて……、コルドラン先生の真似?」『イ』はかすかに微笑むが、肌の色も湿った黒土のようで、そのままボソッと、土に帰ってしまいそうだ。
「でも、一体全体どうしたの? さっきまではあんなにシャンとしてて、動き廻ってたのに――」ヤシュタットはそこまで口に出したところで、はたと気付いた。「もしかしてキミ、乗り物酔いしたの?」
彼女の症状は、ヤシュタットがオタジアからこの金大陸に渡航した時に乗った客船で見舞われた、ひどい船酔いと似ていた。『イ』は目を虚ろにしながら、またうなずいた。「――多分ね」
「多分?」
「私、乗り物に乗ったことがないから……」
「ははあ」
トン族はその体重があるから、人々が一度は遭遇する、サスペンション抜きのひどい乗り心地の馬車にも、波のまにまに翻弄される小舟にも乗ることもない。
「そういう時は身体を横にして、外の空気を吸った方がいいよ」ヤシュタットがよろめき、危なっかしい足取りで扉の内側の取っ手にてをかけた。
「でも、外は――」
「ぼくらの服をかけていればいいよ」しかし扉を開くと、さらに天候は悪化していた。氷雨が容赦なくヤシュタットの頬を叩く。
「あたしの防光服も貸したげる。――着の身着のままのあたしに服を貸してくれたんだしね」そう言ってビンディーも頭から服を脱ぐが、外気に触れた瞬間、両腕の羽毛が逆立った。
結局、『イ』とエッセは一緒に身体を寄せて、解放された扉のそばで眠りにつく。それの対角線上に、ヤシュタットたちが巣箱の小鳥みたく固まって寒さをしのぐ。ビンディーの羽毛は耐寒性があったが、彼女はフシーオとべったりなので、ヤシュタットの方にまで温もりがまわってこない。
「ところでさ、訊いていい?」ビンディーがヒト族の二人に、ぽつりと話しかけてきた。
「なんだよ?」フシーオが甘ったるい声でそれに応える。
「あの二人ってさ、どうしてあんたたちと一緒に旅してるの? そもそもあの子とトンの子は、何者? 片方は足の悪い女の子で、もう一人は普通のトン族とは様子が全然違うし」
「エッセの方は、詮索しないでくれって言い含められているんだ。多分あの子も、自分が何者なのか、知らないと思うよ」
「ふーん、それじゃああたしも根掘り葉掘りするのはよそうか。……じゃあ、『イ』さんの方は?」
「エッセの身の回りの世話をまかされていて、本当はハイヤの自由学校で働いてるらしいよ。そこの校長先生の秘書なんだって」
「ヘエエ、そんなむつかしそうな仕事が出来るってことは、すっごく頭がいいんだね。あたしとは大違いだよ」
「確かに頭はいいみたいだね。ものすごくたくさん勉強してるみたいで、ぼくらにホードガレイの色んなことを教えてくれたし」
「学校にも行ったのかな? その自由学校ってところに?」ビンディーは少し、本音を出した。「勉強したら女でもトン族でも、ちゃんとひとりで、世の中渡っていけるんだね……」
「今からでも勉強すればいいじゃないか」
「え?」
「フシーオだって、家が貧乏なのに苦学して留学してきたんだよ」
「そうなんだ……」
「おいおい、おれの話をわざわざ出すなよ」
「でもあたし、字が読めないから。……ずっと見続けてると、気持ち悪くなってくるんだ」そう言って彼女は一度姿勢を直した。「それに、今は追われる身だしね。私のことよりこの先のことを考えよう。それが無理なら、あたしたちも体力を温存しとこ、ねっ?」
言うなりビンディーはがばりと自分の顔を羽毛で隠してしまった。仕方なくヒト族の二人も、彼女に寄りそってひと眠りする。――外の気温は相変わらずで、眠れるかどうかは甚だ疑問だったが。