ガスの街と機械の鳥
〈――アルプの女とトンの女、抱くならどっちがいい?
――難しいことを訊くね君は。夜鷹を抱くぐらいなら羽根枕を顔に押し付けられた方がいいし、土くれを抱くくらいなら馬車に轢き殺された方がマシだ!
――ヒュッポー『フリフリ通りの亭主たち』〉
『……これだけ言ってもまだわからんか! 奴らに知恵はない! ……ではこういう視点ではどうか? 奴らに魂はあるかどうか? 答えはノンだ――。奴らの命は悪魔がつくった偽物の命だ。だから奴らの肉体は命が消え次第早々に朽ち果てる。魂の帰還が許されてないからだ。魂は知恵の源泉であり、それが欠けている以上彼らに創意工夫の源泉となる知恵もないということだ! 理解しろ!』
ヤシュタットは朝っぱらから、開け放たれた窓から飛びこむこの怒鳴り声で叩き起こされてしまった。……といっても既に陽は高く、時刻はとうに一〇時を廻っている。がばりととび起きると隣のベッドにいるはずのフシーオがいない。相部屋で寝ている『イ』とエッセもいない。『イ』はベッドを重みで壊してしまうので床に寝転がり、エッセは彼女に添い寝をしてもらっているのだが、毛布は綺麗に折りたたまれている。
外の口論は一層白熱していた。
『いや、彼らには魂はある。それもとびきり邪悪なものが。奴らは従順の皮をかぶり、いつ我々に牙をむくべきか、虎視眈々とその機会を狙っている。彼らの使う言語を耳にしたことがあるかね? 我々の使うホードガレイアとはなんら共通点はなく、その発音は我々の心をひどくざわつかせる……。これは我々の精神を蝕むと同時に、一種の暗号となっていて……』
『そんな与太話はいい! 知恵を持っている、言葉を理解するという風に動物を思わせることなんて容易い。君は計算が出来るとされた馬の話は知っているか?』
『そんなのは詭弁だ! 今ここで議論すべきは馬ではなく、土くれどものことだろう……』
ヤシュタットはうんざりとし、そして両脚にしぶとく残る鈍痛、それから若さゆえの多大な空腹をおぼえた。することがないのに、どうして人の身体はエネルギーを消費してしまうのだろう。
ヤシュタットたちはさんざん山道を歩いてユニムルの街にたどり着き、そこでは休息もほどほどにしさらに四日要して次の街であるこのシタ・サーブ市にまでやってきた。その道中は例の爆発事故のせいで――いや、事故ではなく正真正銘のテロリズムだった。何者かが夜陰に乗じて火薬庫に火を放った。そして警察組織に追跡された犯人は追い詰められて、雨の中だと云うのに焼身自殺をしたのである――足場の良い本来の巡礼路をはずれ、ひどく紆余曲折した旅になってしまった。巡礼路はホードガレイの重大な交易路でもある。今回の封鎖で大損害を被った人も多いはずだ。
そしてまた、彼らは足止めなのである。しかし今度は例のテロリズムのせいではなく、医師スタンソとこの都市で落ちあうための、能動的なものだった。この市にある福血会の支部に問い合わせてわかったのだが、例の交通規制が解除されたので、彼は川蒸気・馬車・そしてワゴンウェイを乗り継いで、大急ぎでこちらを目指しているという。明後日にはにはこの街に到着するらしい。シタ・サーブ市は巡礼路の本筋にあり、交通網が整っている。貨物輸送が主だが、なんと鉄道まで開通していた! そんなわけで、ここでおとなしくしていれば確実に待ち人と出会えるのである。
しかしぼくらはよくやっている。何もあの人が駆けつけなくとも、このまま無事にダルダシオーンに行けるはずだと、ヤシュタットは自負していた。非常に申し訳ないとは思っているのだが、彼の頭の中で、あの吸血族の医師の顔が、もはや思い出せないでいた。
ヤシュタットはシャワーを浴びようと、宿泊客兼用の浴場へ行く。シタ・サーブはフロギストンを抽出する鉱石の取引きで、突如として栄えた新興都市で、街のあちこちには最新の機械が一足飛びに導入されて裕福な住人の生活を支えていた。ヤシュタットはこの宿泊所でも、蛇口をひねればお湯が手に入ることに驚かされた。こんな贅沢を単なる巡礼者にも享受させられるほど、この街はエネルギー革命の追い風に乗っていた。
簡単な身支度を済ませると、彼は部屋から出てフシーオとトン族の娘、それから足の悪い連れの少女を探すことにした。彼らが止まった宿泊所は都市の大広場の真ん前に立地し、一階はカフェテラスになっている。ここは他にも劇場・官庁・寺院に取り囲まれており、この街の中心の一つだった。巡礼者を除いた一般人は普段ならそこで休日を楽しんでいるはずだったが、本日は大広場で繰り広げられている騒音に辟易し、だれもが店の中に引っ込んでしまっていた。店内でも良質のフロギストン灯が煌々と付けられ、外にいるのと変わらない。フロギストン灯は油のランプと違い、どんなに長く使っても物に臭いが移らないところがいい。
しかし、というか案の定というべきか、『イ』たちは屋外のカフェテラスに居た。社会への挑戦のためわざとそこに居るのか、それとも店から鼻つまみにされたのかは知らない。ここの店は備えが良く、彼女の体重を支えるには十分な強度を持った、鉄枠の椅子を用意していた。そういうことも踏まえると理由は前者なのだろう。
『イ』は髪型こそ変わらないが、普段着ている禁欲的な巡礼服ではなく、亜麻色の生地に複雑な刺繍とキルトの文様が入った、手の込んだ服を着ていた。
「あ、ジャスター!」一緒に居たエッセが立ちあがり彼に手を振る。彼は妥協して、エッセには名前をホードガレイ風に呼ばせていた。その方が発音が簡便だからだ。エッセは立ち上がろうとするが、彼女の足はまだ頼りない。そのままぺたんと、再び椅子に尻もちをし、椅子の足にぶつかった金具がガチャンと鳴る。
(ずいぶんとお寝坊ね)と言いたげに、『イ』はその真っ黒な大きい目を向ける。ヤシュタットはこの数日間で、彼女の視線にだいぶ慣れた。――慣れたどころか、その瞳の奥に、何かしら温かいものを感じることまで出来た。
店の人がそそくさと近付いてきて、空いている席に黒茶と蒸しパンの山を置いてゆく。赤・黄・黒――、その他たくさん。
『奴らがいかに労働者から仕事を奪っているか――』
「それ、あなたの分」あらかじめ注文しておいてくれたらしい。
「こんなに食べられないよ。――フシーオは?」
「電信所」
ははあ、また実家のおふくろさんに電報を送ってるのか。顔に似合わず、親孝行なことだ。
『さらには近年、奴らは崇高なる知的労働の分野にまで……、これはタイプライターの普及が……』
『タイプライターなんて、奴らでも出来る単純労働ではないか! あんなものが知的労働であるわけがない!』
「その服、今まで見たことなかったけど、民族衣装?」
『イ』はかぶりを振った。
「私たちは普段、こんな派手な服は着ないから。自分で刺繍したの」
彼女は派手だと言うが、服は決して、けばけばしいものではなかった。布も糸も、草木染めの優しい色をしていた。まるでひっそりと咲いた野花をそのまま生地に写し取ったようだ。
「なんでその服を?」
『そもそもあの土くれどもは古代、我がホードガレイに滅ぼされたヒトの王国が使役するために造った土の奴隷であり――』
「たまには陽に当てておかないと虫がつくし、今日は巡礼はお休み」
『いや、その認識は甘い。奴らは単なる奴隷として創造されたのではない。滅ぼされたヒト国家が我々ホードガレイの精神を堕落させ、その隙に乗じてこの国を滅ぼすために遺された、忌わしい復讐装置だ。実に恐ろしい――』
『そんな役目が彼らに与えられているかどうかはともかく、そんなことが奴らにできるわけないじゃないか。素晴らしき主の御心を理解できない哀れな――』
「ここもうるさいな」ヤシュタットはついに根を上げた。「ここで食べても折角の朝食が台無しだよ。もう行こう」彼は皿の上の蒸しパン、残り三個のうち、二つを黒茶で流し込み、最後の一個をエッセにあげた。彼女は素直にそれを受け取ってくれた。
「この朝食のお金は?」
『イ』は明細書を見せた。【宿泊費込み】。ヤシュタットはナプキンで口元を拭き、立ち上がる。
「フシーオのやつを迎えに行こう。道はどっちかな?」
『イ』はあっちだと道を指す。しかしその方向は人混みに隠れてよく見えない。歩けばわかるか……。
さてヤシュタットと『イ』がこんなやり取りをしている最中でも、人混みから一段上がった所に居る二人の中年男性は勇ましく討論を続けている。
『話が大きく脱線しました。元に戻しましょう。ではヒュック博士はトン族の持つ文化があまりにホードガレイ文化から孤立している。すなわち彼らは創造の時に与えられた文化をただひたすら繰り返しているだけだ、というお考えなのですね?』司会者がそう言い、議論を区切った。
『そうだ。奴らの頭の中はいわば、オルゴールのシリンダーだよ。一つのことを繰り返すことしかできないんだからな。それに奴らには、へそがないでな。アハハ』
『いや笑っている場合ではないぞ。たとえ機械でも相当複雑な動作が出来る。ボードゲームが出来るやつだってあるんだから、陰謀をめぐらせることぐらい――』
ヤシュタットたちはその横をすり抜けた。掲げられた垂れ幕を見ると、【トン族は人間か】というテーマが高々と掲げられている。
この討論会は地元の新聞社が開催したもので、壇上に上がっていたのは著名な生物学者と医学者なのだそうだ。その後ろでは新聞社社長と地元の有力者――鉱山経営者・副市長・地元出身の退役軍人――が、来賓としてずらりと並んでいる。大勢の市民に見つめられながら、その二人の博士は「トン族に心はあるかないか」について顔を真っ赤にして怒鳴り合っている。観客も下手な芝居より面白いとばかりに見物をしているが、そんな彼らのすぐそばを、渦中のトン族が魔族の女の子の手を引いて、するすると通りぬけているのだから、その近視ぶりにヤシュタットといえども冷笑をしたくなる。
トン族の身体能力は他の種族のそれを軽く凌駕していて、そんな能力を闇雲に恐れている人がこのホードガレイには大勢いる。……というより、そういう輩の方が圧倒的多数派だった。だからあの老人たちのように「奴らは心のない単なる土くれの怪物だ」と思い込んで無視を決め込むか、トン族に知性が宿っているのを認めつつ、「奴らは我々の社会を破壊するため工作活動をしているのだ」と主張し、彼らを社会から追い出そうとする人とで、このホードガレイは二分されていた。トン族への白眼視は、政府が国民の不満をそらすため、わざわざ煽っている節もある。
広場を離れ、大通りを通る。道の途中、建物の並びをぶった切るように、赤茶色の壁が道を輪切りにしていた。大砲が普及するまでこの街を幾重にも守っていた城壁の一部だ。この都市は盆地の中央にあり、各諸侯国の動線上に位置していたため、頻繁に戦火に見舞われてきたのだ。しかしかつては街の誇りだったこの鎧も、百年も前にその役割を終えて現在ではゆっくり、周囲の建物が増改築されるにまかせ飲み込まれていっている。もっともこの城壁はその役目をすっかり失ったわけではなかった。ネズミの巣穴のようにくり抜いた通路の大きさを調節することで、ダウンタウンにまで馬車が侵入しないようにしているのである。街路の道幅は中世のままなので、馬車に往来されては危険でしょうがないのだ。
道すがら、ヤシュタットがぎょっとするような――といっても些細な出来事が起きた。
「後世に遺されたわずかな資料によると、トンは、虫やトカゲを生きたまますりつぶし、その魂を絞り出して土の中に染み込ませ――」
『イ』の手に引かれたエッセがさっきの討論会の話をそのまま諳んじ始めたのだ。この娘は奇妙な特技があって、一度しか聞いたことのない物事をそのまま憶えることができた。彼女は毎夜毎夜『イ』から色んな物語を聞かされて、一人前の語り部子弟になりつつあった。道端に落ちているガラクタと同じように、その辺に溢れる雑音を次々と摘み取っていくのだ。
エッセは一呼吸にあの罵詈雑言を唱え終えると、にんまりと『イ』とヤシュタットを見上げる。この特技を見せれば手放しに褒めてもらえると思っていて、『イ』はその期待に応えてそれに微笑み返すが、ヤシュタットは素直に褒めてあげられない。エッセはあの討論会でなされていた話の意味が、さっぱりわかっていなかった。
「ねえ、こういう話まで憶えさせちゃ駄目なんじゃないかな?」
「そんなこと言っても、何を聞いて、何を聞かないか選ぶのはこの子自身だから」
『イ』のいうことはいちいちもっともだった。しかし、エッセの学習能力は目を見張るものがあった。だから今は無知で無垢でも、そのうち、自分の大事な保護者に対して悪意がちくちくと向けられていることに気付いてしまうだろう。それを思うと今の内からやるせなくなる。
「――あなたはどっちの話を信じる?」
「え?」
「私に心があるか、ないか」
「それは……」
まさか『イ』の方から懐に飛び込むような質問を喰らわせてくるとは思わなかった。ヤシュタットはやや口ごもるが、出た答えは明確だった。
「君に心がなかったら、エッセをこんなに可愛がってるわけないよ」
「今エッセが繰り返した話は?」
「トンは虫の魂を土くれに染み込ませて造った奴隷っていう……?」
「別にいじわるをしたいんじゃない。ただ話がしたいだけ。私たちの神話でも、最初のトンは、ヒト族の魔術師が造ったっていうことになってるから」
「え、……虫の魂から?」
ヤシュタットは左手で小虫をつまむような仕草をする。『イ』は別に恥じるわけでもなく、あっけらかんとうなずいた。
「かつてヒトの魔術師は王様や貴族の求めに応じて土の召使いをどんどん造った。最初はそれに心なんかなくて、言われた命令を忠実にこなすだけだった。――そのうちその王国は私たちに頼りっぱなしになって、誰も自分で考えたり、働いたりしなくなった。魔術師は国の将来を憂いて、脱魂の魔法を使って全ての召使いを土に戻してまわった。だけど最後に残った二人の召使いが、『先に自分から魂を抜いてくれ』とお互いをかばいあって、この召使いたちに本物の心が宿っていることに気付いた魔術師はその二人をずっと自分のそばに置いた。その夫婦の召使いが私たちトン族の先祖」
「ああ、だから創世神話にトンの創造が書かれてないのか」
「だからあんなこと言われても別に悔しくない。一族の出生を恥じたことなんてないから。……話はところどころ間違ってたけど」
「でも、哀しかったりはしないの? 一方的に悪者扱いされてさ」
「……」微笑をたたえて、それっきり彼女はなにも言わなかった。
彼女は道中でも、外国人であるヤシュタットに、トン族の神話を次々と語ってくれた。ヤシュタットが一番気に入っているのは彼らの死生観だった。
ユニムルに向かう山の道には、奇妙な文様が描かれた岩が点々と並ぶ地帯があり、『イ』がいうには、それはトン族のお墓なのだそうだ。
しかし彼らは本来、亡骸を遺さない。心臓の鼓動が止まるとともにその身体は粉々に砕け、砂になり、風のまにまに消えていく。なのでその時ヤシュタットは、彼女の説明に首を傾げた。その疑問を、彼女は懇切丁寧に説明してくれた。
「トン族の魂は、肉体の死と共にこの世界を二千と四三年間放浪して、次に転生するための依り代となる岩を探すの。その岩を予め探して、生前の似姿を彫り込んでおくことがその子孫の務め」
「つまりトン族のお墓って言うのは、この世に戻ってくるための目印ってこと?」
『イ』はうなずく。「これはまだ魂が宿ってない、ただの岩。あの絵は、先祖のために書いた似姿――」
トン族の生命観は、他の民族とは大きく違っていた。死んだ人間の魂は偉大なる主の元にゆき、地上をさまようのは悪事を犯した者の魂だけということになっている。彼らはその教義自体から、他民族からの孤立主義を取っていた。
「この岩は全部、元からこの山地にあったもの。黄土山脈の氷河がここまで張り出していたときに、氷河の流れでここまで流されてきた。私たちは決まった場所には住まないけれど、転生する場所はこの山のどこかだと決めている」
もう一つ不思議なことは、彼らの思想に地質学とか、そういう最新の科学がしっかりと根付いている点だった。『イ』が特別教養豊かなだけかも知れないが、これからのホードガレイは、迷信に固執しない彼らトン族なのかもしれない、とも思った。
「ああ、お前、やっと起きたのか。ネボスケめ」フシーオは、電信所の玄関からトボトボと――というより、フラフラと出てきた。相変わらずの口ごたえだが、声のトーンも低く、深刻そうな表情をしている。
「どうしたんだ? 君、朝からやたらくたびれているみたいだけど」
「ああ、その、……ちょっと歩かないか? 話があるんだ」
「?」ヤシュタットは首を傾げた。エッセがそれを大袈裟にそれを真似て、さらにそれを『イ』が真似る。まるでお遊戯だ。
ヤシュタットはちらりと後ろを振り向くが、未だにあの茶番劇は続いている。観客も熱狂してきたのか、ヤジがここまで響いてくる。宿の方向にはしばらく、戻らない方が良い。
「こっちには小さい噴水広場があるよ」『イ』が道の先を指差した。街区を二つまたぐと、なるほどそこにはあの大広場の半分くらいの敷地があり、中央では聖者たちの姿を象った噴水がしゅんしゅんと絶え間なく水を吹いている。ここでもポンプを惜しみなく使っているのか、水量は豊かだ。
どうやらここには、かの喧騒に追い出されてしまった住民が、本来あの場所で得られたはずの憩いを求めて逃げ込んでいるらしい。警官もいたが、せっかくの休日をこんな退屈な仕事に駆り出されて、不服そうに大あくびをしていた。そんな呑気な光景を見て、ヤシュタットも嬉しい気持ちになってしまう。ゆっくり周囲を見渡すと、銀のポットを担いだ黒茶売りが歌うような調子で口上を述べている。小さな屋台は羊肉の焼ける匂いを立て――さらには高価なアイスクリームまで売っている! そして大道芸人が三人ほど噴水の周りにいて、その周囲には大人と子供、歳の境なしに集まっていた。人の集うところの雰囲気は、本来こうでなくちゃならない。
人の輪の中心ではキャアキャアという嬌声が響く。『イ』は何も言わずにエッセをその人だかりの一つにへと連れて行った。後にはヒト族の二人が残された。それが彼女のささやかな気遣いだと気付くまで、ちょっとだけ時間が必要だった。
「どこか落ちつけて話せる場所はないかな……」そう言ったのはヤシュタットだった。フシーオはやたら深刻そうな雰囲気を漂わせていたので、せめて気を効かせようとおもったのだ。……ただ、どこか店に入っても、もう何も口にする気にはなれそうもなかった。
結局彼らは適当な建物のビルに背をもたれかけた。――別にどちらかが「じゃあこうしよう」と言って決めたのではなく、ただなんとなくこうなったのであった。これが普段のフシーオなら「金のないアベックみたいだな」などという戯言と言っているところだが。
「――ねえ、なんでそんな雰囲気なんだい。お母さんからなにか返信があったの?」
「実は、そうなんだ」声のトーンが、ますます沈む。「……おれさ、大学やめるんだ」
「え!」あまりに唐突過ぎた。「それと、お前のお母さんと、どう関係が?」ちょっと訊く内容の順序を間違えているような気がした。そしてフシーオの返答も、かなりチグハグしたものだった。
「――双子が生まれたんだ、男の子の」
ヤシュタットは面食らって、頓珍漢なことを訊いてしまう。
「だ、だれに?」
フシーオは少し動揺し、まごついた。
「だから、おふくろだよ。……まったく、一体だれの子なのか」
ヤシュタットはそれ以上訊き返さない。その代わり、話を先回りすることにした。
「それで、生活が苦しくなるから帰国して弟たちの生活を支えるつもりなのか? せっかく奨学金をもらったのに! こっちで働いて仕送りするとか出来ないのかい?」オタジアの方が物価が安く、小額のお金でも、送金すれば祖国に残した家族も何とか養える。だから勉学と仕事を両立させている留学生だってごまんといるのだ。ヤシュタットはそこを力説してフシーオを思いとどまらせようとしたが、彼はかぶりを振り、それを拒否した。
「なんでだよ、おい」ヤシュタットも多少、むきになってしまう。「勉強するのが嫌になったのか?」
「そうじゃない! 別に、そういうわけじゃないんだ。――ただ」
「ただ?」
「机にかじりついて、テストが何点だったとか、帰国した後に役人に取りたててもらえるとか、そんなことを考えるのが、とても意味のないことに思えて仕方がないんだよ。お前だってわかるだろ? 『こんなこと勉強してたって、何の役に立つんだよ』って感覚」
ヤシュタットにも、その気持ちがわからないでもなかった。だからそれ以上反論したくても、使うべき言葉が見つからない。――しかし、そんな憂鬱に取りつかれても、実際に勉学を投げ出してしまう奴なんて、数えられるほどしかいないだろう。
彼は息継ぎせず、一方的に話を続けた。
「そういうことはもうお終いなんだ! これからは、本当に、なすべきことだけに全力を注ぐんだ。おれは使命に目覚めたんだ。今からはもう、ただの学士なんかじゃないぜ」
「二人いっぺんに増えた新しい家族のために、残りの人生をかけるかい?」
「人生をかける価値があると信じてるんだよ、おれは! ああ、なんつーかもう、なんというか、なんといえば……」
実家に帰って、生まれてきた弟たちのために汗を流して働く――。ただそれだけのことを宣言するのに、オーバーだな。独白劇だと勘違いされなしないだろうかと、ヤシュタットは閉口するが、同時にそう思ってしまうのは自分が世間知らずのボンボンなせいかなとも思い、フシーオとの間に超えられない価値観の壁を感じてしまう。
「だからさ――」フシーオの声は、また地に足ついたものに戻っていた。「この旅がおれの、人生最後の晴れ舞台ってわけなんだ。なんとしてでもダルダシオーンにたどり着く。お前との付き合いも最後になるからな――」
ヤシュタットは彼の言葉一つひとつに飲まれてしまった。まるで強烈なシャワーを浴びせられたかのようだ。そしてただ、気が抜けた相槌をするばかりになった。
「……わかった。僕も、君と一緒になんとしてでもダルダシオーンに行こう。巡礼を成功させよう」ヤシュタットも芝居の一部になっていた。あとは「ありがとう友よ」と、二人が友情を確かめるためにしっかと抱き合えば大団円だが、二人の間を割るように、女性の高い声が彼らの耳に届いた。
「あ、あー! そっち行かないでったら! もう!」
エッセの声でもなければ、もちろん『イ』の声でもなかった。振り向くと、人混みの中からひらり、頭上を飛び越え蝶のようなものがこちらに向かってきた。新品の硬貨のような、柔らかな銀白色をしている。ヤシュタットは近づいてくるそれをそうっと捕まえた。彼の反射能力は、決して優れたものではなかったが、その蝶の動きはまるでぜんまいが切れたようにか弱いものだったので、それはいともたやすいことだった。その蝶はかれの手の平で、ピクリとも動かなくなった。
なんだ、これ――と、ヤシュタットがそれを調べる前に、エッセが『イ』の手を引きながらそれを追ってきた。エッセが彼女の体重を引っ張れるはずはないのだが、そこは『イ』の心配りだろう。
そして遅れて、真っ白い派手な白粉と、おかしなワッペンを一杯貼り付けたツナギを着たアルプ人の女性が走ってきた。上から下まで、道化師の格好だ。そして彼女に操られるように、観客たちもヤシュタットの方へぞろぞろと移動してきた!
「あーららららら……、すんませーん、それ今日初めてやったショーなんで!」女道化師はぺこぺこと、あたり構わずお辞儀をする。
「こんなの御愛嬌ということで、ご勘弁願います! いやあ、どうも、どうも!」そう言いながら彼女は背を伸ばし、ヤシュタットの方に手を差し出した。一瞬何なのかわからなかったが、この金属の蝶がショウに必要なのだと察して、それを手渡す。
「ホントにみなさんすいませーん。も一回やりなおしまーす。――って、あーッ!」
道化師は奇声を挙げた。観客は一斉に、その視線の先を見る。そこには何匹もの銀色の蝶が、人混みの中から沸き立ち、一心に天を目指して飛び立っていった。
「ああ、マッタク! 今度はこっち。もうどうにでもなればいいさ! クソッ!」
道化師は悪態をつくが、それとは裏腹に、観客は楽しそうに天へ昇る虫の群れを見つめていた。それらは屋根の高さまで上昇すると、斜めに差し込む陽光を浴びて、キラキラと輝く。――すると、一定の高さでみな羽ばたきをやめ、そのまま力なくポトポトと、広場の方へ落ちてきた。観衆は腕を空にかざし、落ちてきた虫を捕まえて行く。みんな楽しそうだ。
「このショウは失敗! はーいじゃあそれ持って帰ってもいいから、今日はもうお開き、お開きネー!」女道化師は両手をぶるんぶるんと振る。「そのちょうちょはあげちゃう! それじゃみなさん、スンズ工房を御贔屓に!」
かくしてショウは終わり、見物人たちは次の見世物をもとめて散らばった。――あとにはヤシュタットたち四人が残る。ヤシュタットはそこでようやく、この女性がやっていた見世物の正体を見た。八角形の噴水の一角が、それこそ「玩具箱をひっくり返したよう」という表現をそのまま現世に召喚したようになっていた。三つの木箱が並び、それぞれからは銅線やら空き缶やらがちらとのぞいている。その中央にある箱から、あの蝶の群れは飛び立ったのだろう。
「なに、どうしたの、ヒトのオニーサン……。あ、そうか」女道化師は独り合点し、地面に落ちていた蝶を三匹拾う。
「はい、あたしのショウにご協力どーも、あんたたちもうちの工房をよろしくね。おじょーちゃんも、トンのおねーちゃんもね」
「工房?」押しつけられた蝶を指先で弄びながらヤシュタットは訊く。エッセはそれを子供らしく、光に透かした。――よく見ると蝶の羽根にには『スンズ工房』と書かれ、住所も載っている。
「あたし学がないから字が読めないけど、それがうちの名刺――。捨てられてたブリキの缶詰で造ったんだ。うちの工房、時計でもなんでもつくるし、直すよ」
「大道芸人じゃあないのか?」
「違う違う。あたしはただの細工師だよ。職人よ、職人」そう言ってアルプの女は道化衣装をぱっと脱ぎ捨て、肩まで羽毛に覆われた両腕があらわれる。仕事の邪魔になるのか、羽根は全部きっぱりと切り揃えてある。彼女は衣装の下に女性らしくないカーゴパンツを履き、上も男性的な、伸びに強いブルーのシャツを羽織っていた。――布にはところどころ、焦げ目がついていた。羽毛で地肌が見えづらいとはいえ、女性について保守的な人物が見たら、卒倒しそうな格好ではあった。
アルプは顔に塗った練り白粉をぼろきれで拭き取っていく。太い眉がぴょんとのぞき、そばかすの浮いた、生娘らしい顔がのぞく。
「親父二人で切り盛りしてんだけどさ。休日は宣伝も兼ねてサ、こうやってつくったオモチャを見せてるんだよ。遊びっぱなしってのを、親父が許してくれなくて」
彼女は仕方なさげに首を振るが、その割には道化姿が板についていた。彼女は自分の右横に置いてあった箱から、蝶と同じくブリキ細工の犬を取り出し、地面に置く。
「例えばこんなのもあるよ。……もう飽きられてるからさっきは見せなかったけど、ちょっと見てなよ」
彼女がそう言って、パンツのポケットからライターを取り出す。
「まだ中身が残ってるといいんだけど……」
彼女はブリキの犬の背中を開けた。中にはオガクズがぎっしりと詰まっている。そこに手の中のライターで火を付けると……、ブリキの犬はキュンキュンというゴムがこすれるような鳴き声を挙げて、女性の足元を走りまわった!
「わ!」エッセが小さな驚きの声を出す。
「すげー……」フシーオもため息とともに称賛を漏らす。ヤシュタットは言葉もない。『イ』も口を真一文字につぐんではいたが、ただでさえ丸い両目が、さらに真円に近くなった。
彼女は自動人形使いだった。産業機械が普及していくとともに、機械を個人的な趣味や、彼女のように見世物にするために制作している人物が、大きい街になら一人か二人いることが珍しくなくなったのだ。政府も殖産興業の一貫として各地で物産博を催しているが、そういうところではよく自動人形が一番の見ものにされる。
「まだまだすごくないよ。中であたしが書いた円盤回路通りに動いてるだけ。なるたけすンごい複雑な動きが出来るようにはしてあるけど、それもこの炎が消えたらおしまい。あたしが五年前につくった、単なるオモチャだよ」
「オモチャ? これで?」ヤシュタットはようやく口がきけるようになった。そして五年前ということは、彼女がほんの子供の時に作ったということになるのではないか?
「これからの時代は火と蒸気じゃなくて、……ああ、それにフロギストンでもないよ! これからは電気だよ電気!」そういうと彼女は、先ほど蝶の群れが飛び出した中央の箱を指差した。
「電気って、電信に使う、びりっとくるアレかい? 雷とかの?」
「そう、そのちょうちょも電気の力で空を飛ばしたの。それ自体はただの板だから、本体はこっち――」
「でもこの蝶には電線がついてないよ。何もない所に電気を通したわけかい?」
ヤシュタットにそう訊ねられた彼女は、不意に声をひそめた。そして横目で退屈そうな警官を一瞥した後、こうも付け加えた。
「これはちょっと秘密にしてもらいたいんだけどね、これね、パクリなんだよ」
「? どういうこと?」
「この街にも大学があるんだけどね、そこのお偉い学者先生から電気を使った機械を作ってくれっていう注文があって、この蝶はその図面からアイデアをもらったの。なんでも遠くにあるものを焼いたり、自由に動かしたりできる機械らしいよ。あたしは字は駄目だけど、図面ならなんでもわかっちゃうからね」
「オイオイ、それって相当やばいんじゃないか?」
「ま、多分平気だよ。お偉方の真ん前ではうすら馬鹿な振りするの、慣れてるしね。それにこの蝶は初演なんだけど、もうしないよ」
「だけど失敗したように見せたのは、わざとだろう」
フシーオにそう指摘されると、女性はぺろりと舌を出した。
「とにかく、今言ったことは内緒だよ。――特に親父には」
ブリキの犬は動きを止めた。女性は軍手をはめた手でその襟首をつかむと、ボンと箱に詰め戻す。
彼女は中央の箱の両側に付いた取っ手をつかみ、それを手押しの荷車に載せようと試みた。――身体が軽く、その分非力なアルプには相当な重労働だ。それを見かねたのか、『イ』が残りの箱をその上にてきぱきと積み重ねてゆく。
「あ、あんがと。――あんたたちこの街の人じゃないんでしょ? 巡礼の途中?」
「よくわかったね」
「こんなに種族がバラバラな人たちがこの街にいるかよってハナシ。このおじょーちゃんの脚が治るように祈願しに行くんでしょ?」
彼女は文字通り、エッセの足元を見た。――実のところヤシュタットは、まだエッセがダルダシオーンに行く理由を知らなかった。だから適当に、
「あ、うん……。そうだよ、ね?」
と『イ』に同意を求めた。彼女は無表情にうなずく。
「それじゃあ今日の内に出発するのかい? ダルダションに?」
「いや、人と待ち合せがあるから出発は明後日かな」
「じゃあさ、せっかくだから明日の午後、ウチに来ない? 明日の午前までは、……えーっと、シュヒギムとかなんとかっていう、とにかく他の客に見せたら駄目な仕事があるんだけど、お昼には引き渡しが終わるからさ。住所はその蝶に書いてある通りね」
「いいの? 仕事の邪魔にならない?」
「ううん、巡礼者は歓待しなきゃなんないし。それに職人の勘で、なんとなくあんたらに将来の儲けの匂いがしたから」
彼女はカカカと、カワセミのように笑った。――しかしそれは職人ではなく、商売人の、あるいは雌豹の嗅覚なのではないだろうか。
「どうする?」ヤシュタットは最年少のエッセに一応訊いてみた。「このお姉ちゃんのお家に遊びに行きたい?」
エッセは『イ』に頭をなでられながら、指をくわえて考えていたが、何かわかったのか、やがてコクンとうなずいた。
「それじゃあ決まりだ。歓迎するよ。……あ、そうだ。まだあんたたちの名前聞いてなかったね。あたしビンディー」
「よろしく、ビンディー。ぼくは……」ヤシュタットがそう言いかけた時、フシーオがポンと肩を叩いた。
「お前さ、今こそアレを出すべきだろ。……彼女だってそれを期待してるぞ」
ヤシュタットは一瞬なんのことかわからなかったが、やがて「ああ」とつぶやいて懐を探った。――名刺は、肌身離さず持っている財布の、紙幣の隙間に挟んでいた。
「これ、ぼくの名刺。字が読める方に渡してよ」
ビンディーはそれをしばらくじっと見つめていた。
「もしかしてあんた、お金持ち? すんごい良い紙つかってるね」
「それはともかく、もしかしたら将来何か注文するかもしれない。君の工房で何を作ってるかはまだよく知らないけど……。だからよろしくね」
「やったね。あたしの嗅覚はホンモノだったみたい」ビンディーは拝むように名刺を持ち上げ、ポケットにしまった。やはりその挙動は、エンジニアというより女商人といった感じだった。
「『女だてらに』って、しょっちゅう後ろ指も刺されて、親父とも比べられてきたけど……、あたしにも、運気が向いてみたっぽいね。もっとあんたたちと話がしたいな。――もうすぐお昼どきだよ?」
ヤシュタットから名刺をもらってから陽が沈んでしまうまでの間、ビンディーは自分の運勢がひたすら上昇していくように思えた。特にヤシュタットの口から、彼の実家であるオタジアの貿易会社のことを聞き出せたため、有頂天になっていた。そんな調子で仕事場兼家に戻ったため、血のつながった唯一の家族であり、師匠でもある父に道化そのままのにやけ顔を気味悪がられてしまった。
「スンズ工房」は日当たりの悪い路地裏に店を構えていた。別に商品を店頭販売しているわけではないので、これでも別に構わない。三階だての建物を全て借り切っており、一階にはヨモギ色のさび止めがべっとり塗られた、巨大な工作機械が壁際にずらりと並んでいる。ここでは大きな製品の組み立ても行うので、道路に面した扉は大きく開放できるようになっている。馬車でも中まで入れることもできた。
三階はこの親子二人が肩を寄せる生活スペースだが、彼らは仕事と私生活がごた混ぜになっているので、実際にはガラクタ置き場と化していた。事実上の生活場所はその間の、小さな細工物をつくるための二階の工場だった。
ビンディーは部屋の北側にある自分の机に座って、ランプの明かりを頼りに、次の注文品――お金持ち向けの多機能時計、なんと天球儀まで付いている! ――のフレームの一部をやすりで削り出していた。ドリルで八角形の側面に穴をあけて、そこに糸のこぎりを通して細かい細工ものを描いていくのである。彼女の父親は実用性重視だったので、こういう美術関連の作業はすべてビンディーに任せていたのだ。
さてその親父殿である。彼は南の壁に接した机で書きものをしていた。昼間の彼は一階の重機をのんのんと鳴らして、夜間は二階で小間細工か図面作製か、はたまた事務的な書類にサインを書くくらいのことをしていた。部屋の中央にあるテーブルでは、ほぼ完成して明後日引き渡すべき機械とその図面が不用心に鎮座している。
二人とも食事は全て外食で済まし、寝る時はランプを消して、椅子に座ったまま毛布にくるまるのである。ビンディーはこんな生活を続けて四年目だが、いい加減骨盤の形が間違った方向で変形してきたような気がしていた。
彼女の父はさらに満身創痍だ。彼の左の羽根は一五年前――ビンディーが三歳の時――に、プレス機の暴走で指ごとバッサリ断ち切られており、もはや飛ぶことはできない。更には同年に妻と死に別れてしまい、彼の傷が癒えるまでの間、一家は極貧を味わった。そのためビンディーはまともな教育機会を得ることが出来ず、読み書きがさっぱり身に付いていない。しかし図面や機械を動かす理屈は恐ろしい才能を示し、「よそから婿を迎えて、工房を継がせよう」という父の目論みを実現する前に、ちゃっかり工房の二代目に収まってしまった。今では二人三脚で、この工場を切り盛りしている。
(……できた!)ビンティーは自分が削り出した鳥の群れの文様をランプに透かして、見惚れていた。親父の下書きよりもずっと躍動的だ。この部分はいわば回り灯籠になっていて、所定の時刻になるとクルクルと回転し、壁中に影で出来た鳥の群れが舞う、という趣向だった。あとは表面を研磨して光沢を出せば、一工程が終了する。
「親父、出来たよ」ビンディーがそう声を掛けると、父親は製図の手を休め、木製の椅子を反転させて振り向く。広くなった額と、歳のせいで余計に長く伸びた眉毛が、燭台の光に照らされる。
「おう、じゃあ今日はもう寝ちまうか」彼は烏口に詰まった、あまりのインクを拭い、インク壺に蓋をしたあと大きく背伸びをした。『寝る』といっても、前述の通り椅子に腰かけたままの、単なる仮眠である。親父は自分の手元を照らすランプを消そうとした――。
「あ、ちょっと待って。ちょっと話したいことがあるんだけどさ」
「ん、なんだ?」
ビンディーは生唾を飲み込んだ。
「うちで作ってるものさ、オタジアの人も買ってくれるかな?」
「ハハ、まだあの名刺のことがご執心なのか。そこのボンとちっとばかし仲良くなったってだけじゃねえか」
「まあ、そうなんだけどさ」
親父は既に、机の足元に捨てていた毛布を膝にかけていた。親子は同時に消灯する。窓から漏れるかすかな街明かりだけが部屋に差すが、アルプは夜目が効かないので、物音を立てていないと真っ暗闇も同然だ。
「……もし海の向こうとも商売ができたらさ」ビンディーは暗がりの中で父親に話しかける。「この工房をもっと広くしようよ。でっかい発電タービンも、蒸気機関車も丸ごといじれるようなさ。――でもそうなると、引っ越しをしないとね。港町が便利かなあ?」
その声が部屋に反射して、二人の眉毛が室内の様子をつかんだ。親父は「寝言なんか、いうんじゃない」とだけつぶやく。ビンディーも「ヘヘ」と笑う。しばらくの間。
……二人は仕事の途中で手が震えてはいけないから、お酒を一滴も飲まない。だから親子が仕事の外にある、腹を割った会話が出来るのは、この闇の中だけだった。
「……ここの規模を大きくするよかぁな」親父はささやく。「今からでも文字を習ったらどうだ? 手に職を持っているだけじゃ、今に喰っていけなくなるぞ」
「いまさらいいよ。……さっさと文字が読める旦那さんと結婚すればいいしさ。ただでさえ婚期逃しちゃってるんだから」ホードガレイの女性は一六になればもう嫁ぐのが一般的だ。元はコシュ・カムだけの風習だったが、ここ数十年でほかの支族にも広まった。
「お前と釣り合う腕を持った婿がその辺に転がってるかねえ」
「じゃあさ、逆に訊くけど、あたしが学校に行ってる間、この工房はどうすんのさ? 親父独りでまた切り盛りするっての? それこそ無理だよ。だからさ、あたしが学校に行く必要なんてないって」
ここ数年、こんな話ばかりしているような気がする。怒号が飛ぶわけではないが、これは一種の冷戦だった。これ以上話が突っ込んだものになったことはない。
ビンディーだって、いつまでも父に頼っているわけにはいかないということは、前から重々承知していた。だけど、どうしようもないではないか。彼女はヤシュタットたちに対して「薄ら馬鹿のフリ」という言葉をつかったが、自分のことを正真正銘のバカだと思っていた。……文字が一字も頭に入ってこないからだ。道にある看板から、捨てられてる新聞の列まで、文字列を見るといきなり眼を潰されたように考えが停止してしまうのだ。そんな劣等感があるからこそ、彼女は心の底から道化師になりきれる自信があった。自分は馬鹿なのだから、あるがままの姿を見せていれば、それでよいのだ。
それとビンディーは、文字を習うよりも絵を習った方が、身を立てやすくなるんじゃないか、とも思っている。彼女の父親は絵心がなく、実用主義者だったから、作る細工の一つをとっても華がない。それとは対照的にビンディーはいわば芸術家肌だった。彼女は細工物の修理をするだけでなく、何度か見世物小屋の巡業で催されるパノラマ細工の制作に関わっており、その出来栄えには自分でもほれぼれするものがあった。こういう経験を何度もしているものだからビンディーは文字が読めなくとも辛うじてプライドを維持していられたし、その一方でこの性が彼女の脳味噌に文字を読み込ませることを拒んでいるともいえた。
……ブワーッと全身の鳥肌が噴き出しそうなサイレンが街中に響き渡り、ビンディーは椅子からとび起きた。部屋中が音のシャワーで、びりびり震えているようだった。こんな轟音では、シタ・サーブ中のアルプが目を覚ましたことだろう。
「な、なんだ。――クーデターか?」彼女の父親も跳ね起きて、慌ててランプを点けた。卓上の時計――もちろんお手製の物――を彼が覗きこむと、それが指し示していた時刻はまだ三時半だった。
ビンディーは窓をのぞく。……しかし彼女の視力では何が起こっているのか、さっぱりわからない。
「おとなしく家に居よう。どうせおれたちには関係ないことさ」父親はそう諭し、再び寝なおそうとする。しかし相も変わらず、けたたましいサイレンで、部屋の壁がビリビリと震えていた。「カーテン閉めてくれ。それでちっとはマシになるかもしれない」
父親にそう言われて、彼女は紅茶色のカーテンに手を掛けた。……それと同時に、一階の戸を、誰かがドンドンと叩く。
「なんだろう?」ビンディーはまぶたをこする。
「自警団かな。……戸締りをしているかどうか、一軒ずつ確かめているんじゃないか」そう言ってビンディーの父親は着っぱなしの作業服の襟を整えて、無事な右手で手すりを握り、下へ降りて行く。
「何があったのか、ついでに訊いておく」
ビンディーもなんとなく、父親に続いて階段に降りて行った。
しかし、戸口で親子を待っていたのは自警団ではなく、本物の国家権力だった。
「――バング・スンズと、ビンディー・スンズだな」親子を訪ねてきたのは五人組の警官だった。穏やかではないことに、中央に立つ魔族の男以外は既に警棒を引き抜き、臨戦態勢だった。ビンディーの父親が点けた天井の小さな燃素灯が、彼らの鬼のような形相を煌々と照らしている。
「あの、一体どのような御用で?」ビンディーの父がそう尋ねるが、それには耳を貸さずにズカズカと店内に踏み込んでくる!
「ちょ、ちょっと、一体どんなご用ですか? ……あ、いててて!」
「お、親父!」
警官の一人が父親の古傷をムンズとつかみ、彼を後ろ手に縛り上げたのだ。ビンディーが止める間もなく、彼女も同じ姿にされる。
「よし、それじゃあ調査にかかれ」警官たちは展開し、各階に散らばっていく。未だにサイレンが止まない中、頭上からはガチャンガチャンと、様々な物をひっくり返す音がする。ビンディーはそれが自分の頭を金づちで叩き割る音のように思えて、心も潰れてしまいそうだ。
スンズ親子は後ろ手に縛られたまま、なんの説明もされないまま事態の成り行きを見守るしかなかった。やがて警官たちは両手いっぱいに三階に置いてあった機械――それは顧客から修理を依頼されていたものから、ビンディーが本業の片手間に作った『作品』まで、とにかく親子の財産すべて――を抱えて降りてきた。そしてそれらを乱暴に床に投げ捨てる。それらは肩をすくませるような音を立て、粉々に壊れていく。中には昼間に見せたブリキの犬もあり、それは首がボキンと折れ、ビンディーはそれの断末魔の悲鳴を聞いたように思えて気が触れそうになった。
元・製品、現・ガラクタの山が部屋の真ん中に築かれていく。この警官たちのリーダー格が、その山を蹴り飛ばす。その中には明後日引き渡すはずだった製品も混じっていた。それも散々弄られたせいで真っ二つに割れ、内部の機構が内臓のように溢れ出し、ここひと月の苦労が水泡に帰した。
「これらはすべて、国家機密の技術で作られたものだな」
「国家機密? お国からのご注文で作ったんだから当たり前じゃないか。あたしは学がない馬鹿だから、設計図通りに作っただけだよ」
ビンディーは大事な機械が滅茶苦茶にされて気が狂う寸前だったから、こうやってささやかながらも反抗をしなければ、精神の安寧を保てそうになかった。――そしてその頬をしこたま叩かれた。それは現実の痛みだったが、実態が感じられなかった。
「これは『注文』で作ったわけじゃないだろう? ああ?」
警官のリーダーが部下から渡されたのは、ビンディーが作りかけていた次のオモチャだった。今度は自由にブリキの兵士を歩かせてみようと思い、人形を遠くから操るための装置だった。――まだ外に突き出すアンテナの部分しか作っていないが、制作はほとんどはかどっておらず、半ば完成をあきらめていた。蝶と違って、中身の複雑さが段違いなのだ。そしてこのときばかりは、学のない自分をひとしきり呪ったものだ。
警官はそのガラクタをしばらく、ビンディーの眼の前にちらつかせていたが、やがてフンと鼻息を漏らし、それも放り投げられ、宙で緩やかな孤を描いた後床に激突してバラバラに砕ける。内部のバネが飛び出してぴょんとはねた。――まことに不本意だったが、あきらめがついて、ちょっとだけ胸がすっとした。
「ああ、確かにさ、あたしが作ったオモチャはお客さんから頂いた図面からパクったやつがあるよ。――だけどね、それならあたしだけ、……えーっと、『キミツロウエイ』だっけ? ってやつで引っ立てていけばいいじゃないか。親父は無関係だよ」
「我々が探しているのはこれだけじゃない。――凶器はどこだ」
「は?」
「とぼけるな!」今度は反対側の頬をしこたま叩かれた。口の中に血がにじむのを感じられた。しかし訳が分からないので気持ちが整理できず、泣くに泣けない。
ビンディーはほうほうの体で、必死に言葉を探した。
「凶器って、一体全体なんのことだよ。そりゃあ、そこに転がってるやつはさ、扱いを間違えたら危ないものだって混じってるよ。……だけどそれで人を襲うことなんてするわけないじゃないか」
「まだしらばっくれる気か……。ならば仕方がない」リーダーは一度窮屈そうに羽根を広げた後、人差し指を天井に向けて示し、それをくるくると回した。その合図に合わせて、親子は向かい合わされた。――そしてビンディーの父バングだけが力任せに、研磨機から滴る水と、油と削りかすで汚れた床へと押し付けられた。
「ぐ」
「親父!」
バングが伏せたのを待つと、警官は彼女の父親に、さらなるむごい仕打ちをした。すなわち、無事に残っている右の腕を出させて、鋲の打ってある固い靴底でぐりぐりと執拗に踏みつけ始めたのだ!
「ぐ、ううう……」さすがに親父どのは、自分の左手を持って行かれた時にも耐え忍んで独りで医者にかかったというから、今回も悲鳴を挙げるといった醜態はさらさない。しかしこの拷問を続けさせていれば、彼は最も大事な商売道具を失ってしまう。この権力の犬たちも、それを狙ってこんな非道を行っているのだ。
「ほうらほうら、お父上の手が使い物にならなくなっていいのか?」
「ひ、卑怯者!」ビンディーが叫んでも彼らはせせら笑うだけだ。一方のバングは歯をぐっと食いしばり、苦痛に耐えていた。あまりの苦しみに、一言もしゃべれないようだ。
「さて、もう一度聞くぞ。……我々が探しているのは、お前が犯行に使ったダガーだ。さて、どこに隠した」警官はビンディーの耳元でささやく。
「ダガー?」彼はようやく手の内の一部を開いたが、それでも当然、彼女に心当たりがない。「あたしがだれかを刺し殺したっていうの? 誰を、何のために?」
「まだしらばっくれる気か。……我々だって忙しいというのに」警官はそういうと、バングの右手を、紙タバコを潰すものから、地を這うごきぶりを見つけた時のような勢いで、あらん限りの力を込めかかとで踏みつけた!
バングはこの時こそ、人間の口から出る、あらん限りの絶叫を挙げたはずだった。しかし彼女はそれを悠長に聞いていられるような心境ではなかった。この時のビンディーは、もしかしたら本当に怒りと憎悪で狂っていたかもしれない。この理不尽な国家の犬に、一矢報いることばかりで思考のすべてが支配されていたのだから。
ビンディーは歯ぎしりしながら、警官をにらんだ。この時父が「歯向かっちゃ駄目だ」と言ったような気がしたが、無視した。そして何か状況を打開できるものがないかどうかと、せわしなく思考を巡らせた。
「――わかったよ、白状するよ」ビンディーはため息交じりにつぶやく。一方の父親は、右手を挟む足をどけられて、こらえていた息を糸のように絞り、そして何も言わなかったが、愛娘の顔を、心配げに見つめた。
(大丈夫だって)ビンディーはアルプらしい長い眉をわずかに動かして合図する。そして彼女の頭の中には、『ダガー(っぽいもの)』と、この部屋にある工作機械とが、発明家らしくゆっくり化学反応を深めていた。なんとかして、事態を自分に都合のよい方向にへと持っていかねばならない。
「どこだ、案内しろ」警官は声高に言う。
「その前にさ、多少は自由にしておくれよ。特に親父だ」
警官たちはその望みをあっさりと受け入れた。元から面と向かった抵抗もせず、身軽だが非力なアルプが恭順したせいで、油断したのである。
「こっちだよ……。スクラップ籠の中に突っ込んで、ドロドロに融かしてもらおうと思ってさ」そう言って彼女は襟首をいまだつかまれながら、もったいぶった様子でゆっくりと右手を指し示そうとした。……そしてその指の先に公僕どもの視線がそちらに気を取られた隙をついて、身体に合わないダボダボの作業着を脱ぎ捨て、下着一枚の、自由の身になった。彼女の身体は両腕の羽毛で隠せはしていたが、粗末な食事しかしていないので、身体はやせっぽちだった。
「あ!」と警官たちが声を挙げる間もなく彼女は翻り、見慣れているはずの部屋を観察する。そして次々と打ちこまれていく警棒を辛うじてかわしてゆき、――棚の木箱に無造作に詰め込んでいたネジの群れに気がつく。それに手を突っ込むとネジやらピンやらをこけおどしに投げつける。……警官たちは一瞬ひるむが、すぐさま態勢を立て直して飛びかかってきた! ビンディーは身を翻して、もっと奴らにひと泡吹かせるものはないかと考えた。
そんな彼女の隙をついて、警官が警棒を頭の上に振り落としてきた! それがビンディーの肩にぶち当たり、彼女は苦痛で尻もちをつく。……逆光になって、二打撃目を喰らわせようという警官の顔は、よくわからない――。
ビンディーは工作機の真下にあるブリキ缶をとっさにつかみ、第二打をそれで防いだ。ガアンと両手に伝わる衝撃と共に、それはベコッとへこむ。……彼女が持ったのは、研磨剤の缶だった。中には白い粉が半分まで入っており、彼女が昼間に塗っていた顔料と一見よく似ている。しかしこれが目に入ると痛いどころではなく、失明するのではないかという恐怖さえ覚える代物だ。――さらには肺にも悪く、吸い過ぎると、喉や気管に腫瘍ができるらしい。今のところただの噂だが。
ビンディーはそんな不吉は話を頭から抹消し、咄嗟に蓋をこじ開けた。――蓋は天板すべてがベコッと外れるもので、中身を匙ですくうか指でつまんで、磨きたい物に振りかける。……しかしビンディーは缶に書いてある「分量を守ること」を無視して、缶をひっくり返して警官の頭にぶち込んだ! まき散らされた研磨剤の粒子はかなり細かく、一階の工房はあっという間に粉塵地獄と化した。とくに最初の一撃を喰らった奴は悲惨だった。多分このまま窒息死してしまうのではないかと心配してしまうほどむせ返り、そのまま転倒した、……らしい。その滑稽な様を、目をつむり、息を止めていたせいでわからなかったのは残念だった。しかし、室内の喧騒ぶりなら、彼女の眉が逐一キャッチしてくれている。彼女はそんな自分の第六感を頼りに、他の警官の眼にめがけてさらに研磨剤を振りかけていき、阿鼻叫喚に陥った所を、手になじんだスパナでぶん殴っていく! アルプ女の腕っ節だが、凶器を使えば大の大人を沈黙させるには十分な攻撃力だ。彼女は古いお芝居の女剣士のような軽妙な立ち振る舞いを見せた後、とうとう最後の一人をノックダウンさせようと、目を閉じたまま、その襟首をつかんだ――。
「よせ、ビンディー。俺だ!」最後の一人は彼女の親父様だった。「嫁入り前の娘に殺されるところだった」あんだけ痛めつけられたのに、軽口を言う余裕があるらしい。
さてビンディーはそんな冗談に鎌かける暇もなかった。――もう背後から、呻いていた警官が立ちあがりつつあったのである。彼女は父親の肩を担いで抱き起こし――こんなに軽い人だったっけと思った――二階へと駆けあがった。その際、ついでに階段途中に放置していた潤滑油の缶カラを思い切り後ろへ蹴り飛ばす。追手の脳天に直撃すればよかったし、中身が弾みで漏れ出し、ヌルヌルの油を階段中にぶちまけることが出来たならなお良い。
親子は二階まで来たところでようやく目を開けた。物品の押収――その実は見せしめまがいの破壊――のために天井の明かりが点けっぱなしにされ、その乱されっぷりが否が応にも目に飛び込んでくる。数時間前までに作っていた鳥の細工は価値がないと判断されたのか無事だったが、バングが書いていた図面は破かれた上にインク壺の中身をぶちまけられていた。可哀そうだが、それらにかまっている時間はない。彼女は三階を目指そうとするが、親父はカーキ色のカバンを指差した。
「待て、せめてあれだけでも持って逃げるぞ」
それはビンディーが外の仕事をするときに持っていく工具一式だった。元はバングの物だったが、外回りを専ら娘に任せてからは、彼がそれを手にすることはなかった。そんなものをわざわざ持って逃げようというのだから、職人の勘で、しばらくこの家には戻れないと踏んだのだ。
「あたしが担ぐからさ、こっちに寄こして」
下からはドタン、バタンという音が響き、それはじりじりと親子のいる所へ近づいて来る。
「油は効かなかったかな……?」ビンディーは少し首を傾げて、三階へ駆けあがる。そこの明かりとりの窓から出て、屋根伝いに逃げようという算段だった。高所はアルプ族の独壇場だ。
……しかし、父の右手を引いて三階に躍り出たビンディーは、荒れ放題の部屋の真ん中にたたずむ人影に気付き、脈が止まるかと思った。警官たちは既に先回りして、一人の魔族を待ち伏せさせていたのだ。そういえば、ビンディーは五人目の警官だと思って実父に殴りかかろうとしたのだった。下の階からの追跡が妙に悠長だったのは、彼が待ち伏せしているからだった。
彼は(かかったなアホが)と言いたげな、冷酷なうすら笑いを浮かべていた。それはひょっとして、ビンディーの見てくれ――薄い下着で薄い胸元を隠し、全身粉まみれになっている姿――を嘲笑しているようにも取れた。その表情を浮かべながら、男は警棒を抜いてにじり寄ってくる。その様を見ていると、命の危険と同時に、道化を演じているときとは全く違う、果てしない羞恥心を覚えた。――そして、何とかこいつに一泡吹かせて、この場から逃れようと決意を新たにした。
「ビンディー、瓶だ!」担がれたバングが耳元で囁く。さすがにこの親子は息が合っており、この親父どのは娘の目論みを説明もなしにわかっており、娘も娘で、父の助言の意味を瞬時に悟った。彼が言ったのは茶色い酒瓶に混じって床に転がる――というより酒瓶そのものを改造した、原始的な雷電瓶だった。化学電池と比べて蓄えられる電気の量は限られているが、原理が簡単で作るのも楽だったから、ビンディーは玩具の動力源として懇意になった人たちから空き瓶を譲ってもらい、それを材料に、たくさんこしらえていたのだった。……しかし作ったはいいが管理がテキトーで、転がっているものの中には蓄電済みのものから、中に箔を貼っただけでほったらかしたものまでが雑多に紛れていた。
ビンディーは一か八かで、その内の一つを片足で自分の元へ転がり寄せる。魔族の警官は、からくり使いの娘がおかしな挙動を示したため、親子ともども一気にしとめよう飛びかかってきた!
「わあっ!」どうしてこんな声が出たのか、ビンディー自身にもわからなかった。純粋な恐怖心か、それともちょっとはハッタリを掛けようと云う打算が働いたのか。とにもかくにも、彼女は大声に合わせて、雷電瓶を足の甲で蹴り上げた! 悪条件での足づかいには自信があり、さらには悪運も彼女を味方した。宙に放り出された雷電瓶は、待ちうけていた金属製の警棒に打ち落とされるが、バリンと割れた元・酒瓶からはその警棒めがけ、貯められた電気が活路を得て殺到する! ドアノブからバチッとくる静電気とは電圧がけた違いだ。警官は「ヒイイッ」という女々しい悲鳴を挙げてよろめき、そのまま自分たちが散らかしたガラクタに足を取られて転倒、打ちどころが悪かったのか、それっきり動かなくなった。
(やりすぎたかな……)と思うと同時に、やはりこれからは電気の時代だという確信を深めた。
しかし気楽な思案をしている場合ではなかった。とっととここから出て行かなくてはならない。親子は長いこと開けていない天窓に近付き、……せっ! と引きあげる。
「……俺はここで待つ」ビンディーが窓枠に足をかけたところで、唐突にバングが言いだした。
「は?」
「何の嫌疑かは知らねえが、追われてるのはお前だけだろう。俺がお前に掛けられた疑いを晴らしてやるからよ。……お前じゃどんなおかしな書類にサインされるか、わかったもんじゃない」
そう言われてしまうと心苦しい。それでもビンディーは屋根に立ち、この父様の肩をつかみ、引きずり出そうとする。
「ば、馬鹿言わないでよ。馬鹿なあたしを独りきりで放り出す気?」
しかし階段の下からは、靴の鋲が迫る。喧々囂々、話しこんでいる暇などなかった。
「任せとけ、お前の不利になるようなことなんて、絶対言わねえよ」
それを聞いてビンディーは最後、「私のことなんかより、自分の身体をこれ以上痛めないで」と労わりの言葉を掛けてあげたかったが、それも叶わず、バングは窓から離され、後ろへ引き倒される。……そして親父の半分ちぎれた腕の代わりに、真っ黒い皮膜が何本とも突き出してきた。その手々は油と研磨剤で薄く汚れている。ビンディーはその一つを親父の仇討ちとばかりに蹴り飛ばす。――いい加減、つま先がヒリヒリとしてきた。
「馬鹿娘! さっさと行けーッ!」
親父殿からこんな親方としての雷を喰らったのは実に一年ぶりなので、ビンディーは飛び上がり、工具入れのヒモを肩に通すと屋根の頂上へ駆けあがった。そして同じ高さの隣の家の屋根に跳び移る。
ビンディーがそこで見た街は、一目で異常事態だとわかるものだった。サイレンの音はより一層と盛り狂い、あちこちからうっすら緑がかったフロギストン灯のサーチライトが天を貫いていた。光が追っているのは一カ所どころじゃない。全部で三地点を重点的に照らしてまさぐっていた。この様子ではよほどの大捜査網が張り巡らされていることだろう。そんな心が折れそうになる景観に呆然としていると、自分にも真下からくらむような燐光が突き刺さる。そしてうかうかしている間に先ほどの警官たちが窓からぞろぞろと這い出てきた。彼らは同士討ちの危険がなくなったとみて、武器を警棒から短銃に切り替えていた! 彼らが夜目に馴れてしまう前に、一刻も早く巻かなければ。ビンディーは工具入れを更に背中に回し、瓦を踏みしめて走り出した。
彼女はもっと高い所を探し、そこから城壁の外へ飛んで逃げるつもりだった。そして背中から響く罵声と銃声に怯えつつ、旧市街の端っこ、かつてこの街が城塞都市だった頃の尖塔にまでたどり着き、風を得るべくそこを這いあがったのだが――。
「た、高い……」いざ頂上にまで行くと、その高度に身が縮む。彼女の鳥目では、高さを目測することなどほぼ不可能だった。天球の下では、空気の震えを捕える長い眉も無効であり、ただただ「高い」という実感だけが沸くのである。城壁の外側にある新市街は、道幅こそ馬車が往来しやすいようたっぷりと取られていたが、目印になるガス灯は全くない。
おまけにビンディーは羽根を短く切り揃えているのである。しかし勢いで登ってしまった以上、腹をくくらなければならない。鳥のように羽ばたけなくとも、せめてムササビのようには飛べるのではないか。――ビンディーは以前、本物ソックリの、ぜんまい仕掛けの熊蜂のオモチャを作ろうとして挫折したことがあった。あの虫は寸胴のような体型をしているのに、その癖して羽根が小さすぎるのだ。なのでそっくりその姿から羽ばたきまで模倣してみたところで彼女のオモチャは、机の上でバタバタと身震いするばかりだった。
真鍮からもっと軽い素材にしなきゃならないのかと、今は囚われの身になっているはずの親父どのにヒントを求めたところ、彼はこんな話をしてくれた。
「翼ってのはな、それで風をかいて空を飛ぶんじゃないんだよ」
「? どういうこと?」
「つまり、なんていえばいいかねぇ。……翼ってのはな、『俺は飛べるぞー!』っていう景気のいい気分にさせるための、単なる小道具でな。ようは願かけだな。羽根があると、飛べるっていう自信がついて、本当に飛べるようになるってわけよ」
「ってことは、魔族も本当ならあの羽根で空が飛べるし、他の種族も、信じれば空を飛べるってこと?」
「うーん、まあ、あいつらは飛ぶ前に体重を半分くらい落とさにゃ駄目だろうがなあ」
つまり熊蜂もアルプも、『羽根さえついてりゃ飛べる!』という信念で飛行しているというのである。学がないビンディーでも、にわかには信じるわけにはいかなかった。しかし暫定的にこの与太話を信用することにした。ブタ箱行きなんて、絶対に嫌だ。
ビンディーはすうっと息を吸い、まるで海に飛び込むように目をつむったまま、タッ――と腐った木板の屋上を素足で蹴って真夜中の街にダイブした。宙に身を投げ出したのは、何年振りのことだろう? 頭の中では必死に、「あたしは飛べる、あたしは飛べる」と念じ続け、辛うじて両手を広げた。風をつかんだという手ごたえは、――あった。
しかし、(これはいける……?)と思って目を開けた途端、翼をしならせる揚力がぷっつりと切れてしまった。恐怖心で一気に心が折れたのだ。あいにく親父どのの言っていた話は本当だったようだ。「あ、あたし、やっぱり無理だよ」とふと思っただけなのに、その直後にはもう
「き、いやあああぁぁぁぁ……!」
という突飛な悲鳴を挙げ、そのまま第一城壁に沿って、スモッグ混じりの風に流される。このままでは旧市街のビルに激突するか、官吏にやすやすと拿捕されるかの二択だった。嫌だ嫌だ! ビンディーはそれこそ溺死しかけた人のように空中でもがき、がむしゃらに進路を変えようとした。そんな努力もむなしく、彼女の身体は、嵐の中のちり紙のように漂う。頭に血が昇ったり下がったりを繰り返し、生きた心地がしない。……とうとう彼女は宙で両手を広げたまま、気を失った。ああ、やっぱりあたし、馬鹿だった。馬鹿な上に空も飛べないんじゃ、救いようがないなあ。ひょっとしたらこんな結末が、あたしの最後らしいのかもしれない。
しかしアルプの守護星は、彼女をただの道化では終わらせなかった。彼女の綿のような身体は、どこかのだれかにしっかり抱きかかえられ、そのままいずこかへ運ばれていった。